2010年11月12日金曜日

余白


今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「ジャック・デリダ入門『哲学の余白』を読む」という講座の第2回目に出席してきました。講師は首都大学東京の西山雄二先生です。

フランスの現代思想を代表する哲学者ジャック・デリダ(1930~2004)は、1967年に『声と現象』『グラマトロジートについて』『エクリチュールと差異』という代表作三作を出版し名声を得ます。1972年に『哲学の余白』『散種』『ポジシオン』という三冊を出します。

『哲学の余白』は、論文を集めた論文集です。そのなかの「差延」というテクストを読んでいきます。

「差延」というのはデリダの造語で、「差異」をあらわす「ディフェランス」のaとeを入れ替えた語です。
意味としては、「差異」と時間的な「遅延」の複合語です。
ハイデガーの存在論的差異と似ているが同じではない。

ソシュールの記号論からデリダは影響を受けていますが、しかし全肯定はしていません。
ソシュールの記号論はそれまでの、ものが存在して、観念が存在して、それに名前を付けたものが言語だという古典的な記号論をくつがえしたものです。

記号は現実の差異によって生まれ、記号は恣意的である。能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)は不可分であるという考えです。

言語においては差異しか存在しない。体系があるだけと考えます。

デリダは能記と所記の不可分性と記号の差異的、形式的な側面を強調することで伝統に立ち向かったとしてソシュールを評価します。

デリダはさらに決定的な所記(超越論的シニフィアン)は存在しないと主張します。
現前の形而上学批判と同じく、絶対的な意味を認めないのです。

いかなる所記も痕跡にすぎないといいます。

今までデリダを学んできて面白いのは、基本的には現前の形而上学(絶対的な意味)の存在を否定するのですが、すると今度は自分が絶対的な立場になってしまう。この皮肉に極めて敏感だというところです。

ニーチェの場合、同じく絶対的意味を否定するのですが、自分が次の絶対者になってしまうことについては意図的に徹底的に無視します。

だから、デリダの方が謙虚で自分が次の絶対者にならないように、気を配るのですが、それがまた思想を複雑にしていてわかりにくいのです。

デリダは現前の形而上学をいろいろな概念をもちいて否定しますが、じゃあこっちが間違っていたらあっちなの?ときくとそれも違うといいます。じゃあ何なのと訊いてもことばでは言えないといいます。じゃあ否定神学なの?ときいてもちがう。じゃあ何もいいたいことはないの?ときいてもちがうという。
単純な人だとこれでもう訳が分からなくなってしまうのですが、デリダのいいたい現前の形而上学を批判することは説明的な言語では語れない。つねに自分が読解をしながら行われていくもの。それを振り返ってみるとデリダの言いたいことがわかる人にはわかる。

このような複雑な構造になっています。
僕のようなものが語れるようなレベルのものではないのですが、とにかくこの複雑な構造をもっいるということは先生の説明で分った気がしました。

単純に文章や概念が難しいというのではなく、文章と行為との関係が哲学になっている点が難しい。

やはりすごい人なんだなと思いました。

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