2010年11月30日火曜日

アジア的


今日は新宿朝日カルチャーセンターにいってきました。
「吉本隆明『共同幻想論』を読みなおす」第三回。講師は高澤秀次さんです。

吉本の『共同幻想論』がでた、1968年は団塊の世代、ベビーブーマーが世界的に高学歴化して、大学に行く人が爆発的に増えた時代。

大学にいくのが一部のエリートではなくなった。

世界的に、革命幻想がたちあらわれた時代。

1970年、三島由紀夫が自殺。
1972年、連合赤軍事件。

で、革命の時代は終わった。

吉本は、西洋とアジアを対比させ、アジアにおける革命を考えた。
ヨーロッパに起こったことをファシズムといい、日本で起こったのはそれとは違うウルトラナショナリズム=超国家主義だと考えた。
日本式ファシズムと考えた丸山眞男と違う。

しかし、ヨーロッパとアジアが本当に違うのか根拠はないと高澤先生はいいます。

70年代以降、資本主義の最前線にシフトしてくる。サブカルチャー。マスイメージ、ハイイメージ論。
かつて、批判していた花田清輝の芸術大衆化と同じではないか。

一方で評論家の柄谷行人さんは、国家と社会の関係をクリアに描いた。
最近では『世界史の構造』で、世界史をマルクスのいう生産様式ではなく交換様式として描いている。
A 互酬性
B 略奪と再分配
C 商品交換
D X
という段階で、一部重なりながら発展していくというものです。

2010年11月29日月曜日

修論


修論を書かねばならない。

僕は、この日は書く日と決めてやるほうが集中できます。

2010年11月28日日曜日

2010年11月27日土曜日

コミュニタリアニズム


今日夕方、新宿の朝日カルチャーセンターに行ってきました。
政治社会学者の堀内進之介先生が講師です。

今日は、コミュニタリアニズムという思想を教わりました。

コミュニタリアニズムとは何か。

近代成立にともなって、人々は古い共同体的なものから自由になって、個人主義的な自由主義、リベラリズムが生まれてきます。

それが行き過ぎたとき、個人は自由に選択できるのですが何を選択すべきかの基準もなくなって不安になります。

そこで、いきすぎたリベラリズムを批判する形で、昔から持っていた共同体的価値をもう一度重視しようという考え方がコミュニタリアニズムです。僕の解釈では。

現在の宮台真司さんは、この立場に近いといいます。堀内先生はリベラリズムに近いといいます。

僕の感想は、宮台さんはかつては共同体的価値というのを徹底的に批判していた急先鋒だったと思うのですが、今は逆になっている。
宮台読者としては、どちらを肯定すべきか悩んでしまいます。

2010年11月26日金曜日

WEB


今日はWEBサイトの作り方を教わっていました。

意外と難しいです。

2010年11月25日木曜日

戦争


11月15日の新宿のトークショーで作家の佐藤優さんと批評家の柄谷行人さんが、今は戦前に似ているとくり返して強調していました。

第一次世界大戦もちょっとしたできごとが重なってひろがった。歴史家の中でもなぜ第一次大戦が起こったか統一した意見はない。今の時代に戦争なんてないよという人がいるけれども、戦争はちょっとしたことでも起きる。
このようにいわれていました。

今回の北朝鮮の攻撃には筋を通して批判してもらいたいですけれど、相手がやってきたらやり返すのが正しい判断だとしたら戦争になります。

もちろん、アメリカだってイラク、アフガンで戦争をおこなって民間人もどんどん殺しているのですから、北朝鮮側かれみれば不公平だと思えるのもしかたないかもしれません。

日本も非軍事的ながら戦争に協力してきているので、戦争はけしからんと大きなことは言える立場ではないのかもしれません。しかし、今戦争が起こる可能性がある時、この時こそそれを防ぐべきチャンスだと思います。

一触即発の状態から平和を引き出せたら、内閣の支持率も上がるかもしれません。
しかしそんなしょぼいことではなく、人の命を守るためにも戦争は回避して下さい。

2010年11月24日水曜日

北朝鮮

北朝鮮による韓国攻撃。

大きな戦争も、ちょっとした出来事がきっかけで起こる。

大きな戦争にしないこと。これが一番求められていることではないでしょうか。

それは、自分の国が卑屈になって屈するということではありません。敵には断固とした対処をするべきだという論調が高まることが心配です。

そのためには、政府自身がしっかりとした原理原則を持っていなければなりません。それがないと、逆に反政府的な反動勢力が出てきかねません。

政府は甘いこといって、静まらせようとしても逆効果です。

自らの原理原則を言行をともなって示すことで、反動的な勢力を抑えることができるのです。

2010年11月23日火曜日

GAP


今日、ダウンジャケットを買ったら、22,000円だったところ割引で13,860円だった。

会員登録をした。

2010年11月22日月曜日

修士論文


今日は大学で修士論文の指導をしてもらいました。

とにかく文章にしてごらんといわれて、持っていった文章は褒めていただきましたが、もう今の時期どんどんやるしかないといわれました。

今ごろ、どう書こうかとかいってて間に合うのでしょうか。

2010年11月21日日曜日

運動

今日は、運動をしてきました。やせるために。

これをつづけねば。

2010年11月20日土曜日


佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を』という本を読みました。
タイトルはツェランの詩からの引用です。

著者はあるとき情報を一切遮断して、読書に専念したそうです。そこで、時流に流される評論家を徹底的に批判します。

現在の流行を追いませんので、過去の歴史に基づいて議論をします。

自分が読書を専らしてきただけあって、読むということを特別なことだと考えます。
ルターやムハンマドらを例に、読むことが革命につながるという独自の理論を展開します。

同時代の流行の思想を閉ざしただけあって、他の人にはない著者独特の世界観と理論を持っていて引き込まれてしまう迫力があります。

最後に、生物種の平均寿命が400万年で、人類が誕生してから20万年なのであと380万年あるのだから人類がすぐに終わるなんて考えるのはおかしいと主張します。

大きなスケールで書かれて、力強く書かれているので視野が大きくなるような気がします。

しかし、敢えて不満をいわせてもらえるならば、これだけ同時代人の影響を排しているなら、同時代人への批判をそこまで厳しくしなくてもいいのではないかと思いました。逆に、批判が感情的に強ければ強いほど、本当は同時代人を強く意識しているのかなと思えてしまいます。本当に同時代の批評に意味がないのであれば、単に無視すればいいだけで、時間が経れば忘れ去られるはずではないのでしょうか。

この本は大変面白く、知的にも感情的にも刺激されましたが、僕の立場としては現代の「ちゃんとした」批評家は支持したいというものです。
単なる流行を追うだけの人は批判されてしかるべきだと思いますが、ちゃんと考えているひともいると思っています。もちろんどんな人も完璧ではありませんが。

同時代の批評家をすべて批判するとなると、僕とは立場は違います。

2010年11月19日金曜日

権利


一昨日、首都大学東京での、映画『哲学への権利』の上映会にいってきました。

この映画は同大学の西山雄二先生がビデオカメラを持って、パリの国際哲学コレージュという学校を取材したものです。

夕方雨の中寒くて暗い中、多摩ニュータウンの人工的な華やかなショッピング街を通っていき、大きな講堂に入っていく。この日の上映会は何か夢の中の出来事のようでした。

国際哲学コレージュというのは数年前に亡くなったフランス現代哲学を代表する哲学者ジャック・デリダが作った学校で、学位もなく、授業料もなく、教える側に報酬もないという自由な学校です。そこで、普通の人たちにも哲学を教える。うらやましいような学校です。

そこの学校の先生たちにインタビューしたものをまとめた映画です。上映がPCを使ってなされていたのにもびっくりしました。家庭用ビデオとPCがあれば、今やかなりできのいい映画が撮れてしまうのです。

内容はいかにも、フランスの哲学者らしく色々美しい言葉で哲学を語ります。きいているうちにパリの哲学者たちの雰囲気が伝わってきました。

以前パリに行ったときポンピドゥーセンターの現代美術館でレヴィ=ストロースやフーコーの本が現代美術として飾ってあるのを見てフランスにおける哲学の位置を感じたものでした。彼らにとっては、哲学も芸術のひとつなのだと思いました。

しかし、終わってから大学の先生たちの討論会があって、論理哲学を教えている先生があまりにも紋切り型の哲学観だといっているのをきいて、確かにそうだなと思いました。

しかし、それも含めて面白かったです。

2010年11月18日木曜日

2010年11月17日水曜日

箱庭


昨日カウセリングのとき箱庭があったので、やろうかどうか相談したところカウンセラーさん曰く。

自分にとっての他者、ありたくないものが出てくるかもしれない。
理解してもらえた感と違うものが出てくるかもしれない。
気がつかないところが気がついて、転ばぬ先の杖というわけでは「ない」。

「問題」を取り除くことが課題ではない。
その人のテーマ、健康な人も持っている。
現実だろうが、心の中だろうが、仕事をしないと変わっていかない。
テーマをちゃんと生きる。
テーマが出てくるのはそれを生きなきゃならないこと。苦しいことでもある。

現実はやりきれない。安心できる刺激がすくないなかでゆっくり生きていくために心理療法がある

ちゃんと転ばなきゃいけない。受け身もできないかもしれない。そこを生きた先、体験の中に何かが生まれるかわからない。第三のものが生まれる。つかめる感じ。後になって。その時には感じられない。

僕は、つらいけどその通り。治すのではなく、課題を引き受けて生きる。
でも、休みも必要では。

そうだね。

2010年11月16日火曜日

吉本隆明


今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「吉本隆明『共同幻想論』を読みなおす」という講座の第二回にいってきました。講師は文芸評論家の高澤秀次先生です。

始めに『古事記』について細かい説明をされましたが、色々な神様がでてきて複雑すぎて僕の頭では覚えきれませんでした。
とにかく、全盛期の吉本隆明さんは、西郷信綱さんをこてんぱに批判したので、高澤先生の上の世代は西郷さんをまともに読まなかった。それに反発を覚え高澤先生は、吉本が批判した人を読んでいったそうです。

西郷さんは大嘗祭は稲作の儀式と考えていたが、吉本さんは性的な行為=対幻想を共同幻想と同致させるものと考えた。

沖縄に残っている習俗から「母制論」を展開した。

そして柳田國男。
1968年。反近代的な志向と情念があった。
東大紛争、日大紛争、明治百周年、ソ連のチェコ侵攻、パリ5月革命、三島由紀夫「楯の会」。
戦前の「近代の超克」の回帰とも考えられた。
『遠野物語』は、昔話でも民話集でもなかった。今の話、実話であった。
近代日本文学、自然主義文学、柳田の民俗学と田山花袋の私小説に分かれていく。

吉本さんは、この本で他の文献にあたってもよかったのにあえて『古事記』と『遠野物語』に絞って深化させた。これが吉本さんの真骨頂。

極右だった三島由紀夫が極左と思われた吉本の『共同幻想論』を読んで教えられたと書いている。

柳田は神隠しに遇い易い気質があった。入眠幻覚があった。

吉本は、巫女とシャーマンの違いを指摘した。巫女は共同幻想をじぶんの対幻想の対象にできる。シャーマンは自己幻想を共同幻想と同化させる。

柳田は「埋め墓」と「詣で墓」の両墓制の存在を指摘した。
吉本「農耕民を主とする村落共同体の共同幻想にとって「他界」の観念は、空間的にと時間的にと二重化される他なかった」「共同幻想の「彼岸」に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である」

2010年11月15日月曜日

神学


今日は、新宿紀伊国屋ホールでの新宿セミナー「佐藤優とキリスト教」というイベントに行ってきました。対談相手は批評家の柄谷行人さんです。

紀伊国屋ホールでのイベントは以前、東浩紀さん、北田暁大さん等のイベントを見にいって以来です。東さんはこのホールで柄谷さんの対談を見たのが思想に興味をもつ一つのきっかけだといわれていた記憶があります。そのとき社会学者の宮台真司さんがきているのを目撃しました。今回も佐藤さんが話している間に柄谷さんが来たのを目撃しました。

前半は作家の佐藤優さんのおはなしで、後半対談でした。

佐藤さんの話は最初は現在の話で、尖閣のビデオを見せた人を逮捕しない、それを世論が応援をするというのは危険だということです。

現在は1932年の5.15事件に似ている。
政治がなっていないと決起した人たちが首相を射殺した。動機は純粋で無欲であった。朝日新聞をはじめ世論が擁護したので、禁固8年、実際には4年ぐらいで出てきた。

のちの2.26事件の方がもっと悪質で官僚が官僚を使ったクーデター。昭和天皇の逆鱗に触れなければ成功していた。

今の海保を拍手する世論とそれに怯える検察、警察という図式はあぶない。

自信官僚だったので官僚の考えが皮膚感覚でわかる。
官僚は国民のことを無知蒙昧な有象無象だと思っている。
官僚になるには国家試験を通らなければならないから、自分は頭がいいと思っているが、この試験は「真理が何か?」という考えの人は合格しない。各分野の教科書を3冊暗記すれば理解してなくても合格する。愛情や思いやりを計ることはしない。
外務省で養育係をしていたときFaxをおくらなかった若手にきくと7割が「送りました」といって後で送る。自分はなぜ正直に言わないのかをしかる。

早稲田、慶応で手伝ったとき実験をしてみた。山川の詳説世界史Bの太字の年号をきくと正解率は慶応100点中4.2点、早稲田5点だった。
偏差値の高い学校へ行く理由が、親の期待に応えてとか、高校ででかい顔をできるかとかで、本当は勉強は嫌い。さらに役に立たない。だから、頭に残っていない。
官僚も10年もすれば頭に残っていない。

危機というのは一つひとつの事情をおかしいと思わないこと。

カール・バルトと危機。

啓蒙の思想は、理性を信じること。その結果、第一次大戦。第二次大戦。

ドイツのリベラルな知識人や神学者が戦争を肯定する宣言をきいて、バルトはショックを受ける。全く新しいところから始めないといけないと思い、聖書をドイツ語、ギリシア語で読み、パウロの『ローマ人への手紙』にコメントを書く。

ハルナックは自由主義神学を主張。

自然科学の発達でキリスト教の権威が危なくなる。
カトリック、ロシア正教は自然科学から絶縁した、プレモダン。
プロテスタントは反動運動。イエスに帰れ。天才神学者シュライエルマッハーは、宗教の本質は直感と感情とした。神様は心の中にある。これで近代とキリスト教は矛盾しない。

カール・バルトはそれに反して、人間の言う神はキリスト教の神とは違う。私たちが神については語れない。神が私たちに何を語ったかを問う。牧師は神について語らなければならない。不可能の可能性。
日本では西田幾多郎、滝沢克己に影響をあたえる。

若い神学者がバルトのところにくる。フリードリヒ・ゴーガルテン。不可能の可能性。時間と空間の中でものごとはおこる。近代人は疎外されている。歴史には始めと終わりがある。
バルトははじめ、彼に惚れ込んで『時の間』という雑誌を出す。

のちにドイツ的キリスト者運動にかかわりナチスを擁護する。決断主義を主張。ドイツ人や神の概念は生成するもの。あのお方(ヒトラー)についていかねば。

バルトは危険を感じ、ドイツ民族の中にイエスの精神が内在しているなどとは福音書とは何の関係もないと主張。

カール・バルトが公開書簡を送った人に、天才神学者フロマートカがいる。ナチを逃れてアメリカ、プリンストン大学神学部で教えた。

プロテスタントの大会があったとき、アメリカのダレスが反共演説をした。フロマートカはそれを批判して、共産主義と正面から向き合わなければならないと主張した。福音とは無神論者にもある。

チェコに帰る。共産主義に魂を売った赤いプロテスタントと呼ばれた。
人間とは何か。チェコのマルクス主義者と対話を重ねる。人間の顔をした社会主義というものに影響をあたえ、プラハの春がおとずれる。が、ソ連軍によってつぶされる。翌日抗議文を送る。

彼が死ぬ2日まえに弟子をよんで、「僕は今まで一度も命令をしたことはなかった。しかし、最後に命令をする。亡命をするな。同じことを発してもプラハで発するのとチューリッヒで発するのでは意味が違う。神様の摂理があるから隣人、非キリスト教徒とも仲よくしなさい」といった。


対談、柄谷行人さんと。

佐。トランスクリティーク、世界共和国へ、世界史の構造。超越的なものに対する位置づけは変わってなくても明確になってきたのでは?
交換様式の第四象限の「D」のX。

柄。そのとおり。動機のひとつは9.11。
国家とは他の国家に対してある。今までは内側からしか考えてこなかった。
国家と資本に対抗するにはネグリのような世界的連帯は分断されてしまう。
アルカイダはまさにマルチチュードなのに無視している。
イスラム過激派に感銘して禁煙している。イスラム教徒でもなければテロを支持するのでもないが。
今、対抗するには宗教だと思った。マルクス主義者は違うというかもしれないが、イスラムの中に対抗がある。

最初の社会主義は普遍宗教だった。資本、ネーション、国家に本気で対抗できるのは宗教しかない。

佐。自分は反革命。柄谷さんはブント出身。自分は社民。国家社会主義に近い。革命をとめなきゃいけないと国家側が敏感だった。

柄。ブントとは1960年代の共産主義同盟。安保が終わった次の年に解散。アナーキストだった。自分の課題はマルクスとアナーキズムをいかに結合するかだった。
マルクスの娘はプルードン派と結婚している。仲は良かった。2001年まではマルクスは本当はアナーキストだからよかったといったが、今はアナーキストだからダメだといっている。
国家を死滅させるのはそう簡単にはできない。

佐。ソ連、東欧の影響はあるか。

柄。1990年代に思った。ポストモダニズムは冷戦時代のもの。米ソの二項対立を脱構築すると言っていればよかった。ソ連が解体しないと思っていたから。
それまでは宗教を批判していればよかった。積極的なことをいう人を嘲笑する風潮があった。
『トランス〜』は立場の移動を含む。積極的なことが気になってきた。ブロッホ『希望の原理』。カウツキー『キリスト教の起源』宗教のことをいいだしたのは、その時代の社会主義が理念をなくしてしまったから。社会主義がもともと持っていた「D」。

佐。ソ連を壊す日本側だった。モスクワ大学の科学的無神論学科、実は半分は信者。現代ブルジョワ批判学科はポストモダンだった。エストニアでは、デリダ、ラカン、フーコーを教えていた。モスクワではハバーマス、ホルクハイマーを教えていた。ルカーチは危険視された。

柄。『トランス〜』は先進国のことしか考えてなかったが、ボリビアとアイルランドで読まれた。「A=互酬性」部族間の対立をトランスクリティーク的に相互の批判から新たなものをつくりだすとされた。意外だがありがたい。

佐。ボリビアは沖縄移民の共同体が残っていて、琉球語が残っている唯一の国。

柄。交換様式は『世界史〜』で全面的に書いた。カントもマルクスも必要ではない。キリスト教も社会主義もない。
数学的、構造的に「D」であればいい。

佐。固有名はどうなるのか。

柄。代入すればいい。

佐。固有名は人をゆさぶる。

柄。気をつけてやればいい。

佐。数学的なものはリアルか。

柄。普遍論争になってしまう。
モノがあることとモノの関係があることとは違う。
普遍宗教というとユダヤ教の起源にいく。その後ブッダも孔子もあらわれる。ギリシアが哲学になるのはおかしい。哲学と宗教別にあるのではない。初期自然哲学は倫理学や政治学が入っていた。ギリシアのデモクラシーはペリクレス。アテネの貧民を救うためにデロス同盟で他の国をくいものにしてきた。ペロポネス戦争で滅ぶ。
初期はイオニアの諸都市。イソノミア。アーレント「ノールール。同等支配」。支配じゃない評議会。移動ができるからできた。ペルシア戦争で滅んで、観念だけアテネでソフィストとして残った。プラトンはイオニアには自然哲学しかなかったというが倫理学、政治学があった。調べたけれど誰もイオニアを語っていない。イオニアは脱魔術化。新たな神がいないと哲学ができない。ここに「D」がある。

佐。廣松渉さんとの違いは。

柄。廣松さんは二重世界論ではないのか。関係から物象化。
『世界共和国へ』で互酬性を始めにもってきたのが間違え。こわれた後に互酬性。例として家族を出したのもよくない。家族は純粋贈与。
互酬原理、共同体間にある。共同体内は純粋贈与。

佐。鈴木宗男代議士にモースの『贈与論』見せたらよろこんでいた。

柄。贈与ではなく再分配じゃないの。そこに権力ができる。

佐。宇野経済学との関係は。

柄。宇野に対する批判と肯定は同じ。彼はアナーキスト。大杉栄に通っていた。本気だったと思う。労働力商品のことをいう。労働力商品があるところを社会主義とはいえないという。

佐。労働力商品はトートロジー。

柄。宇野は学者としての限界があったのか労働力商品を揚棄するには協同組合しかない。アナーキスト、講座派マルクス主義者は協同組合。
廣松さんはわからない。

佐。スターリン主義は見えない世界があると考える。主体思想への憧れがあるのでは。

柄。京都学派に憧れがあるのでは。交友はあったけど、影響は受けていない。貨幣が出てくるところでおわる。資本になるのかは書いてない。自分は関心があった。『資本論』の信用。

佐。第三巻。

柄。三巻から読まなければならない。
宇野は国家を省いている。
ウォーラスティンの世界システム、国家と資本を双頭としてみていた。

佐。ウォーラスティンは社会主義をサブシステムとしてみている。

柄。ウォーラスティン国家の反復説。尖閣の問題、現在は日清戦争の直前ぐらい。日清戦争の原因、韓国の内部対立。結果、台湾が成立。中国は清朝のような巨大な帝国になっている。
司馬遼太郎や龍馬伝は今の都合のいいところしかみていない。

佐。勘違いする人は柄谷神学と思うかも。

柄。20年前に明治と昭和の反復を説いた。真に受けた人がオウム。
今は戦争おこらないという人がいるが、第一次大戦もどうして戦争になったのかわからない。
予期して阻止すべき。

佐。自分は品格のある帝国主義、戦争をしない帝国主義をとなえている。
柄谷さんが無心論者で唯物主義者だから対談を申し込んだ。徹底したヒューマニストには神学者として向き合わなければならない。そこに神様との線がでてくるのでは。

柄。そうです。自分で言っちゃいけないよね。

2010年11月14日日曜日

撮影


今日は写真を撮りに、浅草に行きました。そこから合羽橋、上野、秋葉原、御茶ノ水、水道橋と歩いて、飯田橋から電車で帰りました。

帰ってからフルムを現像しました。

どうしてもリールに巻くのがうまくいかず、何枚も使えなくしてしまいました。

2010年11月13日土曜日

撮影


明日の撮影のために、ヨドバシカメラでフィルム等を買ってきました。

2010年11月12日金曜日

余白


今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「ジャック・デリダ入門『哲学の余白』を読む」という講座の第2回目に出席してきました。講師は首都大学東京の西山雄二先生です。

フランスの現代思想を代表する哲学者ジャック・デリダ(1930~2004)は、1967年に『声と現象』『グラマトロジートについて』『エクリチュールと差異』という代表作三作を出版し名声を得ます。1972年に『哲学の余白』『散種』『ポジシオン』という三冊を出します。

『哲学の余白』は、論文を集めた論文集です。そのなかの「差延」というテクストを読んでいきます。

「差延」というのはデリダの造語で、「差異」をあらわす「ディフェランス」のaとeを入れ替えた語です。
意味としては、「差異」と時間的な「遅延」の複合語です。
ハイデガーの存在論的差異と似ているが同じではない。

ソシュールの記号論からデリダは影響を受けていますが、しかし全肯定はしていません。
ソシュールの記号論はそれまでの、ものが存在して、観念が存在して、それに名前を付けたものが言語だという古典的な記号論をくつがえしたものです。

記号は現実の差異によって生まれ、記号は恣意的である。能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)は不可分であるという考えです。

言語においては差異しか存在しない。体系があるだけと考えます。

デリダは能記と所記の不可分性と記号の差異的、形式的な側面を強調することで伝統に立ち向かったとしてソシュールを評価します。

デリダはさらに決定的な所記(超越論的シニフィアン)は存在しないと主張します。
現前の形而上学批判と同じく、絶対的な意味を認めないのです。

いかなる所記も痕跡にすぎないといいます。

今までデリダを学んできて面白いのは、基本的には現前の形而上学(絶対的な意味)の存在を否定するのですが、すると今度は自分が絶対的な立場になってしまう。この皮肉に極めて敏感だというところです。

ニーチェの場合、同じく絶対的意味を否定するのですが、自分が次の絶対者になってしまうことについては意図的に徹底的に無視します。

だから、デリダの方が謙虚で自分が次の絶対者にならないように、気を配るのですが、それがまた思想を複雑にしていてわかりにくいのです。

デリダは現前の形而上学をいろいろな概念をもちいて否定しますが、じゃあこっちが間違っていたらあっちなの?ときくとそれも違うといいます。じゃあ何なのと訊いてもことばでは言えないといいます。じゃあ否定神学なの?ときいてもちがう。じゃあ何もいいたいことはないの?ときいてもちがうという。
単純な人だとこれでもう訳が分からなくなってしまうのですが、デリダのいいたい現前の形而上学を批判することは説明的な言語では語れない。つねに自分が読解をしながら行われていくもの。それを振り返ってみるとデリダの言いたいことがわかる人にはわかる。

このような複雑な構造になっています。
僕のようなものが語れるようなレベルのものではないのですが、とにかくこの複雑な構造をもっいるということは先生の説明で分った気がしました。

単純に文章や概念が難しいというのではなく、文章と行為との関係が哲学になっている点が難しい。

やはりすごい人なんだなと思いました。

2010年11月11日木曜日

ビデオ


中国のビデオを見せない政府にイラついている方も多いと思いますが、これは日本政府の中国へのメッセージなのです。ここで、冷静に対応して中国に恩を売ることは国益にかなっています。

その場の感情に流されて威勢のいいことをいう方が長期的に見て国益を損ねる可能性があります。

中国もサッカーの試合で以前のような暴動を防いで、日本にメッセージを送っています。ここから関係修復のチャンスがあると思います。

しかし、ノーベル賞授賞式に出席しないような要請は受け入れられません。これは日本を試しているのです。

できないことはできないということも大事です。あくまでも冷静に。

2010年11月10日水曜日

修士


大学院生なので、修士論文を書かなければならず、美大なので作品も作らなきゃならない。

作れるのか不安です。

2010年11月9日火曜日

写真プリント


今日は写真の教室で暗室で、ずっと写真プリントをしていました。

2010年11月8日月曜日

疲れ


今日は、八王子キャンパスに行って、夕方上野毛キャンパスに行きました。

最近運動をして疲れているのですが、運動して疲れがとれないのはよくないそうです。

2010年11月7日日曜日

現政権


外交で弱腰だといわれると、むきになって強がる人もいるが、そこは冷静に判断するべきだと思います。

現政権は冷静に対処しようとしているようには見えます。

しかし、一方で国民の苛立ちにも理解を示さなければなりません。そこが現政権には見られないところです。

冷静さも必要ですが、一本筋を通す姿勢も必要です。対外的にも、国内的にも。
それがないと、外国はなめてかかってくるし、そうなると国民はますます不安になりナショナリズムへと傾いていきます。

一見相反するようですが「冷静さ」と「筋を通す」つよさと両方がなければうまくいかないと思います。
現政権には後者がかけている。その為に国全体が右傾化していくきっかけを与えてしまうのがもっとも危惧されるところです。

2010年11月6日土曜日

プレゼン


今日は「芸術学特殊研究」での発表でした。

先生には、前期はある作家を調べて報告する。後期は、ある作家のここというポイントを絞って、自分の創作活動との関連で報告することといわれていました。

最初はA.ウォーホルの報告をただ本を読む形で報告したらダメといわれ、今日また報告をすることになりました。

今回はゴッホについてです。いくつか本も読みDVDも見たのですが、報告は中身が前期のように単なる作家の研究になってしまって、自分との関連でポイントを絞ってということができなくて怒られました。

まあ、自分でもわかっているのですが、何冊か本を読んでるだけで疲れてしまい、まとめるだけで精一杯になってしましました。

やはり、怒られるだろうと思ったらその通りでした。

大学院の他にやることがありすぎでしょう。
まあ、時間がなかったということもあるのですが、自分との関連というのが自信がなくてなかなか書けなかったということもあります。

一応、課題の一つは終わったのですが、課題だからしかたなくやったとしか見えないといわれその通りだと思いました。

すみませんでした。

昨日


最近運動をしていて疲れているので、昨日は10時には寝てしまって、blogを書けませんでした、というより忘れていた。

まあ、疲れるぐらい体を動かすのはいいことだと思いますが。

2010年11月4日木曜日

水泳


昨日、今日と久しぶりにプールで泳ぎました。

僕は平泳ぎができないので、教わりましたがうまくいかない。

水泳は思っていた以上にハードなスポーツだということを思い知らされました。

2010年11月3日水曜日

セカイ系



新海誠監督のアニメ『ほしのこえ』のDVDを見ました。

「セカイ系」という言葉は本で知ったのですが、その代表作として有名なこのアニメを見てみようと思ったので見ました。

「セカイ系」とは批評家の東浩紀氏によれば、「自分の物語」と世界の終わりのような「大きな物語」が、「社会」という媒介なしに直結される一連の作品群をいう、ということらしいです。

そして、そこには人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が強く認められます。

この話は、近未来の高校生の物語です。
彼の好きな女の子が、国連の宇宙ロボットに乗って敵と戦う。その中でメールを何年もかけて伝えるという話です。最後に彼女は「ここにいるよ」といって終わります。

20分ほどの短いアニメですが、監督がほとんど一人で作ったそうです。

ここでは今の若い世代のなつかしいもの、「学校」や「コンビニ」や「電車」が細かく繊細に描かれています。若い世代にとっては、古い「村」や「自然」ではなく「コンビニ」こそがノスタルジーの源泉なのだということを確信犯的に主張しているようです。

それが、宇宙で戦うロボットのメカニカルなSF的かっこよさと対比をなして、相乗効果をあげます。

もちろん『エヴァ』の影響を強く受けているのですが、『エヴァ』の先行作品である『トップをねらえ!』の方によく似ていると思いました。

この、「自分の世界」と「世界の終わり」の直結というのは『エヴァ』をリアルタイムで見ていた僕も魅力的に感じます。

その芸の細かさで描かれた世界を、「戦争」も「全共闘」も知らない世代がノスタルジーとして語るというのは一部の批判もあるかもしれませんが、「戦争」や「学生運動」にノスタルジーを感じるのが許されるのならば、これも許されるべきでしょう。

僕は、今の時代にはノスタルジーを語るに足るものがあるのか、みんなその繊細さを覚えているのかという疑問を感じることがあるのですが、この作品を見ると今の時代の殺伐としたように思われる風景にも繊細なノスタルジーが宿る余地があるのだとわかり、すこし安心させられます。
しかし、それを強調するには、やはり巨大なロボットとの対比が必要なのかなと思いました。

ただ問題は、庵野さんが命がけで作った『エヴァ』を模倣している。だからこれは新海さんだけの業績ではないということと、その後のアニメが、先日見た『サマーウォーズ』も含め、同じパターンが出来上がってしまって、どれもこれも似たものになってしまっているということです。

この作品だけを見ればしんみりと感動するのですが、「セカイ系」というパターンに全部はまってしまうということはあまりいいことではないと思います。

他の作家も、この作品や『エヴァ』を真似するだけではなく、独自の工夫がほしいところです。

2010年11月2日火曜日

写真


今日は写真の教室で、写真プリントをしました。

フィルターを使って。高コントラストからやわらかいのまで使い分けるというものです。

僕の行っているクラスは、入門から基礎コースに残ったものが三人だけになりました。

でも、がんばっていってます。

2010年11月1日月曜日

監獄


今日は朝日カルチャーセンター新宿校で金森修さんの「フーコーと現代」という講座の二回目にいってきました。


フーコーは1975年に『監獄の誕生(原題「監視することと処罰すること」)』という本を書きます。

18世紀まで、犯罪に対して社会は身体的な刑罰をあたえていた。

しかし、18世紀終盤から身体刑に変わって、規律訓練をほどこして矯正させようといういう考えがひろがっていく。

それは、身体に苦痛をあたえるというものとは全くちがう、新しい権力のあり方であった。

『狂気の歴史』とも重なっていて、矯正して社会の側に組み入れようとする権力である。
パノプティコン(一望監視施設)のように監視したり、教育したりして魂から変えてしまおうというものである。


それまでの、残酷刑もひどいと思いましたが、新たな権力のあり方の問題点をフーコーはあぶり出したのだと思いました。