講師は、宮台真司先生、堀内進之介先生です。
宮台先生はまず、民主主義の実現には分厚い中間層の存在が必要だといいます。
しかし、それは50年代から80年代の平和な時代にだけ存在し、それ以外の時代ではむしろ民主主義の不可能性が話題になるといいます。
中間層が分解すると、人々の感情の劣化が起こり、人々は感情の釣りに容易に引っかかり、民主主義の危機が訪れます。
そんな中、民主主義を如何に可能にするかを考えていくと、有能なファシリテーターが人々を善導する、二階の卓越主義が必要と考えられます。
それに対して、堀内先生は、自分は二階の卓越主義が大嫌いだといいます。
二階の卓越主義を唱える人には、二階でばかりで政治を行う傾向があり、一階と二階との差異を無効にしようという発想が見られないといいます。
宮台先生は、エリートをチェックする必要があるといい、最終的にどういう方向で修正されていくべきかは、パーソンズ、エマソンの「内なる光」を如何に埋め込むかという、教育の問題だといいます。
対して堀内先生は、自分はそもそも特定の民主主義観はない、社会がどうなろうと構わないといいます。
これを聞いて、宮台先生と堀内先生の根本的な違いが分った気がしました。
宮台先生は、本音はともかく、公式見解としては「道徳」を認める立場であって、目的は「民主制」をかりそめでも実現しようとしているようです。
それに対して、堀内先生は、そもそも「民主制」を実現することを至上命題とはしていないらしい。
さらにいえば、「道徳」もどうでもいい。そういうように聞こえました。
別にわざと「道徳」を破る「非道徳」な訳ではないのだけれども、「道徳的」であることに徹底的に無関心な、「無道徳」な人なのだと思いました。
確かに、「民主制」や「道徳」の名の下に、排除や暴力が起こることがある。
それでも、それに自覚的に「世直し」をするべきだというのが宮台先生の立場だといえます。
かたや堀内先生は、「それなら「民主制」や「道徳」に徹底的に無関心でいよう」という立場であり、それが「批判理論」なのかなと思いました。
僕自身は、どちらも一理あると思いつつも、堀内先生の様な人ばかりが社会にあふれたら社会が回っていかないかなとも思い、宮台先生に近いと思います。
ただ、いくら自覚しても「民主制」や「道徳」の下に暴力が起こりうることは肝に命じておかなければならないとも思います。
「自己批判が必要だ」という左翼のテーゼが内ゲバに成り果てたように、人は絶対的な「善」を手にすると、独善に陥り排除が生まれます。これは、人間の宿命なのではないでしょうか。
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