今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「ジャック・デリダ入門 脱構築とは何か」という講座に行ってきました。
全3回のうち3回目です。首都大学東京の西山雄二先生が講師でした。
西山先生は非常に分りやすく、しかも複雑なものをただ単純化するのではなく、複雑なものを複雑なまま、普通の人に分ることばで話してくださりました。
もちろん入門ですから、難解なデリダを全て分ったとはいえるはずはないのですが、分ったこともあります。
デリダは、どこかに超越的な究極の意味があるという西洋哲学の伝統を批判します。
デリダによれば、その絶対的な意味とは「現前の形而上学」といいます。
デリダは、また「話し言葉(パロール)」と「書き言葉(エクリチュール)」では今までは「パロール」が重視されていたといいます。しかし、「エクリチュール」をデリダは重視して、「原エクリチュール」というものを提示しますが、これが根源だというと、自分が批判してきた「現前の形而上学」になってしまいます。そこで、「原エクリチュール」は非根源だといいます。
デリダの考えは、「現前の形而上学」を批判するにしても、自分を特権化してしまったら、自分が「現前の形而上学」になってしまうので、自分を特権化しないというところがポイントだといいます。
そして、「現前の形而上学」を批判しつつも、そこからは出られないと考えます。
ですから、常にずらしていくという動的な批判ということになります。
そう考えると、なぜデリダがわざと難しい文章を書いたかも理解できてきます。
常に、ずらしながら書いていく。そして境界線に新たな視点をあたえる。
だけれど、それが固定してしまわないようにさらにずらしていきます。
脱構築とはそういう運動のことだと思いました。
またデリダは中立に立つのではない。
差異の世界で劣位に置かれたものに介在していきます。
そして、デリダは無条件の「贈与」「赦し」「歓待」があるかどうかを問います。
脱構築はニヒリズムではありません。
第一のOui=あらゆる主体は自己に先立つ他者への応答可能性(責任)へと曝されている。
第二のOui=他者に向けて私が語りかけるという根源的な約束。
二つのOui(Yes)があるといいます。
ちなみに、数年前フランスに旅行した時に、タクシーの運転手さんから美術館の人までみんなにNonといわれることが多かったです。その時にデリダのOuiのことを思いだして、パリの人はプライドが高いからすぐにNonというので、だからこそデリダはOuiということにこだわったのかと思いました。
しかし、こんなこともありました。
芸術家が集まるモンマルトルの丘にある、有名なシャンソニエ「ラパンアジル」にいったところ、決して裕福でもインテリでもない人たちがひたすらシャンソンを歌って、それをみんな真剣に聴いている。そこでは底辺で生きる人たちが、それでも人生を精一杯肯定しているように見えて、感動しました。
帰りにタクシーを呼んでくれるかとたのんだら、下にタクシー乗り場があると親切にいわれ、決してNonとはいわれませんでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿