2024年12月10日火曜日
荒野塾 秋学期9、10 西荻窪ことカフェ 宮台真司先生
今日も18時から21時45分まで西荻窪のことカフェで、宮台先生の荒野塾でした。まず、宮台さんが遅れるということで、それまで自己紹介をしました。宮台さんがこられて丁度、僧侶の方が自己紹介していたので、宗教の話になりました。宗教には型があって、ご利益系と意味追求系に分かれます。後者はさらに、修養系と黙示録系に分かれます。前者は、癒やし系で後者は世直し系になります。また、時代で見ると、旧宗教、新宗教、新新宗教となっていきます。丁度、経済が使用価値から記号価値に変わった頃、新新宗教はでてきました。それまでの貧病争が動機ではなく、いい学校、いい就職をした人たちが、全く輝かないという理由で入っていくことを同世代として宮台先生が見てきたといいます。それから会場からの質問の中で、心とは何かという話になっていきました。心とはもともとなかったといいます。今から3000年より少し前、心が生まれた。それまでは、一人で森の中に入ったときに聞こえてくる声があった。エクリチュール、書記言語が生まれて、再帰的反応の結果、意識が生まれたといいます。その後、言語の話になって、詩的言語と散文言語がある。散文言語は記述と動機付けに分けたとき、記述に相当します。詩的言語は記述と動機付けが一体となっています。子供や昔の大人は、詩的言語をしゃべっています。会場から、詩的言語は動機付けを与えるが、散文言語は与えないのか、という質問がでました。与えないこともない。例えば吉本隆明の『共同幻想論』は、吉本が詩人だということもあり、論理的に書かれているのに、詩のようでもある。昭和では文芸をやっている人が批評も書いた。映画監督でも批評も書いた。そして、映画の話になって、キム・ギドク監督、亡くなったけれども、痛みを通じて法生活の外にでることをしたといいます。「痛みや苦しみ、死の恐怖を体験したことのない人間が内在ならぬ超越を生きることができるとは、あんまり思わない」「内在の外、超越に羽ばたくことは、内在を生きることの不可欠な条件」。そして、先日界隈塾にゲストでこられた吉田恵輔監督の話なりました。吉田監督作品には、暴力、片思いなどの玉突き連鎖が共通して見られるといいます。また、映画の表現が強力な批評になっていると。フチに引きずりだして、「お前は見たいものしか見ていない。見せてやろう」と。芸術とは、ドイツ・ロマン派以来、それを知ったものが今までの様には生きられなくさせるものといいます。連鎖の問題でハイデガーの話になりました。ハイデガーは前期、人間中心主義っぽかった。フッサールの助手で現象学を志しました。現象学は言葉の向こう側に純粋経験があると考えるからです。それをハイデガーは道具性としました。コップがあると、それには水を入れて飲むという潜在行為を想定しています。後期ハイデガーは駆り立ての連鎖があるとしました。木こりはかつてのような小さな木こりとは違う。製材所から駆り立てられ、製材所は出版社から駆り立てられ、出版社は読者から駆り立てられます。かつての駆り立て連鎖と違い、現代では全体が見えない。見えてもイニシャルステップがない。ハイデガーの脱人間主義化は、ケーレ、転回とも呼ばれます。吉本隆明は、この総駆り立て体制を、関係の絶対性と呼びました。どこかに大ボスがいるわけではない。誰かが悪いとはいえない。吉田監督の作品は「誰が悪い」から連れ出してくれる映画だといいます。必ずどの作品も気づきを与えてくれる。イエスがパリサイ派の雁字搦めになっているのに対して、「そんなことじゃ救われないよ」といったように。今回は、難しい話も結構スムーズに入ってきました。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿