2009年9月16日水曜日

神話

今日の中沢先生の「芸術人類学」は、後期にやることの概論。
後期の予定は
1、インセスト
2、カニバリズム
3、エロティシズム
となる。
思想を学んだ人なら、耳にタコができるぐらいだろうが、知らない人もいるので言っておくと、インセストとは近親相姦のこと。
人間と動物とを分ける原点にインセストは存在する。つまり、動物は近親者とも性交を行うが、人間は「社会」や「文化」と呼ばれるものによって、それを禁止している。人間の作る、家族、地域、国家、社会は本来は性的なものなのにそれを禁止して成り立っている。
例えば天皇家は古代にはインセストがあったようだ。また、比較的近い親戚同士で結婚する。
ヨーロッパでは遠くの王室からお嫁さんはよぶが、実は皆、ハプスブルグ家。
日本の皇室も、藤原氏との関係が濃い。
つまり、人間は文化的にはインセストを禁止しているが、実は人間の根源的欲求でもある。
アフリカでは王は妹と結婚することがしばしばある。
普通の人がインセストをすると日食が起こり日が隠れてしまうと考えられている。
源氏物語でも根底にはインセストがある。
また、各地の道祖神はインセストした兄妹の悲劇を祀ったもの。
さらに、カニバリズム(食人)についての話もあったが、それはまた今後の授業で触れることになるだろう。
まず、先生の考えでは、人間の無意識にはインセストやカニバリズムの欲求があるがそれを禁止する掟がある。
でもそれを破るのが「芸術」だという。
そして、その無意識の世界を解明するのには従来の社会学ではできない。なぜなら、社会学はコミュニケーションを研究する。その前提は人間は合理的であるということだ。しかし、人間にはそのような知では理解できない不合理な面がある。それを説明するのに必要なのが「神話」だという。ご承知のようにフロイトは、神話の中でも最も根源的な神話としてオイディプス神話を選んだ。
ここで、私は少し悩んだ。
その前に少しだけ面白い話だと思ったことを書く。オイディプスとは腫れた足という意味らしいが(それとも腫れたもの一般をさすのかもしれない)、とにかくオイディプスは書き手によっていろいろ理由は違うが、足に腫れ物があって、そう名づけられた。つまり、びっこである。びっこというのは昔は吃音者と同じだと考えられていた。吃音者とは何かというと、言葉とはそもそも、発するときには嘘になってしまうという性質があると先生はいう。そして、吃音者は何か言おうとすると、大地からの力でそれを押さえ込もうとしてしまう。つまり、嘘がつけない人だと言う。嘘をつくことを押さえ込まれた吃音者は詩人や文学者に向いているという。これが、面白いと思ったこと。
それとは、全然別に私が悩んだ二つのことを以下に記す。
一つは、ちょうど今、評論家、民俗学者、マンガ原作者の大塚英志さんの「物語論で読む 村上春樹と宮崎駿」を読んでいた。途中までなので結論はわからないが、彼は神話学者ジョセフ・キャンベルとその影響を受けたジョージ・ルーカス(1作目は監督2、3は製作総指揮4〜6は監督)の「スター・ウォーズ」シリーズと比較して、村上、宮崎を論じている。
「スター・ウォーズ」はキャンベルの「千の顔をもつ英雄」をベースにして書かれている
「千の顔をもつ男」とは、私は読んだことはないが、以前教育テレビでキャンベルの特集をやっていて、そこで知ったのだが、要約すれば世界中のあらゆる神話を分析すれば一つの神話にたどりつく。あまたある神話は、そのバリエーションに過ぎない。原型のような神話があってそれがいろいろな顔になって現れるというもの。
中沢先生はそれをエディプス神話として、キャンベルは英雄神話として、その説明をしている。エディプス神話も英雄神話の一つと考えれば矛盾しないのだが、その論調が正反対なのだ。表現や解釈に誤りがあるかもしれないが、私の読んだところ大塚さんは、「スター・ウォーズ」を物語の構造を持っているがゆえに、神話になってしまう。その、安易さを否定的に捉えているのである。例えば、「作る会」や「イラク戦争」のように簡単に人々が「物語」に絡めとられていくことを、物語論的解釈を通じて批判している。
一方、中沢先生は「神話」を近代の知が見損なったものを見るために必要な知として肯定的に捉えているのだ。モノガタリのモノは「もののけ姫」のモノで、モノに語らせるのが物語りであるというのだ。両方なるほどと思わせるが、真っ向から対立しているので、どう考えるべきか迷ってしまう。中沢先生は、宗教とかオカルト的なものとかに前々抵抗なく入っていける人だと感じた。人によっては敬遠する分野にも、平気な顔で入っていく。声高に近代批判をするわけでもないが、非近代にも近づく事には何のためらいもない感じがする。だから、中沢先生のいっていることは結構オーソドックスな近代批判でもある。
それに対し、大塚さんは近代人、少なくとも近代を肯定する人なのだ。だから、簡単に神話から得られる物語りにはまっていくことに、大きな抵抗感がある。どっちが正しいかというのは難しいが、とにかく神話は近代にとって危険性を孕んでいるということは両者とも認めるだろう。私自身はどうかというと、現実には近代を否定しては生きていけないだろうと思うが、その一方抑圧された反近代的思想も大事だとも思う。私は「芸術」の学士なので、一応芸術家の一人として言えば、芸術的価値というのは社会とは関係なく「必要」であり「価値がある」と思っている。しかし、だからといって前近代に戻るかときかれたら、それはできないと答えるだろう。だから、社会的には近代を消極的にせよ肯定するが、そこで失われた物の「価値」も大事にしていきたいと思う。ちょっと、どっちつかずで、ずるいようだが考えればこう答えるしかない。
私は入門書レベルの知識で実際レヴィ・ストロースの本を読んだことはないが、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」という本はこのような一種の諦念の感情を含んでいるのではないか。そもそも構造主義というのは、文化人類学の研究の蓄積を使って、近代的「主体」を相対化した。それを、どうとるか?中沢先生はそれは、近代が失った大事な物を再発見させてくれたものというかんじの、かなり肯定的に捉えてる気がする。一方では、構造主義は人間主義というロマンを打ち砕いた相対主義の極北であり、ニヒリズムにおちいる人間も生み出した、と否定的な人もいる。それらは、両方とも事実であると思う。読み手がどちらを重視するかによっても違うだろう。しかし、近代的知を超える物を目指すのは芸術家には大事なだけでなく必要だが、社会人としては、その負の側面も見逃してはいけないと思う。
次に、社会学批判だが、私が最も影響を受けた学者は社会学者の宮台真司だが、この中沢先生の言葉を聞いて、宮台さんなら何と答えるか考えてみた。宮台氏は「社会学とは人間関係の中の非自然的な部分を研究するもの」というようなことをいってた(完全に正確には覚えてないので間違ってたらごめんなさい)。
考えうる反論の一つは、もともと人為的なことを扱うのが社会学あるいはそれを含む社会科学なのだから当然であり、社会学のできる範囲を超えたものだから扱えなくて当然。
あるいは、パーソンズまでは合理的人間像を扱ったが、ルーマンはその不可能性を示した。
あるいは、全体性への欲求は、必然だが有限の人間には不可能。
つまり、宮台氏は「サイファ 覚醒せよ」という著書の中でも言っている通り、非合理なものの重要性は認識しているのだが、それを彼の言葉でいうと「全体性」となるのだろうが、やはり、宮台氏も大塚氏もはっきり自らを近代主義者だと規定しているので、合理的な手続きによて近づく事を目指してるという感じだ。しかし、最近に近くなると、「世界はもともとデタラメで、そのデタラメさに開かれることが大事だ」というニュアンスに変わってきている。つまり、非合理な部分に価値の重心を移してきたような面も見られる。
ただ、中沢先生のいう非合理というのは、いっきに「全体性」を獲得するというよりも、文化や社会によって抑圧されたものを、もう一度取り戻そうという感じである。
例えていえば、社会という一つの枠があって、その出入り口のところで宮台さんは出るべきか、出ないべきか、あるいはどうやって出るべきか、どうしたら出られるのかと考えを巡らせているのに対して、中沢先生は、あっさり出て行ってまた戻ってきてを自由にやっている感じがする。そして、皆にどうして出ないの?出たら楽しいことがいっぱいあるのに、とさそっている感じがする。しかし、忘れてはいけないのはその外の世界は危険な場所でもあるということだ。例えば、新しい宗教団体が犯罪を犯してしまって、社会に危害を加えることもある。かつて中沢先生自身、後に犯罪を犯した宗教を肯定していたとして、宮台氏をはじめ多くの批判を浴びた。(その宮台氏も、宗教に代わりうるものとして例示した「女子高生的生き方」が、後になって、彼女たちも傷ついていたということを認め、自分の現状認識の誤りを認めることになるのだから、一方的にどちらが正しいとはいえないが)
結局、社会にとって不合理なものは、抑圧されるが、実は大きな価値がある。しかし、なぜ抑圧されたのかといえば、危険だからであって、「非合理なもの」は常にこの両義性の元にあるので議論され続け、肯定と否定をくりかえし与えられるのだろう。

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