今日は、朝からムーバスで吉祥寺の街にいって、東急でチョコレートを買いました。動物病院にいって、看護師さんに、この前の会計で内金が計算に入ってなかったとの連絡があったので、1万円払ってもらいました。その上でこの前ワイアレスイヤホンをなくしたのであるかきいて、ないといわれました。そして、昨日火葬してきました。水分がだいぶ出たようで溜まっていたようです。どこに?お腹に。という会話をして、お花ありがとうございました。これ、ちゃーがお世話になりました。とチョコレートを渡したら、恐縮して受け取り、またぎんちゃんもあるので、といわれました。
荒野塾は今日が最終回でした。寒い中18時前に西荻にいきました。今日は、キム・ギドクの映画の話から、「存在」「実在」「実存」という話になりました。「存在」とは、それについて話せるもの全てだから、夢も妄想も存在する。しかし、実在はしない。宮台先生は、実在について重要視しているようでした。「痛み」は文化相対主義では相対化できない。デ・カストロのいうように文化絶対主義が正しい。近代の一般性ではなく、人類学的普遍性が大事。ローティがプラグマティスト宣言をした時にいった、「感情教育」「残酷さの回避」は、文芸などからの体験でも得られる。表現の問題は相手に何の体験を与えるかが重要。それから、休憩を挟んで援助交際の話になりました。援交第一世代は、全能感に溢れていた。しかし、その全能感の持続可能性を考えなかった宮台は馬鹿じゃないのといわれた。第一世代の相手の男がショボすぎた。次の世代は哀れみや母性さえ感じた。完全にマウントとられているのが男。大都市のストリートと地方都市では全く違った。ストリートは新住民化で追いやられた子たちが最後のアジールをストリートに求めたもの。地方には、昔のコミュニケーションが残っていた。当時は世代を問わず対幻想的瞬間恋愛の祝祭ができたが、91年にほぼ全滅した。全能感というのは連帯と関連する。日常がつまらない。せめて今だけ。という感覚があった。今は適応するしかない。外がなくなった。過剰な奴は痛い奴といわれる。今の時代まともな奴は不登校か過食拒食になるしかない。さらに、新左翼が右翼的だという話や、暴力団の話など興味深い、でも、今までも何度も繰り返し訴えてこられた話が続き、終わりました。今日は清々しい感じで終わり、寒い中家まで帰りました。
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