2013年2月28日木曜日

『リアルのゆくえ』

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』大塚英志、東浩紀を読みました。

2001年から2008年までの何回かのお二人の対談集です。

東さんは、オタクの人達は欲望を充足するだけの動物化しているといいます。
大塚さんは、東さんに他者とぶつかり合うことで「公」ができる、日本はこの近代の課題をやり損なったといいます。

大塚さんは、東さんの冷めた見方に苛立って、自分の立場をしっかりと主張せよとせまります。が、東さんはあくまで、冷めた視点を放棄しません。

このようなディスコミュニケーションが続くのですが、あとがきでは東さんは大塚さんを尊敬しているといいます。

新人類世代の大塚さんと、団塊ジュニア世代の東さんの世代的な対立にも思えます。

しかし、普遍的な年長者と若者の対立の様にも見えます。

僕は、大塚さんが自分の立場を体を張って主張する人だということを尊敬しますが、東さんの認識、すなわちこれからの社会の権力はもっと工学化されたものになってくるという主張にも賛成です。

感情論よりシステムが大事だという東さんの主張は、ちょっと昔の宮台真司さんを想起させます。影響もあるのでしょう。

しかし今、宮台さんは共同体主義者になってしまった。それを見ると、単にシステムだけの問題で、社会の問題が解決されないのかもしれないとも思えてきます。

この本には、結論はありません。

この様な異なった立場の人達が真剣にぶつかり合った記録として本書の価値はあるのでしょう。

僕は、あくまで努力目標としての近代という大塚さんの主張には賛成しますが、無邪気にそれが可能だとは思いません。

近代化できない理由を冷静に分析する態度も必要だと思います。


「王立宇宙軍 オネアミスの翼」

バンダイチャンネルで「王立宇宙軍 アネアミスの翼」を見ました。

「新世紀エヴァンゲリオン」を作ったGAINAXという会社の初のアニメーション映画です。

87年作。
庵野秀明さんもスタッフに名を連ねています。

昔、TVで見たのですが、その時の印象は「ヌボーッとした、盛り上がりのない映画だな」というものでした。

現在とは違う文明の中で、初めて宇宙ロケットを打ち上げる、その日までのパイロットの生活をゆるく描いた作品です。

今回見直して、ほとんど画面は覚えていませんでした。
やはり、「ヌボーッとした」作品でした。

ただし、87年とは思えない映像の細やかさ、リアルさです。

僕の記憶によれば、解説の水野晴郎さんが、GAINAXという若い集団はいつか何かをやってくれる集団であるということをいっていたのが印象に残っていました。
エヴァを見たとき、その言葉を思い出しました。

若いクリエーターが、とにかくアニメを作りたいという情熱で作った作品で、脚本などはあまりいい出来ではないのですが、熱意は感じ取れます。

面白さは今一でしたが、一つの歴史を画した作品かもしれません。

2013年2月25日月曜日

「ふしぎの海のナディア」2回目

インターネットのバンダイチャンネルで「ふしぎの海のナディア」、今月いっぱい見放題なので、全39回、2度目見ました。2013年2月5日以来です。

その前に雑誌「月刊アニメスタイル」のナディア特集号を読みました。

庵野総監督は、もう話すことはないということで登場しません。彼らしいです。
その他の、演出家の方々がでてきて、当時のエピソードを語るのですが、かなり行き当たりばったりで作られたようです。

樋口真嗣監督が「〜強引に直してた。今にして思えばテロですよ。放送テロなわけですよ。本当に、よくあんなことが許されたなと思います。〜アニメテロですよ。〜オウムと変わらないわけですよ。〜いやオウムより上手くやってるのかもしれない。テロとして成功しているから」といっていたのは面白かったです。

とにかく、面白い作品。いろんなものが入っている。「エヴァンゲリオン」を見て、気分が暗くなったところ、気分を明るくさせてくれる作品です。

「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」と庵野氏が作った作品を比べてみると、やはり共通点があると感じます。

それは、「ハイブリッド」つまり、異質のものの混成物という点でしょう。

「トップ」や「エヴァ」では、学園コメディとSFロボットという対比。これは後に新海誠の「ほしのこえ」に受け継がれます。

「ナディア」19世紀的冒険小説的な世界、タイムボカンシリーズのパロディのギャグ、シリアスな80年代SFアニメの混成物です。

つまり、庵野監督は常に複数の視点でものを見ているのです。

「トップ」で原作の岡田斗司夫さんの影響を受けたのではないかと想像するのですが、くだらないギャグをマジメに作っていたかと思うと、いつのまにかそれがシリアスな場面になり本気で涙がでるような流れになっていく、しかもそれらが一つの場面に共存している。

「トップ」では、字幕で難しい物理学の話が続いている後ろで宴会でカラオケで「男と女のラブゲーム」を歌っているところが音声として流れる場面が象徴的でしょう。

「ナディア」でも。ノーチラス号が沈んで、ネモ船長がエレクトラに撃たれる場面のあと、ジャンとナディアとマリーがカプセルで脱出したシーンで、ジャンとナディアが真剣に泣いているところ、4歳の子マリーがオルガンを見つけて「遊びーたいー」とライオンのキングとはしゃいでいるシーンが象徴的です。

タンクに乗って空を飛んでいるシーンに洗濯物が干してあるとか。

また、普通の何気ない場面から、いきなり人が死ぬシーンがシリアスに描かれたりします。

この視点は、宮崎駿というよりもむしろ手塚治虫的な、大塚英志のいう「記号的な身体に死すべき身体が描かれる」という感覚に近いような気もします。

また、庵野さん自身の悩みや苦しみも、彼がこの様な複数の視点を常に持って見てしまうということからきている面もあるのではないかと思います。
登場人物を殺してしまうこととかがあるのですが、それも描くものにとってはきついのではないでしょうか。
特に庵野さんは動物が屠殺シーンを見てから、肉を食べられなくなったほど感受性の鋭い人です。だから、残酷なシーンをギャグの合間ででもシリアスに描ける。一方、その分精神的にきついのではないでしょうか。


今回見直してみて感じたのは、マリーの描かれ方がとてもキュートだということです。
はじめ見た時は、若い男女の主人公に幼児が必要かと疑問に思いましたが、見ているうちに、リアリズムではないのですが幼児の無邪気さと意外におませな感じが本当の子どものようで魅力的でした。
わがままでいつも遊びたいとか、ライオンの子キングと仲良く遊んでいると思ったら、キングをぶん投げてしまうとか、大人がしないので一人で気球を直す縫い物をしているとか、子どもってこんな感じだよねという気にさせられます。

宇宙戦艦がでてきて、それが敵にやられるというシーンも3作品に共通するものです。
宇宙戦艦は、ヤマトの影響でしょうし、味方がやられるシーンは描くのが好きなのでしょう。本人の破壊願望があらわれているのでしょう。

この様に、庵野さん分析にもなりますが、それよりもこのちょっと特異な名作を心ゆくまで楽しんでしまうのがいいと思います。

2013年2月24日日曜日

民主党

民主党は次回の選挙でも厳しいのではないでしょうか。民主党のせいというよりも、安倍政権の金融政策で株価が上昇して、景気が良くなってきているので自民党に投票する人が多いのではないかと思うからです。
それにしても、前回の衆院選では保守政党がことごとく議席を伸ばし、リベラル政党がことごとく議席を減らしたのは僕としては残念です。
民主党もリベラル層に支持されてきたのに、政権に入ったら保守化していったので、次回の選挙でもリベラルなことをいってもなかなか信用してもらえないかもしれません。
長期的視野での党の立直しが必要でしょう。

2013年2月23日土曜日

「見田宗介・真木悠介の思考をめぐって」

朝日カルチャーセンターの「見田宗介・真木悠介の思考をめぐって」という講座にいってきました。

社会学者、見田宗介(筆名、真木悠介)さんの思考を、御本人と教え子に当たる社会学者の先生方が語るという講座です。

僕は、社会学者宮台真司さんの回にでました。

以下、宮台先生による解説。

見田先生はもともも日本人の価値意識を統計的に分析をする仕事をなさっていました。

60年代末に、学園闘争華やかなりしころ、2年間メキシコに留学されました。
その後イメージチェンジして、見田ゼミは人気のゼミになりました。
しかし宮台先生は、見田ゼミの宗教的な雰囲気に違和感を覚えられたそうです。
しかし見田先生が、自分の教え子たちのことを客観的に見ていることを知り、納得したそうです。

見田先生の初期からの通底した主題は、近代がおかしな時代であり、その中で人は幸福で生きることが困難だというものでした。

70年代、真木悠介の筆名で書かれたものは、近代をふまえた上で近代の困難さを乗り越えようという試みのようです。
我々は、社会による「自明性の檻」の中に閉じ込められている。そこから、いかに逃れられるかが鍵だといいます。

そして、95年の「現代社会の理論」が極めて重要な書だと宮台先生はいいます。

近代資本主義社会は、「市場の限界」「環境の限界」「資源の限界」が必然的にもたらされる社会です。

しかし、資本主義を棄てることはできない。資本主義を前提条件としてそれらを乗り越える方法を模索します。

それが、「情報化」「消費化」です。
情報を享受するのには資源はいらない。だから情報を享受する社会になれば以上の限界を超えられるといいます。

これは旧来の左翼が、資本主義を否定していたのに対して、資本主義を肯定した上でその限界を乗り越えようとしたという点で画期的な著作だといいます。

しかし、それから次の問題があると宮台先生はいいます。
ただ社会が情報化、消費化したからといって、近代の「再帰性の泥沼」から脱出はできないというのです。

ハイデガーによれば、私たちは必ず「ここではないどこか」を求めてしまう。しかし、それは永久に満たされない。

ポストモダンの社会においては、全ての選択が「あの人だからそれを選んだのね」と「内部化」されてしまい、外部性が消失すします。

それは、「現代社会の理論」では、解決できない問題です。

そこには、見田先生が「宮沢賢治論」で論じた、「存在の祭りの中へ」という問題が含まれています。

けれども見田先生は、賢治が右翼団体国柱会に入ろうとしたり、「銀河鉄道の夜」の中で描かれた「世直しには犠牲が伴う」というテーマに触れようとしていないと、宮台先生は指摘します。

「世直しには犠牲が伴う」というテーマは未だに解決できてないテーマだともいいます。
見田先生が語らなかったことも重要だといいます。

見田先生の仕事の歴史がまとまって知ることができてよかったです。
さらに、宮台先生の現代社会に対する問題意識も確認することができました。

2013年2月21日木曜日

『時間の比較社会学』

真木悠介著『時間の比較社会学』を読みました。

真木悠介氏は社会学者見田宗介氏の筆名です。

見田宗介氏を初めて知ったのは、社会学者宮台真司氏がラジオ番組「荒川強啓デイキャッチ」の中で、自分の三人の師匠のうちの一人として、その著書『現代社会の理論』を紹介されたのが最初です。

僕の世代だと、宮台氏はカリスマ的存在で、その宮台氏の師匠というのだからすごい人だろうと思いました。

わざわざラジオで本を紹介するのも異例のことでした。

ちなみにあとの二人は小室直樹氏と廣松渉氏です。

僕は当時から、精神的に病んでいて苦しい中、新宿西口の本屋で『宮沢賢治』が置いてあって、同時代ライブラリーも終わりそうなのでもう手に入らないかもしれないと買ってみた思い出があります。

それから、宮台氏が確か「ダ・ヴィンチ」誌上でお勧めの本としてあげた『自我の起源』を買ったりもしました。

しかし、どれも難しくて、部分的に読んで、通読したのはかなりたってからです。

この本は、明晰に考えれば、人類の死というのは不可避である。そのときのニヒリズムからいかに脱却できるかを社会科学的に考察した本です。

明晰に考えれば考えるほど、人類の滅亡は必然であり、その深い絶望からは逃れられない様に思われます。

しかし、そこから逃れる一つの道はなぜ我々近代人だけがこの様な時間感覚を持つに至ったのか。その根拠を問うことから始めます。

すると、近代以前の人間の時間感覚は我々とは随分違うということが分ってきます。

未開社会では時間は円環というよりもむしろ振り子の様にいったりきたりします。

それがユダヤ・キリスト教文化の中で初めと終わりがある直線的な時間感覚が生まれます。

さらに、それが近代になると、「時は金なり」として「計られる時間」感覚が生まれます。

真木氏は、その時間感覚をのりこえて現在生きているこということで充足する時間感覚を取り戻すことを提唱します。

僕の下手な要約ではこんな感じのことが書かれていると思いました。

大変感動した覚えがあります。

見田氏が朝日カルチャーセンターで講義をするときに、リーフレットに何でもいいから文章を送って下さいと書いてありました。

僕は、悩んでいる間に書いた膨大な文章があるのですがそれを送っても迷惑になると思い、小説の形にした文章があったので、これなら心的負担も少ないだろうと思い、送ったことがありました。

その講義の中で、僕の話に触れて下さるかと思い講義にのぞみました。

講義の中で、見田氏は「ネットアイドル」の話をしだしました。

僕は、一人引きこもった中で勝手にプライドだけが肥大化して、「自分の小説は歴史に残る」とか思っていたので、他人から見たら「ネットアイドル」と同じレベルかと、肥大化した自分のプライドの滑稽さに恥ずかしくなってしまいました。そして、講義の間下を向いたままでした。

繰り返しますが、いわれたことに怒ったのではなく、自分の滑稽さに恥ずかしがったのです。

下を向いているとトイレにいきたくなり、途中で席を立つのもなんだなと思い、我慢していましたが、我慢できなくなって貧乏揺すりをしました。するとカルチャーセンターの人が気付いてくれて「先生、そろそろ時間です」といってくれました。慌ててトイレに駆け込み、複雑な気分でいた記憶があります。

その後、電車で家に帰るまで、複雑な気分でした。

今度の土曜日に、朝日カルチャーセンターで宮台氏が見田氏のお話をなさるというので、このことを書きました。

2013年2月17日日曜日

『ジャパニメーションはなぜ敗れるか』

大塚英志、大澤信亮著『ジャパニメーションはなぜ敗れるか』を読みました。

著者がまんが/アニメの国策化に感じた違和感を示した作品です。

まず、日本のまんが/アニメがディズニーの影響のもと戦時下に作られた歴史を振り返ります。

そして、現在日本のまんが/アニメが世界で受容されているのも限定的だということを数値をあげて証明します。

まんが/アニメが世界に普及することは単純に嬉しいこと。だけれども、それを国策として支援することが現実的に、また倫理的に妥当なことなのかを検証したものです。

極めれ理路整然と語られているので、納得させられます。

世界に誇る以前に、アニメーターの給与をなんとかしてあげたいと思います。

2013年2月13日水曜日

『大学論』

大塚英志著『大学論 いかに教え、いかに学ぶか』を読みました。

評論家で、まんが原作者の著者が神戸の美大でまんがを教えた様子を描いたエッセイです。

まんがを教えるのですから、普通の大学の授業とは随分違います。

一年からハードなカリキュラムで学生たちが泣きながらついてくる様子を描いていて、感動的ですらあります。

著者自身は、筑波大学で民俗学を習って、そこで恩師の千葉徳爾先生からいかに学んだか、また千葉先生が柳田國男からいかに学んだかが書かれています。

この本にでてくるように、はっきりとした目的を持って大学にきて、それに答えて厳しくても教えてくれる先生がいるというのは、ある意味幸福なことだと思いました。

「まんがを教える」という特殊な内容だからこそできた授業かもしれません。

僕も美大出身なのですが、うちの学校はどちらかといえば放任主義、自由にやらせるという校風でした。
それはそれで、本人のやる気次第でいいものを作ってくる人も多くいて、悪いことではないと思います。
僕は劣等生で、いつも悩んで何もいいものはできませんでしたが、この自由な雰囲気は好きでした。

この本とは、対極にあるようですが、それぞれ学校の個性があってもいいと思います。
芸術系の学科は、自由にしてのびる人もいるし、厳しくやった方がのびる人もいると思うので。

「トップをねらえ2!」

2004年から作られたオリジナルビデオアニメ「トップをねらえ2!」をネットで見ました。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の監督、鶴巻和哉が監督、庵野秀明は監修になっています。

前作「トップをねらえ!」とはテイストが全く違って、今っぽい丸っこいキャラクターでSFの世界がつづられていきます。

宇宙怪獣と戦うのは同じなのですが、前作のような学園コメディの要素はありません。
最後は地球を丸ごとぶつける、それを地球大のロボットが阻止するという、メチャクチャなスケールの話になっています。

そして前作のラストで12000年後の地球に戻るという話とつながって、今が12000年後だということが示唆され終わります。

「トップをねらえ!」のときのような思い入れはできなかったです。

よくある他のアニメとあまり差がない感じがしました。

それなりに面白くはあるのですが、意味がよ分らないところも多かったです。

前作とあまりにテイストが違うので、続編という見方はあまりできなかったです。

おたくに向けた作品という感じで、前作のようにおたくにも普通の人にも喜ばれる作品ではないような気がします。

よくできた、まとまった作品だとは思います。

2013年2月11日月曜日

『アトムの命題』

大塚英志著『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』を読みました。

ディズニー的な「非リアリズム」的な表現で、死にゆく身体を描いたのが手塚治虫で、それが戦後まんがの原点だといいます。

手塚は戦中、習作『勝利の日まで』で、ディズニー的なキャラクターを描いていましたが、戦争の体験を経てそのキャラクターを流血させます。

今までの、まんがの約束事では登場人物はどんな痛い目にあっても次のコマでは治っています。

ところが、手塚治虫はディズニーのような「非リアリズム」の身体に傷つき、死にゆく身体を描きました。これが、画期的なことだといいます。

さらに、日本のまんがが絵巻物や漢字仮名交じり文の影響でできたのではなく、戦前のロシアのエイゼンシュタインや構成主義からの影響を受けてできたものではないかという議論を展開します。

また、「アトム」が『アトム大使』として初登場するのが、ちょうど講和条約締結期に重なることから、「アトム」と「戦後」との関係は切っても切れないものだといいます。

マッカーサーが日本人を12歳の少年だといったこと、アトムがロボットであるが故に成長できないことが戦後日本の問題として語られます。

「エヴァンゲリオン」まで続く、この国の「大人になれなさ」の問題は、アトムにまで紀元を遡れるのかと思いました。

今までの、単純な「『新宝島』が映画的手法を取り入れた最初の作品」だという神話を解体する、精緻な議論が展開されます。

仮説の域をでないものもありますが、戦後まんがの原点を学ぶことができました。

2013年2月10日日曜日

2013年2月9日土曜日

「トップをねらえ!」

1988年に発売されたOVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)「トップをねらえ!」をバンダイチャンネルでiPadで見ました。

「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の初監督作品です。

「エヴァンゲリオン」のブームのときに見て以来、2度目です。

初めて見たときは、これが「エヴァ」の原点だと思いました。

父親を宇宙怪獣に殺された娘が、ロボットのパイロットになって復讐をするSFアニメです。

ロボット訓練の学校が学園コメディ風に描かれていて、ロボットが腕立て伏せをするなどのギャグが盛り込まれています。

その中で、ロボットとかメカの描写がかっこよく描かれている、と同時に日常の風景も、例えばコーヒーのメーカー名まで描かれているなど細かく描かれています。
SFの知識も細かく、どこまで本当か分らないけれども描かれていて、当時は気付かなかったけれども「ウォズニアックが語るMac」なる本もさりげなくでてきます。

また、入浴シーンなどセクシーなシーンもあって、まさに「サービス」満載です。

1度目はコメディとシリアスな物語が同居しているハイブリッド感はエヴァの元祖だと思ったのだけれど、2度目見てみると、ずっと真面目に見ていても耐えられるだけのしっかりした作品だと思いました。

メカのかっこよさと女の子の魅力的な描写は、初めからうまかったのだなと思いました。

宇宙怪獣はエヴァの「使徒」の元祖のような「訳の分からない敵」ですが、銀河系における人間がバクテリアだとしたら宇宙怪獣は、免疫系のようなものだという台詞がありました。
そう考えると、「使徒」もある種、生物の法則に則った必要な存在なのではないかと思えてきてしまいます。

戦艦の司令室のシーンは「ナディア」「エヴァ」のネルフ本部などに受け継がれて、庵野監督のお気に入りのシーンなのかなと思いました。それが、最新「ヱヴァQ」でいきなり宇宙戦艦がでてくる要因にもなったのかなと思いました。

88年の作品とは思えない質で、エヴァの教科書としても見るのをお勧めしたい作品でした。

2013年2月8日金曜日

『教室内(スクール)カースト』

鈴木翔著『教室内(スクール)カースト』を読みました。

「スクールカースト」とは、学校内での序列。
あるグループはカーストの上位にあり、あるグループは下位にあるといいます。

上位にいる子は、活発でスポーツが得意で自己主張がうまい。下位にいる子は地味でおとなしいという特徴があるといいます。
それは、かなり固定的な序列だといいます。

そんなのいつの時代でもあるのではないか、とも思いましたが、そのあらわれ方は時代とともに違うのかなとも思いました。

そもそも、活発な子が上位にいくというのは、犬や猿のような集団で行動する動物にまである普遍的なことではないかと思います。

昔からガキ大将と呼ばれる存在はいました。

しかし僕の時代、1970年生まれですが、との違いも少し感じます。

学級内で権力を持っている子たちは、当時は多かれ少なかれどこかで「不良」というレッテルが貼られていたと思います。今は、あまり「不良」という言葉を聞かない気がします。

「不良」というレッテルを貼られた子は大人たちや社会に対して対立していて、どこか暗い影があったように思います。

しかし、この本に書かれている「スクールカースト」上位の子たちは、昔の「不良」と共通の特徴を持ちながら、一方で学校生活を最もエンジョイできてる存在だといいます。

昔は、真面目な子が先生には望ましいと思われていたという感じがしますが、今は自己主張がハッキリできる子の方が望ましいと思われているようです。

なんか、アメリカ化してきたような印象も受けます。

ところでこの本で驚いたのは、先生方がこの「スクールカースト」を望ましいと思っているということです。
上下関係がすぐさま「いじめ」につながるわけではないのですが、「いじめ的」なことはよく起こるし、「いじめ」に最終的にいたることもあるようなのに。

「頂点の生徒はなにかをもっている気がしますね」
「強い子は、正直で自分を出せる子なんだ」
「コミュニケーションのやり方がうまい。それができるから外でも、自分が優位にたてるようにふるまえるんだ」
「強い奴を使って、いい方向にもっていくようなときもあるな。担任やっていてわかんなきゃザルだよ」

「弱い子は、見ていて気持ちいいものじゃない」
「弱い子は、100%将来使えない」
「こいつ大丈夫かなと思う」
「こっちが手を差し伸べてあげないと何もできねえから。なんかいわないと何もやりゃしねえ。覇気もない」
「人生損してると本当に思うもん」
「オレからすると損だけって感じがする」

スクールカーストについて。
「肯定するしかないかなあって思いますね。生徒のためを思ってそういう気持ちです」
「立場が弱いってことは、人に意見を聞き入れてもらえなかったり、人の支持を得られないってことの象徴なわけだから、まあ気付けってことですね」

非公然の権力関係の中で苦しんでいる子がいる中で、唯一公然の権力を持っている先生が強い子の味方をして、弱い子を見下しているという事実に、驚きと怒りを覚えました。

最後に解説で著者の師である本田由紀氏が、
「「下」として扱われること自体が、その当事者にとってはとても苦しい状態であることが多いと思われる」といわれていることが、せめてもの救いです。

ちなみに、僕自身は生徒時代にどうだったのか。
小学校から中学1年ぐらいまでは、活発なグループにいました。僕自身はスポーツは苦手で、気が弱くカーストで上位にいるようなタイプではなかったのですが、属するグループはなぜか活発な子が多かったです。でも、その子たちが中2ぐらいから段々「不良」化していき、使いっ走りのようなことをさせられてから、あまりグループに加わらないようにしました。
それ以外でも、その頃からクラスはグループ化していきます。その中でグループ内では外の人の悪口などをいって盛り上がっている。それが嫌で、その後はどのグループにも加わらない感じでした。個人的に親しい子はいましたが。

この本によると、どのグループにも属さない子は最下層だそうです。
カーストの最下層の人間から見ると、やはり強い者の味方をして、弱い者を見下す先生はひどいなあと思います。

僕が中3のとき、先生に3時間目ぐらいに「きてたの、気付かなかった」といわれたことがあります。それは、悪意があっていったわけでないので恨んでいませんが、それくらい影が薄い存在でした。

高校のときは、なんと3年間同じ担任の先生だったのですが、僕が大学を受け直すときに内申書をもらうために電話をしたら、「どうしても思い出せない」と僕の存在は忘れられていました。

まあ、それくらい下の下の人生でした。



2013年2月7日木曜日

わんこそば

父母と蕎麦屋にいって、わんこそばを食べました。
わんこそばといっても、食べ放題ではなく、12杯用意されたものを食べるものでした。

2013年2月5日火曜日

「ふしぎの海のナディア」

NHK総合テレビで1990年から39回放送のアニメ「ふしぎの海のナディア」をネットで全話見ました。
バンダイチャンネルでiPadで見ました。
「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督が総監督を務めた作品ということで見ました。

今、感動でいっぱいです。

以下、ストーリーを書きます。

舞台は19世紀末のパリの万国博覧会。
発明好きの眼鏡の少年ジャンは、不思議な宝石を持った褐色の肌の少女ナディアと出会います。そこに、その宝石を狙った悪の三人組がナディアを襲います。ナディアはサーカスの少女だったのです。ジャンはナディアを自分で発明した飛行機や船で救います。

これって「天空の城ラピュタ」と「タイムボカンシリーズ」をかけ合わせただけじゃないか、と思いました。

その後、海にでて、戦艦に救われてまた海に投げ出され、今度は万能潜水艦ノーチラス号というSF的な乗り物に助けられます。

色々なジャンルのアニメがあわさって妙な感じです。

「ラピュタ」に似ているのは、Wikipediaによると「ラピュタ」を作る前に宮崎駿監督がNHKに海底を世界一周する物語を持ちかけていたかららしいです。

「ラピュタ」はSFですが、主人公が乗る飛行機も19世紀らしい雰囲気で作られていますが「ナディア」は、19世紀の少年が21世紀のマシンに乗るような奇妙なギャップが存在します。

「ラピュタ」と「タイムボカン」と「ヤマト」と「ガンダム」と「マクロス」を混ぜたような感じです。
でも、それでどんどん話が進んでいくのです。

ノーチラス号が壊されてから、ナディア、ジャン、4歳の少女マリーと、ライオンの子どもキングは、無人島に流されてしまいます。

するとそこからは、無人島での生活が何話か続きます。

さらに悪役3人組のグランディス一味と再会して、そこから奇想天外なギャグが続きます。

その一方でナディアは、古代アトランティスの末裔で宇宙人だということが分ります。そして、アトランティスの復活を目論む悪の組織ネオアトランティスのガーゴイルという覆面の悪者と戦います。

古代アトランティスの文明を持ったネオアトランティスは、一つの島を爆破させるほどの力を持っています。
それに対抗できるのは同じく古代アトランティス文明の力で復活したノーチラス号のネモ船長だけです。

この様に、極めておふざけなギャグと、極めて深刻なドラマが平行して続いていきます。
人が殺されるシーンがでてきたりもしますが、グランディス一味も仲間になって最終話まででてきます。

このハチャメチャだけど泣ける展開は、「トップをねらえ!」などGAINAX作品の特徴でもあるようです。
庵野監督がどの程度ストーリーに関わったのだろうかと思っていましたが、Wikipediaによると、かなり関わっているようです。

他のアニメに似ているのは、かなり意図的なオマージュのようです。

物語の中で、ジャンは人のいい男の子でいつもナディアを喜ばせようと頑張りますが、ナディアはいつもつれない態度で落ち込んでしまいます。
ナディアは気が強くて、何でも一人でやっていこうとします。そして、サーカスで動物が殺されるのを見てから、肉を食べない菜食主義者になります。庵野監督が肉を食べないのは有名です。そして、動物を殺す人を残酷だと非難します。
ナディアがこれだけ気が強いのは、色の黒いアフリカ人でサーカスで育ったという疎外感が強くて、素直に人に甘えられないからではないでしょうか。
僕もはじめに見たとき、色の黒い主人公というのはどういう意味でこの設定にしたのだろうと不思議に思いましたが、しだいにナディアの魅力に惹かれていって肌の色なんて気にならなくなりました。
ナディアも徐々にジャンに心を許してファーストキスをします。
このようなナディアの心の変化も物語の魅力の一つです。

4歳の女の子マリーも、ライオンのキングを思いっきりいじめて喜んでいる姿などは笑えます。こどもらしいわがままさや、お兄さんお姉さんたちに愛想を尽かすようなところは面白かったです。

最後に、残忍なガーゴイルをやっつけて、宇宙から地球に帰って終わりになるのですが、その後に後日談があります。

そこでは、ジャンとナディアは結婚していました。感動しました。
シリアスな戦いがあってネモ船長は実は娘であったナディアを「生きろ!」といって逃がし自分は敵の要塞とともに爆発してしまいます。

深刻な物語のラストにしんみりしているところ、物語のあとに十数年たったマリーが後日談を語ることで明るい気分になれます。

ストーリーが辻褄あわせのようなところもあり、この作品は作りながら物語を考えていったのではないかと思わせるところもありますが、結果的には予想以上の面白い感動的な作品になっていました。

またWikipediaによると関連商品も多数発売されて、違ったストーリーも多数生まれたようですが、僕はこのオリジナルが好きです。

「エヴァンゲリオン」と共通する部分も探せばありますが「ナディア」の方がずっと健康な作品といえるでしょう。

ジャンとナディアが、シンジとアスカに重なる部分もあります。例えばマリーが二人を夫婦ゲンカだと揶揄するところとか、ナディアが気位が高くて冷たいところとか。しかし、ジャンはシンジと違って発明には天才的な才能を見せるなど自信家でもありますし、超エリートのアスカと違って、ナディアは底辺で生きてきた人です。共通点を探すこともできますが、違いも重要かなと思います。

ただ終盤まではナディアの気の強さと怒りっぽさにちょっとあきれてしまいます。もう少し可愛げがあってもとも思ってしまいますが、それが終盤になって可愛げがでてきてさらに魅力的になっていく感じがしました。

「エヴァ」にしばらくはまっていて、「エヴァ」の世界に浸っていましたが、それがこれを見て今は「ナディア」の世界に居心地のよさを感じています。

2013年2月2日土曜日