2013年12月30日月曜日

2013年12月25日水曜日

2013年12月24日火曜日

お弁当

母が、夜、教会のミサにいったので、クリスマスイヴなのに、お弁当を食べました。

2013年12月22日日曜日

2013年12月20日金曜日

風邪

カウンセリングにいって、風邪を引いたので内科医にいってきました。

2013年12月17日火曜日

「小室直樹 資本主義講座」

YouTubeにあがっていた、「小室直樹 資本主義講座」を見ました。

一時間ぐらいで、資本主義の歴史を合理的に分りやすく語られています。

社会主義を一方的に批判しているわけでもないことが分りました。

大変勉強になりました。

2013年12月14日土曜日

「社会学ゼミナール 映画から考えるニーチェとハンナ・アーレント」

今日は、朝日カルチャーセンター「社会学ゼミナール 映画から考えるニーチェとハンナ・アーレント」宮台真司先生、堀内進之介先生、にいってきました。

映画「ニーチェの馬」と「ハンナ・アーレント」を見てくるようにいわれ、主に「ハンナ・アーレント」について講義がありました。

まず堀内先生から、カントの「善」に関するお話がありました。

カントによると、我々は「悪」をなす「傾向性」がある。その「傾向性」に反して「善」をなすことが真に「道徳的」だといいます。

そして、宮台先生から、初期ギリシアの思想が語られ、内から沸き上がる力、ヴィルトゥスが重要だという話がありました。

そして、ハンナ・アーレントの話になって、我々はナチスの高官アイヒマンを断罪できるかという話になります。

もし、自分がアイヒマンの立場だったら同じことをしないといいきれる人がどれだけいるか。

何かを「絶対悪」とか「絶対善」だとかいいたがる人は、何かに依存的だといいます。

ところで、カント哲学では、物理的世界は決定論的世界だが、人倫の世界は自由意志があることを前提にしないと成り立たないといいます。

ルーマンは、その自由意志自体が一つの「効果」にすぎないという。

では、全てが「ごっこ」に過ぎないのか?
否。人倫の世界では、責任の概念抜きには前へは進めない。

では、何が良きことかの基準は?

戦間期に神学者のゴーガルテンは「ヒトラーはイエスの再来だ」という主張をしました。
政治学者のカール・シュミットは、初めは敬虔なカトリックだったが、途中で意見をかえます。絶対善も絶対悪もない。ただ崇高な共同体はないのだけれども、あるとしないと救われない世界があるといいます。

これは、高橋和巳の『邪宗門』という小説と同じモチーフです。自分では分っているのに
あえてカルトの教祖になり、全体主義教団を作り自滅していく。

後期シュミットを単純には批判できません。

ヘーゲル的な意味で、「歴史」の中での意味は後にならないと分らない。

浦沢直樹の『monster』では、善意で救った子が悪魔になる。手塚治虫の『鉄腕アトム』では、同じ天馬博士が救った子供は正義の味方になる。

では、内発性に従って進むことが良きことを帰結するとは限らないのに我々はどうすれば良いか。

それでも進め。何が起きようとも、地獄に堕ちようとも。というのが、イエスの答えであり、宮沢賢治も同じだといいます。

堀内先生は最後に、アーレントとアドルノを比べアーレントを批判します。
どちらもユダヤ人でアメリカに亡命したのだけれども、アーレントはアメリカをパラダイスだといいます。それは、楽観的すぎるのではないかと批判します。
アドルノは、暗い人で希望はどこにもないといいます。アメリカもドイツも同じだと。

それに対して宮台先生は、アドルノは暗すぎる。ニーチェは重力の悪からの唯一の自由の方法は「笑い」だといったといいます。

ところで、「ニーチェの馬」という映画は笑いの要素がない。どこがニーチェ的なのか分らないといいました。

2013年12月10日火曜日

お寿司

カウンセリングにいって、歯医者にいって、夜、母がいないので父とお寿司をとって食べました。

2013年12月8日日曜日

2013年12月7日土曜日

歯医者

カウンセリングにいって、帰りに歯医者にいってきました。

2013年12月5日木曜日

「ハンナ・アーレント」

神保町にある岩波ホールで11:30から、映画「ハンナ・アーレント」を見てきました。

一時間近く前にいっても、すでに多くの人が並んでいて、平日の午前なのに200人の会場は、ほぼ満員でした。

アーレントはユダヤ人の女性哲学者で、ナチスにも協力した哲学者ハイデガーの弟子で恋人でもあった人です。

物語は有名な「イェルサレムのアイヒマン」の話です。

ナチスのユダヤ人虐殺の総責任者のアドルフ・アイヒマンのイスラエルのでの裁判を報告したアーレントは、アイヒマンは極悪人ではない、ただの小役人にすぎない、本当の悪とは「凡庸さ」の中にあるといい、特にユダヤ人達から激しい反発を買いました。

この話の肝は何か。

大虐殺という、大変な悲劇を経験したユダヤ人達はその反動で、ナチスにかかわった人達を感情的に攻撃して、一方的に責める。
そうなる理由は分るにしても、それは理性的な立場ではないのではないか。一種のヒステリーではないのか。そのような疑問を呈したものと思われます。

ある種の左翼運動などで、悪者を一方的にとっちめる。そのときにそれに反対すると、今度は、お前は悪に味方するのかといわれてしまう。その恐怖から集団ヒステリー的弾劾が始まることは往々にしてあることです。

後に、歴史になってみてれば、それに異を唱えた人はヒーローになるかもしれませんが、当時は反動的という烙印をおされてしまう。

この映画は、ある種の左翼批判であると思いました。
しかし、僕が疑問に思ったのは、この様に平日の午前に岩波ホールに映画を見に来る人達は、左翼文化人のような人が多いのではないのか。

では、この映画のこのような盛況ぶりは何を意味しているのだろうか。

アーレントも、左翼批判をしていますが実際に左翼的な思想そのものを嫌悪しているわけではありません。

今日、特定秘密保護法案が採決されようとしています。

選挙で、民主党が大敗して自民党が大勝して、どんどん右翼的な方向に政権は舵を取ろうとしています。

そんななかで、左翼が本当に信用できると思えるのは、ただ左翼的なイデオロギーを吹聴して、勢いで悪者を作り上げ、吊るし上げる人ではなく、そのような左翼的な欺瞞を勇気を持って断罪し、それでも理想を捨てない人ということなのではないでしょうか。

だから、左翼的な人もこのような左翼批判の映画に強く惹かれるのではないでしょうか。

そんなことを思いました。

2013年12月4日水曜日