現在、いろいろなものを勉強中。webサイトの作り方も復習しています。
2010年5月31日月曜日
2010年5月30日日曜日
ライ麦

J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読みました。
タイトルだけは有名なので知っていたのですが、タイトルからアメリカの田舎の話かなと思っていましたが全然違いました。
まず、主人公の社会に対する敵意は読んでいくうちに、ちょっと異常じゃないかと思うほどでした。今なら多動性障害といわれるのではないでしょうか。
これが太宰治だと、もっと自分を否定する「自罰的」になると思いましたが、この主人公は全て相手が悪い。学校を辞めるのも、殴られるのも全部相手がどうしようもない奴だということになってしまう。
この「多罰性」のすごさ。
さらに、一人称はいつも単数「僕」であって、「僕たち」というのがない。世界を全部敵視して独りで生きるのだからさぞ大変だろうなと感じました。
この「多罰性」「個人主義」はやはり、アメリカ人的だと思えてしまいます。
主人公は、全て他人をこきおろして、僕は率直「嫌な奴」だと感じました。
終盤で恩師に会って理解されるが、その人からも同性愛的な行為をされてしまう。
つらいなと思いました。
しかし、作者は主人公の内面に入ってきますが、作者自身は主人公の性格の悪さを知っていて書いているんですね。
一人称で書かれているので、その描写はあまり多くはないのですが、それはわかります。
最後の妹とのエピソード、そして病院に入院して精神分析を受ける、ということで「大人」の眼からするとホッとしました。それと同時に、この狂気の数日間を見せられたこともまんざら、悪いことでもないなと振り返ることもできるのでした。
今だに若者に支持されるというのも、わからなくもないです。
僕は「自分を絶対まげない子」がイジメっ子に追いつめられて窓から飛び降りて死ぬという話が印象的でした。
2010年5月29日土曜日
嫌悪
2010年5月28日金曜日
普天間
2010年5月27日木曜日
普天間
2010年5月26日水曜日
夢
2010年5月25日火曜日
ハロー!プロジェクト

僕は、モーニング娘。や彼女等の所属するアイドル集団ハロープロジェクトが好きなのですが、2年間入院していてその後1年間、唯一見ていた「ハローモーニング」と「娘ドキュ!」も見なくなってました。
昨日、インターネットで調べていくと、当然人がどんどん変わってきていました。あの娘も、ハロプロ卒業かとか、メロン記念日は解散かとか、3年前の気分で見ていたら時の流れの早さを痛感して少し寂しい感じがしました。
今でも続いているのはホッとしましたが、人気も以前ほどではなくAKB48という似たアイドルグループも出てきたようで、時代が変わったなと思いました。
もともとは、モーニング娘。は特に好きではなく、どちらかというとあまりモーニング娘。モーニング娘。という人気はいい感じをもっていませんでした。
彼女らが悪いというのではなく、純真な少女を商売に使う大人の感覚に反発を感じたからでした。しかし、「ザ☆ピ〜ス!」のころ初めて彼女らを見て、そんなにつらそうでもなく、むしろ腹がすわって度胸がいいし、周りの人にも気遣いのある子たちだと思い、つい音楽番組を見ていって、歌もいいのでいつのまにかファンになってしまいました。
あとから考えるとその度胸も、厳しいトレーニングの裏付けがあったようです。また、プロデューサーのつんく♂さんの愛情も感じられました。
それらも含めて「モー娘。オタク」なんて、ありふれているけてども、実際心を惹かれてしまったのは事実だからしょうがないです。
時の流れは、どうしようもないでしょう。10代後半から20代前半なんてあっという間ですし、常に新しい空気を入れ続けないと新鮮さを保てないので。
昨日夜中にネットを見ていて感じたちょっとした寂しさでした。
2010年5月24日月曜日
2010年5月23日日曜日
ソフト
2010年5月22日土曜日
2010年5月21日金曜日
動画
2010年5月20日木曜日
2010年5月19日水曜日
2010年5月18日火曜日
ヘヴン

今日、川上未英子さんの『ヘヴン』という小説を読みました。
苛められっ子の物語です。
始めは、苛めをリアルに描いた小説だと思い、中学生でこんなに観念的なことばを話す子がどれだけいるか。そう簡単に苛められた男子と女子が仲良くなれるかと疑問を感じましたが、後になるにつれて、内容はどんどん深くなります。
見せ場は、「体育館での苛め」「苛めっ子の理論」「最後の苛め」ですが、「体育館」は表現のリアルさであり、「最後の苛め」はその残酷さと主人公の心理描写でありますが、最も重要で、多くの人の心に残るのは「苛めっ子の理論」の部分です。
苛めっ子と偶然会った苛められっ子は、不当な扱いを批判して「自分がやられても、いいのか?」と問いただします。
それに対して、苛めっ子は、「『自分がやられたら嫌なことはやるな』というのはウソであり、ごまかしだ」といいます。
そして、「殺したければ殺せばいいじゃないか、でも君はできないだろう」といいます。
「君が苛められているのは身体の障害のせいではなく、単なる偶然だ」といいます。
多くの読者が、この苛めっ子の論理には反論できず戸惑うのではないでしょうか。
僕はこのような、感性はいい悪いは別にして「神戸小学生連続殺傷事件」前後にある程度頭のいい少年たちに共有された感覚ではないかと思ってきましたが、この小説でそれをはっきりと論理化されたように感じました。
さて、「苛められっ子の理論」と「苛めっ子の理論」のどちらが正しいのでしょうか。
「苛められっ子の理論」は哲学者のカントが定言命法(あらゆる条件から独立した絶対的命令)でいった理論と同じです。
ちなみに、僕は哲学は入門書ぐらいしか読んだことがないので、詳しいことが知りたい方は専門家にお聞きください。
カントは「汝の意思の格律が常に同時に、普遍的律法の根拠となるよう行為せよ」といいました。これが道徳の基本だと考えました。
それに対して、哲学者のニーチェは、「経験世界を超えた絶対的道徳などはない」と断言しました。
「道徳」や「真理」は、常に弱者が自分の身を守るために捏造したものにすぎないと考えました。
「苛めっ子の理論」はニーチェ的と言っていいでしょう。
どちらの立場をとるかは、人それぞれでしょうが、この小説で、そこまで哲学の根源的な問題を提示していることには驚きました。
この小説の面白く、凄いところはここまで完璧に「苛めっ子の理論」を表現しながら、じゃあ苛めっ子の立場で「世界の欺瞞の化けの皮を剥がしてやれ」という単純でありがちな方向にはいかず、最後まで苛められっ子の視点で書かれ続けていることです。
苛められっ子と同じく苛めにあっている女の子が、全く別の論理で自分たちを正当化します。「私たちは、弱さによる強さを持っている。彼らは私たちが怖いのよ」と。
苛めっ子と苛められっ子、正反対の両立不可能な論理を両方とも深く理解した上で描いている。これはすごいことだと思います。
僕には、女の子の理論よりも、苛めっ子の理論の方が胸に突き刺さりましたが、簡単に同意するつもりはありません。しかし、このような問いを投げかけられるだけでもこの小説の重要性は認められるべきでしょう。
蛇足ですが、一部、思ったことを書きます。「最後の苛め」で安易に雨が降ったから助かったとしなかったところはよいと思います。作者は驚くほど男の子の描写もリアルなのですが、女の子の気持ちを僕らはこの小説で知ることができます。女の子は自分が裸になることに、プラスであれマイナスであれ強い力を感じているのかなと思いました。
不満はエンディングです。これだけ苛められっ子と女の子の関係を書いていて、ラストは女の子との関係はなくなって終わっているのです。しかも、女の子の嫌がった手術をして。
それ以前に「ヘヴン」と名づけられた絵や、1999年に会おうとか伏線があるのでその結末を期待していたのが、それも出てきません。あまりにも平凡な終わりかたなので、もうすこし全体にかかわる落としどころが見たかったというのが正直な感想です。
2010年5月17日月曜日
2010年5月16日日曜日
2010年5月15日土曜日
晩年

太宰治の『晩年』を読みました。
太宰は「自分を客観的に見る眼」と「自分の主観的な眼」との葛藤に苦しんだ人だと思いました。
繊細で病弱なイメージとは違って、非常に自信を持って自分の天才を知っている人だと思います。
しかし、「客観」が「主観」を常に否定し続ける。「客観」も「主観」も人一倍強い。で、あるが故に完璧を求め、また自己否定をせざるを得ない。
嘗て、『エヴァンゲリオン』のドキュメンタリーで、「エヴァ」が「太宰」に似ていると言った人がいましたが、庵野秀明もやはり「主観」と「客観」、両方が強い人だと思います。
また、以前「文学特殊研究」の授業で、僕の小説には「文体」がないと言われたことも分かるような気がしてきました。僕はストーリーを思い浮かべ文章にはほとんど気を使ってなかったのです。いろいろな小説を読むと、ストーリーよりも文章をどう書くかに作家の人はとても気を使ってることが分かります。
絵で喩えたら、筆のタッチというところでしょうか。
「文体」が重要だという先生の意見も納得できてきました。
2010年5月14日金曜日
ふぞろい

TSUTAYAの宅配サービスに入って、何を見ようかと思ったのですが、今まで再放送で断片的にしか見ていなかった往年の名作「ふぞろいの林檎たち」を始めから見ようと思いました。
僕も大学を中途退学していて学歴のコンプレックスがあるのですが、80年代という時代。あたかも皆がいい大学いって、素敵な恋愛をしているかのように喧伝されていた時代に、そこからあぶれた者に温かい視線を送った胸にキュンとくる作品です。
山田太一さんは早稲田の教育学部を出ているので、父親というよりも先生的な愛情が感じられます。先生にとってはどんなに勉強ができない子、容姿が悪い子でもかわいいのだという感じを受けます。逆に頭や容姿が悪い子ほど、その子の立場にたって胸が痛むのではないでしょうか。
だからといって、若者を理想化したり、大人を悪者にしたりはしない。大人の苦しみをも知るが故の慈愛が感じられます。今、このように弱いものを突き放しつつ愛する脚本家がいるでしょうか?
野島伸司さんなどには、完全に若者を理想化して大人を悪者にする傾向を感じてしまいます。
突き放しつつ、形式化しつつ内面の繊細なところを描く。このような才能が出てくるのをのぞみたいものです。
2010年5月13日木曜日
2010年5月12日水曜日
小沢幹事長
2010年5月11日火曜日
マクロビオティック
2010年5月10日月曜日
現代美術
2010年5月9日日曜日
自由ヶ丘
2010年5月8日土曜日
2010年5月7日金曜日
2010年5月6日木曜日
姉

今日は、僕が10歳、小学校5年生の時亡くなった姉の命日でした。
母方の親戚の女子は皆カトリック系の女子校に行っていて、彼女も病気の中洗礼を受けたのでカトリックの教会、東京カテドラルに納骨されています。
そこで、親戚6人のしめやかなミサが行われました。
亡くなったのが16歳、高校2年生。癌で苦しみながら最後を迎えました。しかし「これで神様のもとにいけるの、うれしい」といって逝きました。
母方の親戚には女の人が多いのですが、僕がもっともあまえてた姉でした。いつも僕のことをからかっていた記憶がありますが、昔の写真を見ると一番かわいがってくれた姉でした。
当時は、余りにも大きな出来事で受け止められず、実感がわきませんでした。今でも夢の中の出来事のようです。姉が亡くなる前と後とでは僕の精神はだいぶ違うものになった気がします。
なんと亡くなってから30年がたったと聞き驚きました。
著名な作家や思想家でも幼い時に兄弟姉妹を亡くした人がいますが、兄弟を亡くすことは親を亡くすこととは違った重みがあります。
そういう経験がその人の感受性に影響するところは大だと思います。
2010年5月5日水曜日
普天間基地
2010年5月4日火曜日
普天間基地
2010年5月3日月曜日
2010年5月2日日曜日
2010年5月1日土曜日
反対

沖縄の普天間基地の移設に反対している人たちも、細かくみていくと色々な立場があると思います。
◯日米安保自体に反対で、基地の全廃を願う人。
◯日米安保には賛成だが、基地は地元が望まなければ撤去すべきだという人。
◯基地の存在は認めるが、普天間の場合市街地にあるので、移設すべきだという人。
◯環境を破壊するような基地の建設に反対する人。
◯基地の存在は認めるが、沖縄県に負担をかけすぎているので県外へ移設するべきだという人。
それぞれの立場によって、現在政府が検討しているキャンプ・シュワブへの移設と徳之島への機能移設に、反対の場合もあれば賛成の場合もあるはずです。
それをなんとなく、「普天間基地の移設反対」という大きな括りで話すと、上記の差異が分からなくなってしまうのではないでしょうか。
反対派の人たちとよく話し合って、どの部分が反対なのか、どういう立場で反対といっているのか、政府側も理路をもって問いただすことが必要なのではないでしょうか。
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