2011年5月14日土曜日

人災


今日はカルチャーセンターの「緊急ゼミ-震災から人災へ、われわれは今どこにこるのか-」宮台真司、堀内進之介先生です。

まず宮台先生から。
昔は、その土地に住んでいれば何年かに一度災害がおとずれるものだと思っていた。
しかし現代は、災害が起こったら何でそこに住んだのか、その行為が問われる。全てに対して人災としての責任追及ができるようになった。
さらに技術の進歩で、われわれが選択したときに何を意味するのかが分からなくなってきている。
日本ではこのような議論が成り立たない。日米開戦のときに、日本のシンクタンクが日本の勝つ確率を計算したところゼロ%だった。しかし、空気に逆らえなかった。
原発の危険を諭しても、最後には自分には家族があるからといわれてしまう。

堀内先生。
無責任体制を批判できるのは、リスクが計算できる時ではないのか。もはや計算不可能。

宮台先生。
全体的にいっては、誰も計算できない。しかし、それ以前のコスト、計算できるところまで責任をとらない。

堀内先生。
当時の状況を考えれば、原発導入はしかたないのでは。

宮台先生。
確かに、核兵器を造る可能性を残すために必要だというのは理解できる。しかし実際には反米になることはできないのだから意味はない。

堀内先生。
実現可能生がなくても望むものを政治的ロマン主義という。これは、政治的合理主義の反動。

宮台先生。
堀内さんのように歴史に遡ることは重要。日本では絶対安全か絶対危険かに分かれるのが問題。

堀内先生。
マルクーゼは科学技術は中立性を認めない。やるかやらないか。

宮台先生。
半分正しい。
マンハイムは浮動するインテリゲンチャといって、知識人はある種の自明生から自由であるべきだという。

堀内先生。
浮遊するインテリゲンチャは、やがて財産がなくなると悪しきジャーナリズムになりうる。または大衆迎合にならざるを得ない。
原子力も事故になったのでこんなにさわいでいるが、事故がなければほとんど誰もさわがなかったのでは。

宮台先生。
そんなことをいってもしょうがない、というのは原理的には正しい。しかし、もっと頭の悪い人が復興を語っているのが問題。

堀内先生。
バカがコミュニケーションするからいけないのか。システム理論ではコミュニケーションの質は発話者によっては決定できない。コミュニケーション自体が決める、と考える。
優れた人だけで決まるなら、一票の格差を認めなければならない。

宮台先生。
何が重要であるかが自明でなくなるので一人一票になっている。
日本では知識人は機能してない。しかし、括弧つきの合理性や妥当性を議論はできる。
人々のユーティリティやアメニティをあげるだけではダメ。尊厳、ディグニティが必要。
AV監督の山下さんは、普通のサラリーマンの息子だったけれど、人生をつまらないと感じてAV監督になった。
部落解放同盟の人に相互扶助の美徳を忘れないようにいったときに、これは美徳でもなんでもない助け合わなければ生きていけないだけのことといわれた。実際平準化してからは相互扶助もなくなった。

堀内先生。
共同体には何らかの欠落が必要。であるから相互扶助もおこる。
一方、あらゆるものに満たされて個人はバラバラ。
どちらかを選べといわれれば自分は後者を選ぶ。

宮台先生。
それはホメオスタシス・オブ・セルフといって自己保存の考え方。

堀内先生。
欠落を埋め合わせてきたのは上の世代では。

宮台先生。
ショッピングモールしかないかもしれないが、どういうショッピングモールをつくるかを考えろよ。

以上。

この講座を聴いて、堀内先生は原理的なこといっていて、宮台先生は原理的なことはその通りなんだけれどもその上で何をするのかを訴えているように思いました。

ですから、宮台先生の議論は多重構造になっていて、基本的な原理は「しかたない」。しかし、その虚構とわかった上でゲームとしてどのように振る舞うかを考えている。

ところが、その「わかった上で」の議論が、熱をおびてそれがベタに見えてしまうところが周りの人に誤解を与えることになるのではないでしょうか。しかし、それすらも内発性の発露だから望ましいと理論化できるのかもしれませんが。
そうすると今度はそれを他人に強要することが出来るのかという問題が出てくるようにも思います。その点を堀内先生は問題にしているようだと思いました。

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