2013年2月21日木曜日

『時間の比較社会学』

真木悠介著『時間の比較社会学』を読みました。

真木悠介氏は社会学者見田宗介氏の筆名です。

見田宗介氏を初めて知ったのは、社会学者宮台真司氏がラジオ番組「荒川強啓デイキャッチ」の中で、自分の三人の師匠のうちの一人として、その著書『現代社会の理論』を紹介されたのが最初です。

僕の世代だと、宮台氏はカリスマ的存在で、その宮台氏の師匠というのだからすごい人だろうと思いました。

わざわざラジオで本を紹介するのも異例のことでした。

ちなみにあとの二人は小室直樹氏と廣松渉氏です。

僕は当時から、精神的に病んでいて苦しい中、新宿西口の本屋で『宮沢賢治』が置いてあって、同時代ライブラリーも終わりそうなのでもう手に入らないかもしれないと買ってみた思い出があります。

それから、宮台氏が確か「ダ・ヴィンチ」誌上でお勧めの本としてあげた『自我の起源』を買ったりもしました。

しかし、どれも難しくて、部分的に読んで、通読したのはかなりたってからです。

この本は、明晰に考えれば、人類の死というのは不可避である。そのときのニヒリズムからいかに脱却できるかを社会科学的に考察した本です。

明晰に考えれば考えるほど、人類の滅亡は必然であり、その深い絶望からは逃れられない様に思われます。

しかし、そこから逃れる一つの道はなぜ我々近代人だけがこの様な時間感覚を持つに至ったのか。その根拠を問うことから始めます。

すると、近代以前の人間の時間感覚は我々とは随分違うということが分ってきます。

未開社会では時間は円環というよりもむしろ振り子の様にいったりきたりします。

それがユダヤ・キリスト教文化の中で初めと終わりがある直線的な時間感覚が生まれます。

さらに、それが近代になると、「時は金なり」として「計られる時間」感覚が生まれます。

真木氏は、その時間感覚をのりこえて現在生きているこということで充足する時間感覚を取り戻すことを提唱します。

僕の下手な要約ではこんな感じのことが書かれていると思いました。

大変感動した覚えがあります。

見田氏が朝日カルチャーセンターで講義をするときに、リーフレットに何でもいいから文章を送って下さいと書いてありました。

僕は、悩んでいる間に書いた膨大な文章があるのですがそれを送っても迷惑になると思い、小説の形にした文章があったので、これなら心的負担も少ないだろうと思い、送ったことがありました。

その講義の中で、僕の話に触れて下さるかと思い講義にのぞみました。

講義の中で、見田氏は「ネットアイドル」の話をしだしました。

僕は、一人引きこもった中で勝手にプライドだけが肥大化して、「自分の小説は歴史に残る」とか思っていたので、他人から見たら「ネットアイドル」と同じレベルかと、肥大化した自分のプライドの滑稽さに恥ずかしくなってしまいました。そして、講義の間下を向いたままでした。

繰り返しますが、いわれたことに怒ったのではなく、自分の滑稽さに恥ずかしがったのです。

下を向いているとトイレにいきたくなり、途中で席を立つのもなんだなと思い、我慢していましたが、我慢できなくなって貧乏揺すりをしました。するとカルチャーセンターの人が気付いてくれて「先生、そろそろ時間です」といってくれました。慌ててトイレに駆け込み、複雑な気分でいた記憶があります。

その後、電車で家に帰るまで、複雑な気分でした。

今度の土曜日に、朝日カルチャーセンターで宮台氏が見田氏のお話をなさるというので、このことを書きました。

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