2013年1月3日木曜日

「新世紀エヴァンゲリオン」14〜26話

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の14話〜最終26話までを、昨日に引き続きニコ生でタイムシフトで夜中見ました。

ちなみに、アンケート結果は以下の通り。

1〜13話
とても良かった・・・・・・・・・83.2%
まあまあ良かった・・・・・・・・12.6%
普通だった・・・・・・・・・・・2.6%
あまり良くなかった・・・・・・・0.3%
良くなかった・・・・・・・・・・1.3%

来場者数・・・・・・・・・・・198,138人
コメント数・・・・・・・・・・242,807


14〜26話
とても良かった・・・・・・・・・73.4%
まあまあ良かった・・・・・・・・14.8%
普通だった・・・・・・・・・・・5.0%
あまり良くなかった・・・・・・・1.8%
良くなかった・・・・・・・・・・4.4%

来場者数・・・・・・・・・・・184,595人
コメント数・・・・・・・・・・304,526

二夜目の方が評価が低いのは、最終二話の賛否が分かれたからでしょう。

昨日はかなりのめり込んで見て、興奮して眠れなかったので、今日はちょっと距離をとって見ました。

エヴァの魅力は、もちろん物語にもあるのですが、かっこいいロボットやメカの描写、魅力的なキャラクターの学園コメディものの魅力、それと対比的な人類の命運をかけたシリアスな展開等にあると思います。

アクションシーンでも、単に敵をやっつけるだけでなく、戦っていてもちょっとズレてハズしてしまう。そこから、いろいろなアイディアで回復してやっつける。このズレのうまさに感心させられてしまいます。

そして、人類の命運をかけたすごい戦いと学園コメディのギャップ。これによって、いわゆる異化作用によって、両方がより際立って魅力的に見えるのでしょう。のちにこれは、セカイ系といわれる作品に形だけ受け継がれていきますが、庵野監督のメッセージはもっと深いところにあると思われます。

このような分裂した世界を、両方とも魅力的に描く庵野氏自身、自我の分裂に苦しんでいるようにも思います。

「分裂病の人の気持ちは、分裂病になった人にしか分らない」という庵野氏の言葉がありますが、僕自身精神分裂病(現在の呼称、統合失調症)と診断されたので、分るといっても怒られないでしょうか。

エヴァの意味は、当時の時代背景と「オタク」という問題を抜きにしては理解しづらいと思います。

1980年代、日本はアメリカの貿易赤字の解消のため内需拡大の要求をされます。そして、日本では大幅な公共事業が行われ、地価が高騰します。土地を持っているだけで何もしなくても莫大な財産が得られる人達が生まれ、株価も上昇して景気が過熱します。そして、ついに実体経済を上回る値段で投資が行われます。中身のない膨らみという意味でバブル経済と呼ばれます。金あまり現象を謳歌する心理と、それがいつか崩壊して債券が暴落するのではないかという不安がないまぜになった時代でした。

1990年代初頭にバブル経済は崩壊して、多くの人には借金だけが残りました。
そしてグローバル化が始まり、日本は世界へと開かれざるを得ない場面へと直面させられます。その90年代半ばに作られたのが、このアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」でした。

バブル時代、社会学者宮台真司氏の分析によると、かつての階級に代わって、コミュニケーションスキルのうまいへたによって若者は二つに分化していきます。一つはバブル時代の高度消費社会を謳歌する「新人類」。そして、もう一方では、趣味の世界に没頭する「オタク」です。両者とも豊かな時代だからこそゆるされたライフスタイルだと思います。「新人類」たちがちょっとした差異にこだわって「オシャレな」生き方を競っていたのに対して、「オタク」は、オシャレなどとは一切関係なく、マンガやアニメに没頭していました。当然、新人類たちの嘲笑の的になっていたのですが、オタクたちは外界からの情報を遮断するかのように自分たちの世界に引きこもって、好きなものひたって生きていました。

僕がエヴァを語るときに、繰り返しいうことは、エヴァはオタクの中からでてきたにもかかわらず、オタク批判となっているということです。

90年代、バブルも崩壊して、自分たちが籠っていられる繭を維持するだけの経済が失墜した。そしてグローバル時代に直面して日本そのものが世界にさらされる。このなかで、いまやオタクとして繭に閉じ籠もっていることはできないという直感が、庵野氏にはあったのだと思います。そして、それがオタクの中の中心部にいた人だからこそ、それを痛切に感じてなんとか他のオタクたちに伝えたいと思ったのではないでしょうか。

エヴァを造った会社、GAINAXを設立した岡田斗司夫氏は自ら「オタキング」と称してオタクの世界を自嘲的に語ったオタク評論家です。彼らの存在は、同僚の庵野氏に大きな影響を与えたのではないでしょうか。オタクであると同時にオタクを笑いの種にする。この様な環境の中で、オタクが外から見るといかにみっともないかを自戒を込めて強く感じたのではないかと思うのです。
岡田氏が原作を書き、庵野氏が監督を務めたオリジナルアニメ「トップをねらえ!」は、過去のアニメ作品のパロディーで出来た作品です。しかし、庵野氏は原作を読んで泣いてしまったということです。このように岡田氏との人間関係の中で庵野氏は、オタクを笑い物にする視点と、まじめに引き込まれてしまう視点との共存するものの見方を獲得していったのではないでしょうか。
これは、エヴァが一方でシリアスなドラマであると同時に、等身大のコメディとして笑えるものであるという二重性にも繋がるものだと思います。
「トップをねらえ!」は、岡田氏が前作の失敗がロボットと美少女がでてこなかったせいだと思って、とにかくロボットと美少女を出すアニメを作ろうとして作った作品といわれます。
これなども、セクシーなシーンを出しておいて、一方でそれを「サービス、サービス」と突き放した言い方をするエヴァの視点に共通していると思われます。
さらに「トップをねらえ!」は、内容や描写においてもエヴァのオリジナルと見なすことも出来るほど共通点の多い作品です。
正体不明の宇宙怪獣が攻めてきて、未熟な少女がロボットに乗って戦う物語です。
とりあえずロボットと戦う敵が必要だということで、人間が敵だと人を殺すことが人道上問題があるので、怪獣ということにしておこうという感じで作られたように見えます。
この作品もラスト近くなるとシリアスな展開になっていきます。まさにエヴァの原点ともいえる作品です。

そこでエヴァですが、使徒とはなにか。ただ敵としてご都合主義的に最初はでてきたと思います。しかし回を重ねるに従って、人間心理にある何か「不気味なもの」の現れであるようになっていたのではないでしょうか。
フロイトなら「不気味なもの」と、ラカンなら「排除したものの回帰」と、ユングなら「影」というかも知れません。とにかく、意識から排除したものが何度やっつけても回帰してくる。そういう無意識の何かではないでしょうか。

先ほどオタクについて書きましたが、オタクは自分の趣味の中に没頭するために外界の不都合なものを意識の外に排除してきたのだと思います。
僕自身も、自分の嫌なこと意識の外に排除することがあります。
そして、これも先ほど書いた通り、時代はオタクの繭の中で安穏と暮らしてくことができない、そとに出て他者とコミュニケーションをして生きていかなければならない、そういうことを要請してきていたのだと思います。
そういう意味では、使徒とは、排除しても排除してもやってくる「他者」の別名なのではないでしょうか。

僕自身にも当時そういう感覚がありました。だから、この作品に強くシンクロしたのです。

同時期に、神戸小学生連続殺傷事件があり、犯人が14歳の少年だということが話題になりました。

庵野氏は主人公の年齢を14歳にした理由を「ちょうど、自分の中に哲学のようなものが生まれる年代なので」というようなことをいっていました。

14歳とは第二次性徴を終えて、子どもをつくれる年代。いってみれば子どもから大人になる年代。

第二次大戦後、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本人は12歳の少年だといいました。
そして、時代は下って90年代、グローバル化の中外に出ていくべき日本人はちょうど大人になるべき14歳になったのではないか。つまり日本そのものが14歳の時期だったのではないかと思いました。

僕もそのとき、精神的に病んでいて、自分の中に「セントラルドグマ」のような譲れない価値観があり、それが外界から干渉されないように戦っているイメージがありました。大人になれというプレッシャーがあるのに、なれない、なりたくない。そして外界から内に向かって攻めてくるものがある。使徒のように。使徒とはその名の通り、なにか使命を果たしにきたものかもしれません。でも、受け入れることが出来なかった。それこそ、使徒がセントラルドグマに接触しようものなら自分の「世界」が破滅するのではないかという感じでした。そして、自分の自我の境界をATフィールドという固い殻で守っていた。それを超えられるのは、同じATフィールドを持ったものだけ。そんな感じで、エヴァには自分とあまりにも重なる問題設定があると感じられました。

とくに、この回の中ではアスカが精神汚染をされて最後に「汚れちゃった」というところは、本当に共感できて心の琴線に触れました。僕自身は汚されたと感じたときに中原中也の「汚れちまった悲しみに」という詩を思い出し、死にたい気分でした。

他者と交わって生きていかなければならない。それが大人だから。でも、自分の中の大事なものは、子どものものであっても汚されたくない。そういう気持ちでした。

最終二話は、25話は自分悩みを登場人物が順番に語っていきます。自分の悩みをいうと、「それは怖いからではないの?」などの反問がきます。その反問に対して「違う!違う!」と強く否定していきます。これは、フロイトの精神分析の中で、自由連想法で思ったことを全て話すようにいわれて話したことを分析家が分析すると、必ず被分析者が「抵抗」を示すという状態を思い起こさせます。この作品の中で、庵野氏は自分で話して、自分で分析して、自分で抵抗をする。そのような自問自答の中で、登場人物の心理に深く切り込みます。それは同時に作者自身の内面でもあり、視聴者の分析でもあるようです。作者は、自分の恥ずかしい部分をさらけ出すことによって、視聴者へ気付きを促します。

26話は、その解答へ向かって自問自答は進んでいきます。基本的な考え方は、「自分の世界は、自分が作っている世界に過ぎない。だから考え方次第でどうにでもなるのだ」ということです。これは、認知療法と呼ばれる精神療法と共通すると思われます。このように「自分の世界とは自分で勝手に思っているだけなんだ」という考えに至って突然、夢から覚めて、本編とは全然別の設定の学園コメディが始まります。シンジとアスカは幼なじみ、一緒に学校にいこうといって、学園生活が始まり、レイは明るい転校生という設定です。僕は初めにこの場面を見たときは、庵野氏の痛烈な皮肉だと思いました。視聴者に、こうなってほしいんだろ、こんな世界を描くこともできるんだよ、と視聴者の願望を先取りして見せて反論できないようにしようとしたのかと思いました。しかし、今回見てみるとその直後に世界に亀裂が入ってまわりの人達が拍手をして、皆が「おめでとう」という。そして、悩みを克服したシンジを祝福して終わる。結構、前の学園コメディを肯定しているようにも見えました。これは、視聴者に心地よい感じをあたえるのですが、僕はそれを単純に肯定するきになりません。やはり、そんなに楽にハッピーにはなれないという気持ちがあるからです。

そして画面に「父にありがとう。母にさようなら。」という文字が出るという有名なシーンで終わります。

この結末は、ドラマの中の謎解きを一切切り捨てて、専ら心理的な解決だけを示したものですが、これには当然賛否両論ありました。

僕はというと、学園コメディは単純に肯定できなくても、当時はこの終わり方に対して肯定的でした。登場人物の悩みを真正面から追求して自ら一つの答えを出し、悩める視聴者を導いていくという気概を買ったからです。これは、オタクが大人になる一つの道を示したことだと思いました。それも一つの倫理的態度だと思いました。

しかし、僕は当時も精神の病いで悩んでいました。認知療法の本等も読んでいましたが、認知療法だけでは僕のような深い悩みは解決できないとも感じていました。
この最終回を見ても、率直にいって救われた気持ちがあまりしませんでした。
作者の心意気は買っても、それで全てが解決したわけではない。

その後、最終二話をリメイクする「旧劇場版」にいくわけですが、そこではこの解決なんかとは比べ物にならないくらい、おそろしい展開になっていきます。そこで示された、極めて厳しい答え。きついながらそれこそ作者の実存をかけた結末。
これほど真摯に追求されるとは。見終わったあとおそろしさで気分がメチャクチャ悪かったですが、TV版のような安易さを避けたところを認め、肯定するということにはなりました。そのことについては、それを見たときに述べましょう。

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