2010年12月31日金曜日

大晦日


今日は思ったより論文が進みました。まだまだですが。

皆さん良いお年を。

2010年12月30日木曜日

論文

今日は先生のうちにうかがって論文の指導をしてもらいました。

2010年12月29日水曜日

火葬


今日は昨日死んだうちの犬の火葬場にいってきました。

うちの家族三人と姉の家族三人の六人でお寺に行ってきました。

車から出す時抱きかかえたら口からドバッと血が出てスボンにもろにかかりました。
ウワーッと思いましたが、このしみも犬の生きていたあかしになるのかなと思いました。

お骨にしてお経をあげてもらい帰りました。

帰りに久々に六人そろって外食をしました。

六人がそろって外出するのも犬のおかげです。

2010年12月28日火曜日

隙間


レオがいなくなって心の隙間のようなものがあるといったら、カウンセラーさんから「その隙間を手で包むようなイメージで」といわれました。


一昨日からうちの犬が食べ物も食べずに、水ものまずじっと半目を開いて寝ていて動きませんでした。

もう12歳なので、以前にも危ないかなという時もありました。けれど、また元気になりました。

でも今回はこれで最後かなという感じはありました。

夜、ネットを見ているとき、母がきてレオの手が冷たくなっているというのでいってみると確かに冷たかったです。

母が明日獣医さんのところへいくので今日は様子を見ようということをいうので、僕はまだ10時だから先生も起きているので、万が一間に合わないといけないといって先生に電話するようにいいました。

すると、先生はお酒を飲んでいるのでこちらには来られないけれども連れてきてくれれば診るといわれて連れていくことになりました。車に乗せるのにゴールデンレトリーバーなので重くて、しかも体を動かすとゲロっと吐こうとするので大変でした。

病院に行って、先生に見てもらって注射をうってもらって血液検査をして、点滴をしてもらいました。一応やることはやったけれども今晩がやまだといわれました。12時すぎていましたが近くに住んでいる姉に一言伝えるように母にいいました。

姉と甥がきて光をあてる健康用品をもってきて体にあてて手をみんなでかわるがわるさすってやりました。すると、今までほとんど動かなかったのが起き上がって周りを見だしました。

それからそれまでしなかったオシッコをして、ゲロッと吐いて少しスッキリした感じでした。

そして、僕は寝て母と姉が看病していましたが突然「俊きて、レオが息してないの」と母が叫ぶので、急いでいきました。

すると体は少し動いていました。僕は見よう見まねでおもいっきり心臓マッサージをしました。
するとまた口を動かし始めて生きてはいました。よかったと思っていましたが、また体が動かなくなってきて手脚が硬直してきました。
僕はさすってやることしかできませんでしたが、最後にレオは少し伸びをしてまた動かなくなりました。姉も母も「頑張ったね」「ありがとう」と叫び続け体をさすってやっていました。

僕が来る前に糞もだしていてそれを片付けたりもしてました。そして僕が摩っている間に姉がもう息していない「レオちゃん!レオちゃん!」と叫びました。
僕はまだ生きているような気がしていたのですが、姉たちがこれでいっちゃうの?と泣いているのを見て、もう逝ってしまったということがわかりました。

それでもまだ体は温かいし生きている感じがしました。しかし、目をつぶらせるとつぶったので終わりだとわかりました。

涙が目に浮かんできました。

一度呼び出されてまた引っ込んだ父も出てきて、「ありがとう」「先生のところにいけてよかったじゃないか」などといっていました。

僕が、獣医さんに電話するようにいわなかったら、姉に電話するようにいわなかったら、一度心臓マッサージをしなければ、最期を看取ることができなかったかもしれません。
そういう意味では幸運でした。
また犬自身も、家で家族に看取られて逝けてすばらしい最期ではなかったでしょうか。

そもそもこの犬を飼うきっかけは、家族の不和でそれを和らげるために父に毎日散歩させようと思って飼ったものです。

名前の由来は手塚治虫の『ジャングル大帝』です。
イギリス系のゴールデンレトリーバーは白いので白ライオンとかけたこともあるのですが、もっと重要な理由がありました。

主人公の白いライオンのレオの父は、人間の手からジャングルを命がけで守る戦いをする偉大な帝王でした。しかし、人間に殺されてしまいます。その子レオは、ジャングルと人間との和解をめざし自分が犠牲になって死ぬというものです。

だからうちのレオはうちの不和の犠牲になって和解をめざすものと考えていました。だからこそ、勝手に犠牲に捧げてしまった以上彼には幸せになって欲しいと心から思いました。

実際、父70歳の誕生日に買って、その頃は姉が出戻ってきて家の中が不和でそのとばっちりをまだ小さい甥ヤ姪がかぶっているような状態で、父も少しぼけ気味でした。
しかし現在は80歳をすぎた父もゴルフに行ったり株の売買をしたりして、毎日の犬の散歩もこころにもからだにもよい効果を与えた模様です。
家族も姉家族と一緒に食事したり、平穏になってきました。

僕の目論みはうまくいったのですが、最期にレオがよい死に方をしてくれて、完結です。
僕自身が犠牲になる代わりに、犠牲になってくれた、しかもたぶんみんなに看取られて幸せだったと思います。

毎食中、みんなのところにやってきてパンを与えたりして、レオパンをやるのが慣習になっていました。だんだん利口になってきて次はママのところへいけというと間違ったりしながら、最期にママのところへいってパンをもらう。朝食の時には母は秘かにヨーグルトをあげてたりしました。

家族で喧嘩をしたとき、僕が大声で母を批判したりするとあわててやってきて僕の手をずーっとペロペロなめ続けました。この子は本当に喧嘩が嫌いだったのだと思いました。そうされると僕も大きい声は出しづらくなりました。そういう意味でも和解をもたらした使者でもあったのだと思うのです。

2010年12月27日月曜日

指導


今日は大学に行って、先生に論文の指導を受けてきました。

2010年12月24日金曜日

広告業界


広告業界就職フォーラム発起人、吉開章さんの『広告業界就職のススメ(増補版)』を読みました。

年齢的に新卒で蹴活できないので、自分とは立場が違いますが、競争率の高い業界での蹴活でのコツが書いてあって面白く読みました。

自分は、デザイナー志望なので広告に限らないのですが、参考になったところは大いにありました。

2010年12月23日木曜日

モーニング娘。


今ごろ『モーニング娘。×つんく♂〈2〉』を読んでいます。

彼女たちの純粋さと努力と成功に感動。

このころから、入院してTVもネットも見られなかった日が続き、今年になってから少しずつネットでチェックしています。

今のモーニング娘。は、このころと比べると小さくまとまってしまっているかんじがします。

このころが普通じゃなかったのだからしょうがないか。

懐かしさと、寂しさを感じます。

AKB48は、好きでも嫌いでもない。ただ、TVを見ないので知らない。

2010年12月22日水曜日


大学院の課題をやらなければならないのに、寝てしまいました。

ゆず湯に入りました。

2010年12月21日火曜日

共同幻想論


今日はカルチャーセンターで「吉本隆明『共同幻想論』を読みなおす」4回目最終回で、講師は高澤秀次先生でした。

吉本は、対幻想論で当時としては先進的にフロイトを取り上げ、原始群族の「父祖」を共同で殺した息子たちが家族を作ったと考えた。
そして、共同体と家族が分離したとき自己幻想が登場したと考えた。

ヘーゲルに倣い兄弟と姉妹の関係を永続する対幻想と考えた。

古事記における、イザナギとイザナミの国生みの場面は共同幻想と対幻想が同致していると考えた。

アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係。アマテラスが宗教的な権力の象徴であり、スサノオが農耕社会の象徴であると考えた。

ヤマトタケルの時代はもはや神権優位のなくなった現世的な政治支配者の父と子の葛藤。

最後に作家の中上健次は、角川文庫版解説で、この本と三島由紀夫の自殺が歴史的な事件だとして、この本が文学を死滅させたと記している。

2010年12月20日月曜日

生政治

今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「フーコーと現代」第3回、講師は金森修東京大学教授です。

今回はフーコーの生政治論です。

古典時代の権力は、人を殺す権力だった。
しかし、18世紀ごろから人を生かす、人口を統計学的にとらえる、新しい権力が生まれたというものです。

フーコーの独自の視点です。

2010年12月18日土曜日

経済学


今日はカルチャーセンターで「経済学入門」の全2回の2回目に行ってきました。
講師は埼玉大学講師の宮崎雅人先生です。

全くオーソドックスな、マクロ経済学とミクロ経済学、さらにマルクス経済学の基本を教わりました。
いままで、漠然とはわかっていたものがはっきりとしてよかったです。

2010年12月17日金曜日

論文


論文が間に合わない、これだけのページ数、何を書けばいいのか。

1月早々締め切りなので、ヤバいです。

2010年12月16日木曜日

今日


今日は、体を動かして、夕方から写真の教室に行きました。

皆さん、今日は寒かったですね。

2010年12月15日水曜日

論文


論文書くのが大変だが、焦ってできないよりも、少しずつやっていこうと思います。

2010年12月14日火曜日

政権誕生


民主党が圧倒的多数で政権をとったその日のブログより。


政権をとった民主党の皆さんにいくつか、私の思うことを述べさせてもらう。
かつての細川政権も国民の8割の支持を得ながら、保守派の執拗な攻撃で(政治改革法案を何はともあれ通したことは今の政権交代を可能にした結果をもたらしたので十分評価すべきだと思うが)、自宅の壁を直すのに佐川急便から借金をしただけで証人喚問されたりした。
立場を失った保守層のネガティブキャンペーンは容易に予測できる。しかし、野党時代は民主党も自民党のあら探しをしていたのでそれは、ある程度しかたない。ただ、これからは一部の人たちから感情的反発を強く受けることは覚悟しておいてほしい。
それへのとるべき対応は、先ず単純なことだが、閣僚の「失言」には十分に注意をしてもらいたい。それだけで辞任に追い込まれることもあるのだから。スキャンダルも保守系メディアは血眼になって探すだろう。言うまでもないことだが、金銭の国民に疑惑をもたれるような集め方がないかは、常に自らチェックしておかないといけないと思う。「李下に冠を正さず」という諺があるように、適法であっても疑いをもたれる可能性がある行為は慎むべきだろう。
マスコミは権力をチェックするのが仕事なので、ちょっとしたことでも面白いネタがあれば、攻撃してくるものだ。
これらのことを避ける、合理的で最も効果のある方法は、正しい政治をやることだろう。
先ほど、自民党のいうことはそれほど間違ってないと述べたが、ではなぜこれだけ負けたのか?ちょうど郵政選挙と逆の結果が出たわけで「新自由主義の行き過ぎ」とか「不景気で雇用に不安がある」とかいわれるが、それもあるだろうが、それより私が感じるのが「とにかく今の政治を変えたい」という心理が有権者に共有されているのではないだろうか。それが、「小泉なら変えてくれそう」とか「民主党なら変えてくれそう」という期待になって現れたのではないだろうか。もちろん、その時の風もあるだろう。だから、民主党の議員の方々は、ブームはいつかは終わる。賞賛はバッシングに簡単にうらがえる。ということを肝に銘じて、くれぐれもこの勝利を自分たちの政策が国民に支持されたと、単純に考えないでほしい。
そして、官僚との戦いに臨んでもらいたい。そのためには、情熱はもちろん、官僚に負けない「知識」や「理論」「情報」などの裏づけが不可欠。人気取りのためにでた必ずしも政策や政治に詳しくない候補もいるだろう。そういう方々も、一生懸命勉強していただきたい。もう自民党のせいにすることはできない。あなた方が政治家としてふさわしいかどうかが問われる。おそらく支持率も始めは7割前後いくのではないか、その後必ず下がる。そこで5割をきるかどうか、そのあたりが重要な分岐点だと思う。単なるブームなのか本当の刷新なのかが問われる。
一度、否定的イメージがついたら、それをくつがえすのには大変な努力と時間がかかる。始めから予想される批判には行動をもって反論してほしい。
政権をとればメディアも世論も、よいしょはしてくれない。実際に景気や民主党のいう「心の通った政治」が実感できなければすぐに、批判に変わることを十分頭に入れておいてほしい。
最後に、選挙はゴールではなく、スタートラインに立ったということだ、ということを忘れないでほしい。オリンピックに例えたら、出場が決まった段階に当たる。本番で良い成績が出せなければ、世論はすぐにそっぽを向いてしまう。
これからが「勝負」だということを忘れないでほしい。
経済も、財政も大変厳しい。官僚は一流大学でトップクラスのエリートぞろいだ。彼らと対等に議論して勝つためには、先ずはビジョンン、知識、知恵、忍耐が必要になってくる。それに、こたえられる議員がどれだけいるか。
しかし、日本を変えてもらいたいという認識は、国民はもちろん、優秀な官僚にも共有された認識だと思う。正しい努力がなされれば民主党に協力する官僚もいるはずだ。
ゆめゆめ、これをゴールだと思わずスタートラインだと肝に銘じてほしい。
当選した議員の方々、与野党を問わずおめでとうございます。惜しくも落選された候補の方々お疲れさまでした。
これから、国民も参加する政治と代表もいわれているので、私たち国民も、傍観者ではなく、野次をとばすだけでなく建設的に政治を見守り、自分のできることは協力して行きたいと思う。昨日、日本の新しい扉が開いた、と後世の人に誇れる政治を全ての人がして行こうではないか。

2010年12月13日月曜日

インターネット


鈴木謙介氏の『暴走するインターネット』という本を読みました。

ずいぶん前に読んだのですが、修士論文でインターネットのこと調べなければいけないので、読みなおしました。

『ised』なども読んだのですが、インターネットについて概要をまとめてあって読みやすいのはこの本です。インターネットの歴史の流れが大雑把にわかります。

もっと細かいことを知りたい人は、専門書を読んでいただきたいですが、初心者でもわかりやすいのはこの本だと思います。

2010年12月12日日曜日

忘年会


今日は東京の明治記念館で、菅直人首相の忘年会に行ってきました。

大きな部屋にテーブルが並んでいて何百人と入る。

はじめに首相と、信子夫人がひとりひとりに握手をしました。けっこう親しい人もいるようで、慣れた感じの方のあと僕が行ったら名札を見て「鈴木さん?」って感じでした。

それから首相の挨拶があって、あとはバイキング形式で自由に食べてる間に地方議員の方々が挨拶をおこないました。

いろいろおいしそうなものがあったのですが、量が少なくてすぐになくなってしまいました。
僕はお寿司とそばと、あと洋食を皿に盛って食べました。

料理がなくなったのでしかたなく、お酒を飲んでいました。

最後に集合写真を撮って、あと会場を首相がまわって挨拶していました。
政治資金を集めるためのパーティーだということだったのですが、8000円で元が取れるのか少し心配になりました。

政局については語られませんでした。

2010年12月11日土曜日

現代政治哲学


今日はカルチャーセンター「現代政治哲学講義」3回目、宮台真司先生、堀内進之介先生です。

93年、アメリカリベラリズムの恭斗ロールズが立場を転向します。
それまで国内のリベラリズムを主張してきましたが、今度はより広い共同体どうしの共生へと問題をシフトします。

ローティによりますと、包括的リベラリズムから、政治的なリベラリズムへのシフト。
プラトン的な純血主義からプラグマティックへの変化、前進です。

権利について語るよりも現実に感情教育をしろと。これがエマーソンからの伝統だといいます。
それ以降リベラリズムとコミュニタリアニズムが近くなりました。
この二つに対抗する主張というのが、リバタリアニズムです。

リバタリアニズムすなわち自由至上主義はアナーキズム的な感覚から生まれたものです。
つまり自分のことは自分でやるので、放っといてくれ。自由を制限することだけは反対するが他のことは個人の勝手。

このアナーキーな感覚自体は宮台先生も出発点としてはあったといいます。
ここは正直だなと思うのは、宮台先生はやはり子供を持って家族を持って変わったといわれたところです。
僕にしてみれば、今までの宮台さんの主張は何だったんだとつっこみたくなりますが、ここまで正直に言われてしまうとしょうがないです。

現在宮台先生はコミュニタリアニズムに近いといいます。われわれが何かを選択する時に、すでにある価値観を持って選択しています。それが共同体的価値だといいます。
それに、自覚的に重きをおこうということです。

それにたいして堀内さんは、フーコーやブルデューを引いて、選択できなかったという記憶さえ収奪される可能性がある。だから用心が必要ではないかといいます。

宮台先生は二つの回答があるといいます。
一つはハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』を書いた時に、ショーレムから同じユダヤ人なのにどうしてこんな不謹慎な書き方をするのかと批判を受けていったことです。
自分はユダヤ人だからこそどんなことをいおうとも全てユダヤの精神が反映されている、これこそがユダヤ的だという方がおこがましい。というものです。

もう一つは、自分は子供にこれをしろ、あれをしろと言っていい。ただし最後はお前が決めろよとつけ加えればいいというものです。

堀内先生は、社会学では原理が先か現象が先かという論争があるといいます。

宮台先生は、原理が先だといいます。どっちを選べという事自体原理だから。しかし、どこまでその原理が適用可能かの線引きの問題はつねに恣意的だといいます。

20世紀の神学界で二人の天才神学者がいました。11月15日のブログにも書きましたが、カール・バルトとゴーガルテン。

ゴーガルテンはイエスがピラトとの取引をすれば救われる時に「神は取引をしない」といって磔になったところを重視して、決断こそが大事だと思いました。
対するバルトは、神は絶対者であって相対者である人間ごときには神の意志はわからない、だから決断をするなんておこがましいと考えました。

後にゴーガルテンはナチを称揚する神学者になるのですが、バルトはそれ以前にゴーガルテンの危険性に気づいていました。

キリスト教の遺伝子はイエスに会ったこともないパウロから始まります。教会が存続できるかがパウロの関心事でした。教会がないと人を救えないからです。
普遍性があるかどうか、普遍論争というのがありましたが、世の中に普遍的なものはある、しかしこれが普遍だといったらおしまい。凡人はじゃあなにが普遍ですかということになる。

堀内先生。アドルノは理性を徹底的に批判して、美学、感性を重視しました。コミュニタリアニズムとも近いのですが、感性といわれたらそれを批判できるのか。

宮台先生。自分も子供を森に連れていったりして教育しているが、その再帰性を意識すべき。
共同体は利己的で理不尽に他の共同体を絶滅させたりする。しかし、「ダークナイト」という映画で爆弾を止めるシーンがある。一面では人間は、案外悪くないという面もある、ということでした。

今日はいつもと比べてやけに明るい宮台先生でした。

2010年12月10日金曜日

ニーチェ


今日はカルチャーセンターの「ジャック・デリダ入門『哲学の余白』を読む」講師西山雄二先生、第三回を聴きにいきました。

以前デリダはニーチェと違って自分が脱構築したといわないだけ謙虚だと、書いたことがありますが、今日の講座でデリダはニーチェの力への意思を自分の哲学とつながると高く評価していたことがわかりました。

むしろ、ニーチェこそ形而上学の完成者だといったのはハイデガーで、デリダはハイデガーに強い影響を受けながらも、ハイデガー的ニーチェ解釈を鋭く批判します。「ハイデガー的な型の読解からニーチェを救い出す」「ニーチェの思想の有毒性を無視することはできない」(『グラマトロジー〜』)

そういう意味では、僕のニーチェ解釈はハイデガー的であったと思います。
僕はニーチェが自ら形而上学を作ろうと思ったのではないと思いますが、結果としてニーチェ信者を作ってしまったことには無批判であったと思います。
ニーチェのテキスト自体は、脱構築のさきがけという理解は間違えとは思いませんが、この点ではニーチェに対する好き嫌いがでてくるようにも思います。

ニーチェは新たな形而上学を作らなかった。しかし、ニーチェを新たな形而上学として読んだ読者を大量に生み出したのは事実ではないでしょうか。

2010年12月9日木曜日

なんとなく


今日は、運動して、本読んで、ネット見て、論文書いて、なんとなくすごしました。

2010年12月8日水曜日

ギリシア神話


木村千鶴子さんの『ギリシア神話がよくわかる本 愛のドラマから星座の由来まで』という本を読みました。

ギリシア神話について子供でもわかるように書かれた本です。

断片的には知っていたけれど、やはりギリシア神話は性欲と暴力がすごく描かれている。

それから、体系だった一つの本ではないので、いろいろな話がいろいろでてきて覚えきれない。
この本に書かれなかった物語もあるでしょうし。これでギリシア神話を全てわかったわけではないでしょう。
しかし、一片でもギリシア神話にふれることができて、少しは賢くなったかなと思いました。

2010年12月7日火曜日

Podcast


Podcastで英語のニュースを聴いています。

全部は分らないですが。

2010年12月6日月曜日

ネット


ネット見つつ論文書く。

wikipediaのコピーになってしまう。

2010年12月5日日曜日

2010年12月2日木曜日

2010年12月1日水曜日

政治


M.ヴェーバーの『職業としての政治』という本を読みました。

ヴェーバーは19世紀から20世紀にかけて活躍した、社会学史上最大の社会学者です。

彼が学生向けにおこなった演説がこの『職業としての政治』です。

まず、政治の本質は権力であり、国家とは暴力の独占だといいます。

そこで民衆を従わせる方法に三つあるといいます。

一つは「伝統的支配」
一つは、指導者への個人的帰依による「カリスマ的支配」
一つは、「合法性による支配」
です。

そこから、現代の政治ができあがる歴史的な分析に入ります。

最後に、政治家に求められる資質をあげていきます。
心情倫理と責任倫理の解説をします。

ヴェーバーの情熱が伝わってくる迫力のある本です。
ヴェーバーの思想もよくわかりました。

薄い本なので是非、政治家の方にも読んでもらいたと思いました。

以下、引用。

国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。

正当性の根拠からの問題から始めると、これには原則として三つある。第一は「永遠の過去」が持っている権威。第二は、ある個人にそなわった非日常的な天与の資質(カリスマ)が持っている権威。「カリスマ的支配」である。最後に「合法性」による支配。

政治家にとっては、「情熱」-「責任感」-「判断力」の三つの資質がとくに重要であるといえよう。

もし政治が軽薄な知的遊戯ではなく、人間として真剣な行為であるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる。しかし、距離への習熟がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。政治的「人格」の「強靭さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。

山上の垂訓とは福音書の絶対倫理のことであるが、今日、この掟を好んで引用する人々の考えているより、もっと厳粛な問題である。
一切か無か。
「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対倫理である。

倫理的に方向づけられたすべての行為は、「心情倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合がある。

この世のどんな倫理といえども次のような事実、すなわち、「善い」目的を達成するには、まずたいていは、道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。

政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を持った者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。

信仰の闘争に参加した追従者はひとたび勝利を収めるや、いとも簡単に平凡きわまるサラリーマンに堕落してしまう。
およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時もわすれてはならない。

悪魔の力は情け容赦ないものである。もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう。
「悪魔は年をとっている(老獪である)」(ゲーテ『ファウスト』)

結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間がある地点まできて、「私としてはこうするよりほかはない。わたしはここに踏み止まる」(ルター)というなら、計り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくりだすのである。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら。堅い板に力をこめてじわじわっと穴をくり抜いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

現在の世の中が、自分の立場からみて、どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。

2010年11月30日火曜日

アジア的


今日は新宿朝日カルチャーセンターにいってきました。
「吉本隆明『共同幻想論』を読みなおす」第三回。講師は高澤秀次さんです。

吉本の『共同幻想論』がでた、1968年は団塊の世代、ベビーブーマーが世界的に高学歴化して、大学に行く人が爆発的に増えた時代。

大学にいくのが一部のエリートではなくなった。

世界的に、革命幻想がたちあらわれた時代。

1970年、三島由紀夫が自殺。
1972年、連合赤軍事件。

で、革命の時代は終わった。

吉本は、西洋とアジアを対比させ、アジアにおける革命を考えた。
ヨーロッパに起こったことをファシズムといい、日本で起こったのはそれとは違うウルトラナショナリズム=超国家主義だと考えた。
日本式ファシズムと考えた丸山眞男と違う。

しかし、ヨーロッパとアジアが本当に違うのか根拠はないと高澤先生はいいます。

70年代以降、資本主義の最前線にシフトしてくる。サブカルチャー。マスイメージ、ハイイメージ論。
かつて、批判していた花田清輝の芸術大衆化と同じではないか。

一方で評論家の柄谷行人さんは、国家と社会の関係をクリアに描いた。
最近では『世界史の構造』で、世界史をマルクスのいう生産様式ではなく交換様式として描いている。
A 互酬性
B 略奪と再分配
C 商品交換
D X
という段階で、一部重なりながら発展していくというものです。

2010年11月29日月曜日

修論


修論を書かねばならない。

僕は、この日は書く日と決めてやるほうが集中できます。

2010年11月28日日曜日

2010年11月27日土曜日

コミュニタリアニズム


今日夕方、新宿の朝日カルチャーセンターに行ってきました。
政治社会学者の堀内進之介先生が講師です。

今日は、コミュニタリアニズムという思想を教わりました。

コミュニタリアニズムとは何か。

近代成立にともなって、人々は古い共同体的なものから自由になって、個人主義的な自由主義、リベラリズムが生まれてきます。

それが行き過ぎたとき、個人は自由に選択できるのですが何を選択すべきかの基準もなくなって不安になります。

そこで、いきすぎたリベラリズムを批判する形で、昔から持っていた共同体的価値をもう一度重視しようという考え方がコミュニタリアニズムです。僕の解釈では。

現在の宮台真司さんは、この立場に近いといいます。堀内先生はリベラリズムに近いといいます。

僕の感想は、宮台さんはかつては共同体的価値というのを徹底的に批判していた急先鋒だったと思うのですが、今は逆になっている。
宮台読者としては、どちらを肯定すべきか悩んでしまいます。

2010年11月26日金曜日

WEB


今日はWEBサイトの作り方を教わっていました。

意外と難しいです。

2010年11月25日木曜日

戦争


11月15日の新宿のトークショーで作家の佐藤優さんと批評家の柄谷行人さんが、今は戦前に似ているとくり返して強調していました。

第一次世界大戦もちょっとしたできごとが重なってひろがった。歴史家の中でもなぜ第一次大戦が起こったか統一した意見はない。今の時代に戦争なんてないよという人がいるけれども、戦争はちょっとしたことでも起きる。
このようにいわれていました。

今回の北朝鮮の攻撃には筋を通して批判してもらいたいですけれど、相手がやってきたらやり返すのが正しい判断だとしたら戦争になります。

もちろん、アメリカだってイラク、アフガンで戦争をおこなって民間人もどんどん殺しているのですから、北朝鮮側かれみれば不公平だと思えるのもしかたないかもしれません。

日本も非軍事的ながら戦争に協力してきているので、戦争はけしからんと大きなことは言える立場ではないのかもしれません。しかし、今戦争が起こる可能性がある時、この時こそそれを防ぐべきチャンスだと思います。

一触即発の状態から平和を引き出せたら、内閣の支持率も上がるかもしれません。
しかしそんなしょぼいことではなく、人の命を守るためにも戦争は回避して下さい。

2010年11月24日水曜日

北朝鮮

北朝鮮による韓国攻撃。

大きな戦争も、ちょっとした出来事がきっかけで起こる。

大きな戦争にしないこと。これが一番求められていることではないでしょうか。

それは、自分の国が卑屈になって屈するということではありません。敵には断固とした対処をするべきだという論調が高まることが心配です。

そのためには、政府自身がしっかりとした原理原則を持っていなければなりません。それがないと、逆に反政府的な反動勢力が出てきかねません。

政府は甘いこといって、静まらせようとしても逆効果です。

自らの原理原則を言行をともなって示すことで、反動的な勢力を抑えることができるのです。

2010年11月23日火曜日

GAP


今日、ダウンジャケットを買ったら、22,000円だったところ割引で13,860円だった。

会員登録をした。

2010年11月22日月曜日

修士論文


今日は大学で修士論文の指導をしてもらいました。

とにかく文章にしてごらんといわれて、持っていった文章は褒めていただきましたが、もう今の時期どんどんやるしかないといわれました。

今ごろ、どう書こうかとかいってて間に合うのでしょうか。

2010年11月21日日曜日

運動

今日は、運動をしてきました。やせるために。

これをつづけねば。

2010年11月20日土曜日


佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を』という本を読みました。
タイトルはツェランの詩からの引用です。

著者はあるとき情報を一切遮断して、読書に専念したそうです。そこで、時流に流される評論家を徹底的に批判します。

現在の流行を追いませんので、過去の歴史に基づいて議論をします。

自分が読書を専らしてきただけあって、読むということを特別なことだと考えます。
ルターやムハンマドらを例に、読むことが革命につながるという独自の理論を展開します。

同時代の流行の思想を閉ざしただけあって、他の人にはない著者独特の世界観と理論を持っていて引き込まれてしまう迫力があります。

最後に、生物種の平均寿命が400万年で、人類が誕生してから20万年なのであと380万年あるのだから人類がすぐに終わるなんて考えるのはおかしいと主張します。

大きなスケールで書かれて、力強く書かれているので視野が大きくなるような気がします。

しかし、敢えて不満をいわせてもらえるならば、これだけ同時代人の影響を排しているなら、同時代人への批判をそこまで厳しくしなくてもいいのではないかと思いました。逆に、批判が感情的に強ければ強いほど、本当は同時代人を強く意識しているのかなと思えてしまいます。本当に同時代の批評に意味がないのであれば、単に無視すればいいだけで、時間が経れば忘れ去られるはずではないのでしょうか。

この本は大変面白く、知的にも感情的にも刺激されましたが、僕の立場としては現代の「ちゃんとした」批評家は支持したいというものです。
単なる流行を追うだけの人は批判されてしかるべきだと思いますが、ちゃんと考えているひともいると思っています。もちろんどんな人も完璧ではありませんが。

同時代の批評家をすべて批判するとなると、僕とは立場は違います。

2010年11月19日金曜日

権利


一昨日、首都大学東京での、映画『哲学への権利』の上映会にいってきました。

この映画は同大学の西山雄二先生がビデオカメラを持って、パリの国際哲学コレージュという学校を取材したものです。

夕方雨の中寒くて暗い中、多摩ニュータウンの人工的な華やかなショッピング街を通っていき、大きな講堂に入っていく。この日の上映会は何か夢の中の出来事のようでした。

国際哲学コレージュというのは数年前に亡くなったフランス現代哲学を代表する哲学者ジャック・デリダが作った学校で、学位もなく、授業料もなく、教える側に報酬もないという自由な学校です。そこで、普通の人たちにも哲学を教える。うらやましいような学校です。

そこの学校の先生たちにインタビューしたものをまとめた映画です。上映がPCを使ってなされていたのにもびっくりしました。家庭用ビデオとPCがあれば、今やかなりできのいい映画が撮れてしまうのです。

内容はいかにも、フランスの哲学者らしく色々美しい言葉で哲学を語ります。きいているうちにパリの哲学者たちの雰囲気が伝わってきました。

以前パリに行ったときポンピドゥーセンターの現代美術館でレヴィ=ストロースやフーコーの本が現代美術として飾ってあるのを見てフランスにおける哲学の位置を感じたものでした。彼らにとっては、哲学も芸術のひとつなのだと思いました。

しかし、終わってから大学の先生たちの討論会があって、論理哲学を教えている先生があまりにも紋切り型の哲学観だといっているのをきいて、確かにそうだなと思いました。

しかし、それも含めて面白かったです。

2010年11月18日木曜日

2010年11月17日水曜日

箱庭


昨日カウセリングのとき箱庭があったので、やろうかどうか相談したところカウンセラーさん曰く。

自分にとっての他者、ありたくないものが出てくるかもしれない。
理解してもらえた感と違うものが出てくるかもしれない。
気がつかないところが気がついて、転ばぬ先の杖というわけでは「ない」。

「問題」を取り除くことが課題ではない。
その人のテーマ、健康な人も持っている。
現実だろうが、心の中だろうが、仕事をしないと変わっていかない。
テーマをちゃんと生きる。
テーマが出てくるのはそれを生きなきゃならないこと。苦しいことでもある。

現実はやりきれない。安心できる刺激がすくないなかでゆっくり生きていくために心理療法がある

ちゃんと転ばなきゃいけない。受け身もできないかもしれない。そこを生きた先、体験の中に何かが生まれるかわからない。第三のものが生まれる。つかめる感じ。後になって。その時には感じられない。

僕は、つらいけどその通り。治すのではなく、課題を引き受けて生きる。
でも、休みも必要では。

そうだね。

2010年11月16日火曜日

吉本隆明


今日は朝日カルチャーセンター新宿校で「吉本隆明『共同幻想論』を読みなおす」という講座の第二回にいってきました。講師は文芸評論家の高澤秀次先生です。

始めに『古事記』について細かい説明をされましたが、色々な神様がでてきて複雑すぎて僕の頭では覚えきれませんでした。
とにかく、全盛期の吉本隆明さんは、西郷信綱さんをこてんぱに批判したので、高澤先生の上の世代は西郷さんをまともに読まなかった。それに反発を覚え高澤先生は、吉本が批判した人を読んでいったそうです。

西郷さんは大嘗祭は稲作の儀式と考えていたが、吉本さんは性的な行為=対幻想を共同幻想と同致させるものと考えた。

沖縄に残っている習俗から「母制論」を展開した。

そして柳田國男。
1968年。反近代的な志向と情念があった。
東大紛争、日大紛争、明治百周年、ソ連のチェコ侵攻、パリ5月革命、三島由紀夫「楯の会」。
戦前の「近代の超克」の回帰とも考えられた。
『遠野物語』は、昔話でも民話集でもなかった。今の話、実話であった。
近代日本文学、自然主義文学、柳田の民俗学と田山花袋の私小説に分かれていく。

吉本さんは、この本で他の文献にあたってもよかったのにあえて『古事記』と『遠野物語』に絞って深化させた。これが吉本さんの真骨頂。

極右だった三島由紀夫が極左と思われた吉本の『共同幻想論』を読んで教えられたと書いている。

柳田は神隠しに遇い易い気質があった。入眠幻覚があった。

吉本は、巫女とシャーマンの違いを指摘した。巫女は共同幻想をじぶんの対幻想の対象にできる。シャーマンは自己幻想を共同幻想と同化させる。

柳田は「埋め墓」と「詣で墓」の両墓制の存在を指摘した。
吉本「農耕民を主とする村落共同体の共同幻想にとって「他界」の観念は、空間的にと時間的にと二重化される他なかった」「共同幻想の「彼岸」に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である」

2010年11月15日月曜日

神学


今日は、新宿紀伊国屋ホールでの新宿セミナー「佐藤優とキリスト教」というイベントに行ってきました。対談相手は批評家の柄谷行人さんです。

紀伊国屋ホールでのイベントは以前、東浩紀さん、北田暁大さん等のイベントを見にいって以来です。東さんはこのホールで柄谷さんの対談を見たのが思想に興味をもつ一つのきっかけだといわれていた記憶があります。そのとき社会学者の宮台真司さんがきているのを目撃しました。今回も佐藤さんが話している間に柄谷さんが来たのを目撃しました。

前半は作家の佐藤優さんのおはなしで、後半対談でした。

佐藤さんの話は最初は現在の話で、尖閣のビデオを見せた人を逮捕しない、それを世論が応援をするというのは危険だということです。

現在は1932年の5.15事件に似ている。
政治がなっていないと決起した人たちが首相を射殺した。動機は純粋で無欲であった。朝日新聞をはじめ世論が擁護したので、禁固8年、実際には4年ぐらいで出てきた。

のちの2.26事件の方がもっと悪質で官僚が官僚を使ったクーデター。昭和天皇の逆鱗に触れなければ成功していた。

今の海保を拍手する世論とそれに怯える検察、警察という図式はあぶない。

自信官僚だったので官僚の考えが皮膚感覚でわかる。
官僚は国民のことを無知蒙昧な有象無象だと思っている。
官僚になるには国家試験を通らなければならないから、自分は頭がいいと思っているが、この試験は「真理が何か?」という考えの人は合格しない。各分野の教科書を3冊暗記すれば理解してなくても合格する。愛情や思いやりを計ることはしない。
外務省で養育係をしていたときFaxをおくらなかった若手にきくと7割が「送りました」といって後で送る。自分はなぜ正直に言わないのかをしかる。

早稲田、慶応で手伝ったとき実験をしてみた。山川の詳説世界史Bの太字の年号をきくと正解率は慶応100点中4.2点、早稲田5点だった。
偏差値の高い学校へ行く理由が、親の期待に応えてとか、高校ででかい顔をできるかとかで、本当は勉強は嫌い。さらに役に立たない。だから、頭に残っていない。
官僚も10年もすれば頭に残っていない。

危機というのは一つひとつの事情をおかしいと思わないこと。

カール・バルトと危機。

啓蒙の思想は、理性を信じること。その結果、第一次大戦。第二次大戦。

ドイツのリベラルな知識人や神学者が戦争を肯定する宣言をきいて、バルトはショックを受ける。全く新しいところから始めないといけないと思い、聖書をドイツ語、ギリシア語で読み、パウロの『ローマ人への手紙』にコメントを書く。

ハルナックは自由主義神学を主張。

自然科学の発達でキリスト教の権威が危なくなる。
カトリック、ロシア正教は自然科学から絶縁した、プレモダン。
プロテスタントは反動運動。イエスに帰れ。天才神学者シュライエルマッハーは、宗教の本質は直感と感情とした。神様は心の中にある。これで近代とキリスト教は矛盾しない。

カール・バルトはそれに反して、人間の言う神はキリスト教の神とは違う。私たちが神については語れない。神が私たちに何を語ったかを問う。牧師は神について語らなければならない。不可能の可能性。
日本では西田幾多郎、滝沢克己に影響をあたえる。

若い神学者がバルトのところにくる。フリードリヒ・ゴーガルテン。不可能の可能性。時間と空間の中でものごとはおこる。近代人は疎外されている。歴史には始めと終わりがある。
バルトははじめ、彼に惚れ込んで『時の間』という雑誌を出す。

のちにドイツ的キリスト者運動にかかわりナチスを擁護する。決断主義を主張。ドイツ人や神の概念は生成するもの。あのお方(ヒトラー)についていかねば。

バルトは危険を感じ、ドイツ民族の中にイエスの精神が内在しているなどとは福音書とは何の関係もないと主張。

カール・バルトが公開書簡を送った人に、天才神学者フロマートカがいる。ナチを逃れてアメリカ、プリンストン大学神学部で教えた。

プロテスタントの大会があったとき、アメリカのダレスが反共演説をした。フロマートカはそれを批判して、共産主義と正面から向き合わなければならないと主張した。福音とは無神論者にもある。

チェコに帰る。共産主義に魂を売った赤いプロテスタントと呼ばれた。
人間とは何か。チェコのマルクス主義者と対話を重ねる。人間の顔をした社会主義というものに影響をあたえ、プラハの春がおとずれる。が、ソ連軍によってつぶされる。翌日抗議文を送る。

彼が死ぬ2日まえに弟子をよんで、「僕は今まで一度も命令をしたことはなかった。しかし、最後に命令をする。亡命をするな。同じことを発してもプラハで発するのとチューリッヒで発するのでは意味が違う。神様の摂理があるから隣人、非キリスト教徒とも仲よくしなさい」といった。


対談、柄谷行人さんと。

佐。トランスクリティーク、世界共和国へ、世界史の構造。超越的なものに対する位置づけは変わってなくても明確になってきたのでは?
交換様式の第四象限の「D」のX。

柄。そのとおり。動機のひとつは9.11。
国家とは他の国家に対してある。今までは内側からしか考えてこなかった。
国家と資本に対抗するにはネグリのような世界的連帯は分断されてしまう。
アルカイダはまさにマルチチュードなのに無視している。
イスラム過激派に感銘して禁煙している。イスラム教徒でもなければテロを支持するのでもないが。
今、対抗するには宗教だと思った。マルクス主義者は違うというかもしれないが、イスラムの中に対抗がある。

最初の社会主義は普遍宗教だった。資本、ネーション、国家に本気で対抗できるのは宗教しかない。

佐。自分は反革命。柄谷さんはブント出身。自分は社民。国家社会主義に近い。革命をとめなきゃいけないと国家側が敏感だった。

柄。ブントとは1960年代の共産主義同盟。安保が終わった次の年に解散。アナーキストだった。自分の課題はマルクスとアナーキズムをいかに結合するかだった。
マルクスの娘はプルードン派と結婚している。仲は良かった。2001年まではマルクスは本当はアナーキストだからよかったといったが、今はアナーキストだからダメだといっている。
国家を死滅させるのはそう簡単にはできない。

佐。ソ連、東欧の影響はあるか。

柄。1990年代に思った。ポストモダニズムは冷戦時代のもの。米ソの二項対立を脱構築すると言っていればよかった。ソ連が解体しないと思っていたから。
それまでは宗教を批判していればよかった。積極的なことをいう人を嘲笑する風潮があった。
『トランス〜』は立場の移動を含む。積極的なことが気になってきた。ブロッホ『希望の原理』。カウツキー『キリスト教の起源』宗教のことをいいだしたのは、その時代の社会主義が理念をなくしてしまったから。社会主義がもともと持っていた「D」。

佐。ソ連を壊す日本側だった。モスクワ大学の科学的無神論学科、実は半分は信者。現代ブルジョワ批判学科はポストモダンだった。エストニアでは、デリダ、ラカン、フーコーを教えていた。モスクワではハバーマス、ホルクハイマーを教えていた。ルカーチは危険視された。

柄。『トランス〜』は先進国のことしか考えてなかったが、ボリビアとアイルランドで読まれた。「A=互酬性」部族間の対立をトランスクリティーク的に相互の批判から新たなものをつくりだすとされた。意外だがありがたい。

佐。ボリビアは沖縄移民の共同体が残っていて、琉球語が残っている唯一の国。

柄。交換様式は『世界史〜』で全面的に書いた。カントもマルクスも必要ではない。キリスト教も社会主義もない。
数学的、構造的に「D」であればいい。

佐。固有名はどうなるのか。

柄。代入すればいい。

佐。固有名は人をゆさぶる。

柄。気をつけてやればいい。

佐。数学的なものはリアルか。

柄。普遍論争になってしまう。
モノがあることとモノの関係があることとは違う。
普遍宗教というとユダヤ教の起源にいく。その後ブッダも孔子もあらわれる。ギリシアが哲学になるのはおかしい。哲学と宗教別にあるのではない。初期自然哲学は倫理学や政治学が入っていた。ギリシアのデモクラシーはペリクレス。アテネの貧民を救うためにデロス同盟で他の国をくいものにしてきた。ペロポネス戦争で滅ぶ。
初期はイオニアの諸都市。イソノミア。アーレント「ノールール。同等支配」。支配じゃない評議会。移動ができるからできた。ペルシア戦争で滅んで、観念だけアテネでソフィストとして残った。プラトンはイオニアには自然哲学しかなかったというが倫理学、政治学があった。調べたけれど誰もイオニアを語っていない。イオニアは脱魔術化。新たな神がいないと哲学ができない。ここに「D」がある。

佐。廣松渉さんとの違いは。

柄。廣松さんは二重世界論ではないのか。関係から物象化。
『世界共和国へ』で互酬性を始めにもってきたのが間違え。こわれた後に互酬性。例として家族を出したのもよくない。家族は純粋贈与。
互酬原理、共同体間にある。共同体内は純粋贈与。

佐。鈴木宗男代議士にモースの『贈与論』見せたらよろこんでいた。

柄。贈与ではなく再分配じゃないの。そこに権力ができる。

佐。宇野経済学との関係は。

柄。宇野に対する批判と肯定は同じ。彼はアナーキスト。大杉栄に通っていた。本気だったと思う。労働力商品のことをいう。労働力商品があるところを社会主義とはいえないという。

佐。労働力商品はトートロジー。

柄。宇野は学者としての限界があったのか労働力商品を揚棄するには協同組合しかない。アナーキスト、講座派マルクス主義者は協同組合。
廣松さんはわからない。

佐。スターリン主義は見えない世界があると考える。主体思想への憧れがあるのでは。

柄。京都学派に憧れがあるのでは。交友はあったけど、影響は受けていない。貨幣が出てくるところでおわる。資本になるのかは書いてない。自分は関心があった。『資本論』の信用。

佐。第三巻。

柄。三巻から読まなければならない。
宇野は国家を省いている。
ウォーラスティンの世界システム、国家と資本を双頭としてみていた。

佐。ウォーラスティンは社会主義をサブシステムとしてみている。

柄。ウォーラスティン国家の反復説。尖閣の問題、現在は日清戦争の直前ぐらい。日清戦争の原因、韓国の内部対立。結果、台湾が成立。中国は清朝のような巨大な帝国になっている。
司馬遼太郎や龍馬伝は今の都合のいいところしかみていない。

佐。勘違いする人は柄谷神学と思うかも。

柄。20年前に明治と昭和の反復を説いた。真に受けた人がオウム。
今は戦争おこらないという人がいるが、第一次大戦もどうして戦争になったのかわからない。
予期して阻止すべき。

佐。自分は品格のある帝国主義、戦争をしない帝国主義をとなえている。
柄谷さんが無心論者で唯物主義者だから対談を申し込んだ。徹底したヒューマニストには神学者として向き合わなければならない。そこに神様との線がでてくるのでは。

柄。そうです。自分で言っちゃいけないよね。

2010年11月14日日曜日

撮影


今日は写真を撮りに、浅草に行きました。そこから合羽橋、上野、秋葉原、御茶ノ水、水道橋と歩いて、飯田橋から電車で帰りました。

帰ってからフルムを現像しました。

どうしてもリールに巻くのがうまくいかず、何枚も使えなくしてしまいました。

2010年11月13日土曜日

撮影


明日の撮影のために、ヨドバシカメラでフィルム等を買ってきました。