2009年9月30日水曜日

暗示

私のような単なる学生が意見を述べる場は、カルチャーセンターかblogぐらいのもの。
しかし、カルチャーセンターには日本を代表する思想家が講義にこられる。私はカルチャーセンターで発言し、ある高名な学者にblogのアドレスを教えたことがある。
なので、思想家の間で読まれている可能性もあると思っている。自惚れかもしれないが。
いろいろな情報に接して、これは私のことを知っているのではないか、と思うことがある。
私は、
http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/エントリー/2009/9/5_いやがらせ.html
参照
いやがらせを受けているようである。しかも、それが他の人や、団体にまで及んでいるのではないかと疑わせる場面に何度も出くわした。
私は入院中、担当して下さった精神科医の先生の助言で外に出ることを決めた。
それ以前、退院したら何を買おうと思っていたかというと、「ルームランナー」である。理由は外に出ないで暮らそうと思ったから。学校へは親に車で送ってもらって通おうと本気で思っていた。
それは、私が受けている「いやがらせ」は環境を変えられるというものだと思ったからである。だから、私が見なければ環境を変える意味がなくなるので、外を見ないで暮らそうと思った。車に乗ってる時はアイマスクをしていた。
しかし、上記のblogをお読みいただきたいが、それではテロに屈することになると言われ、外に出ることにした。出てみると案の定、住んでいる町は大幅に変えられていた。明らかに奇妙な服を来て、コントロールされているなと思わせる人に会うこともしばしばだった。
また、色々な商品のデザインが変わっていた。これは、私がデザインを勉強しているので、デザインでいやがらせをしてやれ、という犯人の圧力があった可能性があると思っている。
私の病気は「統合失調症」であるが、この病気の主な症状は「被害妄想」である。だから、読者の中には、「勝手に自分だけでそう思っているんじゃないの?」と思う方もいるだろう。しかし、それは当事者にきかないとわからないので、そういわれても反論できる根拠はないので、そう思う人がいてもしかたない。

上記のblogにも書いたが、私のために他の人が、「圧力」を加えられるのに、それでも外に出て行くなんて迷惑な話じゃないか、と思われる方もいるかもしれない。しかし、その責任は100%犯人にある。「いやがらせ」があるから、行動を変えたら「いやがらせ」という暴力が有効だということをしめしてしまうことになる。そこで、もちろん自分であろうと(現在でも毎日、飛行機が普通では考えられない頻度でうちの上空を飛んだり、上述の「変な格好の人」にかなり多く出会う(しかも、その中には面識のある人さえ含まれている)などの「いやがらせ」を受け続けながら、ほぼ無遅刻無欠席で学校に通っている)、そしてまた、これが心苦しいのだが、他人が「いやがらせ」を受けても、それに屈して行動を変えることはしないと決めた。
だから、私のために何らかの組織から「圧力」を受けた人から見れば、私は恨まれているのだろうと思っていた。

ところが、時々「これは私のことを知っているのではないか」という情報の中に、私を励ますようなニュアンスのものを見いだすことがある。これは、意外だった。他人がどんなに「いやがらせ」や「圧力」を受けようとも、行動を変えないと決めた以上、感情的には周りの人に憎まれることは覚悟していたからである。
それなのに不当な「圧力」を受ける原因である私を励ますのは何故なのか、不思議に思った。
「圧力」をかける側に対する憎しみもあるだろうし、自分たちは組織の論理で、反対はできないが、学生という自由な身分の私に頑張ってもらって敵をやっつけてくれという願いがあるのかもしれない。
それから、一人で戦っている私に同情して下さったのかもしれない。
これも、「お前の勝手な思い込みじゃないの?」と言われるかもしれないが、できるだけ客観的に見ても、そう思う。しかし、証明はできないので、「思い込み」だと思う人はそう思ってもらうしかない。

今、政権交代が起こった。私は民主党支持者なので、世論の流れが私のような考えを肯定するように変わるかもしれないが、そのとき何とか流れに反して自分の存在を示そうと、一時期「いやがらせ」がエスカレートするだろうと予測したが、そのような兆候は予想通り、見られた。
私の味方と見なされると、その人は「いやがらせ」や「圧力」を受けたりする、ということが多いことが経験上わかってきた。だから、個人的には、支持したり賛同したりするけど、政治的には完全に関係を絶とうと思っている。そして、警察や司法など本来その役割を担う人たちと連携して「いやがらせ」に対応しようと思っている。

それにもかかわらず、私がカルチャーセンターや大学などに行くと、「圧力」がかかっているだろうと思っているところ、先生方が、いろいろな知見からみて明らかに「いやがらせ」や「圧力」を強く受けているなって思わせることがしばしばある。
おそらく、ここで私と私が味方と思っている人との関係を分断するために敵も、「圧力」をかなり強めたのだろうと思っている。そういう時は、心苦しい。

「圧力」をただちに止めさせる手段を持っていないので、何ともすることが出来ないので、せめて、私はそのことで深く心を痛めているということだけは伝えておく。

一方で、私を応援しているかのような情報に接することもある。
これらは全て、明示的になされたメッセージではなく、暗示的になされたメッセージなので、事実がどうかは当人に聴いてみなければわからない。逆に、当人に聴けばはっきりわかる。
しかし、メッセージを明示すると、今度はその人が「いやがらせ」や「圧力」の対象になる危険性があるので、明示することは求めない。だから、読者の中には「それはすべてお前の妄想だろ」と思われる方がいても、しかたないと思っている。

いつか犯人が、公正な司法の場で裁かれる時がくれば、今まで言ったことが「妄想」か「本当」かが明らかになるだろう。そのために、できるだけの努力をするしかない。

ただ、私にのために不当な「いやがらせ」や「圧力」を受けた人がいるとすれば、ここで私の考えを、知らせることは意味があると思うので述べさせてもらう。

基本的には、自ら積極的に「いやがらせ」や「圧力」に加担した人を除いて、無理矢理そのような役割を担わされた人は、法的にも道義的にも責任を追及しない、というのが私の大原則である。
理由は、一つは当然、実際に不可抗力であれば責任はないからであり、もう一つはそれらのことまで責任を追及していたら肝心の「主犯」の責任追及が滞る可能性があるからである。
また私は、私に対しても、他人に対しても不当な「いやがらせ」や「圧力」をいくら与えても、そのことによって自分の信念を変えることはないということである。自分が殺されるのは言うまでもないことだが、自分の親が殺されても(もちろんそのことに対しての法的責任追及は徹底的にするが)そのことによって自分の信念を変えることはない。自分勝手だと思う人はどうぞ、私を罵倒し、嘲笑し、侮辱していただきたい。それらが、いかに大規模に行われようとも、そのことによって私の信念を変えることはない。
私が自分の信念を変える場合は、私の理論を論破する理論があった時だけで、そのときは理論を変えることはやぶさかではない。私は単に自分に固執することを目的とはしていない。
ただ、外的要因によって変えることはいっさいないということである。
私に暗にメッセージを送って下さった方が、もし本当にいるのなら以上のことを是非伝えたかったので記した。

2009年9月27日日曜日

キリスト教

私は、母方の親戚の多くがカトリック系の学校に通ってたので、カトリックの信者が多い。母も信者で、私自身も幼稚園はカトリックだったので、小さい頃から教会やミサにはよく連れていかれてた。大人になって思想を学ぶ上で、キリスト教は大きな存在だと思い、カルチャーセンターのキリスト教関係の講座に通ったが、考えてみれば教会は無料だし、母も毎週行ってるし、本物の宗教に触れられるので、日曜日にミサと「キリスト教入門講座」に行くことにしている。
本来なら親がカトリックなら幼児洗礼を受けるはずなのだが、父方はキリスト教と関係ないので、私は長男の長男なので父方にならって洗礼を受けさせなかった。だから、母方の親戚と教会に行くと、私ひとり信者じゃないので御聖体を受けることが出来ず、ひとり席で待っていて、ある種の疎外感を強く感じたものだった。
大人になって、改めてキリスト教を学ぶと「そういうことだったのか」と再発見するおもしろさがある。
ここで、入門講座の内容を書こうと思うが、他にもいろんな講座を受けて、毎週この講座も書くのもめんどうくさい。
でも、中には心に悩みを抱えているが、実際、教会に行くのはためらいのある人もいると思うので、簡潔に箇条書きで書いていこうかと思っている。また気が変わるかもしれないが。

先週は、
◯挫折とは神様の教育
◯親自身のための小言だと子供は反発する。その子のために言うのなら、後で子供はわかる。
◯1日1日できることをすればよい。
◯どうせ自分なんか、と自嘲するのは「なまけ」。
◯キリスト教は「死」の向こう側に希望があるという。

今週、
◯ヤコブは、スペインに行って信者を集めようとしたが7年間集まらなかったが、失望していたところにマリア様が現れ、柱の上で励まされた。10月12日はスペインの大きなお祝いの日。
◯(マルコ9.38-43 47-48)
「つまづかせる」岡田司教(日本のカトリックのトップ)自殺者は「私はここにいていいの?」とつまづく。
わかりあえる人がいればいい。
しかし、安易に「わかる、わかる」という人は信頼できない。
簡単には「わからない」というのが本当。
(ホセア11.8)「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。」
エフラエム、失望し神様を裏切った。
神様は、はじめ「怒り」つぎに「悲しみ」「憐れんだ」。
神様は、簡単に「わかる、わかる」とは言わない。しかし「怒った」あと「胸を焼かれる」ほど憐れんで下さる。
教会に行けば「おーよしよし」とわかってくれるものではない。
「わからないけど、私はあなたを信じる」これが、私たちを「つまづき」から立ち直らせる。
神様は、ずっと待ってて下さる。見捨てない。「お前を見捨てることができようか」
私たちはつまづいても、つまずいても「希望」を失わないで。
◯教会は、お金や地位を与えるのではなく「神様」という希望を与える。
◯神様は御自分で人間をお造りになって「よい」といわれた。人間の根源は悪いものではない。
◯私に意見をきかれたので「昔のフォークソングに『人はだれもつまづいてふりかえる』というのを聴いて、「つまづく」という言葉が、心に響きました。と言ったら、シスターは「それは神様があなたにふっと与えたのよ」といわれた。


2009年9月24日木曜日

サイト

http://web.me.com/shunichisuzuki/ss02/Welcome.html

About Me と My Albums を少し整えました。MY Albumsは About Me の下。
blogはありません。

http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Welcome.html

には、blogはあるはずです。My Albumsが何故かでない。

2009年11月現在 http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Welcome.html
にサイトがある。他にはこのblogだけ。

修正版

http://web.me.com/shunichisuzuki/ss02/Welcome.html

About Me と My Albums を少し整えました。blogはありません。


http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Welcome.html



2009年9月21日月曜日

ビデオ編集

webの作り方を勉強しているが、これからのwebは動画が重要だと思って、ビデオの講座を受けている。AVCHDという家庭用では一番高価なカメラを二台買って、三脚を買った。皆さん、ビデオの三脚っていくらくらいだと思いますか?ある程度いいのにしたいと思ったら、15万円。
さらにデータを保存するブルーレイドライバを買って、外付けHDD買うが、USBでは話にならないといわれ、eSATAというインターフェースでつなげる。ノートパソコンにつなげるにはeSATAのカードを買う必要がある。そこまでしてHDDのケースがMacに対応してなかった。そこで、払い戻しにもらいにいって、別の店でMac対応のものを買った。それが昨日。これから組み立て、ソフトのマニュアルを読んで、カメラのメーカーにもきくかもしれない。他にも読むべき本がたくさんあるし、忙しい。ちなみにこれで貯金も底をつき、出世払いということで親に借金している。

ゴーギャン

19日土曜日に「ゴーギャン展」に行ってきた。30過ぎてから画家になるなんて、われわれ中年には希望を与えてくれる。タヒチはゴーギャンの行った時点ですでにそうとう西欧化していたとあった。ゴーギャンの求めた、「野生」は彼の夢や幻想をたくした部分もあって、実際はタヒチといえども近代とは無縁ではあり得得なかったのかと、すこしさびしい気がした。
私は、大学に入り何か資格が取れればいいと思い、本当は教員資格がとりたかったが、夜間部には当時なくて、あるのが学芸員の資格だけで、しょうがないのでそれを取ろうと実習も全部とってあとはノートを提出するだけだったのだが、ノートをなくしてしまい取れなかった。
一応学芸員の勉強だけはしてきたが、じゃあ絵画を見る目は確かかと言えば、そうとも言い切れない。
例えば、全く何の情報も与えられず、1000万円の絵と1億円の絵を並べられてどっちが1億円かときかれても、多分わからない。その程度の、審美眼だが、ゴーギャンの絵は素朴な感想として、きれいだなと思った。例の「われわれはどこから来て」は、始めて見たときすごくきれいに見えた。いろいろ、細かい絵の解釈が音声ガイドにのってるが、そこまで細かく分析する必要があるのか疑問も感じた。ある程度は必要でも、この人物は何を表しているとか、本当に画家は考えて描いたのかはわからない。意味があるのかもしれない。しかし、それは何か勉強の材料にして絵をつまらなくしてしまう蛇足にもなりうるのではないかとも思う。

短い記事

見やすいように、一つのテーマに一つの記事を書くように心がけている。面倒くさい時は、一つの記事が短くなるが、読みやすいように分けて書く。

2009年9月18日金曜日

web

http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Welcome.html
と正確に入力すれば見られるはずです。
http://web.me.com/shunichisuzuki
だと見られません。
http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Welcome_2.html
となるので「_2」を消せば見られます。

報告

Appleについては、アドレスが微妙に違っていて、なおしたら表示された。一応よかったが、なぜそうなったのかは不明。googleは電話したら、◯◯の人は◯番へと言われ、進んでいったら、当社では電話によるサポートは行っておりません、といわれる。ヘルプの問い合わせは外国語。どうやって問い合わせればいいのだ。Yahoo!は電話したらわかりにくいところに、問い合わせフォームがあった。そこにメールしたら送れた。googleのパスワードを忘れた時のメールが届いたのでgoogleは使えるようになったので、内容をコピーしてとりあえずgoogleを主に書いていく。その間にAppleに問い合わせつつ。

偶然

AppleのMobile Me というサービスでブログを書いていたら、いやがらせを受けていることを書いた日からしばらくして、記事がweb上にアップできなくなった。サービスをしている会社にメールでやり取りして何度もいろいろ試しても、うまくいかない。そこで、あまり記事が更新されないと不安になる読者もいるかもしれないと思い、googleがやっているblogサービスに書いた。一方でAppleには何度も問い合わせて今日やっと少しのページはアップできたのだが。その後今すぐページにアクセスというボタン押したら、ページが見つかりませんとでる。自分で手で入れたのでないのだからアドレスの入力ミスということはあり得ないだろう。明らかにおかしい。そうしたらさらに、今まで試しにやったのだが、なぜか関係ないすでに、web上にあるページも見つかりませんとなってる。これは、どう考えても異常。何者かが手を加えた可能性高いと考えている。そして、googleの方にいったら記事を書くボタン前はあったのになくなってる。しかたないので、ログインというボタン押したらパスワードを要求されて、間違ってないはずなのに、何度やってもパスワードが違います、とでる。パスワード忘れた方はこちらへというボタン押したらメールを送りましたとでたがメールソフトで受信を何度押しても受信されない。サポートのボタン押したら、お客様を認識するためにログインして下さいと出た。これは循環論法で解決できない仕組みだから、まともな会社がやるはずはない、ここも圧力に屈したのかと同情する。そこで、まあ申し訳ないがYahoo!も圧力受けた形跡があるのでいつまで続くかと思いつつ書いているが、読んでる人はよく見ていて下さい。あるとき突然記事がなくなってるとかいうことも十分に考えられるから。ちなみにこの記事も投稿するボタンがわからなくて新規投稿というボタン押したら全部消えてしまってまた書き直したもの。下の小さな決定ボタンを押すらしい。この紛らわしさもわざとらしさを感じてしまう。まあ、鳩山政権ができて世の中が変わるのに危機感を抱いている右寄りの人たちもいるだろうから、私はここでこの政権が脅しに決して屈しないという態度を示すことが大事だと思っているので逆にいやがらせしている奴らは焦って何としても自分たちは怖いんだという感情を与えるために一時的にいやがらせはきつくなるだろうと、はっきりblogでも予測してたことだから、別に驚きはしないが、そのコンピュータを直すためだけにどれだけ時間と手間をとられたか。そいつらは、脅かしてもいうこときかないと、今度は、しょうがなく待たせるようなことをやってくる。卑近な例で言えばトイレがふさがっていてずっと待たせるとか。そうしたからどうなるもんでもないんだが、少しでも嫌な印象を残しておけば黙るとでも思っているのかね?今日も、飛行機やヘリコプターがうちの上空をなんども飛んでて大きな音立ててた。それで恐がるとでも思っているのかもしれない。笑わないで下さいね、マンガ的いやがらせでまさかそんなマンガチックないやがらせ本当にやる奴いるのかと思うでしょうが、実際にあった話です。証拠を求められる時のためにメモに時間を書いておいたし、ビデオも撮ろうと思ってベランダに出たが、なかなか撮れないんだけど、少しは写った。 周りの人も、明らかに圧力かかって操られてるな、という人は普通に考える以上に多い。その人たちを見てると、なにかすごく恐がっている感じがする。おそらく恐がっている人は二つのことで恐がっているのだと思う。一つは自分が法を犯してしまったのだから罰せられる恐怖。もう一つが本当のことを暴露したら例の奴らに報復をされるんじゃないかという恐怖。 だから、私はこのような状態から犯人逮捕、公正な裁判というふうにするためには、いろいろ工夫しなければならないと思う。先ほどいったように、脅されている人の中にはすごく何かに怯えてるような人もいるので、まず彼らから情報や証言をもらうためには、先ほどの二つの恐怖を取り除く必要がある。そうでないと、本当は彼ら自身被害者なのに本当のことがいえないので。まず、脅されてやった人は、積極的に協力した人を除いて、基本的に罪を問わない。このことを十分わかってもらえる環境づくりが必要だと思う。そして、全国30万の警察が全力であなたを守り、報復はさせない、という態度を示すこと。ただし、現在は警察も圧力に屈してる人がいるので、そういう人間をあぶり出して、警察の大掃除をする必要がある。他の公も私も団体は、圧力かけられているところかなり、あるのでこの大掃除は意外と手間がかかるものと覚悟している。政治家や官僚のお偉方の中にさえ、これは、影響受けてるなと思わせる人もいるし、それなりの、手間と時間がかかるだろう。しかし、警察や公の機関が正常化すれば脅されたら警察呼べばいいだけなので、後は楽になる可能性は高い。それまでが大変。もちろん弁護士にも圧力かけてるだろうからいい弁護士を捜すのは難しいが、この中でも私は屈しないという弁護士がいれば、たのもしい、いい弁護士の可能性高いので、いい試金石かもしれない。まあ、この記事のタイトルは「偶然」だけど、ここまで読まれて、あなたは、このネットサービス故障は偶然だと思われますか?

2009年9月17日木曜日

新政権

やることがいっぱいあって、blog書く時間もなくて、「ウェーバーとマルクス」「エヴァ」などの講座を受けたので書こうかと思ったが、「エヴァ」と書くとなるととてつもなく長い文章になってしまう。
政治についてもいろいろ書こうと思っているが、後回しになってしまう。
普段テレビを見ないのだが、鳩山首相が衆議院で指名されたところと、夜の閣僚の記者会見はみた。
政権スタートなのに何も書かないと、どうしたんだと思われる読者もいるかもしれないので簡単にだけいうが、組閣は、まあ中々適材適所でバランスもいいし、一体性もある程度保てるだろうが、本当に機能するのかは、やってみて実績を見てからでないと何ともいえないので、今はあまり細かいことを言ってもしょうがないと思う。一応、今回の組閣には私は賛成である。
その後を見守ってから、意見を随時言っていきたいと思う。

2009年9月16日水曜日

神話

今日の中沢先生の「芸術人類学」は、後期にやることの概論。
後期の予定は
1、インセスト
2、カニバリズム
3、エロティシズム
となる。
思想を学んだ人なら、耳にタコができるぐらいだろうが、知らない人もいるので言っておくと、インセストとは近親相姦のこと。
人間と動物とを分ける原点にインセストは存在する。つまり、動物は近親者とも性交を行うが、人間は「社会」や「文化」と呼ばれるものによって、それを禁止している。人間の作る、家族、地域、国家、社会は本来は性的なものなのにそれを禁止して成り立っている。
例えば天皇家は古代にはインセストがあったようだ。また、比較的近い親戚同士で結婚する。
ヨーロッパでは遠くの王室からお嫁さんはよぶが、実は皆、ハプスブルグ家。
日本の皇室も、藤原氏との関係が濃い。
つまり、人間は文化的にはインセストを禁止しているが、実は人間の根源的欲求でもある。
アフリカでは王は妹と結婚することがしばしばある。
普通の人がインセストをすると日食が起こり日が隠れてしまうと考えられている。
源氏物語でも根底にはインセストがある。
また、各地の道祖神はインセストした兄妹の悲劇を祀ったもの。
さらに、カニバリズム(食人)についての話もあったが、それはまた今後の授業で触れることになるだろう。
まず、先生の考えでは、人間の無意識にはインセストやカニバリズムの欲求があるがそれを禁止する掟がある。
でもそれを破るのが「芸術」だという。
そして、その無意識の世界を解明するのには従来の社会学ではできない。なぜなら、社会学はコミュニケーションを研究する。その前提は人間は合理的であるということだ。しかし、人間にはそのような知では理解できない不合理な面がある。それを説明するのに必要なのが「神話」だという。ご承知のようにフロイトは、神話の中でも最も根源的な神話としてオイディプス神話を選んだ。
ここで、私は少し悩んだ。
その前に少しだけ面白い話だと思ったことを書く。オイディプスとは腫れた足という意味らしいが(それとも腫れたもの一般をさすのかもしれない)、とにかくオイディプスは書き手によっていろいろ理由は違うが、足に腫れ物があって、そう名づけられた。つまり、びっこである。びっこというのは昔は吃音者と同じだと考えられていた。吃音者とは何かというと、言葉とはそもそも、発するときには嘘になってしまうという性質があると先生はいう。そして、吃音者は何か言おうとすると、大地からの力でそれを押さえ込もうとしてしまう。つまり、嘘がつけない人だと言う。嘘をつくことを押さえ込まれた吃音者は詩人や文学者に向いているという。これが、面白いと思ったこと。
それとは、全然別に私が悩んだ二つのことを以下に記す。
一つは、ちょうど今、評論家、民俗学者、マンガ原作者の大塚英志さんの「物語論で読む 村上春樹と宮崎駿」を読んでいた。途中までなので結論はわからないが、彼は神話学者ジョセフ・キャンベルとその影響を受けたジョージ・ルーカス(1作目は監督2、3は製作総指揮4〜6は監督)の「スター・ウォーズ」シリーズと比較して、村上、宮崎を論じている。
「スター・ウォーズ」はキャンベルの「千の顔をもつ英雄」をベースにして書かれている
「千の顔をもつ男」とは、私は読んだことはないが、以前教育テレビでキャンベルの特集をやっていて、そこで知ったのだが、要約すれば世界中のあらゆる神話を分析すれば一つの神話にたどりつく。あまたある神話は、そのバリエーションに過ぎない。原型のような神話があってそれがいろいろな顔になって現れるというもの。
中沢先生はそれをエディプス神話として、キャンベルは英雄神話として、その説明をしている。エディプス神話も英雄神話の一つと考えれば矛盾しないのだが、その論調が正反対なのだ。表現や解釈に誤りがあるかもしれないが、私の読んだところ大塚さんは、「スター・ウォーズ」を物語の構造を持っているがゆえに、神話になってしまう。その、安易さを否定的に捉えているのである。例えば、「作る会」や「イラク戦争」のように簡単に人々が「物語」に絡めとられていくことを、物語論的解釈を通じて批判している。
一方、中沢先生は「神話」を近代の知が見損なったものを見るために必要な知として肯定的に捉えているのだ。モノガタリのモノは「もののけ姫」のモノで、モノに語らせるのが物語りであるというのだ。両方なるほどと思わせるが、真っ向から対立しているので、どう考えるべきか迷ってしまう。中沢先生は、宗教とかオカルト的なものとかに前々抵抗なく入っていける人だと感じた。人によっては敬遠する分野にも、平気な顔で入っていく。声高に近代批判をするわけでもないが、非近代にも近づく事には何のためらいもない感じがする。だから、中沢先生のいっていることは結構オーソドックスな近代批判でもある。
それに対し、大塚さんは近代人、少なくとも近代を肯定する人なのだ。だから、簡単に神話から得られる物語りにはまっていくことに、大きな抵抗感がある。どっちが正しいかというのは難しいが、とにかく神話は近代にとって危険性を孕んでいるということは両者とも認めるだろう。私自身はどうかというと、現実には近代を否定しては生きていけないだろうと思うが、その一方抑圧された反近代的思想も大事だとも思う。私は「芸術」の学士なので、一応芸術家の一人として言えば、芸術的価値というのは社会とは関係なく「必要」であり「価値がある」と思っている。しかし、だからといって前近代に戻るかときかれたら、それはできないと答えるだろう。だから、社会的には近代を消極的にせよ肯定するが、そこで失われた物の「価値」も大事にしていきたいと思う。ちょっと、どっちつかずで、ずるいようだが考えればこう答えるしかない。
私は入門書レベルの知識で実際レヴィ・ストロースの本を読んだことはないが、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」という本はこのような一種の諦念の感情を含んでいるのではないか。そもそも構造主義というのは、文化人類学の研究の蓄積を使って、近代的「主体」を相対化した。それを、どうとるか?中沢先生はそれは、近代が失った大事な物を再発見させてくれたものというかんじの、かなり肯定的に捉えてる気がする。一方では、構造主義は人間主義というロマンを打ち砕いた相対主義の極北であり、ニヒリズムにおちいる人間も生み出した、と否定的な人もいる。それらは、両方とも事実であると思う。読み手がどちらを重視するかによっても違うだろう。しかし、近代的知を超える物を目指すのは芸術家には大事なだけでなく必要だが、社会人としては、その負の側面も見逃してはいけないと思う。
次に、社会学批判だが、私が最も影響を受けた学者は社会学者の宮台真司だが、この中沢先生の言葉を聞いて、宮台さんなら何と答えるか考えてみた。宮台氏は「社会学とは人間関係の中の非自然的な部分を研究するもの」というようなことをいってた(完全に正確には覚えてないので間違ってたらごめんなさい)。
考えうる反論の一つは、もともと人為的なことを扱うのが社会学あるいはそれを含む社会科学なのだから当然であり、社会学のできる範囲を超えたものだから扱えなくて当然。
あるいは、パーソンズまでは合理的人間像を扱ったが、ルーマンはその不可能性を示した。
あるいは、全体性への欲求は、必然だが有限の人間には不可能。
つまり、宮台氏は「サイファ 覚醒せよ」という著書の中でも言っている通り、非合理なものの重要性は認識しているのだが、それを彼の言葉でいうと「全体性」となるのだろうが、やはり、宮台氏も大塚氏もはっきり自らを近代主義者だと規定しているので、合理的な手続きによて近づく事を目指してるという感じだ。しかし、最近に近くなると、「世界はもともとデタラメで、そのデタラメさに開かれることが大事だ」というニュアンスに変わってきている。つまり、非合理な部分に価値の重心を移してきたような面も見られる。
ただ、中沢先生のいう非合理というのは、いっきに「全体性」を獲得するというよりも、文化や社会によって抑圧されたものを、もう一度取り戻そうという感じである。
例えていえば、社会という一つの枠があって、その出入り口のところで宮台さんは出るべきか、出ないべきか、あるいはどうやって出るべきか、どうしたら出られるのかと考えを巡らせているのに対して、中沢先生は、あっさり出て行ってまた戻ってきてを自由にやっている感じがする。そして、皆にどうして出ないの?出たら楽しいことがいっぱいあるのに、とさそっている感じがする。しかし、忘れてはいけないのはその外の世界は危険な場所でもあるということだ。例えば、新しい宗教団体が犯罪を犯してしまって、社会に危害を加えることもある。かつて中沢先生自身、後に犯罪を犯した宗教を肯定していたとして、宮台氏をはじめ多くの批判を浴びた。(その宮台氏も、宗教に代わりうるものとして例示した「女子高生的生き方」が、後になって、彼女たちも傷ついていたということを認め、自分の現状認識の誤りを認めることになるのだから、一方的にどちらが正しいとはいえないが)
結局、社会にとって不合理なものは、抑圧されるが、実は大きな価値がある。しかし、なぜ抑圧されたのかといえば、危険だからであって、「非合理なもの」は常にこの両義性の元にあるので議論され続け、肯定と否定をくりかえし与えられるのだろう。

文体

以前にも書いたかもしれないが、私は小説が読めない。それなのに文学の授業に出ている。先生は私(鈴木)には、「文体」がないという。
確かに、私の小説は簡潔な言葉で書かれている。それは、いわゆる「文学」のもってまわった、かっこうつけた文章が嫌いだからである。自分で書くなら、簡潔に余計な修飾のない文章を書こうと思っていた。それが、私の「文体」だ、とは認めてくれないのか。
しかし、たくさん小説を読んだ上で、それをいうなら説得力もあるが、恥ずかしながら小説は、ほとんど読んでいない。読めない。生涯で読んだ小説は50冊にも満たないと思う。
そこで、とりあえず読むことから始めよう、と思った。
先生が以前、多くの作家が文体を褒めてたのが誰だと思う、ときき、それは石川淳だといった。そこで、石川淳の短編をアマゾンの古本屋で買って読んだが。はっきりいって、私は嫌いだ。なんか、気の弱い人なんだろうなという感じがする。それをごまかすために、一見きれいな文章をならべるが、白黒つけるのをためらっているのをごまかすために美辞麗句を並べている気がする。いいたいことがあるなら、もっとはっきり言えばいいし、謙虚にしたいなら、心から謙虚な表現にすればいいのに、強気なこといいそうになると、いいわけをうまくきれいな表現でごまかして、責任を回避しているように思えた。(ファンの方ごめんなさい)別に石川個人を攻撃するつもりはないが、自分のはっきりしない部分をもってまわった言い回しでなんとかまとめ、自分の立場も守るというのは好感が持てない。
私の頭の悪さのせいもあるが、一冊読んだが、ストーリーが理解できない。いろいろな人の名が出てくるが、だれがだれだかわからなくなってしまう。別に石川の小説のことだけをいっているのではない。小説一般がそうなのだ。
私が読む本は、哲学や心理学の入門書レベルで、カントの「純粋理性批判」、ヘーゲルの「精神現象学」、ハイデガーの「存在と時間」、をカルチャーセンターで教科書として買えといわれて買ったが、一行も理解できなかった。
評論も、宮台真司、東浩紀、大塚英志などマンガやアニメのことを論じる人のは読めるが、柄谷行人、一般向けでない吉本隆明などは理解できない。
単なるバカじゃないかといわれるかもしれないが、そうかもしれない。とにかく善かれ悪しかれそうなのである。
先生-芥川賞作家の青野聰、に「小説が読めないんですけど」というと「小説が読めないというのは問題ですね。それは、文章を介して、人と繋がるということを拒絶しているんじゃないですか」といわれる。たしかに、そういう面はある。例え人と違った文体で書くにしても、他の人を読んでないと、反骨にもならない。そして、読もうと思ったのに読めない。あたまの中でこんがらがってしまう。しかし、諦めてるわけではない。そもそも、私が多摩美に入ったのもデザインがうまいからではなく、どうしてもうまいデザインができない。うまいデザインとは何か知りたいと思って入った。4年間学んでよいデザインと悪いデザインの違いを区別することができるようにまでにはなった。その間、社会人入試で入ったので、周りは皆、若くて才能豊かな美大生の中で30過ぎたおっさんがへたくそなデザインしかできずに辛い思いもたくさんしてきたが、しかし進歩はあった。だから、小説も読まないくせに文学の授業をなぜとったかというと、ここで文学を学べる、ここで(たとえ苦労しても)文学の世界を知ることができれば、世界が広がるかもしれない、と思ったからである。だから、裸のまま突っ込んだのだが、最初は自分には隠れた才能があったりして、と思ったが、実際には褒められたこともあるが、「文体がない」といつもいわれる。本が読めないと、いつまでたってもあの程度の小説しか書けないよ、ともいわれた。
かつて黒澤明と手塚治虫が若い人の質問に答えて全く同じことを言っていた。
「うまくなりたければ、いい本をたくさん読んで、いい映画をたくさん見て、いい舞台をたくさん見なさい」と。
しかし、本当に他人の小説を読むのは苦痛なのだ。なぜだか自分でもよくわからない。
「安部公房のような無機質な文もだめ?」ときかれたが、ダメなのだ。
先生の話を聞いていると、いい文とは、余計なものをそぎ落としていって、必要最小限の言葉で相手にわからせるものだということが分かってきた。そうすると、私の考えてきたことともそんなに違わない。
「批評なら、読むんですけど」というと「君の感覚にはその方が向いているのかもしれない」といわれ「でも、批評家は小説たくさん読むよ」ともいわれた。
なぜ読めないんだろう。私と同じ悩みを持っている人もいるのかな。なにかアドバイスがあればぜひコメントに入れておいて欲しいぐらいだ。
しかし、先生も「僕も読めない、小説ってのはあるよ」といわれ「文体のしっかりしてない小説は読めないね」といわれた。私は「ある文芸評論家が、むかし吉川英治をワクワクして読んだが、大人になったら読めなくなった。といってました」というと「僕もそう、子供のころはよろこんで読んでたけど、今は読めない」といわれた。私は「小説を読んでいると、じゃあいったいテーマは何なんだ、と思ってしまうんですよ」といったら「それは小説の読み方じゃないよ」といわれた。
どうしても、その作品の深いところにテーマを探してしまって、枝葉末節のところはじゃまに感じてしまう。「その言葉の機微がいいんじゃないか、それを味わうのが小説だ」という人もいるかもしれない。あるいは「だったら無理して小説書こうとしなくてもいいんじゃない」というひともいるかもしれない。
でも、小説というのも一つの表現手段であって、表現したいという欲求を、私は強く持っているので小説も書けるようになりたい。贅沢な話かもしれないが。
子供のころの夢はマンガ家、で中学高校では映画監督になりたいと思っていた。大学時代にはテレビドラマを作る、脚本家兼ディレクターに成りたいと思っていた。
だから、ずっと物語を表現したいという欲求は持ち続けているのだが、今までの夢と小説とは何が違うかといえば、以前のものは全て、目で見える絵や映像を使ったものだが、小説は絵は使えず、言葉で表現しなければいけない。そこが、今まで見てきたメディアとの違いで、とまどっているのかもしれない。だから慣れてない、だから読めないのかもしれない。慣れてくれば読めるようになるのかもしれない。だいたい、文学の好きな人は子供のころから本を読みまくっているのだから、ほとんど本を読まない私がそういう人たちと一緒に小説を書くこと自体おこがましいいのかもしれない。
もう一つ考えたのは、それだけ小説を読み慣れていないのだから、あまり難しいのから入らずに、もっと読みやすい童話とかから入るのも一つの手かな、とも思った。あるいは、難しくても自分の興味があるものから入っていくとか。
とにかく、せっかく文学の道にも一歩足を踏み入れたのだから、このまま「君には向かないね」といわれて終わりにしたくはない。

2009年9月14日月曜日

小沢一郎

私は、小選挙区には反対だった。小選挙区では少数政党が議席を獲得する可能性が低く、少数者の意見が、政治に反映されにくいと思ったからである。
しかし、中選挙区の問題もある。一つの政党に複数の候補が議席を得るので、反対か賛成かの民意が分かりにくい。政党の中で競っているとどちらに入れていいか分からず、結局、個人的なコネや利益で投票されやすくなってしまう。政党の理念なんてお飾りのようなもので、個人の中傷合戦になってしまうし、支持率が極端に変わらない限り与野党の政権交代は起こりにくい。
比例代表も一長一短で、小党乱立で政界の混乱が続くこともあるし、政党を選ぶので政治家を選べない、選べる制度も可能だが現在の我が国の比例は党が順位を付ける(衆議院では惜敗率で決まるが)。また、選挙区も広いため全てを回ることが難しく、全国的知名度が高いからという理由で、TVに良くでくるタレントやスポーツ選手を擁立したりしてしまう党もある。
現在は、衆参ともに選挙区制と比例制を両方含む。しかし小選挙区は衆議院だけだ。現在の衆議院のような並立制は、理念の異なる制度を接ぎ木したものなので、矛盾が多く含まれるのではないかと思い、現在の制度に、導入時には反対だった。しかし、回を重ねるうちにだんだんなじんできて、小選挙区で破れたら全く自分の意見を国会にしめせないよりも、比例の復活もいいのかなと思い始めてきた。それから、小選挙区では大きく差がつくというのは郵政選挙で証明されたが、今回は、その利点である「選挙による政権交代」しかも、利害よりも政策で選挙が争われたのはよい面だと思う。この為にこそ、選挙制度を変えたのだから。だから、自民党の方々も、落ち込まずに、前回の民主党も同じ思いをして、その上でこれだけの議席を得たのだから自民党が本当に国民のための政党になれば、次の逆転だっていくらでもありうることを思い良き野党として国のために頑張ってもらいたい。
民主党も、気を引き締めるのはあたりまえだが、それに加えて、よく勉強して官僚と戦って欲しい。ただ誤解しないで欲しいのは、官僚とケンカしろという意味ではないということ。官僚を納得させ、信頼させるだけの力量を、そしてビジョンを持って欲しいという意味だ。私は日本の官僚はそんなに悪い人はいないと思っている。「官僚主義」批判と「官僚」批判とを混同する人がいるが、私が言っているのは「官僚主義」批判であって、「官僚」批判ではない。政治家が利益誘導をして予算を決めたり、党の年功序列や論功行賞で人事を行い、人気取りのために不合理な政策を出してくるのでしかたなく官僚が、自分たちがリードしなければ、と思うのが問題なのだ。従って、その責任は、官僚のおせっかいのしすぎもあるけれども、政治家、そしてそのような政治家を選んだ我々有権者にある事を自覚すべきだ。
私は、本当によい政治が行われれば、官僚も政治家に協力する気になっていくと信じている。
新人議員さん等は、はじめは民主党の言ってることを主張していて官僚と戦っても、言い負かされ、自分の無知を知り、よくよく考えてみると官僚の言ってることの方が正しくて、政治家はその場の人気取りで無責任な政策を言ってきたのではないか、という思いにかられる時がくることがあるかもしれない。でも、そこで国民との約束なんて「大した問題じゃない」と開き直ったら、民主主義は死ぬ。民主主義は必ずしも正しい結果を得られないかもしれないけど、みんなの意見を聞いて政策を実行する制度である。その上で政治家は政治家としてできる最善を尽くすしかない。
以前blogで

http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/エントリー/2009/8/16_鳩山由紀夫_1.html

民主党に、国民に甘いことばかり言うと、政権をとったときに、財政は赤字、景気は回復しない、それなのに税金は上げられない、国債は発行できない、と苦しい立場に追い込まれるので、財源のことは選挙のときに明言しといた方がいいですよと、忠告する文を書いた。しかし、民主党の考えは、予算をゼロから組み替える。優先順位の高いものから使っていく。というものだった。そうしたら、それをする「国家戦略局」に期待するしかない。これが本当に役割を果たしたら、すごいことだ。
しかし、期待と不安が両方る。期待は、担当に菅代表代行をあてたこと。菅さんは、薬害エイズ問題以前から、自民党批判よりも官僚支配の弊害を指摘し続けてきた。そして、厚生大臣のとき実際に、消えたファイルを3日で見つけ出し。薬害エイズ問題で国の責任を認めた。だから、名前だけ大臣と呼ばれ喜んでいる人とは違って、実際に行動で示してくれる人だと思っている。しかし、国の戦略をゼロから変えるのは並大抵のことではないと思う。そのためには鳩山次期首相はもちろん、党全体でバックアップしなければならないと思う。一方で党の幹事長には小沢代表代行をあてたが、選挙を戦う上では最善の人選だと思う。小沢さんは、豪腕で選挙に強くて頼もしいのだが、かつては、細川政権のとき、強引すぎて社会党、さきがけを排除し、結局は反小沢の自社さ村山政権を作ってしまって、自民党にまた与党の座を受け渡してしまった。
だから、小沢氏を批判する声も多い。中には単なる誹謗中傷もあるが、民主党だって自民党の悪口をさんざん言ってきたのだから、おあいこかもしれないが。
政権をとれば、感情的な反発を受けるのを覚悟すべきだとblogに書きいた。
http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/エントリー/2009/8/31_麻生首相.html

今は、小沢さんと鳩山さんの二重支配じゃないかなどと批判する人もいる。確かに、細川政権のとき幹事長書記長会議が強引にリードして、武村、村山ラインと対立するということがあった。だから、今度も鳩山首相が、小沢さんに気を使って、菅さんの戦略局が形骸化する恐れがあるという指摘もあって当然だと思う。
しかし、小沢さんはその間、与野党で党首としても働き、影で操るのではなく、表に出てきた。また、民主党の党首のになったときに「皆に変われと言ってきたけど、私自身も変わらなければならない」とおっしゃっていた。上記のように、悪口を言う人はいるかもしれないけれど、単なる中傷は気にする必要はないけれども、建設的な批判には、行動でもって答えていただきたい。もちろん、鳩山代表は総理として、政策の一元化のために決して、小沢幹事長に偏らず党をまとめ、菅代表代行は、誰が見ても骨抜きとは思えない、革命的な官から政、いや「民」への政治決定権の移動をおこす「戦略局」にしていかなければいけない。小沢氏も、分裂ではなく、協力体の党を作る幹事長になってもらいたい。いや、ならなければならないと思う。
現在の政権交代はある意味、小沢さんがこだわった、そして自民党を飛び出してまで、激しい批判の中作り上げた「小選挙区制」の賜物だ。あの時の強引さは、私は批判的だったが、しかし私は、小沢バッシングが最高潮にたっした時でも
「私は、小沢さんの政策には反対だ。好きか嫌いかときかれたら、嫌いだ。しかし、彼は私と立場は違っても自分の立場をしっかりと本にして示した。どんな批判があっても自分の意見を表明した。それは、正当に評価すべきだ。それを、立場が違うからといって誹謗中傷するのはマスコミの方が間違っている。もし、反対するなら自分の立場をはっきり示して同じ土俵で政策論争をするべきだ。それを、単なるバッシングでやっつけようというのはよくない」
と、はっきり言っていた。

とにかく、ご祝儀相場が終われば、下品な誹謗中傷から、理論的な批判まで必ず批判がふりかかる。それは、上述の記事で口を極めて言ってきたことだ。それに答える、唯一にして、最高の方法とは「実際によい政治を行う」しかない。

「団結すれば、我々にできないことはほとんどない。分裂すれば、われわれにできることはほとんどない」J.F.Kennedy

2009年9月13日日曜日

今日は、朝日カルチャーの写真の授業があったのをすっかり忘れて行きそびれてしまった。最近何回か朝日カルチャーを休んでいるので、どうしたんだろう思われるかもしれないので一応ここに書いておく。
今日は、いつものように教会のミサに行き、次にキリスト教入門講座にでた。そのときの話に感動したためか、安心したためかうたた寝してしまう。起きて、なにげなくiPhoneを見たら、今日写真の教室だった。せっかくiPhoneにしたのでスケジュールもiPhoneに入れてあったが、iPhoneは一ヶ月のカレンダーだと、一日のスケジュールを二つまでしか表示できない。だから、見落としたのだが、紙の手帳とどちらが便利か?一長一短というのが現状だろう。

今日のミサ、朗読

イザヤの予言(イザヤ50)

主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬(ほお)をまかせた。
顔を隠さずに、嘲り(あざけり)と唾(つば)を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くにいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか、われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか、わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めよう。

今日のキリスト教入門
今日のテーマは「罪」
(マルコ8)
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始めた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』
 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
 
 群衆とは、私たちのこと。十字架を背負いたくないのはあたりまえの自然な感情です。

(ルカ18)
「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯すものでなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 ファリサイ派の人は、正しいことをしているんだけど一つ悪いとことがあります。それは、「区別する」ことです。自分は正しい、律法を守っているから。でも、守れない人の気持ちを分かろうとしない。
当時のパレスチナはローマ帝国の植民地で、ローマに治める税を取りに来る徴税人は嫌われていました。でもイエスはその人たちこそ救われるとおっしゃった。
ファリサイ派は、正しい者とそうでない者を分け、自分は正しいと思っている。それが間違えです。
人間はいつも、自分が正しい、他人は間違っていると思ってしまう。それは、人間の「クセ」なんです。相手がどうしてそうしたかを考えない。それは「エゴイズム」からきている。でも、それでいいんです。「クセ」は簡単には捨てられないんです。
「自分の十字架」を背負って、ということは悪い「クセ」も背負って生きて行くことなんです。

オノ・ヨーコさんが言ってた。「自分の好きな人に、『わたしはあなたを愛してます。わたしはあなたが大好きです』と言って自分を大事にして、自分の生活をして行ってください」
大きなものを目指したって、できないのだから。

十字架(悪いクセ)を背負って生きて行く。そうすれば、他人を責めない。

十字架には関係を回復する力があります。
十字架にかかったイエズス様は、皆に捨てられた。神の子と賞賛されながら群衆は手のひらを返したように、磔にしろと叫んだ。
死ぬ間際に「父よ父よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と全てに捨てられ、人間の関係も絶たれ、神との関係も断たれた。
その中でイエスは「この人たちをお赦しください。何をしているのか分からないのです」と自らを迫害する人の赦しを請うた。
そして死ぬ前に「父よわたしの霊をあなたの御手に委ねます」といって死んでいった。神様とのつながりをしっかりと持ち続けていることを証明した。
そして、神様とつながっていることを示してくださった。
ミサとは、身体をパンとして残してくださったイエスのこの出来事の再現なんです。

一方で人は、いい心も持っている。
あるとき古い洗濯機を捨てようとしたお父さんが、息子に「これで、ずいぶんお前のおむつを洗ったんだぞ」といった、そのとき息子ははじめて、その古い洗濯機を愛おしくなり、最後に「ありがとう」と言ったそうです。
神様は私たちが両方の面を持っているのをご存知です。その上で私たちを「わが子よ」と言ってくださすんです。
神様の本当の心を曲げてしまうこと、それが「罪」です。
神様はわたしたち、一人一人を「わが子よ」と言って下さる。でも、目に見えない。
そこで目に見える一人子イエスを、私たちにお示しになった。

人と人、人と神様のつながりを示してくださった。
でも私たちは、神様の「わが子よ」という声よりも、「まやかしの声」に惑わされてしまう。
しかしそれをも気づかせて下さるのが神様です。わたしたちは神様の赦しを得てはじめて、本当の赦しを知るんです。
「悪いクセ」という十字架があってもいいんです。

イエスは十字架において本当の愛を、人と人、人と神様とのつながりを、そして赦しを示して下さった。その神との和解を「福音」というんです。

最後にシスターは、敬老の日がちかいけどわたしは来年で80歳になります。見た目は、まだ若々しい。わたし(鈴木)に「あなたは皆勤賞ね」と褒めて下さった。


2009年9月12日土曜日

闘争

この前の、木曜日に市町村がやっている、人権に関する相談に行った。女性の弁護士の人と他に二人の女性が話を聞いてくれた。いやがらせとしか思えないことが続いていることをうったえた。警察はやはり、証拠がないと動けないようだ。だから、できるだけ、確たる証拠を見つけるようにしようと思う。今回の収穫は、二つの情報をきけたということだ。一つは「警察は法的にいうとどういう場合捜査をしてくれるんですか」というと「基本的には犯罪があれば捜査することになっています」といわれた。ゆえに、いやがらせが犯罪性があることを証明できれば、嫌でも捜査させることが出来るということ。もう、一つは被疑者不詳で裁判をおこすことが出来るということだ。すると、再来年までに裁判に持ち込むという目標は実現される可能性が高くなってきた。裁判を先ずおこすことによって、証人に尋問すれば、もし嘘をついたら罪になるので、真実を言わざるを得なくなる。そうして、犯人の手がかりや証拠、証言が得られれば、犯人の逮捕も十分に可能だと思う。もちろん、警察、弁護士と良く相談して、最も有効な方法をとるが。
それから、私の現時点での考えの基本は、無理矢理やらされた人の責任を問わないということ。実際、脅迫されてやったとしたら不可抗力だから責任は問えない。また、そういう気の弱い人たちは、自分が罰せられるんじゃないかとおびえて、また報復されるんじゃないかとおびえて、被害者なのに真実を隠す傾向があるので、彼らから情報を得るためにも、(積極的にいやがらせに協力した人を除く)彼らを、法的にも守り、身体的にも社会的にも守る体制をつくってから証言をしてもらうようにしようと思っている。そして、命令を下したものは、厳正に処分するようにしようと思う。
もう一つは、上から順番に証言してもらうようにしていくことだ。上司がしていたことを部下が暴露することはできないだろう。ですから、先ずは国権の最高機関である国会。議員さんたちに、与野党を問わずに言いにくいだろうが、このような脅迫があったという証言をしてもらう。そして、司法、行政のトップにも、国、自治体両方。そのとき、彼らは(積極的に参加した者は除く)被害者なのだから決して法的、道義的責任を問わないということを鮮明にして、彼らがいいやすい環境を整えることに力を尽くしていこうと思ってる。
どんな業界でもリーダーが非を認めたら、部下も同調する者なので。くれぐれも、彼らに被害がでないように環境整備をして行こうと思う。
さらに、私の行動に自主的に賛同してくれる仲間を増やしていこうと思う。メディアの人たちにもこのことを言っても怖くないという環境をつくり、私たちの行動をしっかり国民に知らせてもらうようにしていきたい。

2009年9月10日木曜日

アドレス

以前のブログが壊れて、更新できないのでこのブログを使っている。
何人かにアドレスを教えているが、「何かたすけてくれ」とか「手伝ってくれ」とか言う意味は全くない。ただ情報として伝えているだけで、私の政治活動は私のみの責任においてやる。
手助けが必要な場合は、表から正式に依頼する。
ですから、ホームページアドレスを教えるということは、何か政治的なことに巻き込まれるんじゃないかと心配する必要は全くない。

2009年9月9日水曜日

名誉

もし、私に対して「お前が頑固だから俺たちは迷惑してるんだ。どうしてくれるんだ」という人は http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/エントリー/2009/9/5_いやがらせ.html の記事を読んでもらいたい。その上で、私を憎むなら、どうぞ無視するなり、陰口を叩くなり、つばを吐きかけるなりして下さい。それらは、私にとっては屈辱ではなく名誉だからです。なぜなら「これだけ叩かれたのに頑張った」という証明になるからです。また、希望でもあります。迫害され苦しみ誰も気持ちがわかってくれないと悩んでいる人に、少しでも近づいて、「苦しいのは僕だけじゃないんだ」と思わせることができるかもしれないからです。

burden


「敵であれ見方であれ、全ての国々にいいましょう。「自由」が存続し成就するためには、私たちは、いかなる犠牲もいとわず、いかなる重荷ににも耐え、どんな苦しみにも直面し、どんな友人をも助け、どんな敵をも迎え撃ちます。
これこそが、私たちが今誓ったことなのです。」(ケネディ大統領就任演説)
何度も繰り返しますが、私は皆に開かれているサービスは、最大限利用しますが、個人的に知り合ったり、支持したり、利害関係がある人に(専門的なことが分からなくて相談するぐらいのことはありますが)自分の政治運動に無理矢理巻き込むことはしません。私は法的に許される範囲で自分のしたことは全て自分の責任のみによって政治活動を行います。
支持する政党や政治家がいれば支持をし、応援しますが、その活動においても責任は専ら私に属し、私以外のあらゆる個人団体には属しません。
私が、今一番問題にしているのが、おそらく私へのいやがらせのために、まわりの人たちが私がいやがるであろうと犯人が考えることをやらされているということ。
それは、かなり大規模で、個人のみならず団体にも及んでいる模様だ。私個人が不快だということはどうでもいい事だが、私の批判は以下の2つ
1. (もし脅されているなら(そういう人の顔を見ると何かにすごくおびえているかのように見える。従って恐怖を使って命令している可能性はかなり高いと思う))人の自由を恐怖によって奪い、自分の思い通りにしようとしている。これは、個人の自由への抑圧であって、現在の我が国の基本的なルールに全く背いた行為である。従って、具体的な損害が仮に少なくても(多いかもしれないが)これを許すことは出来ない。
2. その理由が、私が左翼的発言をした結果、多くの人に影響を与え自分の影響力が下がるのを防ぐため、私に恐怖を感じさせ、私の言動を変えさせようとか、他の人に恐怖感をあたえ自分に逆らうとこうなるぞ、という見せしめだとすれば。恐怖を使って言論の自由を奪おうということになりこれも、現在のこの国では許せない行為である。
基本的には以上のことを心配しているのだが。私一人の身体で集団に戦うことも出来ないので暴力に対するときには警察と協力して進めて行く。また、明らかな違法行為があった場合は弁護士に相談する。blog「いやがらせ」で書いたことの繰り返しになるが、もちろん警察の方は被害者の見方になってくれるはずだし、もしならなければその警官が職務を果たしていないことになる。だから、ちゃんと警察にいけば解決の努力をするから必ず何かあったらまず警察に連絡ください、と堂々と言える存在になってもらわなければ困る。
私の予想通り、いやがらせは、激しくなってきたが、まあ私は主治医から、他人が死んでも、自分(医者)が死んでも、私(鈴木)が死んでも、自分のいく道を行けと何の躊躇もなく言われたので。その後ずっと考えた結果の今があるので、他人の洋服が変わったからといって何も私自身は変わることはないんだが、それを、いやいややらされている人の気持ちとか、街が悪の手によって変えられていくのとかは嫌な感じを感じてしまう。まだ、人間が出来ていない小人なので。
とにかく、今現在でも利用できる証拠はかなりあるし、まあ警察もはじめは及び腰だろうが、良く工夫しながら警察とも連携してやって行こうと思う。もちろん、すでにいやがらせのことをブログに載せたのだから、警察も政治も圧力がかかっていると思う。そういう圧力に屈しない人は、エリート官僚や政治家でも非常に少ない。まあ、だれであれ間違ったことをした人は公正な裁判にかけるという、あたりまえのことを実行している人を見つけたりして仲間(もちろん本人の意思で私の政治活動に参加する人)を増やし、また(いろいろアイディアはあるが、敵が見ているのでもちろん書かないが)一つ一つ積み重ねていれば、方向さえ間違わなければ、今不可能そうなことでも実現は十分可能だと思う。どういう手を使うかは今は言えないが。まず第一段階だと思っていた、政権交代も現実のものになったし。

不具合


以前、自分のwebサイトでブログをかいていた。
カルチャーセンターを3回連続で休むことになる。
ひょっとしてブログでいやがらせを受けているといってたから、辛くなってこなくなったのではと勘違いしている人がいるかもしれないので、ここに記す。
土曜日は、はじめてYouTubeに動画を載せたら、4分の動画をアップロードするのに2時間かかった。大中小の中にしたのに、調べると確かにファイルサイズが大きいのでこんなものなのかなと思ったら。コンピュータに詳しい先生が4分で2時間はおかしいですね。といってた。
確かに、はじめに数分から数時間かかりますとかいてあったけど、動画を見るのはすぐ1秒で見られるのにそれをアップするのに、多少時間かかるとしても、2時間は技術的に不自然に思った。よもや、これもいやがらせ?私はgoogleさんを信じたいけど、あまりに不自然なので申し訳ないが少し疑ってしまう。読者の皆さん、「数分から数時間かかります」という表示は以前からありましたか、私は5日の土曜日の朝に投稿したのですが、それ以前にそのような表示はあったのでしょうか?2時間ぐらいかかるのは普通なのでしょうか?経験者に教えてもらいたいと思う。もし、それ以前にはなかったならこれもいやがらせの可能性は否定できないのではないだろうか。
次の月曜は、ブログを書いていてアップロードボタン何度押しても、アップロードできない。そこで、メーカーに電話していろいろ試していたらもうすぐに何時間もたってしまった。結局その日の記事は公開されたようなので、今日水曜にお店に行ってきく予定なので止めた。その時はもう7時すぎてたと思う。これもなぜだか謎。
今日お店に行ってみてもらったら、まず、ブログのドメインデータという情報の入っているファイルを外に出して試してもアップロードできない。だから、入力したデータが原因とは考えられない、お店の人が自分のドメインでアップしたらアップできた。だから、ソフトが壊れているわけでもない。とすると、サーバーやネットワークのミスとしか考えられない。
さらに、途中でそのメーカーの携帯電話のカレンダーをインターネット上のサービスに同期できるかと訊いたら「できます」という「それでデータがなくなることはないでしょうね」といったら「それはありません『結合』ですから」といわれたので安心して結合ボタン押したら、始め見えていてしばらくするとカレンダーデーターがなくなってしまった。店員のいわれる通りにして、「データなくなる心配ないでしょうね」と念を押したのになくなった。3ヶ月分ぐらいの予定、探せば、どこかに記録があるかもしれないが、それにしてもひどいんじゃないか?店員は一言も謝らなかった。もし、他に保存してないデータだったらどうするんだ。店員を叱りつける気はないが、ハキッリ「データが失われることはありません」といって失われたのだから「ごめんなさい」の一言ぐらいはいうべきじゃないだろうか。
結局、原因が分からないのでネットのサービスにメール送ることにしてかえったが、いやがらせのことを言った直後にこういうことがこういうことがおきるのは、極めて不可解。いやがらせだと疑いたくもなる。
明日の、「ギリシャの歴史」はちょうど役所の人権相談が月に一度あるのでそちらの方がチャンスが少ないのでそちらを優先して、休む。
それを読者に伝えないと、万が一怖くなってでてこなくなったのかとか変な誤解する人がいると困るので、こういう形でブログを続けた。
いやがらせについては、予想どおり改革期に権力に否定される立場にならないように、私に対しては規模が大きくなってきている。特に昨日は。今日は思ったほどでもないが、変な服着てる人がさらに奇妙な格好ででてきたり、人数もいつもより多い感じもする。
逆に、人々の気持ちは私がいるからいやがらせさせられるので、私を憎んでいるのかなと思っていたが、逆に今まで怖くておおっぴらにいえなかったけど、いやがらせする人たちと本気で戦う人がでてきて喜んでるのかと感じさせることもあった。
しかし、そもそも警察さえしっかりしていれば、不当な命令を受けたりしたら110番すりゃあすむことなのだ。それが、皆できないでいるということは、個人個人の警察官の方々は一生懸命職務を全うしていらっしゃるとは思うけど、どこかで警察も守りきってくれないんじゃないかと、国民が信用しきってないということだともいえるのではないか。また、政治家にも責任があると思う。かつて竹下元総理は右翼の「褒め殺し」を止めさせるのに暴力団の幹部や右翼の幹部に頼んだことが問題になったが、そういうことがあると、たとえ今はそんなことはないとしても、国民の中にどうせ政治家は暴力団や右翼とつながってるんだろう。だから、警察も恐がってちゃんと捜査してくれないんじゃないか、という疑念を持ってしまうのも当然だと思う。本当に圧力に屈してるなら論外だが、してないということを国民に知らしめたいなら、いくら口で言っても信用はされない。事実、関係があったことが明るみにでているのだから。だから、警察庁自ら絶対に悪に屈することはないと、国民に信用されるような行政をしなければならないだろう。そうしないと警察もどうせグルだろ疑って被害に遭いながら通報しない人まででてきてしまうかもしれない。そしたら警察って何のためにあるの?我々は銃刀法で武器の所持を制限されている。その代わりに国民を守るために警察があるのではないのか?警察はもとより行政、議会、司法のトップが少なくとも明らかな違法行為があったときには国民が躊躇なく110番するのが当然、という社会を作らなければならないのではないか。それは、別に難しいことをいっているのではなく、犯罪が疑われることがあればすぐに捜査すること。そして、被害者の安全を保障すること。たったこれだけのこと。あたりまえのことなので本来いうまでもない釈迦に説法だが、実際今、犯罪の被害を受けてる人が恐がって通報していないことがあるのではないかと疑われるので。くれぐれも、そんなことがないようにように口先だけでなく行動で示さないと、国民は信用してくれないだろう。
ちなみに、私はすぐに警察に連絡するが、やはり証拠が必要なので今集め中。一方で志を同じくする仲間をふやし証拠と理論で先ずは犯人の逮捕をしたいと思ってる。時間のかかる作業ではあるが、特定の政治家にウラで要求することは決してしないが、全ての人に開かれているサービスは最大限利用させてもらう。あまりにも時間がかかりすぎても、心苦しいので大学院を卒業するさ来年までには、なんとか裁判にまでは持ち込みたいと思っている。
最後に、脅されて変な服着せられたり、行動を命令されたりする被害者の方に一言。あなたが心では、そんなことしたくないと思っているのに無理矢理やらされたとしたら、私はあなたを恨まない。もし、脅しにあったら、出来れば、録音なりして証拠をつくり警察に提出するのがベストだが。それが出来ない場合、無理でも一言「私はやりたくない」といってほしい。そうすれば裁判のときに加害者じゃなく、不可抗力になる可能性がある。何もいわないと、犯罪に協力した共犯にされてしまう可能性があるので、そこは気をつけてほしい。

2009年9月7日月曜日

ペルソナ


今日出かけたらやはり予想通り、いやがらせの規模が大きくなっていた。それを見て、強い権力だから逆らえないと単純に考えないでほしい。
先ず最初に言っておくが、私は、いやがらせを受けたからといって考えを変えることはない。(blog「いやがらせ」参照)人には迷惑に映るかもしれないが、だれが本当に悪いのかをよく考えてもらいたい。脅されてか、どのようにされたか私はやり方は知らないが、周りの人の服装が変えられていても、それごときで、思想を変えることはない。そうなると、もし犯人が、一般人を脅して服装を変えたり、行動を命令によって変えることで私を恐がらせて、私の思想を変えようという考えを維持する限り、永遠に服装や行動をコントロールされるのかと疑問を持つ方もいるかもしれない。
私はそれは、よいことだとは思わない。「自由」を恐怖によって奪うことは、国家であれ個人であれ許されないというのが私たちの国のルールだからである。従って私は、合法的なあらゆる方法を使って犯人逮捕、そして公正な裁判にかけるための努力をする。証拠が少ないので難しいが、かすかな証拠があれば、すぐ警察に連絡するようにしている。もう2回警察の方に相談している。
機械の調子が明らかにおかしいので、警察に行ったら、機械のことはよく分からないので、メーカーに先ずきいて下さいといわれた。そうしたらそのあとで、話を聞きましょうと言われた。捜査をして下さいと言ったら、話を聞くということは捜査をするということだと言われた。そしてメーカーに行ったところ、この症状は自然には先ず起こりえないでしょうとはっきり言われたので、次に行ったときに捜査が始まるかもしれない。
また、市役所の法律相談で弁護士の方にもアドバイスいただき、今度は人権に関する相談に行く予定をとってある。それから、特定の政党や政治家にウラから相談することはしないといったことがあるが、もし担当者では決められないことなどがあった場合、首長や大臣にお話をすることはあるかもしれない。それが、たまたま政治家であることはあるが、何党を支持してるからとか言う話とは、全く関係なく、保守系だろうが革新系であろうが、その役職として話を聞いていただくようにする。
まず、何者かにコントロールされている方々にお見舞い申し上げる。一つ一つ証拠を積み上げて裁判に勝つまでは、長い道のりになってその間、不愉快な思いをさせてしまうかもしれませんが、この方法が最も合法的で公正な道だと判断し、そうした。それが、一日でも早く実現するようにがんばるつもりでいる。
私の観察から受けた感想では、
コントロールされてる人はけっこう多い気がする。
また、意外に大きな企業も圧力をかけられたと強く疑わせる場合がある。
マスコミにも圧力がかかって可能性も否定できない。
例えば、雑誌や書籍のなかには、私が入院している2年間で、廃刊になったり、表紙のデザインが変わったりしたものもあるが、はっきりとは言えないが、上述のblogにあるように、「デザインでいやがらせをしてやれ」という犯人の発想と関係があることも完全には否定できないと思う。もし、そうでなければあたかも圧力に屈したかのような表現をしたことは、メディアの方々のプライドを傷つけることになるかもしれないのでお詫びする。申し訳ありませんでした。
証拠がないので、推測でしか言えないのが面倒なのだが、あくまで印象で言うと、私がいるからこんな圧力をかけられて、私を恨む人もいるかもしれないが、一方で、今まで犯人の言いなりになっていて、じくじたる思いをしていた人の中には、私に頑張って、犯人を逮捕してほしいという気持ちの人もいるかもしれないと思うこともあった。
反感を持つ人も、期待を持つ人もいると思うが、十分な証拠を集め公正な裁判に訴える、これが今できる最上の道だと考えている。
脅された人を私はどう見ているか?
下の図を見てもらいたい。
これは、心理学者ユングの考えを私が無理矢理単純化した図だ。
人間には誰でも、社会的な外側の面と、そうではない内側の面があると、私は考える。
そして、恐怖による支配で動かされているのはこの図でいうと、ペルソナの部分だと考えている。
あきらかに、いやがらせをさせられてると思って、警戒して近づいて行くと、意外とふつうでいい人だったりする体験を何度もした。
だから、私はペルソナの部分は恐怖によって簡単に変わるが、セルフの部分は恐怖によって支配することはできない。こう考えるようになった。
戦争中の軍国教育も、旧社会主義国の徹底したイデオロギー教育も状況が変わればすっかりかんたんに変わってしまう。
だから、恐怖で無理矢理やらされたことは、そのときは強く作用するけれども、長い目で見れば変わりうるものだと思う。いま、政権交代で時代が変わりそうな時期に、何とか自分の影響力を残そうと、いやがらせが激しさをましてきているが、このように考えれば、慌てずにいま我慢すれば波はいつか収まると思えるのではないか。それを、慌てて「こんなことまでするのはすごい権力を持っているから、自分はかなわないので降参しよう」などと早まらないでほしい。すぐにではムリでも、私は証拠集めにつとめる。いつか犯人が逮捕される日も来るかもしれない。どこまでできるかは分からないが、早まって怖いから服従するというようなマネはしないでほしい。
私は人間のペルソナは、ほとんど信じていない。
あるとき、英会話教室でアメリカ人の先生が「核兵器を全て廃棄すべきだと思う人?」と質問したら、全員、手を挙げた。次にその先生が、ちょっと不満そうに「しかし、もし核兵器がテロリストの手に渡ったら・・・」といってもう一度「核兵器を全廃するべきだと思う人は」ときいたら私以外の人は全員手を挙げなかった。恐らく原爆の日に慰霊のセレモニーのときにTV局にインタビューされたら、全員「核兵器は全廃すべきだ」というと思う。このようなことは、いくらでもある。だから、私はペルソナの部分は全然信用していない、特に日本人は同調圧力に弱いから、こういうことは多いけど、外国人でもあることだと思う。母によく、そういう話をすると、クリスチャンの母は、それは、聖書の時代から変わってないんじゃないの。イエズス様だって、はじめは神の子だといって拝んでいたのに、ちょっと状況が変わると、大衆ははりつけにしろとさわいだし、弟子でさえも私は知りませんと言ったのだから、と言った。だから、このペルソナの変わりやすさは、人間の本性なのかもしれない。そういう人には私は、いちいち怒らず適当に受け流すようにしている。
じゃあ人間を信用していないのかというとそうではない。私は、本当に愛してくれた人もいるし、本当に自然に親切にされて嬉しかったこともあるし、映画を見たり,音楽を聴いたりして涙が抑えきれないこともあった。それが、私のいう「セルフ」の部分だと思っている。
だから私は人間の「ペルソナ」の部分は全く信用していないが、「セルフ」の部分は必ずあると確信している。
そういう意味では、「私は人間を信用している」と断言しよう。
ちなみに、上の図は、最もシンプルに描いた人間の心の図だが、もっと細かく人間の心の構造を20歳ぐらいのときに描いた図があるので下においたので興味ある方は御覧下さい。この時はまだユングは、深くは知らなかったので主にフロイトも含めた精神分析学からヒントをえてかいたが、今見ると結構ユングっぽい。


2009年9月5日土曜日

いやがらせ


先ず最初にはっきり断っておくが、以下に書く内容には、私が支持する政党、私の所属する学校、家族、親戚、その他、私が個人的に関係のある人や団体、私が好きだと言った個人や団体には一切関係ない。ただ、私個人のみの考えであり、行動であり、その責任の全ては唯一鈴木俊一に帰す。
私は左翼リベラルという政治的立場だが、そのような立場から公共の場で発言したことが何度かある。もちろん、このブログもその一つ。しかし、それより前に不審なことが起こり、今も起こることがある。
2年前に春休みに言っていたイギリスから帰った後、周りに変化があった。始めは暖かく迎えてくれた人たちが急に冷たくなった気がした。インターネットを見ると、先生のページに以前連絡先メールアドレスが書いてあったのが、変わっていたり、学者のページが書いてあったのが、次の瞬間消えていたりした。街なかでも人々の行動が何か不自然で誰かのコントロールされてるような動きをした。これは私以外の人も見てるので証人がいることだが、私が街を歩いていると、人が次々にあらわれ無言でこっちに行進して来て、急にいっせいに方向変えたりする。私は街が何者かに支配され、恐らく私の政治信条に反対するものだろうが、私を攻撃して来たと思った。
私が携帯でメールを書くと、送信される前に,外の街宣車がいっせいに騒ぎだすことがあったので、盗撮されていることはほぼ間違いはない。
街に出ると、街のスピーカーから出る音楽が乱れ始め、私はこれは全部見られてると思って、騒いだら警察がきて、保護され、あたかも段取りが整っているかのように精神科医がきて3、4の質問をして統合失調症と診断が出され、措置入院させられた。それまでは極めておとなしくしてたのに、拘束着を着せられて救急車で運ばれた。
これらにも、何らかの組織の影響があると私は今でも思っている。
病院で最初は保護室っていうのか監禁された状態で、しばらくして普通の病棟に移ったが、閉鎖病棟で外にしばらくは出られなかった。その間も、他の患者や医者の態度が不自然で食事中、入院している間に家や街が変えられているのではないかと心配だった。
4ヶ月経って家に帰ったが、変えられているのが怖く帰って苦しい。朝起きて、食事して薬のみベッドへ、また昼起きて食事して薬飲みベッドへ、そして夕食、終わったら薬のみベッドへ、そして週に一回ぐらい親に車で病院へ連れていってもらうが病院の医者などの態度もおかしい感じがする。
家では、そらからはヘリコプターや飛行機が低空飛行して、毎日轟音を立てていていく。となりの家が30年以上立ってた和風庭のある家が私が帰ったとたん取り壊された。
近所にも迷惑。たばこが唯一の慰め。将来の希望もなく、日本が変えられて来て私以外はだれも逆らえないと感じられた。
昔書いた日記や哲学的メモやアルバムなど取り返しがつかない物がなくなっている(後に出てくるが)。置いた所と全然別の所から関係ない物と混ざって出て来た物などもある。家を変えられたのは事実。私は他の物も変えられるのではないかと心配になった。また、そういう圧力にだれも抵抗できない人ばかりかと、人間不信にもなる。入院中も地獄、退院しても地獄だと始めから思っていたが。
このまま、ベッドの上で寝ていてもしょうがないので、母が紹介してくれて、他の医者も勧めてくれた病院のパンフレットを見たらきれいそうな施設で、ここに行きたいと思って予約を取ってもらった。当日、最低限の生活必需品をを持って、できればその日のうちに入院したいと思って、その病院へ行った。本も散らかってて探すの大変だったが、たまたま見つかった好きな本を鞄に入れる。持って行った本は、見田宗介「自我の起源」真木悠介の筆名の見田の「時間の比較社会学」これらは「社会学入門」の中で自分の人生の二つの課題を解決した。とあったので、以前に買ったけど途中までしか読んでなかったので選んだ、それから臨床心理学者の中で一番好きな河合隼雄さんの、その中でも強い感銘を受けた「影の現象学」、一番感動したエッセイ、五木寛之「大河の一滴」、あとはたまたま近くにあったハイデガー「存在と時間」岩波文庫(中)、私には難解だが20世紀最大の哲学書ということで。そしてもしかしたらこの家自体もこわされるかもしれない、この家にいるのは最後かもしれないという悲壮感で病院に行く。そこで説明受けて、入院されたい方は当日電話して下さいといわれたので今日ではダメですか?と訊いたらいいというので入院する。先ず自分の将来も希望も持てない。それから、私が主張したことがみんな怖くて言えなくなり、社会も私の主張に反する社会に変えられてしまうのではないか。病院にいるので自分の意見を言う手段もない。
病院では、主に患者にいやがらせとしか思えないことを何度もされた。物がなくなったりはしょっちゅう、看護師や医師はさすがに、あからさまにいやがらせはしなかったが。看護師に、隣の家が壊されて、私は自分の家も変えられるのではないかと言い、帰るのが怖いとうったえても、同じ時期に建てかえが続くこともありますからね、といわれる。
恥ずかしいことだが、私は自分のプライドを守るために、世の中を変えられてしまうのは私のエゴかと思い、なんとかそれをやめさせるためにはプライドも捨てる事が必要なのかと思い、抑圧してると思われる人に「逆らってすみません」と紙に書いて家のベッドの上に親に置いてもらった。理論上はそれしか、その時点では考えられなかったからしょうがないと思うが、恐らく、私の生涯で最大の恥辱だ。
いやがらせは、詳しく書くと証拠隠滅される可能性があるので大まかな物しか書けないが、寒い夜に私のベッドからだけ冷風が出て、暑い昼間に私のベッドからだけ温風が出たことがある。看護師も確認している。
そんな中でも、親切に声をかけて下さる看護師さんもいて、ありがたく思った。
blog小説「お母さん」はそのときのことが念頭にあった。始めの病院で実習生で私の担当になった女の子の学生さんが、私が怖い顔してじっとしてるのに、一生懸命声をかけてくれて、この人は嫌がらせする人じゃないと感じてお話しした。「どうして看護師になろうと思ったのですか」ときくと「母が看護師だったので」といった。「何かいい話をして下さい」というと「だれでもコンプレックスってありますよね、わたし笑うと目が細くて線みたいになっちゃってそれがコンプレックスだったんですよ。そのことを母に話したら『それは、仏様の目なんだよ。仏様は人のいい所だけを見て、悪い所は見ないんだよって言われました』」といった。私が「いい話ですね」というと「そういう事がわかる鈴木さんも素敵ですよ」といわれた。これがその小説のヒントになった。
また、二度目の入院で主治医になった、お医者さんも親切にしかも、現実的に答えてくれた方だった。
始めの病院では、昼間もずっと誰かがわざと気にさわるようにしゃべったり、常にいやがらせにさらされ、1時間に1本タバコを吸うだけが慰めだった。そしてまた自室のベッドに横になり苦しいままじっと次の1時間を待つという毎日だった。
当然、自殺も考えたがそうしたらこの出来事を後世に伝えることができないし、世論に反対したら、いやがらせをされ自殺に追い込まれるという、恐怖感をメッセージとして与えてしまうのでそれはやめた。何年かかるかわからないが、こういう事実があった事は公に伝えなければと思っていた。
二つ目の病院に行くとタバコのデザインが変わっていた。やはり、変えられたか、とまた落ち込む。どうすればやめさせられるか考えて、私に対するいやがらせだろうから私が工業製品を見ない環境にいればいいのかなと思って、いなかの自給自足の牧場とか、山寺とかに行く事を真剣に考えてソーシャルワーカー(患者の社会的生活の相談を担当する人)に訴えたりした。床屋も1ヶ月に1度ぐらいくるので、だれも見せる人はいないと思い、丸刈りにしたこともあった。僧侶になれば当然、頭を丸めるので。また僧侶になったらタバコも吸えなくなるかもしれないと思い、タバコもやめた。そうして2年間病院で暮らしたが、あるとき大学院の主査の先生から自筆で丁寧な手紙をいただき、(blog「iPhone」参照)復学を促して下さった。今から考えるとこれも私が田舎に逃げないようにやらされたものかもしれないが、もともと先生のお人柄を知っているのでやはり、ありがたく思った。親も会ったが、父も先生の人柄に感激して信用するようになった。日本を代表するデザイナーであるにもかかわらず病院まで来て直接お話ししてもいいというぐらい気をかけていただいた。たとえ、圧力で書かされた物でも、丁寧に達筆な手書きで手紙を下さったのだから私に対する手紙は、心がこもっていたと思う。私も稚拙ながら便箋と万筆で返事を書いて、車で親に送ってもらってでもいいかなど、いくつか質問を書いて、後に直接お会いすることになった。そこでは、私の要求はほぼ受け入れられ、よかったですねと言って下さった。これも、ウラからの命令があったのかもしれないが、決して嫌々やっているようには見えなかったので、仮に圧力があっても気を使って下さった事はありがたいと思う。
それと、お世話になったのは二つ目の病院の主治医の先生で、最初の病院の主治医は完全に目が死んでてロボットみたいな態度であきらかにコントロールされているようだったが、この主治医の先生は、私の病状を細かく説明して下さって薬の事も説明して下さって、私の意見を聞き入れて薬も変えてくれた。そして、私が毎日のの悩みをメモに書いて診察のときに持って行くと、全て的確に簡潔に答えて下さった。今まで多くの、精神科医、カウンセラーに訴えても一向に治らない「心の中からわき上がってくる衝動」について、苦しいのでどうしたらいいでしょうときくと、先ず,刺激をさけて、あたまをからっぽにして、戦おうと思わない。というアドバイスをいただいて、そうしたら本当に治った。それで、その先生のいう事は信用できると思った。
その先生に復学のための診断書を書いてもらって、ワーカーさんに渡しておくから受け取ってと言われた。そうしたら休みをはさんで、ワーカーさんに言うと、まだもらってないと、ワーカーさんとも主治医とも連絡が取れない、PHSを持っているのに、看護師に言ったら「もうすぐ連絡がつく」とか「明日でいいですか?」とか二転三転する。いやがらせの典型的「待たせてイライラさせるパターン」だった。結局その日の最後に手に入ったのだが郵送はその日にできなかった。これが届かないで復学できなかったらどうするんだ、という不満をレポート用紙5〜6枚に書いて、主治医に見せたら「文書で謝罪する事はできないけど悪かった」「俊一さんもこういう事書くのに勇気が言ったでしょう」「でもちゃんと言ってくれてよかった」「この事で、診察に影響を与える事は一切ありません」といわれた。ちゃんと不満を受け止めてはくれたので、こちらも受け入れた。
ちなみに、私が食堂で書き物をしているときに音楽ならす人がいてまたいやがらせかと思い「ちょっと静かにしてもらえますか?」といったら、やめた。しばらくしてその人にあったら「さっきは、うるさいってちゃんと言ってくれてありがとうね」といわれ,意外な気がした。
考えて見ると、いやがらせをしろと命令されて、自分ではしたくない人は、私がはっきりやめて下さいといえば止める口実にもなるし責任は私(鈴木)にあるのだから、有り難いのかもしれない。
主治医の話にもどるが、一番重要な話だが、本当はことし2009年に戻りたい。学校の規則では休学は2年までだし、学校の先生は特別に1年延ばしてもいいような事もいわれたが不安もある。また、今年は選挙があるので私はブログなどで支持政党を応援してこの異常事態を改善させたいという気もあった。
主治医は「来年なら多分大丈夫だけど今年はどうかな」といわれていた。私は何とか自分でやって行ける所を見せて今年からの復学を望んだ。その頃は許可が出れば外出もできたので、両親と上野の博物館にいったりして、結局は今年の復学は出来た。
そのとき、一つ重要な問題があった。
それは、私が復学したり意見を発表するのを妨害するために第三者に圧力をかけて私にいやがらせをしてくるのではないかという事だった。自分がいやがらせを受けるだけならいいが、他の人に迷惑をかけることになるのではないかという心配だった。わたしをいくら恐がらせようとしても全く変わらないなら、まわりを変えてやれという許しがたい考えだが、今までの奴らのやり方を見てると他人に迷惑をかけることは平気でするので十分あり得る事だ。そこで主治医に相談したら「それは、テロに屈するかどうかというのと同じ問題ですね」といわれた。いかなければ、相手の思うつぼ。恐怖によって人を操る恐怖政治に屈する事になる。確かにそうだ。でも実際人に迷惑がかかってもいいのか?もう一度きいてみた。すると「俊一さんは何も悪いことしてないんだから、どうどうといけばいい。悪いのは向こうなんだから」といわれた。それでもまだ本当に人に迷惑かかったらどうしようと思ってきいてみた。
「もし、僕が行く事で誰かが死ぬとしても行くべきだと思いますか」すると「だって俊一さんは何も悪いことしてないんだから責任を感じる必要はないです」と言われた。これは意外だった。でもやはり納得できずにもう一度きいた。
「もし、僕が行く事で先生が殺されるとしても行くべきですか」というと、迷わず「それでいいです」といわれた。それでも、それでもまだ悩みもう一度きいた。
「もし僕が行く事で僕、鈴木が殺される問しても行くべきでしょうか」というと「行くべきだと思います」といわれた。そこでよく考えるてみた。Aがある思想をもって学校へ行こうとした。Xはそれを妨害しようとしてAにいやがらせをしたが全く変わらない、Aの周りの人にいやがらせをしたがかわらない。Aの親しい人を殺しても、変わらない。A自身を殺しても。心は変わらない。この場合悪いのはだれか、それは疑いようもなく100%Xが悪い。Aは何一つ悪いことはしていない。確かにそうだ。
そこまで言われて決心がついた。自分が死んでもとはっきりと言われ。しかも患者にお前が死んでもと言うのだから、これはすごい覚悟だ。患者に向かって、おまえが死んでもと言える医者は滅多にいないだろう。
そして、退院、復学することになった。
一人では不安なので訪問看護の人と街を歩いた。予想通り大幅に変わっていた。商品のデザインも変わっている物が多かった。事情を知らない人は、何故かいろいろな物のデザインが変わったなと不思議に思うかもしれないが。以上のような事情から考えると、私がデザインを勉強をしているのでデザインでいやがらせをしてやろうと、ウラから圧力をかけた可能性が高いと思う。
しかし、それでびびって学校行かなくなれば圧力に屈したことになるので、その後もいろいろなかなり大掛かりないやがらせを今も受け続けているが、別予定の入った日以外は学校は無遅刻無欠席でいっているし、御覧のようにblogで私の思想信条をはっきりと示している。
私の希望通り、民主党が圧勝したが、こんな無名の学生のblogが貢献したとは言わないが、運良く勇気を持ってやってみると望みがかなうこともある事を知った。
現在続いているいやがらせは数多くあるのだが、一番わかりやすいのが洋服の事だろう、私はデザイナー希望のくせに着るもの疎くていつもTシャツとジーパンだった。しかし職業上ファションも関係あるので勉強のつもりで、いとこなどに、代官山、中目黒、表参道とおしゃれな洋服屋さんに連れていってもらって、ファッション雑誌を買ったりした。
すると、ちょうどその辺りから、周りに派手なあたかも雑誌のスタイリストがついたかのような服装の人が非常に多くなった。普段おしゃれに気を使う人ならわかるが、いままでファッションに気を使わない人まで明らかに服装が変わった。そういうケースがかなり多くあった。私はこれも圧力があったと思っている。あまりにも、私がファッションに興味を持った時期と重なって、しかも普段ファッションに興味のない人が派手な格好をしているケースが相当多くあったので、ちょっと偶然とは思えない。デザインと同じくファッションに興味持ったなら、ファッションでいやがらせしてやろうという意思を強く感じてしまう。それ以外に考えられるでしょうか?偶然がこれだけ多く続くことはあるでしょうか?私は偶然はちょっと考えにくいとおもう。
これから、これらのいやがらせを告発しして、犯人を特定して公正な裁判を受けさせるという本来の目的から言うと、これは必ずしも悪い事ではないと思っている。洋服は着る時はかならず意識してきるので。今は犯人が怖くて言えないだろうが、例えば将来いやがらせの証拠が見つかり、犯人が逮捕され恐怖がなくなれば、どういって着させられたのかは私は知らないが、いやがらせと知ってて来ているにしろ、知らないけど誰かに着てくれと言われて着たにしろ、自発的かそうでないかは本人が必ず、知っているはず。その数が多くなれば、確率的に私の考えに近い人が含まれている可能性が高まる。そうすれば、その人たちが証人になってくれることが期待できるからである。
実際は、いやがらせでやられてると思うと不愉快な気持ちになることはある。恥ずかしい話だが私のようの精神的に弱い人間は「ぶん殴ってやろうか」と思うことすら、正直ある。
しかし、彼らを責めたらどうなるか。彼らは自分の責任を問われるのを恐れて、自分は指示されてないと嘘の弁解をするようになる。そうするとウラの圧力の存在を証明することにずっと時間と手間がかかることになってしまう。だから、私は命令されてやった人(自主的にそれに賛同した人は除く)は責任をとはないようにしようと思う。じっさいこのひとの洋服はわざとらしいなと思った人でも、話してみるといい人もけっこういるし。左翼の私を攻撃する集団だから右翼系の団体かそれに近い団体である可能性が高いから、みんな恐がるのも理解できる。右翼は恐怖やいやがらせによって攻撃してくる団体が多くあるから、時々人も殺すし。何故かというと俺たちは怖いんだぞということを示しておかない人を動かせないから。国会議員でも殺すし、総理大臣でも殺すから。多くの人は、殺されるのは嫌だろうし殺すまでいかなくても社会的に抹殺されるかもしれないから、不本意であっても従うのもしかたないでしょう。
そんな嫌な目にあって、私(鈴木)を恨む人もいるかもしれないが、上述のAとXの例を思い出してもらいたい。悪いのは誰かをよく考えてもらいたい。私も「申し訳ない」と言いそうになる時もあるが、それではテロを肯定してまうので「心苦しい」といいかえるようにしている。
私は公に開かれた、警察や弁護士は活用するし、苦情を言う時ははっきりと言うが、例えば知り合いの政治家に頼んでなんとかしてもらうようなことは一切しないことを言ってお。ですから「私を支持してるから相談にこられたら厄介だな」と言う心配は無用。法律に詳しい人にこういう場合は何法が当てはまるの?など質問をすることはあるかもしれないが、ウラから力を加えることをしたら犯人と同じになってしまうので、そのようなことはしない。
服装が不自然で、あきらかに誰かに(悪意があるにしろないにしろ)言われて着てるなという人に対しては、ムカつくことはあるけど、おこらずに「かわいそうな人だな」と思うようにしようと思う。
この時期に、いやがらせの事を詳しく書いた事情は、政権交代まじかでいやがらせへの批判も生まれるかもしれないという危機感からか、(いやがらせは毎日あるのだが)いやがらせがここ数日かなり露骨で激しくなってきたから。ここで、いやがらせには手を出せないという印象をつけるためだろう。そこで、あせって恐がっていやがらせの事実を隠蔽する方向に走る輩が出ないとも限らないので、どういう経緯でこうなったかを、丁寧に説明し、今、証拠の少ない時点では、すぐに法的手段には訴えないけれど、少しずつそういう方向でいくって、最終的には犯人を公正な裁判にかけるつもりだということを知っておいてもらおうと思ったからである。やってる奴らの焦りも感じるので、ここしばらくは、圧力が強くなって皆さんに苦労をかけるのは心苦しいが、(積極的にいやがらせに参加した人は別にして)皆さんを責めることはしないことを断言しておく。ただ「かわいそうな人たち」だと同情する。
多くの人は殺されるkも知れまいと思うと恐怖を感じると思う。でも、私はこう考える。命は大事だけどそれは「長さ」ではなくて「中身」が大切なのではないか。「どれだけ生きたか」ではなく「如何に生きたか」ということが一番大事なんじゃないか。例えば既存の権力に媚びて、あるいは暴力におびえて自分の生き方を曲げて長生きした人と、自分の生き方を曲げずに若くして殺された人、どちらが良く生きたかといえば後者ではないのかと思う。
イエス・キリスト、ガンジー、ジョン・F・ケネディ、J・レノン、マーチン・ルーサー・キング牧師。平和を訴えて自分を曲げない人は多くは殺される。しかし、これら人々はある種の人たちに大変に尊敬されている。
かんたんな思考実験でわかる。100年後関係者の利害関係が全くなくなったときに人の人生を振り返って、恐怖によって自分を曲げて長生きした人と、自分を曲げずに若くして殺された人どちらの人生に価値があるとあなたならかんじるか。私は、後者の方により高い価値を感じてしまう。もちろんそれは人それぞれの価値観だから押し付けはしないが、私の価値観ではそう感じてしまう。
しかし、本当にいざナイフを持って「殺すぞ」と言われて恐れないかというと、正直、わからない。
中学生ぐらいのとき「自衛隊は憲法に明らかに違反する」思っていたとき夢を見た。戦車がこっちに向かってやってきた。私はいつもは命をかけてでも信念を守るつもりでいたが、砲弾を向けられ怖くなった私はどのような行動をとったかというと、急に笑って相手にとりいって「いや〜そんなに真剣にならないで下さいよ〜」と、笑ってごまかしたのであった。こわかったから。夢から覚めて普段は自分は命をかけても信念を守るとか、かっこいいこと思っていたけど、いざとなると私の理想なんてこんなものかと、自己嫌悪に落ち込んだことがある。だから,命をかけてなんて口で言うのは簡単だけど、本当になったら守るのは難しいのだと痛感させられた。だから、偉そうなことを書いてきたが、私だっていざとなったら寝返って命乞いをする惨めなゴミ野郎かもしれない。正直言って今はわからない。ただ、考えとしては命というのは「長さ」ではなく「質」が大事だと思っている。
ちなみに、本文はちゃんとチェックしたにもかかわらず、返還ミスに見せかけた「誤字」が非常に多く見つかる。私はこれもいやがらせのかのせいがあると思っている。全てのページを毎日チェックできないのでこちらのミスの場合はお詫び申し上げるが、今言ったような場合があることをしっておいてもらいたい。
また、このblogを読んだ人の中には、自分もかかわった人もいるかもしれないし、地方の人などはまさかそんなことはないだろうと思う人もいるかもしれない。
私の持ってる機械が、不自然な動きをすることが多くありそれは、いやがらせの可能性が高いと考えられるものがある。その一例、iPhoneで9月30日に合わせようとしたが出来ない。自然に起こるとは考えにくい。