2009年12月30日水曜日

自己


ここに一つの精神科クリニックがある。
そこに一人の患者が訪れた。
彼は意識はしっかりしているが、統合失調症特有のまどろんだ視線は明らかに精神の病をうかがわせる。
クリニックの受付の女性はもう慣れているので、患者との適切な距離をとりながら応対する。
初診なので、診察までに所定の用紙に必要な情報を書くように勧められ、彼はゆっくりと長椅子にすわって、受付から受け取ったボールペンで書き始めた。
書き終わり受付に前の病院でもらった紹介状と一緒に紙を渡すと、時間まで彼は長椅子にすわってじっと虚空を見上げていた。彼の視線の先には、やや大きめの何の飾りもない時計があり、その秒針が動くのを彼はじっと見続けていた。

時間が来て、診察室に呼ばれた。

医師は、先に記入された用紙を見て情報を入れると同時に患者を見て、病状を判断する。
同時に、患者は患者でこの医師がどの程度信用できるかの値踏みをする。

「昭和45年生まれ、39歳。今は誰と暮らしているの?」
「両親とです」
「お父さん、お母さんと」
「はい」
「ご兄弟は?」
「姉が2人いましたが、一人は僕が小学生のときに病気で亡くなりました」
「何の病気?」
「癌です。子宮癌かなんか・・・ちょっと詳しくはわからないんですけ・・・」
「もう一人のお姉さんは?」
「結婚しましたが、離婚してうちの近くに住んでいます。子供2人と」
「歳はいくつ離れているの?」
「上の姉とは14、下の姉とは7つです」
「ずいぶん離れてるね」
「は、はあ・・・」
「職業は・・・大学院生・・・多摩美術大学。タマビだ」
「はい」
「何ならってるの?」
「えーデザインです」
「ふーん。どんなデザイン」
「えーと、コミュニケーションデザインていって・・・」
「どんなことするの?」
「えー、あの口で言うのは難しいんですが、グラフィックデザインみたいな・・・」
「今は何をデザインしてるの?」
「えーと。コンピュータのインターフェースです」
「コンピュータのデザイン?」
「えーと、その、インタフェースっていって、コンピュータの画面とかってお年寄りとかには難しいと思ったので、もっと使いやすいインターフェースをデザインしようと思いました」
「ああ、それはいいよね。確かにコンピュータは使い方は難しいよね」
「はい」
「今は大学にはいってるの」
「はい、一応今年の4月から復学して。それまで2年間入院していたんで休学してました」
「今なんか、辛いところとかある?」
「時々、なんか落ち着かないような、内側から衝動が沸き上がるような辛さがあります」
「衝動って、どんな衝動」
「えーと、口で言うのは難しいんですが、何か内側からせかされるような・・・」
「内側ってどのへん?」
「だいたい胃のあたり」
「ふーん。それは、いつもなの?ない時もあるの?」
「あるときと、ないときがあるんです」
「今は?」
「今は、ないです。昔はひどくてすごい辛かったんですけど、最近は段々減ってきた感じ・・・」
「ふーん。衝動ね」
「はあ」

医者は彼をとおまきに眺めた。紹介状に目を落とし様々な病名を思い浮かべた。しかし、紹介状を書いた医師のいう通り、統合失調症の回復期というのが最も妥当だろうと思った。抗精神病薬を続けていくしかないだろう。少しづつでも社会に慣れてもらって、社会復帰をしてもらおうと思う。
「じゃあ今日はこれで」といって医師が処方箋を書き出すと、患者は立ち上がり
「ありがとうございました」といって診察室を出た。


翌週、同じ時刻にその患者は現れた。
この前と違って、表情が険しく苦しそうにも見えた。
「次の方どうぞ」
患者はドアを軽くノックして、診察室に入った。
苦悩の表情で椅子に座った。医者は、その表情を見て少し心配になった。
「なにかあった?この一週間」
「・・・」
「なんか辛いことでもあったの?何か苦しそうだけど」
「・・・」
患者は苦悩の表情を微動だにせず、一点をずっと見つめていた。
医者はどこを突破口にしようか考えた。あまり、中に入り込むと危険だと感じたので、周りから責めていこうと思ったが、患者が何に反応するかはわからなかったので、手探りで診察を進めいくしかなかった。
「今の気分はどう?」
「(小声で)良くないです」
「どうよくないのかな」
「苦しい」
「苦しい?」
「・・・」
「どう苦しい?」
患者は眉間に皺をよせて、苦悩に耐えるように目をつぶって、頭をすこし上へ傾けた。
医者は、無言で患者の言葉を待って、患者を見つめ続けた。
患者は、必死に言葉を探しているようだった。自分が体験したことがない感情を何とか言葉にして伝えようとして、言葉が見つからないで苦しんでいる。ときどき、小声で独り言を、音になるかならないかほどにつぶやき、すぐに首を振って、「ちがう!ちがう!」と打ち消そうとする。
医者も今が極めて重要な時だとわかっているので、彼の口から言葉が出るのをいつまでも待ち続けた。
患者は医者の態度を確認して、深いため息をついて小声で話し始めた。
「実は、狙われてるんです」
「狙われてる?誰に?」
「それはいえません」
「どうして君が狙われているの?」
「僕が以前、政治的な発言をしたことがあって、僕は思想的には「左」なんですが、多分右寄りの人たちがそれに怒ってやっているんだと思います」
「そんな、大変なことをいったの?」
「いや、大変というよりも。以前、少年法時改正のときに少年に風当たりが強くなって、皆が少年を厳罰化すべきだという雰囲気の時があったんですよ。そのときに僕が厳罰化反対とはっきりいったことがあります」
「うーん。それで、どんな風に狙われてるの?」
「狙われていると言うか、すごいいやがらせですね」
「どんないやがらせ?」
「例えば、うちの上空を飛行機やヘリコプターが一日に何度も、大きな音をだして飛んでいたりとか・・・」
「うーん。でも、うちの上にも飛行機やヘリコプター飛んでくることあるよ」
「それが、毎日ですよ。しかも一日多い時で10回以上」
「いやがらせはそれだけ?」
「いいえ、他にもあります」
「どんな?」
「まず、明らかにこの人たちはコントロールされているなという人が街に何人もいたり」
「どうして、コントロールされてるってわかるの?」
「例えば電車に乗ったときに、向かいの席の人が全員うつむいているとか」
「う~ん」
「あとは、色々なものが変えられている」
「変えられている?例えば?」
「例えば、うちの隣の家は30年以上普通に住んでいて、きれいな日本庭園があったんですけど、僕が病院から帰ったときにぴったりそのときに取り壊されなくなってしまったり、あとは僕の最寄りの駅が、僕が2年前入院したときに改築したんですけど、それがまた全然違う建物になっている。2年前に改築したばかりでまた改築するなんて普通ではあり得ないでしょう。それから、学校へ行く電車が全て各停だったのが、線路が増えて急行ができてたり。乗り換える駅の前は再開発の大工事中ですよ。ずっと通ってたカルチャーセンターの地下の商店街がすべて閉鎖されて壁になっていたり、10年以上同じだった受講券が違うものになっていたり。あと、商品も変わっていて、まずタバコのパッケージが変わった。僕は今は吸わないけど、昔吸ってたマルボロだけは変わっていないんですよ。不自然だと思いませんか?さらに、僕の住んでいる吉祥寺の街が変えられているかもしれないと恐る恐る、訪問看護の人と一緒に見に行ったら、7割がた店が変わっていて、残りの店もほぼ全て改装されていました。これだけのことがちょうど僕の退院のときに重なるなんて、偶然だと思いますか?さらに商品のパッケージデザインもほとんど変わってるし、建物も2年前にあったものがなくなり、新しくなっている。偶然そう感じるだけじゃないですよ。僕は前に病院ではっきりいったんです。敵の性格からいって、僕にプレッシャーをかけても僕は変わりませんから、今度は周りにプレッシャーかけてけて変えてやろうと思うだろう。だから、病院の閉鎖病棟で外に出られないときにも、街が変えられると心配してました。そして、まさにその通りになったのです。だから、たまたまそう思ったというわけではありません。僕がデザインを勉強しているからデザインでいやがらせをしてやろうと思ったんじゃないですか。デザインの中身では勝負できないので物量作戦で、これだけたくさんデザインを変えてやれば、自分の力を見せつけられるので、それで、こっちの勝ちだとでも思ってるんじゃないですか。それで、これだけ大規模に変えるんだから大きな力があると恐がってぼくが政治的立場を変えるとでも思たんじゃないでしょうか」
「・・・でも、それらの変化が本当に鈴木さんへのいやがらせのためにやられたのかねえ?そこまでするには相当お金もかかるでしょう。そこまでしてまで鈴木さんをやっつけなきゃいけない理由があるんですか?一度カルチャーセンターで発言しただけでしょ?」
「それから、僕の書いた小説を有名な学者に見せたこともあります。それで、カルチャーセンターは日本を代表する学者が集まってくるところだから、そこで僕のことが話題になった様子なんですよ。だから、僕が発言することで学者が本を書いたりして、それで世論の論調が変わったりするすることがあるのです。だから、その元になってるぼくをまず黙らせようと考えたんじゃないですか。敵の言いなりになる人ばかりの中で、一人いうことをきかない人間がいると、他にも反発する人が出てくるかもしれないからぼくを叩いて、逆らうとこんな苦しい思いをするぞという見せしめにする。あと自分たちの力の強さを見せつけ、かなわないと思わせて怖くて逆らえないような脅しという意味もあるんじゃないですか。実際そうされると、怖くて従っちゃう人がものすごく多いんですよ、日本では。ほんと、驚くほど多いですよ」
「君は、犯人は誰かは知っているのかい?」
「だいたいあの辺りだなというのはわかりますし、固有名詞も浮かびますが証拠がないのに名前を出せば名誉毀損になるので今はいえませんが」
「あのあたりって?」
「だから、右翼とかそれに近いあたりじゃないですか」
「固有名って右翼の?」
「いえ違います」
「どんな関係の人」
「テレビとかで色々意見を言ってたりする人でこの人かもしれないというのがいるんです。名前は、証拠がない間はいえませんが、証拠が出てきたらもちろんいうし、警察にいって逮捕してもらいますよ。今はタレントをやってるBとだけ言っておきましょう。ところが、困ったことに警察もこういう政治的な問題にかかわり合いたくないんですね。パソコンとかもいじられていますから、パソコンや携帯がおかしな動作をした時にすぐに警察に電話してきてもらったり、こっちから出向いたこともあるんですが、警察のひとは『機械のことはぼくらわからないからメーカーに聞いてから来て』と、なんか面倒なことにかかわりたくないという態度が見え見えなんですよ。そういえば、鉄道会社の制服もほとんど、この2年で変わったんですが、警察の服やパトカーのデザインも変わったんで、最悪、その圧力が警察にまで及んでいる可能性もあると考えています。ですから、犯人を逮捕するためにはまず警察の自浄をしなければならないと思います。あと、本も新書とか文庫のデザインが変わっていたり、雑誌が無くなっていたり、マスコミにも圧力がかかっている可能性が高いです。デザインの変遷を細かく調べていけばこの2年に突出して変わったというデータが出るはずです」
「でも、デザインってよく変わるからね・・・」
「それが、尋常じゃない量で、しかも僕に関わりが深いものが集中的に変わっているんですよ。偶然であり得ません」
「確かに色々変わったかもしれないけど、今の時代の東京なら2年経ったら相当変わるよ。2年あれば全然違うものに見えることもありうるんじゃないかな。それに、君の周りだけが変わったっていうけど、じゃあ他の街には行ったの?」
「知らない街なら変わったか、変わらないかわかりません」
「まあそうだね、でも街が変わったのが君へのいやがらせだとしたら随分お金をかけたいやがらせだね。だいたい、テロリストに対してだってそこまではしないと思うよ。そんなに君は敵から見たら危険なのかい?」
「さっきも言った通り、一人逆らう人がいればそれが蟻の一穴になってみんな逆らうかもしれないし、ぼくが怖いというより、俺たちに逆らったら怖いぞというメッセージとしてやっているんだと思います」
「それで、君はどうするの?警察にも圧力かかっているんだろ。どうやって戦うんだい?」
「一応blogで僕の意見は発表しています。僕は民主党支持なので、民主党が政権をとることで、僕に有利な状況が生まれることはありうると思っています。今回の選挙でもblogでも僕は民主党を応援するblogを工夫して作りましたし」
「でも、君のblogを見る人が何人ぐらいいるかな・・・何人ぐらいに教えたのアドレスを?」
「親戚やカウンセラー以外は、一人有名な学者に見せました」
「一人・・・」
「でもその人も民主党に人脈があるし、学者や政治家やマスコミ人が読んでる可能性は高いと思います」
「どうしてわかるの?」
「書いてあることや、発言が僕のblogの言葉と一緒だったりするんです」
「例えば」
「例えば、鳩山首相が選挙後に『これがゴールじゃない今はスタートラインに立った時だ』といいましたが、これは僕のblogに書いた言葉です」
「でも、その言葉はぼくは昔からよく聞いたような気がするな。いわゆる常套句って知ってるかい?」
「他にも、『外国とはwin-win関係であることが望ましい』とか・・・」
「その言葉もニュースで何度も聞いたよ。君の専売特許じゃないだろう。あのね、君の病気の特徴というのはね、色んなことを繋げて考えちゃうことなの。それで、それを信じ込んで疑問を一切拒否する態度を取るの。だから、『スタートライン』も『win-win関係』も昔からみーんないってた言葉なの、それを、自分のblogの言葉と総理大臣がいった言葉が同じだからって君のblogを総理大臣が見たっていうのは、もすごーく離れたもの同士を繋げちゃう君の病気の特徴なのね。そういう人は、例えば100のうち1~2同じだと自分と関係あると思っちゃうのね。99の違いは見ないの。だれだって100個に1個ぐらいは同じ言葉使うでしょ。それで、自分は総理大臣とつながってるって思い込んじゃって、反対意見は全部拒否しちゃうんのね。だから、なんか変化があったらきっと裏で操っている奴がいる、ぼくをいじめる奴がいるってすぐ思っちゃうの。あのね、湾岸戦争ってあったでしょ。前のブッシュのお父さんの時。戦争したんだよね、アメリカとイラクが。その時、多くの精神科に『湾岸戦争が起こったのは自分のせいだ』ってうったえにきた患者さんがたくさんいたの。でも、どう考えても、日本の普通の人が戦争を起こせるとは思えないよね。思えるかい?百歩ゆずって誰かのせいだとしても、それなら犯人が何人もいるのはおかしいよね」
「・・・」
「なんで、湾岸戦争のときにそんなに多くの人が自分のせいだと思ったかっていうと戦争が始まるまでの時間がすごく長くてそれまでメディアで洪水のように情報が流されどうすれば止められるか議論がずっと新聞やテレビにでたの。それでいつの間にか自分たちが戦争を起こせたり止めさせたりできると思い込んじゃう人がいっぱいでてきたといわれているんだ。こういうふうに何かあったら自分のせいだとか、自分にいやがらせでやっているんだと思っちゃうのが君の病気の一番典型的な症状なんだ」
「でも、インターネットは実在のものですよ」
「でも、見せたのは学者一人だよね」
「はい」
「その人が、君のblogを他の人に見せたって証拠でもあるのかい?ぼくもよく患者さんからblogのアドレスをもらうけどね、自分の気持ちはここにありますっていうんだ。でも、それを第三者に見せることなんて一度もないよ。実はぼくもあまり読まないんだけどね。フフフ、でもね、書いてる人は真剣なの自分のブログが世界を動かしてる気になっちゃうの。そこがインターネットの危険なところなんだよね。ところで君のblogはコメントとかのせられるの?」
「はい・・・」
「今までどれくらいコメントがきた?」
「今のところきてません。多分、この問題に関わるのが怖いんでしょう」
「コメントもひとつもなし・・・あの、インターネットって実際つながってるから、否定するにも証拠がないから否定できないんだよ。でも、よく考えてごらん。総理大臣っていうのはまわりに東大出たような頭のいいスタッフにかこまれているんだよ。それを、どうして誰にも知られていない学生のblogの影響を受ける必要があるの?常識で考えてごらん」
「・・・」
「そうやって、何でも自分に結びつけて考えちゃうのが、君の病気の特徴なんだ。なにかおかしなことがあると自分へのいやがらせだ。自分は総理大臣も知っている偉い人だから狙われてるんだって思っちゃうんだよね。でも、よく考えてごらん。本のデザインが変わることとか、家が建て替えられることとかが総理大臣とどういう関係があるんだろう?関係ないよね?普通に考えれば。君を本当にねらうならなんで君を傷つけたり、なにか君を脅かしたりしないんだ。そのほうがずっと安上がりじゃないか。それを、飛行機とばしたりデザイン変えたりして、どうしてそんなめんどうくさいことするんだろうね」
「それが奴らのやり方なんですよ。怖いぞと思わせてじわじわ苦しめようという・・・いかにも奴らしい嫌らしいやり方です」
「その『奴』がやったって証拠はあるのかい?」
「具体的にはないです。あ、でも証拠と言えば、ヘリコプターはビデオに撮りました」
「でもヘリコプターが飛んでいるのが君へのいやがらせだってことは証明できる?」
「今はできません。でも、これだけの大規模ないやがらせならかかわった人も沢山いるはずです。その人たちが証言してくれれば『証拠』はなくても『証人』は沢山いるはずです」
「その『証人』は見つかりそうかい?」
「今は無理かもしれません。敵を恐がっている人が異常に多いですから。でも、これから少しづつさがしていくつもりです」
「それはご苦労なことだね」
「法を犯して他人の言論を弾圧することは許せません。それから、人をおどして自分の命令に従わせることも犯罪です。ですからあらゆる手段を使ってでも犯罪を立証していきます」
「そうしたら、どうすれば君は満足するんだい」
「主犯と実行犯が逮捕され、公正な裁判を受けさせ、刑が確定して、刑が執行されるまでです」
「それは、どれくらいかかりそうだい?」
「数年。いや十年以上かかるかもしれませんが必ずやりとげます」
「どうやって?」
「まずはblogなどで真実をうったえて、すこしづつ味方を増やします。将来的にはもっと大きなメディアにも出るようになってぼくを信頼してもらえるようにします。その間に『証拠』と『証人』を集めます」
「そりゃ大変だ。だけどね、本当にいるかどうかもわからない犯人と何年も戦うなんて人生、もったいないと思わないかい?それぐらいなら、自分のやりたいこと見つけていやがらせなんか気にしない人生のほうがいいんじゃないかな?なんでも自分へのいやがらせだと思わず、これからは偶然こういうこともあるよねって考えた方がいいんじゃないかな。その方が楽だよ人生。何もかも自分と関係あると思って、自分がblogを書いたらそれで総理大事の態度が変わるなんて思ってたら、生きてくのが重くてしょうがないでしょ」
「先生はわかっていていっているんですか?」
「誰もわからんよ。だって証拠がないんだもの」
「・・・」
「それより、ぼくは君にとって何が一番大切なのかということを考えていっているんだ」
「・・・」
患者は、少し落胆した様子だった。
医者は時計に目をやった。
「はい、じゃあ今日はこのぐらいにしてつづきはまた来週ということで・・・いいかな?来週は同じ時間で大丈夫?」
「大丈夫です」
患者は小さな声でこたえていった。医者は机に向きをかえボールペンで処方箋を書き出した。
「この前の先生と同じお薬を出しておくけど、いいかい?」
患者は下を向いたまま小さな声で
「はい」といって立ち上がった。
「ありがとうございました」といって力ない足取りで部屋を出てドアを閉めた。


翌週の同じ日に、患者はクリニックに現れた。
ドアを入って、ポケットから財布を出しその中から診察券を取り出し小さな箱に入れた。待合室には、若い女が二人、年配の男がいた。
患者は長椅子の空いている席にすわった。以前とおなじ険しい表情で固くなっていた。
見上げるといつものように時計があった。今日はすこし周りにも目を配ってみた。
観葉植物もいいわけのように、とりあえずという感じで、葉っぱにつやもなく置かれていた。棚にはどこか外国か地方のお土産かと思われる手製の動物の人形が2、3個置いてあった。
壁には壁紙との調和など一切気にせずに派手なデザインのカレンダーが掛けてあった。
患者は今日はそのカレンダーに目を留めた。じっと見つめていた。はたから見れば何を考えているのかわからない。そんなに、そのカレンダーが気に入ったのか。
患者はカレンダーを凝視しつつ、カレンダーに書かれてあることなどほとんど気に留めなかった。彼の脳はしかし、異常に早く回転していた。医者の顔が頭に浮かび、どうやって彼に納得させるかのイメージトレーニングを繰り返していた。
一週間に一度、15分の診察だけが彼が本当のことを言える場、「甘え」がゆるされる場だと彼は解釈していた。

「鈴木さん」
事務的な声が彼を呼んだ。
患者は立ち上がり診察室入っていった。

患者は椅子にゆっくりと腰掛け、医者の方をなんとなく眺めた。苦痛と疑念に満ちた目で。
「こんにちは、よろしくお願いします」
と、小声で言った。
「こんにちは。どうですか、今、困っていることはある?」
「あの・・・本が読めないんです」
「本?どんな本?」
「小説です。他の本は、何とか読めるんですけれども、小説がどうしても読めないんです」
「いつ頃から?」
「昔からです。もともと本を読むのは苦手だったんですが、普通の本は情報を得るために読むんですけれども、小説は架空の人の人生の情報を得てもしょうがないので昔から興味がなかったんです」
「だったら。無理して読まなくてもいいんじゃないか?」
「えーと、ぼくは今、『文学特殊研究』って授業をとっているんですよ。小説を書く授業なんですけど。実は、小説を読むのは嫌いなんですが、今まで書いたことはあるんですよ。なんで書いたかっていうと、その時精神的に危機的状態にあって自分の苦しみを人に伝えたかったんですね。でも、従来の言葉では内用が複雑すぎて伝えることができなかったんです。そこで、『小説』という形式をとらざるを得なかったんです。そのときもカウンセリングを受けていて、カウンセラーの先生にいったら、見せてくれというので見せたんですね。そうしたら、そのカウンセラーが有名な劇団の関係者で、普通ならいかないんだけど、どんどん上にいってその劇団のトップで日本を代表するような演出家の人が読んだんですが、その感想が『大学生にしてはよくできてる』ってものだったんです。それを聞いてぼくは『どんなに、深いテーマで、どんなに表現に気を使っても伝わらないものは伝わらないんだ』と思いました。それから、もう一本は精神病になった時点で書いたんですが、もちろん誰も理解はしてはくれないから、誰にも見せずにいました。ただ死んでから何百年かに一人でも理解できる人がいればいいかなと思って。少なくとも、理解はできないまでも、精神疾患の当人が書いた記録として精神医学的に資料的価値はあるかなと思って書きました。そのときは、頭では理解されないことはわかっていたんですが、このまま死んだらこの重要な思想も誰の目にも留まらず消えていってしまうと感じて書かずにはいられなかったんです。今回の『文学』の授業も自分は才能があるかもしれないと思ってとったんですよ。でも、ぼくは本、特に小説は読まない。だから毎週書いていったんですが読むことはできなかったんですね。先生は始めはほめてくれて『存在感がある』とかいってくれたんですが、『君の欠点は文体がない事だね』というんですよ。ぼくは意味がわからなくて。『文体』っていうのは、文章のスタイルだと思っていたので。ぼくの書く小説は実験的に色々なスタイルでみんな書き方を変えてあるんですよ。あるものは、女の子の日記だけでできてるもので、地の文がないんですね。日記はその人らしく書くから当然ぼく自身の文章を書く場所がないんですよ。全部わざと違う人が書いたように書いたから。でも、先生は『文体がない』『文体がない』とくり返すわけですよ。でも、文章なんだから何らかの『文体』はあるはずでしょ。なければ文章ではないんだから。だから、『文体』が下手だというならわかるんですけど、『ない』っていうのがわからなくて悩んでいると先生は『とにかく人のものをたくさん読みなさい』といわれるんですよ。先生は芥川賞を取った、偉い先生なんですけれども、早稲田を出てアメリカに行ったり、パリに行ったり、典型的な60年代の『カウンターカルチャー』世代の人って感じで、『文学とはかくあるべし』とか、酒を飲みながら『文学論』なんかを交わしそうな、そういう感じの人なので、先生のいう『文学』のイメージのワクにはめられそうなのが嫌なんですよ。ぼくは今まで本を読まなかった分だけ他人の影響を受けていない。だから、今までとは違った作品を書いてやろうと思って書いてるんです。だけど『人の作品を読め』っていわれて、型にはめられる不安もあるんです。でも、考えてみて過去のものを批判するにも過去のものを知っておくことは大事だと思い読むようにしたんです。だから読もうと思ったんですがいざ読もうとなるとどうしても読めない。読むのが辛いんです。なんでなのか。とにかく読めないんです。なぜなんでしょうか?どうしたらいいでしょうか?」
「まったく読めないの?少しは読めるの?」
「少しは読めます」
「例えば?」
「ぼくの読むものは主に『哲学』『心理学』『社会学』ですが、全部入門書レベルです。以前カルチャーセンターでカントの『純粋理性批判』を読むので、岩波文庫版を買ったんですが一行も理解できませんでした。だから、ぼくの読むのはだいたいちくま新書のなんとか入門とか、昔あった講談社の『現代思想の冒険者たち』シリーズとかです。これらはすごくわかりやすく整理されてて読みやすくてお勧めですよ。小説は、教科書にのってたり、夏休みの宿題で感想文を書くために読んだのはいくつかありますが。夏目漱石の『坊ちゃん』は途中まで読みましたが読み終わらなかったです。森鴎外の『高瀬舟』とか芥川龍之介の短編。太宰治とか、中島敦の『山月記』。『山月記』は衝撃的でした。高校の教科書にのってたから読んだんですが、すごく考えさせられて自分の人生観が変わったといってもいいほどです」
「どのへんが感動したの?」
「あの中に『胸を焼かれるような悔い』という言葉があるんですよ。それを読んだ高校生の頃『悔い』だけは残さない人生にしようと思いました。これを高校生に読ませるというのは文部省もセンスがあるなと思いました」
「他に感動したものとかある?」
「感動っていうのとはちょっと違うかもしれませんが、こういうことがぼくいいたいことだったんだっていうのは星新一のショートショートですね。あとアガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』も、描かれているの上品な世界の雰囲気も好きですが、ストーリーも『なるほど!うまいな』と思いました」
「読んだのはそれくらいかな?」
「あと、入院中に何冊か本を持っていって、そのときはもう敵が攻めてきて、ぼくのいない間にいろいろ盗まれたり変えられたりするんじゃないかって絶望的な気分で、しかも自分の精神も苦しいし。最初の病院では、親に買ってきてもらったのは、中村元訳の「ブッダ真理の言葉」と「ブッダ悪魔との対話」だったっけ。あと「ブッダ神との対話」そんなような本です。今まで哲学とか読んでいたのもどこか救いを求めていたところもあって読んでいたんですね」
「それは救いになったかな?」
「読んでる間は苦しみが減ります。でも、また普通の状態に戻ると苦しい。読む意味はあるんだけど、それだけで全てが解決できるというものではないということがわかりました。次の病院に持っていったのは、一番信頼している心理学者の河合隼雄さんの本を持っていこうと思いましたが、たくさんある中で一番強い印象を与うけた『影の現象学』を持ってきました。あと社会学では、ぼくは宮台真司さんのファンなんですが、宮台さんの本はちょっと理論的すぎて、救いを与えるって感じじゃないので、宮台さんのお師匠さんの見田宗介さんの『時間の比較社会学』と『自我の起源』を持ってきました。何でかっていうと見田さんが『社会学入門』って本の中で自分には人生で二つの大きな悩みがあった。一つは『死とニヒリズム』の問題、もう一つが『愛とエゴイズム』の問題だというんですね。それがそれぞれ『時間の比較社会学』と『自我の起源』で解決したって書いてあるんですよ。そんな根本的な問題が解決したんだから救われるかもしれないと思ってもっていきました。最初の入院から帰ったときには部屋は勝手にごちゃごちゃに積まれていました。その中でこの二つの本とも探したらすぐに見つけられたのはラッキーでした。その本は買ったけど途中まで読んで読みかけだったので病院でゆっくり読もうと思いました。読んだときは精神病院の閉鎖病棟の二人室。歩くスペースさえない。となりの人は退院して部屋は一人。やるこもなく、『敵に勝手に大事なものいじられたり世界を変えられているんじゃないか。それに真っ向から対抗する人は誰もいないんじゃないか』という絶望的で虚しさの極地のような状態でした。でも、『自我の起源』を読んでいくと、客観的環境は変わらないんだけど、こういうふうな考え方があるのかと、一瞬まわりがふわーっと明るくなりました。入院中に一番心を癒してくれたのは、五木寛之さんのエッセイ『大河の一滴』でした。しばらく、夕食後には何度も読みかえす習慣になったほどです。その中に『窟原(くつげん)』という人の話がでてきて、理想主義者で有能なんだけど周りの嫉妬を買って排除されてしまうんですけど、河で嘆いていると漁師がきて『河の水がきれいなときには冠の紐(ひも)を洗えばいい、河の水が濁ったときには自分の足を洗えばいい』と歌って去っていってしまうんですね。船を漕いで。その漁師の窟原に対するやさしさを感じたんですね。正面から『汚れてもいいじゃないか』といっても否定されるとわかっているんですね。漁師は。そこで、それとなくヒントをほのめかして去っていくんですね。窟原は最後は自殺するんですが、五木さんそういう窟原を否定するわけではないんですね。窟原の生き方は生き方としてちゃんとみとめるんですね。だから『窟原は単なる石頭でそんな生き方をしちゃいけないんだ』というわけではない。そこに五木さんのやさしさを感じました。その上で違う道もちゃんと示してくれる。『人生は地獄だ』と断言しつつ、それでもその人生を肯定できないものかと考えるんですよ。五木さん御自身が子供のころ戦争で地獄を体験されてるから絶望の崖っぷちにいる人にも言葉が届くんだと思います。人によっては、甘いというかもしれないけど、とにかくぼくの絶望の底にあったときに何度もくり返して読んだのは『大河の一滴』だということは事実です」
「なるほど、それはいい話だね」
「小説の話に戻ると入院中、親に買ってきてもらって読んだのが、夏目漱石の『三四郎』とドストエフスキーの『罪と罰』です。なんでかっていうと、二つとも大学生の苦悩を描いているかで、ラスコーリニコフは中退ですけど、ぼくも一度中退してますし、両方とも名作ですから、なんかヒントがあるんじゃないかと思って」
「どうだった?」
「夏目漱石は保守の人だと思っていたので、もっと厳しい人だと思っていたんですけれども、作品を読むと極めて繊細で弱い部分もある人なんだと思いました。でも、その弱さを隠さずに表現できることはすごい、だから今でもみな漱石に言及するのかって思いました。ドストエフスキーもそういう意味では似ていて、とても繊細な人ですが、弱さを直視できる人です。それから、ラスコーリニコフをこの時期に書いたっていうことがすごい。ぼくは、読みもしないのにカルチャーセンターで『罪と罰』の講座を受けたんですよ。それまではニーチェの影響もあるのかな?と思ってましたけれども、先生が『ニーチェもドストエフスキーは優れた心理学者として評価したんだけれど、なぜかニーチェの方が古いと思っている人が多いんですね』といわれました。それから放送大学の中でもドストエフスキーがトルストイより後だと思ってる人がなぜか多い、といってました。ぼくもそう思っていました。そうすると、ぼくだけの勘違いじゃなくて、多くの人にそう思わせるほど現代的テーマがニーチェ以前に描かれているんですね。ニーチェ以前にラスコーリニコフを描いて、しかも最後には挫折するところまで描いたのは、やっぱりすごいと思いましたね」
「なかなか、すごい分析だね」
「だけどぼくは別に評論家になりたいわけではないんです。自分のことを棚に上げて他人を偉そうに批判するなんて何の価値もありませんよ。そこらへんのニュースショーや討論番組と同じですよ。ゴミと同じですよ」
医者は自己像の過大評価と過小評価の入れ替わりの激しさから、「境界例」という病名が頭に浮かんだ。
「でも、それだけ分析できるんだけど人の小説は読めない?なぜだろうね」
「まず、この小説を読む意味があるのかと考えてしまうんですね。くだらない小説の主人公の物語を知るぐらいならもっと学ぶべきものがあるんじゃないかって。そういうと小説は何かの役に立つために読むのでない、といわれそうですが、その理屈でいえば『だから読まなかった』といえる。でも、今は勉強のために読めといわれている。そうすると、やはり辛くなるのも当然なのかもしれない。でも楽しんで読んだ小説もありますよ。社会学者では宮台真司さんが好きだといいましたけれど、彼がプロデュースした高校生の女の子が書いたという、桜井亜美の『イノセントワールド』は、読んでて衝撃を受けました。こんなことが書ける高校生がいるのか!と正直嫉妬しました。ぼくの最初の小説だって20歳ですから。90年代って時代の緊張感がしっかりと刻み込まれている。後で実は宮台さんの内縁の妻のジャーナリストの速水由紀子さんが書いたというのを聞いて少しホッとしましたが。90年代の10代の少女という緊張感と切迫感はとても読んでて引き込まれ、印象に残りました。でも他の小説にはそういうリアリティがない。自分の目で同時代を見てる感じがしない。今まであった小説を読んで、それのマネをしようとしてるように見えてしまうんですよ。例えば、わざと旧仮名づかいを使ってみたり、必要もないのにレトリックに凝ってみたり。そういう文章にかぎって、中身がないことが多いんですよ。いかにも『文学』っぽい文章を書いたり読んだりしてるだけで喜んでる。そういう人たちはぼくにいわせれば『文章フェチ』ですね。今風にいえば『文章萌え』。先生が今までで文体がうまいってみなが褒めた人がいるが誰だと思う?といって、石川淳だっていうんですよ。だから文体の勉強になると思ってよんだら、もうぼくの嫌いな『もってまわった言い回し』のオンパレード。読んでいてもストーリーは全然入ってきませんでした。夏休み全部かけて、短編集一冊ようやく読めました。ストーリーは全部わかりませんでした。とにかく断定しないんですね。別に深い思想もないから断定したら中身がないことがばれる。それをおそれて遠回しにいう。そこで、何か意味ありげな印象を与えるんだけど、何もいってない。でも、中身がないことを認めたくないからどうでもいいところで急に断定したり、安全なところで急に厳しい自己否定をしたり。かとおもうと慌てて取り繕ったり。とにかく気の弱いくせにそれを隠そうとする人だと思いました。そのごまかしのテクニックを『文体』というなら、ぼくは『文体のない作家』で結構。嫌いなら読まなきゃいいだけですよ。ぼくは書きたいから書いているだけですから、賞をもらったりすることは当然できないでしょうが、そのために書いているわけではないですからね。でも、さっきもいったとおり過去を否定するためにも過去のものを読むことには賛成しました。以前、マンガ家の手塚治虫と映画監督の黒澤明が同じことをいっていました。どうすればいい作品ができるかという若者の質問に「いい映画をたくさん見なさい。いい小説をたくさん読みなさい」と。だから、それはやはり一理あると思うんですが、つい影響を受けて模倣になってしまうんではないかという心配があるんですよ。でも、映画でも小説でも革新者はちゃんと昔のもの見てますから、その辺は紙一重なんですけど、まあ気をつけながら、いいものは読む努力はしようと思ってます。でも、読むのが辛い。これはどうしようもない。母にいったら、そのことを先生に相談してみたらいいじゃないのっていわれたので、先生に『ぼくは小説を読むのが苦しくって読めないんです』っていったら、先生は急に厳しくなって『人の書いた物が読めないっていうのは問題ですね』とか『君は文章を使って人とコミュニケーションするのを避けてる』っていうんですね。確かにそういう面もあるけど、読めないものは読めないので怒られてもどうしていいかわからない。さらに、ぼくの作品も『君の書いたのは文章じゃない。単なる記号のようなもの。そこらへんにあるマンガと同じで。何の意味もない』とぼくの作品も全否定されました。以前は褒めてくれたこともあるんですよ。それが『小説を読むのが辛い』っていったとたん厳しくなったんですよ。たぶんぼくが小説を否定したと感じられたんじゃないかと思うんですよ。ぼくはもともと記号的に書こうと思っていて、最終的には論理記号だけで小説が書けないかなと思ったほどです。だから記号的なのがぼくのスタイルだといいたかったけど、でも言い訳はしたくないのでだまって聞いていましたが。ぼくの今までの小説は無価値だということになりました。そこで、だったら『自分が小説を読めない理由を文章にして書いてきてごらん』ということで決着がつきまして今週それを書いていくつもりです」
「ふん。そうか。まあよかったじゃないか。じゃあ来週はそれを書いて先生がどう反応するか楽しみだね」
「はあ・・・」
医者は向きを変え、机に向かいペンを取った。
「薬はいつものように出しときます」
「はい」
「じゃあ」
患者は立ち上がって、軽く会釈をして診察室を出ていった。


次の週の同じ日に患者はクリニックに現れた。
自動ドアを通り診察券を箱に入れ、いつものように長椅子にすわった。
表情はいつものとおり苦しそうだった。
「鈴木さん」
「はい」
といって診察室に入る。
「どうでしたか?この一週間は」
「この前の文学の話なんですけれど」
「はい」
「ぼくは、自分が小説が読めない理由というのを先週ここで話したようなことを書いて先生に見せたんですね」
「うん」
「結構、先生を批判するようなことも書いたんですが」
医者はじっと患者を見つめた。
「それが、『今回のは面白かった』っていわれたんですよ」
「ほう」
「何でなのかなって考えたんですが、やっぱり本音を書いたからだと思うんですよ」
「なるほど」
「でも、それでもまだ君は隠しているものがあるっていうんですよ」
「ふん」
「それで考えてみると、ぼくがデザインを学んだときと同じだなって思ったんですよ。ぼくは大学を途中でやめざるをえなくなって、精神状態がひどくて、それでカウンセリングや医者にいったりしながら、パチンコばかりしていたんですね。ちょうどその頃、斎藤環さんの『社会的引きこもり』という本が出て、こういうのはぼくだけじゃないんだと思って母に読ませました。つまり『ひきこもり』だったわけですが、パチンコで月最高で10万稼いだりしてパチプロになろうかとも思いましたが。毎朝、満員電車で働きにいく父の横で親のフォルクスワーゲンでパチンコにいく息子なんて、自分は人間のクズだと思いましたよ。でも、精神状態が悪くパチンコぐらいしかできないのでしょうがなかったんです。でも段々勝てなくなってきて、なんとか金になるものはないかと思い、最初はワープロの文字入力の仕事のチラシを見てこれなら自分でもできるかもと思いました。人間関係もないし。そのうち求人欄を見てるとデザイナー募集というのが目につくようになりました。絵を描くのは昔から得意で、でもマンガ家になるほどには上手くないので、デザイナーならなれるかなと思いましたが、よく見るとほとんどが経験者募集なんですね。だったら最初はみんなどこで経験を積むんだと思っていたら、母は学校にいけばそこに求人が来るんじゃないのといいました。そこで、学校にいってみようと思いました。ちなみにその後ずっとぼくを苦しめる言い表せない『衝動』の苦しみはこの少し前に起きました。だから、なんとか苦しみから逃れる道を探っていたともいえるかもしれません。そして『ケイコとマナブ』を買ってきて学校を選んだんですけれども、2~3ヶ月でソフトの使い方だけ教える学校もあるのですが、どうせなら一流のデザイナーになりたいと夢が膨らみ、1年平日毎日朝から夕まで、始めはデッサンから始めるというところがあって、そこにどうしてもいきたいと思い、簡単な試験があるので絵の教室に短期間通って受けて受かりました。大学もたくさん落ちているので合格通知には慣れてなくてそれだけでもうれしかったです。学校はオシャレな雰囲気で先生もクラスメートも、女が多いんですがきれいな人も多くて、引きこもりだったぼくとは違う世界だったけどすごく憧れてて自分は行けないと思ってた世界でした。だから、うれしさと戸惑いと両方でした。そこで、カッコいいデザインを作ってやろうと思ったのですが、なかなか思ったようなカッコいいデザインができない。周りの人はあたりまえのようにセンスのいいものを作る。ぼくにも理想はあるんだけどそれを作れない。作ったと思っても評価が低かったり。じゃあ、『いいデザイン』ってなんなんだ。どこへ行けば教えてくれるのかと美術系の学校がのっている本を買ってきて読むと、いろいろ専門学校もたくさんあるが、ぼくのような悩みを解決してくれる最高の場はやはり大学だなと思いました。そして入れそうな大学を調べてみると多摩美の夜間部に社会人枠というのがあって、普通の人よりも入りやすくなってるんですね。ここなら何とか頑張ったら入れるかもと思い、専門学校通いながら夜専門学校のあるお茶の水の予備校『お茶美』に通うことにしました。しかし、美大を目指す子たちは当然みんな上手いしセンスはいい。お茶美では作品を壁にうまい人から上から順番に並べていくんですけど、ぼくはほとんど下のほうでした。残りはイーゼルに乗せられるんですが、ビリにはならなりませんようにと祈ってました。上にいったのは1年で2回だけです。そのときもう30歳ですから、女子高生の中で浮いてましたが、これで上手ければカッコいいんだけど、めちゃくちゃ下手なので恥ずかしかったですね。でも、美大に入りたいって夢があったので我慢しましたけれど。高校時代も男子校で暗い性格だったので、一番感性の鋭い女子高生たちと一緒の教室にいれただけでも幸せでした。ほとんどしゃべらなかったけど、でも大学入ってから『鈴木さん、私もお茶美でした』と声をかけられたこともあって、一応参加したという感じはあったのでよかったと思います。ところで美大生っていうとどんなイメージを思い浮かべますか?ぼくは、個性的で派手な格好したりして少し不良っぽいのかなと思ってました。でも、ぼくのイメージはまったくひっくり返されました。9月で専門学校が終わったので10月から夜間から昼間に変わったんですが、初めての授業で教室にいくと先生はまだきていないで生徒たちはもう黙々と作業をしているんですね。それでぼくがどうしたらいいか困っていると生徒の一人が立ち上がって折りたたみ式のテーブルを積んであるところから降ろして脚を立ててぼくのために置いて笑顔ですわるよう促してくれたんですね。そのときからぼくは美大生の見方が変われました。そうしてみると今までいろいろなクリエーターの人たちを見てきましたが才能のある人ほどいい人が多いというのが実感ですね。ただ、感性が鋭いからシャイだったり、他の人と違う格好をしたり、自由に振る舞ったりするけど、それは社会への反発とかじゃなくて、自分のやりたいことをやっていてたまたまそれがユニークだったという感じですかね。そういう人は自足してますから、人と比べたり人の悪口を言ったり、偉ぶったりしません。そういうのは、その周りにいる才能のない人がそういう傾向がありますね。才能がないのでいつも自分を装っていなければ才能がないことがバレてしまうから、才能のある人のマネをしたりして奔放に振る舞うんだけどどこかわざとらしい。そういう人は常に人の目を気にしてますね。才能がないのがバレちゃう危険性があるから。だから攻撃しやすい人を見つけて悪口を言い合って安心をえようとするんですね。でも、才能のある人は、隠す必要がないからそういうことはしませんむしろ楽しいことを求めているから驚くぐらい親切だったりします。ただし、個人主義だからまわりに無理に合わせることはしません。そういう意味ではあっさりしてます。これが、ぼくのクリエイターに対する感想です。まあ、とにかくぼくはどうしても上手い作品ができない。どう考えればいいのかもわからない。唯一の自慢は学科の試験では2位を100点以上の差を付けての1位だったこと。生涯で1位なんてはじめてかも。でも、美大の予備校で学科で1位でもカッコよくないんです。いい作品ができることが重要なんですから。ある講師の人、多摩美生のアルバイトなんだけど、その人がぼくのことをすごく気にしていてくれて、他の先生も、見た目は派手だけれど優しくてあまり怒らないんだけれど、その先生、といっても年下なんだけど、その人はぼくの作品を上の段に選んでもくれたんですけど、あるとき時間内に作品が出来上がらなかったとき「お昼休みにいつも時間かかりますよね」といって「とにかく完成させなさいっていったじゃないですか」といって「カッコわるいっすよ!」と怒られました。その時思いました。美大では『カッコいい』か『カッコわるいか』が一番重要な価値基準なんだな、と。でも、ぼくは自分がカッコわるいことぐらい十分わかってました。ぼくは「モチベーションが上がらなくて」とか難しい言葉を使ってごまかそうとしたら「もうそういうのはいいですから」といわれた。難しい言葉使って格好つけて理屈ばかりいっていてカッコいいもの作れない自分がいかにカッコわるいか、「自分は本なんて小学生のときのリンカーンの伝記ぐらいしか読まないです」という彼の方がよっぽどカッコいい。夕方のクラスの現役生の女の子らもきていて彼女らの前で年下に怒られてろくに作品も作れない惨めな姿をさらすことになりました。今でも忘れられない惨めさです。でも、その先生が紙立体を作っているとき『もっとビリビリに破いちゃってもいいんだから』といってくれて、ああそういうのもありかと思いました。それで、一つブレークスルーしたというか、その回に一部を手で破いた作品を出したら他の先生も『いいじゃない』『やったね、ついに』とほめてくれました。そのせんせいは恩人ですね。それで、社会人枠っていうのは25歳以上なら誰でも受けられて倍率も二倍ない。つまり、一度社会に出た人にもう一度、クリエイティブなことを学んでもらお王という趣旨なので入りやすくなっているんですよ。英語も辞書持ち込み可だし面接もあるのでぼくみたいなへたくそでも入れたんですね。ふつう多摩美のデザインなんて簡単には入れませんから、予備校のぼくよりずっとうまい人たちでも落ちてますから、本当に社会人枠のお陰です。そして、美大生になるわけですが当然予備校よりもさらにレベルが上、みんな才能があるのは当然、なければ落ちてますから。その中でただでさえ予備校のお荷物だったぼくは自分はうまいものを作れないと悩むのですが、でも悩むのも大学生の特権だと思って悪いことだとは思いませんでした。一方こういうクリエイティブな環境に自分が当事者としているというのがとてもうれしかったです。下手とはいえ合格させてくれた以上はぼくをクリエーターと認めてくれたのだから。個性的な友人も多くてこの雰囲気が好きでした。多摩美は美大の中でも一番個性を重視する方じゃないかな。予備校時代にすでに感じていたんですが先生もタマビ生とムサビ生では違うんですね。先生に「タマビは個性を重視しムサビは理論を重視するように思うのですが」といったらしばらく考えて「スルドイ」といわれました。だから、ただでさえ個性的な美大の中でもさらに個性的もしかしたら日本で一番個性を重視する大学にいるのかもしれない。日本で一番感受性の鋭い人達の中にいるのかもしれないと思うと幸せでした。でも、その中でぼくはうまい作品が作れない。そのとき先生に相談すると「たくさん作品を見ることだね」とやはりいわれた。デザインを見るとマネになりかねないので『絵画』『歌舞伎』『能』などを見るようにしました。大学だから理論的な授業もあったし、別の授業でも順番に先生に見せにいくんですけどだんだん、ああこういわれるなというのが経験的にわかってくるんですよ。少なくとも4年間で『いいデザイン』と『悪いデザイン』の違いはわかるようになりました。だから、文学も少しずつではあるけれど人の作品読んで『いい作品』と『悪い作品』のちがいはけっこうわかってきたと思います。女の子の作品は何か不思議な世界が描かれることが多いことも知りました。それから、谷崎潤一郎、井上ひさしの『文章読本』も読みましたが、井上さんの方に『うさぎ』といと映像でイメージする人と言葉でイメージする人がいると書いてありましたが、これが、ぼくのようなデザイナーと文学者の違いなのではないかと思いました。ぼくが小説を読める人は『イメージッする力』の強い人だと思う、と書いたら先生は『それどういう意味?』と理解できなかったんですね。つまり、言葉の世界にいる人は言葉をいちいちイメージに変換してないんだとそのとき気づきました。そう考えるとクラスメートの女の子書いた小説はイメージを描くというよりも内側からあふれ出てくるものを文字にした感じがした。彼女の作品は『お父さんが死んだ。しかし、半分ない。物理的にはあるんだけれど、もう半分はパリにある』というものです。イメージから出たというのとは違う感じがします。だからぼくは今までデザインを学んできたからなんでもイメージでとらえようとするんですが、文学の世界は言葉の世界で必ずしもイメージ化できないものもあるんだというふうに思いました。それから、これはデザインにもあらゆる芸術にもいえることですが、本気で書いたかどうかは見る人が見ればすぐにわかるということです。ごまかしがきかないということです。一流を目指すなら。二流ならごまかしはききますが。その本気度とはどういうことかというと、何時間かければいいというのではなくて、短時間でいいもの作る人もいます。だから、それはことばでは表しにくいんだけど本当の自分とつながっているって感じでしょうか?ユングが意識と無意識をあわせた心全体の中心を『自己=セルフ』と名付けましたが。結局ぼくの結論は『自己』とつながっている。『自己』からあふれ出るものを表現したものは人の心を打つということだと思いました。だから自分で書く場合はそれを気をつけて書こうと思いますが、それはあるいみ自分が丸裸にされるようなものだから、恥ずかしいし、恐いし、ものすごく大変なことだと思いますが、二流で満足できるならいいけど、上を目指すなら何年かかろうともそういう作品を作っていきたいと思いました。そういうことを考えていくうちにだんだん『いい本』と『悪い本』の違いも少しずつわかるようになってきました。あとは意外と慣れの問題や好みの問題もあると思うので、見る目ができればだんだん読めるようにもなるのではないかと思っています。今は自分の肌にあったものから読んでいこうと思っています」
「・・・まあ、自分なりに答えらしきものが見つかったのはよかったね」
「はい」
「じゃあ次回は・・・」


翌週、またその患者はクリニックを訪れた。
今日は何かに苛立ちを持っているように見えた。
「どうですか?この一週間は」
患者は、医者の服装と腕時計に目を向けた。
医者は患者の態度に今までにない、一種の攻撃性のようなものを感じた。
「またblog書いた?」
「はぁ」
「どうだい、反応あったかい?総理はまだ読んでるの君のblog?」
「(小声で)そう思います」
「なんか、今言いたいことがあるのかな?」
「まぁ・・・」
「何?言ってごらん」
「コントロールされる人の度合いが強くなりました」
「街に出ると、誰かにコントロールされてる人が沢山いると」
「はい」
「その量が増えた?」
「量だけでなく、見た目も変わりました」
「ふ~ん。どんな風に?」
「僕は今までファッションにうとい『ダサイ奴』でしたが、デザイナーになる以上ファッションも少しは知っておかないといけないと思っていとこに代官山や表参道の洋服屋さんに見に連れてってもらったんですよ」
「うん」
「そして、その日はリーバイスのシーンズ買っただけだったんですけど、すごくいい刺激になって楽しかったって叔母にFAXしたんですよ」
「うん、それは良かったね」
その後、患者の顔が急に曇った。
「それからしばらくして、街を歩いていると、何かみんな雑誌に出てたようなファッションしているんですよ」
「雑誌で出てくるようなファッションていうのはおしゃれなっていうこと?」
「まあ、おしゃれっていえばおしゃれですけど、普通の人があまりしないような重ね着とか・・・」
「最近は若い子はみんなおしゃれになってるんじゃないの?」
「いや、以前にもおしゃれな娘はいたにはいたけど、それが、街中の人全員なんですよ。普通のおばさんやおばあさんは昔は地味だったけどいま僕がいくとこいくとこみんな、スタイリストがついたような素人では思いつかないような派手な格好をしているんですよ」
「でも、君は今までファッションに興味なかったんだよね」
「はい」
「それで、最近ファッションを勉強しようと、デザインのために・・・」
「はい」
「だったらあれかな。周りが変わったんじゃなくて君の見方が変わったから他の人の服装も気になりだしたんじゃないかな?」
「それはありません。以前でもおしゃれな人とそうでない人の区別ははっきりできました。ところが今起こっているのは、僕の行くとこ行くとこどこでも全ての人がどこか派手さを出した格好をしているんです。しかも、普通の人だけではないんです。カルチャーセンターで教えている偉い学者で権力に批判的な人までも急に色つきのシャツを着たりストライプのシャツを着たり、ボタンダウンのシャツを着たり、今までもっとコンサーバティブな格好していた人がことごとくなんです。学校の先生も、カルチャーセンターの先生も、ギターの先生も、編集の先生も、ビデオの先生も、教会の神父様までも一斉に変わったんです」
「うん、だけどね、僕も色つきのYシャツや、ストライプのシャツは持っているし時々気分を変えたいときには着るよ。それがそんなにおかしいことかい?」
「それが、丁度僕がファッションに興味をもったときに一斉にあらゆる人がお互いに知らない人たちが、変わったというのが不自然だと言っているんです」
「でも、季節の変わり目とか、何かブームがあった時とかにみんなが一斉に変わることはありうると思うよ」
「全ての人がですよ!おじいさんやおばあさんもですよ全ての人がファッション変えるきっかけってなんですか?」
「それはわからないけど・・・。でも、君のいうことが正しかったら敵は君の周りの人全員に服装を変えさせたということになるね。しかも、街や電車の中の人も?君がどこへ行くかは君しか知らないのに、東京中の人の服装を変えさせたって事かい?どうやってそんなことができるのかな。何千何万人のスタッフがいなきゃ出来ないんじゃないか?そんなことは、どんな政治家でも出来ないんじゃないかな?」
「そこが謎なんで、被害にあった人にききたいと思ってます。ところで先生は今日、赤い柄のシャツを着てらっしゃいますよね」
「え?ああ、これ?これはね、3年前ハワイで買ったので、久々に今日は級友に会うので着ようかと思って」
「時計も随分立派なものを着けてらっしゃいますね。僕の記憶にはないんですけれど」
「ええ!そう?これは、時々付けるんだよ、今日はシャツが派手だから目立ったのかな?」
「実は僕の持っている腕時計はスポーツ用なのでスーツのときに合わないと思って時計を買おうと思ったんですよ。でも、どれを買っていいかわからないので時計関係の本を沢山買ったんですが、それからすぐに周りの人たちがいかにも高級って感じの腕時計をしているとこに何度も出くわしたんですよ。普段腕時計を付けていない人もですよ。そしたら、今日先生は高級腕時計をされてる。これも偶然ですか」
「・・・まぁ、そうですね。偶然でしょう。たしかにたいへん珍しい偶然ですが」
「僕は服装のいやがらせが起こったときに喜んだのですよ。何故かと言うと、無意識に洋服を着たり腕時計を付ける人はいない。もし、なんらかの圧力がかかったなら、その人は圧力を受けたことは必ず自覚していることになる。その中にわずかでも勇気のある人がいれば誰に、どのように圧力をかけたかを証言してもらえる可能性があるからです。また、コントロールされてる範囲が見てすぐにわかるからです。そこで、先生に質問させてください。今日着ている服、腕時計についてだれかから指示や命令や提案を受けましたか?それともご自分でお決めになりましたか?」
「天地神命に誓って、誰からの指示も命令も一切受けてません。間違いなく、私が決めました」
「そうですか。世の中って偶然ってあるもんですね」
「・・・」


患者の家。大きいけれど古い木造二階建。以前下には患者の祖父母が暮らしていたが、二人とも亡くなり、今は客室と物置になっている。患者家族は二階に親夫婦と患者とゴールデンレトリーバーが暮らしている。
出入り口は一階の玄関で、患者は玄関から家に入り、靴を脱ぎそのまま階段を上がって二階の引き戸を開ける。
「おかえりなさい」
「おかえり」
両親が迎える。
「ただいま」
患者は両親を見て。
「パパ、それいつ買ったの?」
「え?これえーと覚えてないな」
「俊は知らないんだけど」
「そりゃ知らないものだってあるだろうなあ」
「今医者に行ってきたんだけど、最近俊の周りの人が着ている物が異常に変わっているので誰かが命令してると思うといってきたところなの。そうしたら、パパがいつもと違う服着ているの」
「だけど、お前は俺の服を全部知っているのか?パパだっていろいろ、もらい物もあるし俊の知らない物があったっておかしくないんじゃない?」
「だけど30年以上一緒に暮らしてるんだよ。いつも見慣れた服かそうじゃないかなんてすぐわかるよ」
「だけど、お前が勝手に知らないっていったってしょうがねーじゃないか。これしか着るものないんだから」
と、笑い飛ばす。
「これだけ、多くの人の着る物が変わった正にそのときに、親の着るものの趣味がいきなり変わる。これが偶然だと思う?」
患者は力強くいった。
「いやーあるんじゃないの。みんなの流行が変われば一斉に変わることも」
「これだけ一斉に変わることが流行だけであるの?しかも、俊がファッションに興味持ったときから、いきなり一斉に変わる。これが偶然か?」
「かも知れないよ。しょうがないじゃないかこれしか着るものないんだから」
「それはいつどこで買ったの?」
父は患者の目を見ず。血の気の引いたような表情で、あたかも何かを恐れているかのような表情で答えた。その表情は患者が通う教会の神父に質問したときに、神父が「あーこれは前から持ってるよ」といって目をそらした目と同じ目だった。患者にとっては、初めて父が見せた目であった。
「いやがらせする奴らがくるかもしれないけど、そのときは必ず断ってよっていったよね」
「ああ、いったよ。そうしてるよ」
「命令されたらお前らの言うことをきく筋合いはない。そんなことはやらないとはっきりといってくれ。もし、それで俊を殺すぞといわれてもそれでもかまわないから必ず断ってすぐに警察に通報してくれっていったら、『わかった』っていったよね。ねえ!」
「ああいったかもしれないね。だけどいわれてないんだからしょうがないじゃないか」
「何で嘘つくの?」
「何で嘘って決めつけるんだよ。本当かもしれないよ」
「こっちは命がけでいってるんだよ。それ平然と裏切るってどういうこと?怖いの?」
「怖かなんかないよ」
「ちゃんと目を見ていってよ」
「だから、俺は知らないって!他の人のことなんか知らないよ。それをパパは嘘ついてるっていわれても。じゃあどうしたらいいんだ着替えればいいのか」
母親が口を出した。
「パパお願い、俊のいうことちゃんと聞いてやって」
「だって知らないものを、何か命令されてるとかとかなんとかっていわれたってしょうがないじゃないか」
「俊はとにかく力に屈して長生きするくらいなら、自分を貫いて殺される方がずっとましだと思っているから。明日、いや今日、今拷問にあって虐殺されても、不当な力に屈服する汚辱を味わうよりは、百万倍マシだということはハッキリ覚えておいて」
「わかったよ」
「信頼は失うのは一瞬だが、取り戻すのには何年もかかることを覚えとけよ!」
「・・・」
患者は母親に向かっていった。
「そのセーターはいつ買ったの?見覚えないけど」
「これは、もうずーっと昔よ。覚えてない?」
と、張りつめた緊張感の中で笑顔を無理矢理こしらえて答えた。
凍りついた空気が部屋を支配した。
「嘘はつくなっていったよな」
「嘘ついてないわよ、あなたそうやって全部じぶ・・・」
患者はさらに大きい声で言った。
「ウソは、つくなと、いったよな・・・!!」
「どうして、そういうふうにとるの?本当にこれは・・・」
「あんたらのことは、そういう人間だととるよ。息子が命がけで違法ないやがらせと戦ってるときに、子供ではなくいやがらせする人間の側につく親がいるとは思っても見なかった。子供がいじめられてるときに、親がいじめる側に立つってどんな親だ!信じられるかそういう親がいることが!・・・もう一度いうからな。嘘はつくなよ。何者かに何らかの指示はされたか?」
母親は何か重大な過失でも犯したような深刻な顔で、何も答えなかった。
「・・・」
「ぼくは人間の良心を信じる」



2009/12/7

2009年12月29日火曜日

残酷


12月15日「芸術人類学(最終回)」中沢教授

前回は映画「世界残酷物語」を見た。

動物を殺したり、食べたり世界の残酷なシーンを集めた作品だが、今見るとそれほど残酷ともいえないものもある。

今回はまず「残酷」について。
「残酷」とは、そっちに行き過ぎると人間の真実に近づきすぎるのでいっちゃいけないというサイン。こうしないと社会が成り立たなくなる。

19世紀からヨーロッパは不安定なシステムになる。
17、18世紀はヨーロッパは安定していた。

音楽でいうと、モーツァルトは安定していて、ベートーベンは少し不安定。シューマンは不安そのもの。
ロマン主義からモダニティへ移行してさらに不安定に。
近代になって、我々は「人間の本性」を問わなくなった。(危険だから)
危険なものを排除する「監視社会」になっていった。

ところどころに安全装置を作っておく。
哲学、芸術=外部を内部に取り入れる。人間という境界概念が壊れてしまうかもしれない。

1960〜70
cruel=「残酷」があるのに隠されている。
人口が増え、動物を大量に殺して食べているのに、見えなくしてきた。
アルトー
「私たちの本性に残酷が隠されているのを自ら剥ぎ取ってみよう」
「生」の裏には必ず苦悩がある。
「それを認識させること」=「残酷」
アルトーは演劇でそれに挑戦したが、彼は「バリ島の演劇」「歌舞伎」など個人を超えた力を参考にした。

19世紀から、生の現実を見ないで、個人の心理を描く。=「近代」
しかし60年代、アルトーの精神病院で書いた手記が重要視された。

今、我々は無意識まで管理されている。遺伝子まで管理されている。

宮本常一「土佐源氏」
もと牛飼い(ばくろう)の盲のじいさんの話。
何も、教養ないのに何故か女にもてて、多くの女と関係を持った。
女性が差別されていた時代。
牛飼いは、動物と人間とを同じ目線で見る。
だから、もてた。

ルソーの「透明なコミュニケーション」のレベル。
これを社会は抑圧する。
「残酷」と烙印を押す。

しかし、そこで描かれていたのは「とてつもなく、やさしい」世界だった。

日本の思想では「もののあわれ」

本当の「やさしさ」を持った者は残酷。
抑圧されたもの=見すてられたもの=とてつもなくやさしい

やさしさを獲得するためには何かと戦わなければならない。

今は、「やさしい残酷」ではなく「冷酷」な時代。

「インセスト」
「カニバリズム」
「残酷」
すべて「やさしい」

犬の頭なでてやるのみではない。

以上。

一年の授業を終えて、私はデザイン学科なので芸術学科の授業は聴講を先生が許していただいたので出られた。中沢先生はもちろん名前は存じ上げているが、本は読んだことがなかったが、他の学者となんか全然違う世界をお持ちのような気がして、実質20回もなかったが、たまたま同じ大学に来ていただいて、この授業を聞くことが出来て、とても恵まれてると思った。この「芸術人類学」の授業に出たかどうかで私の人生も変わったかもしれない。
私は最後に「残酷」について話されるので、「人間は残酷なものだとこころえよ」というのかと思ったら、最後は「やさしさ」でおわった。もちろんその前に、人間のタブーに触れることも多く言及されているので、単なるものごしがやわらかというレベルの「やさしさ」ではないのだが。最後に「やさしさ」でおわったのが意外で、自分なりにどう解釈すべきか考えた。
最初に思い浮かんだのが、レヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」で、インディオたちが夜、愛を交わすシーンを見て、心にしみたが、彼は近代人なのでいずれこのような素朴な愛はなくなるだろうと考え「悲しき」熱帯とタイトルに書いたことを思いだした。レヴィ=ストロースが見た未開人の愛、それは我々日本人にも「源氏物語」等で知ることができる。その繊細な、素朴な「やさしさ」を思いつつ、それは近代人が捨ててきたものだという現実も見なければならないと思った。

その時は思わなかったが、大ヒットアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のテーマ曲のタイトルは「残酷な天使のテーゼ」。
庵野監督に、「エヴァンゲリオンのテーマは実は「やさしさ」ではないのですか?」ときいたら彼は何と答えるだろう。

中沢教授によると残酷とは「『人生とは必ず苦悩に満ちたもの』という現実を認識させること」だが、まさに「エヴァンゲリオン」ではシンジは、使徒(イエスの十二弟子)によって「残酷」を教えられる。これはおそらく監督ご自身の心理過程と平行していると私は考える。それと同時に日本中、世界中の「シンジ」たちがこの「残酷」に立ち向かう。でも、実はその先にあるものは、実は「とてつもないやさしさ」なのかもしれない。私自身は「シンジ」といっしょに、旅をしている途中のような気もしている。その答えはいずれわかるのかどうか、わからない。

2009年12月28日月曜日

説明


記者「今回の予算編成についての感想を伺いたいのですが」

鈴木報道官「まず第一に、アメリカ発の世界同時不況で、約9兆円の税収が減りました。もともと自民党政権下で、財政赤字の中、国債を発行しつづけて景気対策を行ってきましたが大きな効果は得られませんでした。自民党と業界との癒着もあり効率的に景気浮揚効果のある配分がなされなかったことも原因の一つですが、もともと先進国になってインフラが整備された場合、財政出動による景気刺激の効果は薄まります。従って、財政が厳しい中で景気を大幅に上げることを政府に期待されてもそれは大変厳しい。われわれは仕分けを行い無駄を省くと同時に現在の不況に対して救済も行わなければならない非常に厳しいシチュエーションにあることを御理解いただきたい」

記者「今回の予算の、よかったこと悪かったことはどこでしょうか」

鈴木「政権交代のおかげで利権の癒着というしがらみがなくなりました。そこで、お金を使える自由度が大変高まりました。従来からわれわれが主張してきた公共事業の無駄を省くことも、まだ十分ではありませんがかなりできたと思います。公共事業費は約18%削減できましした。一方社会保障費は約10%増やしました。これはわれわれの言ってきた『コンクリートから人へ』という理念を体現したものだと思っています。悪い点は、先ほど言った税収の大幅な落ち込みによって『マニフェスト』に書いた政策の実現が難しくなったことです。そこでやむを得ず、『マニフェスト』の中身を変更せざるを得なかったことです。これは先日、首相御自身が説明され国民にお詫びをしたところです」

記者「国債の発行が過去最大になったことについてはどのようにお考えでしょうか」

鈴木「収入が大幅に落ち込み、『マニフェスト』の実現のためのお金がなくなってしましました。そこで、借金をしてでも『マニフェスト』を実現するか、『マニフェスト』を見直すかという選択を迫られたわけですが、結局『マニフェスト』を部分的に変更することにしました。それでも、必要だと判断した政策の実現には、税収がないわけですから国債を発行するという手段をとらざるを得ませんでした。しかし、だからといって財政規律をわれわれが全く考えていない訳ではありません。国民の批判を覚悟の上で『ガソリン税の税率維持』という選択をしました。その結果、予算総額は要求の95兆円を下回る92兆円に抑えることができました。また国債の発行も当初の目標だった44兆円に抑えることが出来ました。しかし、絶対値としてはまだ高い水準にあります。このことはわれわれも危機感を持って対応していかなければなりません。こうなった理由は、一つは、世界的不況で税収が大幅に落ち込んだこと。一つは国民のみなさんに約束した『マニフェスト』を実現させるために歳出が増えたこと。一つは仕分けによる無駄の削減が小規模であったことだと考えています。最初にいった『世界同時不況』はわれわれにはどうすることもできません。『マニフェスト』については、実現できず国民にお詫びしたこともありますので『見通しがあまかった』部分があると認めざるを得ません、その点についてはわれわれの責任として反省とお詫びをしなければいけないと思っています。仕分けについても、史上初めて公開の場で予算が評価されたことは国民のみんなさんにも評価していただいていますが、期間が限られていたこともあり、結果として省けた無駄が小規模だったことを反省しています。今後はさらに大規模に無駄の洗い直しをするようにしていこうと考えています」

記者「中長期の成長戦略が見えないという指摘もありますが」

鈴木「戦略会議で多くの方々の意見を伺って方向性は固まってきました。長期的戦略は『コンクリートから人へ』と多くの人に理解していただけたのではないかと思います。また、短期的目標は実際の予算に細かく反映されています。そこで必要なのは『中期的目標』だと思いますが、それは現在骨子をいいいますと、『強みの発揮』『フロンティアの開拓』『成長の下支え』と目的別に大きく三つに分けました。第一の『強みの発揮』は1、『環境』です。これは恐らく誰も異論がないのではないでしょうか。石油エネルギーは有限ですから、代替エネルギーの開発は不可避です。その中で幸いなことに我が国では環境では世界的に進んだ技術を持っています。それを政府が後押ししてさらに国際的な協調へつなげていく努力をすることで、一方では『環境保護』、一方では『新たなビジネスチャンス』として展開していこうと考えています。『健康』についてはご承知のように高齢化は避けてとおれません。そこで、介護を含む広い意味での医療の人手不足が大きな問題になっています。かたや若者の就職難でもあります。この労働力を介護などに向けるシステムを構築できれば、就職難の若者に就職のチャンスを与えるとともに介護の人手不足解消にもなります。このような、知恵を使って効果のある政策を実現しようと現在考慮中です。
新たな市場開拓については、まずわれわれの目の前にあるアジアの新興国を単に生産拠点とするだけではなく大きな需要の可能性を持った地域と位置づけ、積極的にアジアでの事業展開を後押しします。国内に於いては『観光』など新しい分野を開拓して、地方の活性化をはかっていきます。単に地方任せにするのではなく地方分権とともに地方の活性化を考慮しなければかえって地方の負担は増えてしまいます。地方分権をして地方に自立してもらうためにも呼び水として政府が知恵とお金とで援助していきます。
さらに、これらの政策を実現するための次世代の人材を育てることも必要です。厳しい財政状況の中で、本当に必要な分野を峻別して、必要と思われるところ特に科学技術分野への投資は充実させていきます。
最後に国民のみなさんに御理解いただきたいのは、日本は現在予算の10倍もの借金を背負っています。財政規律を無視して歳出をのばせば借金が膨らみ財政規律が乱れ、のちに『信頼』という一番大事なものが失われてしまいます。ですから、われわれは御批判を覚悟の上で『マニフェスト』に反して暫定税率維持を決断し、ご説明しお詫びを申し上げました。このように財政が大変厳しいという現実を是非国民全員に認識していただきたいと思います。みなさんの要求にそえなかった面も多々あると思いますが、歳出はしぼらざるを得ないという事実をご理解いただきたいと思います。
また、かつての高度成長やバブルのように国がお金を出せば景気がよくなるという政策は、先進国になればなるほど難しくなります。当然、われわれは景気対策に全力で取り組みますが、それでかつてのような二桁の成長などは見込めないということもご理解いただきたいと思います。これからは、企業自ら新しいビジネスを開拓してそれを我々政府が全面的にバックアップする。そういう経済政策になっていきます。そのことを是非ご理解いただいて、今後の経営方針を決定していっていただきたいと思います。今日はありがとうございました」

記者「ありがとうございました」

2009年12月25日金曜日

意外




世の中、意外にせまいというか意外なところでつながっていることってあるものですね。私はデザインが習いたくて多摩美に行ったのですが、大学院の主査の先生がピクトグラム(図記号)の権威の太田幸夫先生で、みなさんもご存知の非常口のピクトグラムなどをまとめた方です。非常口のピクトはISOによって正式に国際基準になりました。今年は、先生の担当されているコミュニケーションデザインの学生は私一人で、先生は今年で退官されます。最後の弟子になったわけですが、入院中もお手紙を下さったり、大変かわいがっていただきました。私が先生の後継者だとか何人かの人にいわれました。予備校、学部と劣等生だった私がそんな大役を承るなんて、と思いましたがありがたい話です。その太田先生が手がけた「代官山ヒルサイドテラス」の計画に、なんと私の叔父正慶が野村総研時代にかかわっていてよく知っていたんですね。これも意外なつながりです。

私の父はガリガリの保守で民主党なんて大嫌いなんですが、私は自分の思想信条で民主党を支持しているんですが、父は首相のお父様の威一郎氏とゴルフをしたそうです。また首相の御祖父様の鳩山一郎元首相の奥様、薫子さんの共立女子学園に私の母方の母方の曾祖父の藤原銀次郎(祖母は養女なので血のつながりはない)が寄付をしたそうです。
さらに、首相の曾祖母様(一郎元首相のお母様)春子さんと私の母方の父方の曾祖母の阿部優子がお友だちだったそうです。いろんなご縁があるものですね。

責任


みなさん、民主党の党首に岡田克也さんがなった理由を覚えてますでしょうか。
菅代表が大臣時代に年金を払ってなかったからですが、(後に事務方のミスだと判明)今現在、菅直人副総理を年金を払わないとお怒りの方はどの程度いらっしゃるでしょうか。
そのときに、しっかり責任を取ればあとになれば、みんなが忘れることも多いとおもいます。

今回の「虚偽記載」の問題で首相には法的な責任がないということが明らかになりました。

元秘書は処罰されることになります。

では、責任は何かというと、法的には何もないのだから「道義的責任」になります。

まず、背景として大金持ちの鳩山首相は、お母様から多くの資金援助を受けました。それが世間的に「金持ちだから苦労を知らない」というマイナスイメージになると考えたのが、この問題の発端です。ですから、利益とか権力とかは今回は関係ない。「イメージ」の問題が原因というめずらしいケースです。そのイメージを守るために、お母様から受けた援助をほかの人からと勝手に秘書が書き換えたという事件ですが、首相にはどの程度責任があるのでしょう。

秘書がしたことでも政治家に責任があることは首相自身がいわれたとおりです。法的には責任がないと当局が判断したわけですから、今回は「道義的責任」になります。

私は「監督責任」と「結果責任」に分かれると思います。

まず「監督責任」ですが、報道によるとこの秘書は相当優秀だったようです。だから首相もお金の管理を全て任せたのでしょうが、今回このような嘘の記述をしたわけですから、いくら人間的に信頼できると思っても常に第三者のチェックをする必要があることになります。
しかし、それだけ自分たちの秘書の金銭の扱いに定期的に第三者のチェックをしている政治家はどれだけいるでしょうか。あまりいないのではないでしょうか。するとこのケースでの監督責任が重大だとするならば、各党とも自分たちの秘書の金銭管理を定期的に第三者にチェックさせることをしなければなりません。人が良くても悪いことをすることがあることが判明したわけですから、信じていただけでは保証にならないことになります。自分で調べるのは、時間的にも能力的にも無理だし、もし故意に虚偽を行ったならば自分で調べても嘘をつくでしょうから必ず第三者に頼まざるを得ません。すると、何百人もいる国会議員、あるいは地方議員を含めたら何千人もの政治家全てに、定期的に第三者によるチェックを義務づけなければなりません。そうすると、そうとうのお金がかかりますがクリーンな政治をするためのコストと考えて実行するというのも一つの考え方です。しかし、そこまでは無理と考えるなら、検察によると首相は知らなかったわけですから、今回鳩山首相が秘書がやったことを事前に調べて告発することはかなり難しいのではないでしょうか。そうなると「監督責任」をどこまで問えるかというと、それほど厳しくは問えないのではないかと私は思います。もちろん「監督責任」がないというつもりはありません。そのことは首相が真摯に謝罪するべきだと思います。そして、二度とこのようなことないように資金運用の透明度を高める努力をするべきでしょう。
もう一つは「結果責任」ですが、K.ヤスパースというドイツの哲学者が「何も知らなかったドイツ国民にナチスの犯罪の責任はあるか?」という問題を考えました。そこで彼は「法的」「道義的」責任はないが「形而上学的責任」があるという答えを出しました。つまり、関与してないのだから「法的」にも「道義的」にも責任は問えない。しかし、これだけの犯罪が行われた時に、そこにいたのならばそのこと自体に責任が全くないとはいえないということです。ヤスパースに従えば虚偽記載をいっさい知らなかったと検察が判断した首相にとえるのはこの「形而上学的責任」になります。それは、自分の部下が不祥事を起こした以上、政治家も反省しなければならないということです。
どのような、責任のとりかたがあるか。一つは「辞任」すること。それから「謝罪」すること「説明」すること「再発防止」をすることなどが考えられます。
まず「謝罪」と「説明」は昨日しました。満足いくかどうかは国民の受け止めかたによりますが、私は首相は歴代の首相の中ではかなりまじめに謝罪と説明をした方だと思いますが、これは立場によって違うでしょう。
それから「辞任」という方法をとるかどうかですが、法的に責任がない場合、しかも自分の全く知らなかったところで行われた犯罪のために辞任するべきかどうかは難しい問題です。人によっては辞任することもあるでしょう。また、もっと大きな問題を抱えても辞任しなかった首相もいました。
私は今回の、秘書の犯罪は首相が辞任するほどのレベルの犯罪ではないと考えます。実際に資金援助をした人の名前を書き換えたということですから、汚職とか横領とかとはレベルが違う。しっかり国民に説明して謝罪をして二度とこのようなことが起こらないように反省し、制度を改める。これが、今回の秘書の犯罪においての責任のとりかたとしては妥当ではないかと思いますが、これも国民ひとりひとり違うでしょう。結局は首相自身が判断して選挙で国民の信を問うしかないでしょう。
「再発防止」については誰も異論はないでしょう。制度も変える必要がありますが、どのように変えるかは議論のあるところですが。それも真摯にやっていただきたい。
結局、昨日は「説明」と「謝罪」という責任を果たしました。「辞任」はしないという立場も表明されました。これが妥当かどうかは選挙でわれわれ国民が意思を表しましょう。
最後に「再発防止」これはしっかりとやっていただきたい。どのようにするかは難しい問題ですが、何度も秘書の不祥事が続くと、本来政治家がやるべき政治が停滞してしまいます。ですから、こういうことの起こりにくい制度を是非造っていただきたいと思います。

2009年12月24日木曜日

我慢


私が関心のあることのうち、鳩山首相の発言の態度については前々回書きました。
今回は、何度もくり返しになりますが「景気」と「財政」の問題について書こうと思います。
とにかく大借金を抱えて、景気も20年間不況。こういう状態で、どのような手を打てばいいのでしょうか。

結局は、
1、無駄を減らし効率的な政府にする。
2、費用対効果を考えて、優先順位を示し効果の高いところに重点的に財政をつぎ込む。

どんな経済学者でもこの2つに集約されることに異論はないんじゃないでしょうか。
では、それでどれだけ効果が出るか。
いわゆるケインズ効果が出るのはインフラの整っていない場合です。ですから、これだけインフラが整った日本のような先進国では、公共事業のような政策は景気浮揚効果は薄いと考えられます。
今の唯一のみんなのコンセンサスが得られる分野は「環境」でしょうが、太陽光エネルギーはまだ効率が悪く採算がとれるまで何年もかかります。しかし方向としては将来そちらにいくでしょうから期待はできます。

無駄を省くことについては、難しいのはハリウッド映画に出てくる悪役のような悪者がいてそいつをやっつければいいという話ではないからです。今の与党は、かつてはその悪役を「自民党」と「官僚」にしたてました。しかし、実際はどうでしょう。民主党が300議席とって政権が変わったら借金が減りましたか?予算も国債も史上最大。いくつかの事業でムダを省いたと主張しても全体でこれだけお金を使っているのならムダを省いたとはとてもいえません。
なぜこうなったのか。先ほどもいったように、「悪者」がいるからこうなるんじゃないんですね。むしろ「いい人」すぎるから、頼まれると断れずつい、じゃあいくらいくら出しましょうといってしまう。しかしそれはただ借金を重ねただけで何の解決にもならない。しかし目の前で困っている人がいるとつい「じゃあお金を出しましょう」となってしまう。つまり国民を無視したからではなく無視できなかったからこうなったのです。
ですから、鳩山首相のやさしさは実は(長期的に見れば)国民に負担を強いていることになるのです。各大臣もそうです。
これは、日本人の国民性もあるのかもしれません。
拳銃を持って強盗するような人は少ない。そういう「悪」ではないんですね。「やさしい」から、頼まれたり義理のあるときにNOと言えないことが原因なんです。
だから、本当に国民のことを考えたら、かわいそうに見えても心を鬼にして断固NOと言うべきときがあるのですが、なかなかこの内閣はそれができない。
「悪者」を叩くのは簡単ですが、「やさしさ」を止めさせるのは非常に難しい。本人たちは人助けしてると思っているのだから。でも、そのお金は全て国民が負担しているんだから、本当はやさしくもなんともないんですが、本人たちは予算をつけたのを「よいこと」をしたと思っている。それが本当の「やさしさ」でしょうか。ただ借金して人をたすける。しかもその借金は国民が将来負担しなければならない。それを「やさしさ」だと考えてる人にはどこかズルいところがあるように思います。「やさしい」からというより「きびしい」ことをいうと反発されるから、それがこわくて断るべきところで断れない。これは本当の「やさしさ」とはいえません。「無責任」なごまかしです。

国民の負担を本当に減らそうというのなら、どこかで負担をして借金を返していかなければならない。
そのためには、取る分を増やすか与える分を減らすかしなければなりません。
それなのにそれができないから、史上最大の予算と借金になってしまうのです。
もちろんメディアの問題もあって、一部のメディアは財源も考えず要求だけ主張して国民に媚を売るものもあります。
くりかえしますが、国民の負担を減らすためには、税を上げるかサービスをカットしなければならないのです。それは、官僚の天下りや自民党の権力の癒着のせいではありません。この期に及んで、悪いのは「官僚」だ「自民党」だというのは責任逃れにすぎません。悪いのは、予算要求にNOと言えなかったあなたの責任なのです。
これが民主党の閣僚にいいたかったことです。

同時にこれは国民のみなさんにもいいたかったことです。借金をしてでも財政を出動するのは緊急な景気対策など特殊なときだけです。そうでないと借金がどんどん溜まって国民の負担がどんどん増えます。ということは、私も含め国民が政府によい政治をしてもらおうと思ったら、自分たちも要求を控えてがまんするから、財政を健康にしてくださいといわなきゃならないのです。厳しさを求められているのは我々国民も同じなんです。
それを予算は要求して断られると怒るくせに、一方では国の財政が悪いと批判するのは、無責任きわまりないことです。

民主党には「やさしさ」よりも「厳しさ」を要求したい。
そして、我々国民には「お金のない政府に要求ばかりしないでがまんするときはがまんしよう」と呼びかけたいです。
もちろん景気対策も福祉も必要ですが、焦点を絞ったり全体のレベルを下げないとならない。こんな当然のこともわからない人もいるので言わせてもらいました。
要は、政治家も国民も「我々はとてつもなく大きな借金を背負っている」というまぎれもない事実から目をそらさずに、その前提の上で政治を行ったり、批判したりしましょうということです。

自助


景気が悪い。税収が落ち込む。財政が悪い。国債を発行。
これらのことは大きな問題で、なんとか手を打たなければならないのですが、私は国民や財界人の方々にいいたい。

まず、財政赤字や不景気はバブル崩壊にまで遡ります。
皆さんはバブルの恩恵を受けなかったでしょうか。
私のうちはバブル時代に別荘を買い、ゴルフ場の会員権を買いました。そのゴルフ場は、安易に造った「豪勢」な建物で、広いロビー、庭にはプールがありました。
従業員はきれいな制服を着ていても、現場慣れしてない不器用な急ごしらえのホテルマンの若者でした。
私は「何にもしてないのにこんな贅沢をしていいのかしら」「いつかつけを払わなければならないのではないか」と一面では思って、この急ごしらえの「豪華」なホテルに泊まりましたが、恐らく今はそのホテルはないでしょう。

実態価格以上の価格で土地が取引されたのがバブルでしたから、実態にもどれば浮いていたお金は、借金になります。

不良債権処理に税金を投入するなという声もありましたが私は「バブル時代にあれだけ贅沢をしたのだからそのツケを我々国民も負うべきなのではないか」と思いました。
その後約20年、不景気と財政赤字は一向に改善されません。もちろんリーマンショックという外的要因もありますが、これもアメリカ版バブルですが、自民党時代、景気対策にあらゆる取り組みをしても、うまくいきませんでした。
一つは政官業の癒着体質があって、資金が効率的に配分できなかった。
これは、政権交代で少しは改善されてきたと思います。
しかし家計を潤すことで消費を喚起するという民主党の政策は欠点があると思います。家計を消費にまわすには福祉政策を充実させ、将来への不安を払拭しなければなりません。
しかし国や地方の財政は大赤字。国債は税収以上に発行し続ける。当然それは将来利子つきで我々が負担しなければならない借金です。
ちなみに私が(日本に限らないかもしれませんが)メディアに不満なのは、税金については大きく扱うのに、それにくらべ国債の発行については扱いがたいへん小さいということです。
実はどちらも国民の負担なのに、今払うのは厳しく感じるけれども、将来の話になるとあまり実感がわかないので読者の関心を得にくいからかもしれませんが、専門的にいえば国債の発行は税に劣らず重要な問題だということは当然のことです。ですから、読者にただなびくのではなく地味だけれども重要な問題はちゃんととりあげて欲しい。少なくとも、そういうメディアがあって欲しいとおもいます。
今回、95兆の要求に対し92兆に圧縮できたことはよかったし、国債も44兆に抑えられたことはよかったと思いますが、どちらも絶対値でいえば史上最高。財政の健全化には遠く及びません。しかし、財政を健全化させるためには、どこかで誰かが負担をしなければなりません。金持ちからとるべきだという人もいるかもしれませんが、大企業の負担を増やせば企業は工場を海外へ移転させてしまって、多くの労働者が職を失うことになるでしょう。グローバル化した経済では生き残っていくためにはそうしなければならない。そうしないと企業が倒産してもっと多くの人が職を失う。だからそう簡単に法人税を上げることもできないのです。

そこで、私を含め国民のみなさんや企業は「景気が悪いから政府よなんとかしてくれ」という発想を変えてもらいたいと思います。政府のやれることは限られているし嘗てのような高い成長は見込めません。なんとか景気対策費を捻出してもそれは借金です。いつか利子つきで我々が払わなければならないのです。

だからこれからは、景気が悪いなら自分たちの工夫で新しい事業を発展させていこうと、その上で最低必要な部分は政府にたすけてもらう。このように考えていくようにすることが現実的だと思うのです。
もちろん政府は景気回復に全力を尽くすべきですが、われわれ国民もそろそろ、親離れをして、困ったら政府だよりにするのではなく、お父さんも大借金を抱えてるんだから自分で工夫して稼ごうというふうに頭を切り替えることが必要だと思います。

かくいう私も恥ずかしながら今だに親の世話になっています。しかしなんとか頑張って自分で稼げるようになって親に恩返しをしようとも思っています。私が偉そうにいえる立場にはないのですが、これは国全体にもあてはまることなのでいわせてもらいました。

一方では現在はそのような考え方が以前よりも発展してきたという感じもします。NPOを自ら立ち上げ社会に貢献しようという人も格段に増えてきてますし、企業も企業努力で環境対策の技術を開発して社会に貢献すると同時に、新しいビジネスチャンスにしようという努力も強く感じます。

私はそういう意味では日本人のまじめさをそうとう信頼しています。

政府にいうべきことはいう。でも、自助努力するべきところはして、何でも政府の責任にしない。ただ、自助に必要な援助は求めても当然だと思います。そのように我々国民の発想も変えなければせっかくの政権交代もその効果が減ってしまうと思うのです。

私の高校時代の校長先生がいつもいっていた言葉です。

「天はみずからたすくる者をたすく」

2009年12月23日水曜日

発言


まず、昨日のブログで、新聞は暫定税率維持を大きく扱っているのに、社説に書いてないと批判しましたが、うちでとっている新聞には今日、社説で詳しく論評してありました。休日なので外出せず他の新聞のことはわかりませんが「結論を出すのを避けている」という批判はあたらなくなりました。メディアの方々の名誉を傷つけたことをお詫びします。申し訳ありませんでした。

ところで、私がマスメディアの関心と自分の関心がずれていると感じるところがあるので、その点を書きたいと思います。

私の現在の関心は
1、鳩山首相の発言の態度
2、財政規律
3、景気
4、社会政策

です。

鳩山政権以前は、
1、官僚支配
2、政治家の利益誘導
3、国会の形骸化
4、政治と企業との癒着

でした。
そして、これらの問題をどれだけ民主党政権は改革できるだろうかと思って見ていました。
まず、事務次官会議が廃止されました。政府も国民に選ばれた政治家が主導権をとるようになってきたと思います。年末の、予算陳情の醜い姿。地方の代表もそんなことに金も時間も使いたくないはずですし、選挙で選ばれてもいない官僚に頭を下げるのも屈辱だったでしょう。しかし、そうしないと予算が取れないからしょうがなく頭を下げる。官僚の中には、予算の決定権が自分にあるとでも思って傲慢になった人がいなかったといえるでしょうか。それが、今年は一変して風景が変わった。このことはすごいことだと思います。
今まであげた問題は、自民党が50年たっても変えられなかったものです。50年間与党にいても変えられないものが3ヶ月で変わった。民主党の批判も必要なときにはするべきですが、評価するべきところはちゃんと評価するべきだと思います。さらに、これらの課題は今後の国会などで試されるでしょう。

そして、現在不安なのは鳩山首相の発言態度です。まあ、よくいえば純粋なのか、計算してないだけなのか、あまりにも思ったことを軽くいいすぎだと思います。たとえば、CO2の25%削減も、普天間の問題も実現できればいいですが、本当に実現できるか厳しく精査した感じがしない。思いつきでいうには問題が大きすぎます。理想はいいのだけれども実現しなければ意味はない。だから、事前に熟考してまわりとの調整をして万全をきしてから、どうどうと発言すればいいのです。その前のプロセスがないようにみえるのです。マニフェストもそうです。そりゃできればいいですよ。でも、この財政、この景気で本当にできるのか?私は民主党サポーターであるにもかかわらず、マニフェストは理想的すぎて実現が困難だと選挙前から主張してきました。
それでも、無駄を省くことでマニフェストは実現できると主張してきましたが、昨日マニフェスト実現は不可能と認め国民に謝罪しました。
この、経験を深く胸に刻んでいただきたい。理想を語るのはその場では気持ちいいし、みんなに喜ばれるでしょうが、何度もいいますが「それが本当に実現できるの?」というこを考えなければなりません。それが、できていなかったから結局、昨日国民に謝罪をすることになったじゃありませんか。本当に悪いと思うなら、もうこういうことをしないと考えるなら、必ず実現可能性を厳しく吟味してから「理想」を語ってください。また、同じ過ちをくり返すなら、今回の謝罪も口だけか、ということになってしまいます。それでまた謝罪をくり返すようなら、狼少年と同じです。
普天間の問題でも、私自身もオバマ大統領になって、柔軟な対応になるのかと期待していましたが、そうはならなかったので私の勉強不足を読者にお詫びしました。
もちろん県外移設ができればいいと思いますよ。でもアメリカの態度を分析すれば、それはほとんど期待できないと思います。オバマ大統領はノーベル賞を取ったのにもかかわらず支持率が下がって苦しい状態です。ここで、日本にまで譲歩したら米国内から「弱腰」の烙印を押されてしまいます。アメリカ人にとって「弱腰」とは最も屈辱的な言葉であることはアメリカ留学された首相はご存知でしょう。ですから、アメリカは最後まで現行案を主張しつづけ、日本が折れそうになったときに微調整の案を出してなんとか日本政府の面子を保つシナリオではないでしょうか。
とにかく、厳しい現実を厳しく吟味してその上で発言しなければならない。そうしないとどんどん信頼を失っていきます。もうすでに、信頼は失われかけています。
「税金は上げない」とか「基地の代案を検討する」とかいえばその場では、いい気持ちになるかもしれません。しかしそれが実現できなければ批判はさらに大きくなります。
いまだに「きれいごと」「おもいつき」の発言が目立ちます。このままでは、国民の信頼は失われ、首相批判に世論が傾くでしょう。
「理想」を語れば国民は喜ぶだろう、負担をいえば国民は反発するだろうというふうに考えていたとしたら、それは全く反対です。喜ぶのは一瞬だけで、最後には、実現できなければ反発はさらに大きくなり、取り返しがつかないことになるでしょう。
私のいっていることをどうか理解してください。悪意でいっているのではないのです。それは、私の過去のブログを見ればわかるはずです。私は、鳩山由紀夫首相に4年間の任期を全うしてもらいたい。それは民主党支持者のためだけでなく、日本に真の民主主義が根付かせるためでもあります。私のいっていることが的外れかどうかはぜひ上記のブログをしっかり読んで判断してください。風当たりが強い中、今が踏ん張りどころだと思ってがんばってください。

2009年12月22日火曜日

国債


「国民の皆様へ」

私は今回の税率維持に賛成です。
なぜか。
1000億円の予算が必要なときに、景気を考えなければ「増税」するのと「国債発行」するのとどちらがいいと思いますか。
答えは簡単。「増税」です。「増税」すれば1000億円ですみますが、「国債発行」をすれば1000億円プラス利子を払わなければならず、国民負担が増えるからです。
ですから、「国債発行」は、景気対策に臨時的に行う以外は避けるべきです。

私は、今までの情勢を見ていて44兆円の「国債発行」を増やさずにおれるかが一番心配でした。
今回の首相の決断で、「マニフェスト」を破るというマイナス面はありましたが、「国債発行」を44兆円以下に抑えられそうだということでとても喜びました。

ところが、専門家には常識のこのことも一般有権者の中には知らない人も少なくありません。
その責任は、マスメディアにもあると思います。
国民負担が減ったのに、「税率」の方は大きな活字でデカデカと示して、肝心の「国債」については、ほんの少し触れるだけ。これでは、あたかもこの決定で国民の負担が増えたかのような印象を持つ人がいても不思議はありません。こんな、メディアを通じて正しい政治判断ができるでしょうか。
では、この決定についてメディア自身はどう考えているかというと、なんと「朝日新聞」以外は社説で触れてないんですね。
一見悪いことのような印象を与えておいて、その根拠はなにも示さない。これだけ大きな政治的決断がなされ、大々的に報じておいて自分たちの立場は明確にしないのはひどすぎませんか。
これでは、先程の「専門家の常識」を一般人に伝えるというメディアの役割を放棄していると批判されてもしかたないのではないでしょうか。

その分、小沢幹事長が首相に党の要望を出したことは大々的に伝える。
もともと、民主党は政府と与党が一体になって、国民が選んだ国会議員が政治を行うという立場でした。与党の意見を政府に要望したことのどこが問題なのでしょうか。新聞をよんでも「小沢氏の影響」とか「丸呑み」とか、否定的な言葉を見出しに使っていますが具体的に何がどのような理由で問題なのかを、説明された文章はほとんどない。各方面からの意見をきいて政治的判断をするのは当然で、「子供手当の制限」はしなかったのだから「丸呑み」というのは、事実に反するのではないでしょうか。
しかも、党からの要求といっても内容は「税金をあげろ」といものですよ。今までの自民党の要求は予算をうちにまわせというものだった。それに、引きずられるのはよくないと思いますが、全く逆に「財政の健全化」を要求しているのですよ。どこに問題があるのか私には理解できません。反論しようと「社説」を読んだら、書いてない。メディアのみなさんこそ一度アタマを整理されたらどうでしょうか。暫定税率を廃止なら廃止で結構ですよ。でも、それなら、その分をどうするのですか。「国債」発行するのですか。そうなると不利になると直感的に感じたのか「社説」に書かない。
そして、何が問題かも明確にしないまま、小沢氏の影響が大きいことだけを、否定的ニュアンスで書く。これは、ひどいと思います。小沢氏を批判してもいいですよ。でも、それなら、その根拠を明確にするのが最低限の作法でしょう。このように「空気」だけで論理的な帰結と逆なニュアンスの報道をされて、その中で正しい、政治選択を求められる国民もいい迷惑です。
「税率維持」も「党の影響」も批判しても全くかまいません。それは、言論の自由ですから。ですが、それなら、必ず論拠を明らかにしてください。
「社説」に自分の意見を書かず、そのくせ、否定的なニュアンスの報道だけをする現在のメディアの態度は大いに問題があると思います。

「マニフェスト」に反したことは、よくないことだと思います。しかし、公約を破って、そのことを国民に真摯に謝罪した総理大臣がどれだけいたでしょうか。大型間接税を導入しないといって「大型ではなく網羅的だ」といったり、国民との約束を「そんなことは大した問題ではない」と国会でいった総理大臣までいました。過ちは批判されるべきですが、その後はちゃんと謝罪すべきで、それをしたという点ではよかったと思います。

民主党も今ここでいってきたようなことを伝えてほしい。メディアに長けた担当者を作ってほしい。説明することで理解されることもたくさんあると思います。
「説明」しだいで支持率も大きな影響をうけます。
メディアはこのように、正しく伝えません。だから、民主党自身が正しく伝える努力をしてほしいと思います。

2009年12月21日月曜日

鳩山政権


鳩山政権の支持率が50%をきった。

民主党が圧勝した日の私のブログを見ていただきたい。




「政権をとった民主党の皆さんにいくつか、私の思うことを述べさせてもらう。
かつての細川政権も国民の8割の支持を得ながら、保守派の執拗な攻撃で(政治改革法案を何はともあれ通したことは今の政権交代を可能にした結果をもたらしたので十分評価すべきだと思うが)、自宅の壁を直すのに佐川急便から借金をしただけで証人喚問されたりした。
立場を失った保守層のネガティブキャンペーンは容易に予測できる。しかし、野党時代は民主党も自民党のあら探しをしていたのでそれは、ある程度しかたない。ただ、これからは一部の人たちから感情的反発を強く受けることは覚悟しておいてほしい。
それへのとるべき対応は、先ず単純なことだが、閣僚の「失言」には十分に注意をしてもらいたい。それだけで辞任に追い込まれることもあるのだから。スキャンダルも保守系メディアは血眼になって探すだろう。言うまでもないことだが、金銭の国民に疑惑をもたれるような集め方がないかは、常に自らチェックしておかないといけないと思う。「李下に冠を正さず」という諺があるように、適法であっても疑いをもたれる可能性がある行為は慎むべきだろう。
マスコミは権力をチェックするのが仕事なので、ちょっとしたことでも面白いネタがあれば、攻撃してくるものだ。
これらのことを避ける、合理的で最も効果のある方法は、正しい政治をやることだろう。
先ほど、自民党のいうことはそれほど間違ってないと述べたが、ではなぜこれだけ負けたのか?ちょうど郵政選挙と逆の結果が出たわけで「新自由主義の行き過ぎ」とか「不景気で雇用に不安がある」とかいわれるが、それもあるだろうが、それより私が感じるのが「とにかく今の政治を変えたい」という心理が有権者に共有されているのではないだろうか。それが、「小泉なら変えてくれそう」とか「民主党なら変えてくれそう」という期待になって現れたのではないだろうか。もちろん、その時の風もあるだろう。だから、民主党の議員の方々は、ブームはいつかは終わる。賞賛はバッシングに簡単にうらがえる。ということを肝に銘じて、くれぐれもこの勝利を自分たちの政策が国民に支持されたと、単純に考えないでほしい。
そして、官僚との戦いに臨んでもらいたい。そのためには、情熱はもちろん、官僚に負けない「知識」や「理論」「情報」などの裏づけが不可欠。人気取りのためにでた必ずしも政策や政治に詳しくない候補もいるだろう。そういう方々も、一生懸命勉強していただきたい。もう自民党のせいにすることはできない。あなた方が政治家としてふさわしいかどうかが問われる。おそらく支持率も始めは7割前後いくのではないか、その後必ず下がる。そこで5割をきるかどうか、そのあたりが重要な分岐点だと思う。単なるブームなのか本当の刷新なのかが問われる。
一度、否定的イメージがついたら、それをくつがえすのには大変な努力と時間がかかる。始めから予想される批判には行動をもって反論してほしい。
政権をとればメディアも世論も、よいしょはしてくれない。実際に景気や民主党のいう「心の通った政治」が実感できなければすぐに、批判に変わることを十分頭に入れておいてほしい。
最後に、選挙はゴールではなく、スタートラインに立ったということだ、ということを忘れないでほしい。オリンピックに例えたら、出場が決まった段階に当たる。本番で良い成績が出せなければ、世論はすぐにそっぽを向いてしまう。
これからが「勝負」だということを忘れないでほしい。
経済も、財政も大変厳しい。官僚は一流大学でトップクラスのエリートぞろいだ。彼らと対等に議論して勝つためには、先ずはビジョンン、知識、知恵、忍耐が必要になってくる。それに、こたえられる議員がどれだけいるか。
しかし、日本を変えてもらいたいという認識は、国民はもちろん、優秀な官僚にも共有された認識だと思う。正しい努力がなされれば民主党に協力する官僚もいるはずだ。
ゆめゆめ、これをゴールだと思わずスタートラインだと肝に銘じてほしい。」




はじめに断っておくが、私は今でも鳩山政権が4年間の任期を全うすることを強く支持する。
このように政権への批判があることは、はじめからわかっていた。
そして、支持率50%を一つの分岐点と考えている。

つまり、今がその"critical phase"=「危機的局面」と考える。
そこで、サポーターとしてこの危機に対して、全力で鳩山政権を援護射撃していこうと思う。

まず、鳩山政権への批判の分析。
1、鳩山首相の政治態度
2、小沢幹事長の支配
3、マニフェストと財政再建の葛藤

1、鳩山首相は、理想的なことをいう。「友愛政治」「架け橋」「コンクリートから人へ」「命を大切にする社会」「絆のある社会」
なるはど、それぞれすばらしい。しかし、「どうやって?」
そのことを考えているのか。私は、理想先攻で後から考えればいいと思っているように思える。国民もそのように見ているのだと思う。
理想を語る以上はちゃんと根拠を考えなければならない。

民主党のマニフェストには、無駄を省くことで9.1兆円の予算が捻出できるという。その他を含めて16.8兆円の財源を捻出できると書いてあった。それで事業仕分けででてきた無駄は7000億円。もともと、無駄だけで10兆円も出せると考えること自体が無理があったのだ。そのことは私は選挙前にあえて、民主党に不利なことだけれどもブログに書いた。
鳩山首相は1、理想をかかげ 2、みんなに議論させ 3、答えがまとまらなかったら玉虫色の対応をして、答えを遅らせる。
その間、マスコミは首相のことばから憶測でいろいろ書き立てその間に、首相の悪いイメージがずっと流される。
だいたい、根拠なく理想を掲げることは間違っている。理想があることはいいことだが、それをいうにはそれなりの努力をしなければならない。予算だけではなく、「普天間」も、はじめは早めに結論を出さなければならないといいつつ、また先延ばしする。それでは、国民は信頼したくてもできない。もともと、戦略の熟考が必要なのにそれをせずに理想を語る。だから、最後にどちらかを選ばなければいけないときにビビって後回しにして逃げる。これでは、国民から優柔不断の烙印を押されてもしょうがない。理想が高ければ高いほど、実現は難しい。その負担を誰かにはお願いしなければならない。でも、それで嫌われるのがイヤで負担の話はしない。これは、無責任である。一番批判されにくく、しかし実際には一番国民に負担をかける「国債発行」に逃げる。あなたの態度は本当に「理想」なのですか?それとも「きれいごと」なのですか?理想なら、負担の部分も考え、つらい部分にも目をそらさない態度をとらなければならない。それを、恐れてつらいことを後回しにしていたら、結局自民党と同じ単なるブームで「そんな総大臣もいたな」でおわってしまう。どこに、負担を求めるのかをハッキリ目をそらさずに見据え、それをあとまわしあとまわしにせず、国民に丁寧に説明することが求められる。
私は、何度でもくり返すがそのようなコミュニケーションの得意な人を広報担当にして、国民に納得できるように説明することを強く要求する。
首相ご自身あまり実感がわかないのかもしれないが、国民は首相のあいまいでどちらかわからず、先きのばしする態度に、イライラしている。それに対して「説明すること」は、道義的になだけでなく、民主党の党益的にもプラスになるはずだ。
しかし、いくら立派な報道官がいても、首相自身の考えが固まらなければ説明のしようがない。結局、首相が基本的にどっちの方向で考えているのかは示さなければならない。八方美人では、その場では喜ばれても、最後には一番大切な「信頼」をなくす。しかも、それは今正にそのような局面にきているのだ。
私は、自分のできる限られた能力の中で精一杯、首相を応援していくつもりだ。
首相も、責任感を持ってハッキリと態度を示してください。

私は、はじめはマニフェストは多少不利であっても維持すべきだと考えた。それは、民主制を守るためのコストとして。しかし、現在は、マニフェストを維持するには不利益が大きすぎるので変えるのはやむを得ないと考えている。これは政治判断なので私の意見が正しいかどうかはいえないが。もし。マニフェストに書かれた政策を変更する場合、それを説明して「見通しがあまかった」ことを謝罪してほしい。私も、自分のブログでいったことが間違っていたときに謝罪をした。第三者から見た目を想像してほしい。失策を必死にとりつくろってる政治家と真摯に謝罪をしている政治家。あなたならどちらをより信頼しますか?

小沢幹事長が自民党の利権を断とうとしているが、それは私は賛成である。前回のブログでも書いたように、自民党は一回、利権から完全にはなれて、その上で自分たちの党がどういう党なのかを考え直し、良き「保守」政党になってもらいたいからだ。
小沢幹事長は、選挙対策で努力することはいいことだが、そのために政策を変えさせたり、することはよくないことだ。政府は全体の利益を最大化するように政策を実行し、幹事長はその中でできる範囲内で最大限の努力をするべきだろう。

首相も困ったら小沢幹事長に頼るような姿勢は、非常にマイナスのイメージをあたえる。尊重はするが、あくまで決定と責任は自分にある、と胸に刻み込んでもらいたい。

今は、政権にとって極めて重大なときだと思う。
閣僚は意思疎通をしっかりして、鳩山政権を支えていくことをしっかり確認して、その態度を国民に示してほしい。

全国の国民のみなさん。
今までの自民党政権で、
事務次官会議を廃止できましたか?
事業の仕分けをオープンにできましたか?
環境にこれだけの意思と資金を使いましたか?
NPOとの協力がどれだけできましたか?

たしかに、今景気が悪いし財政もひどい、しかし自民党政権が与党のときに何回景気対策をしましたか?それで成長率が上がりましたか?財政の赤字をどれだけ減らせましたか?

国会で答弁を、官僚に任せなかった人はいますか?就任会見で官僚の書いたペーパーを読まなかった大臣が何人いましたか?政策をどれだけ事務方にたよってきましたか?

民主党が政権をとって、大きく前進したことはたくさんあると私は考える。
マイナスイメージがつくと、不景気や財政赤字、ひいてはリーマンショックやドバイショックや円高までが鳩山政権のせいかのような印象まで与えてしまうことがおこってしまう。
それを、首相が煮え切らない態度をしたために捨ててしまうのは愚かなことだ。その責任は首相自身にある。

これは、悪口ではなく私の鳩山政権へのできる限りの応援だと受け取ってもらいたい。
全国の民主党支持者のみなさん。今、この苦しいときこそ厳しいこともいいながらもしっかり結束していきましょう!!!

2009年12月20日日曜日

自由民主党


現在、鳩山政権の支持率が下がっているが、次回の選挙でも自民党の復活は難しいのではないか。政策的には民主と似ているところも多く、自民党の独自色をだしにくい。鳩山首相も批判をされてはいるが、それにくらべ谷垣総裁がすごくカリスマ性があるとも思えない。

自民党は、冷戦時代に西側に日本がつくためのくさびとして存在した。
一方政策では政官業一体となって経済発展に邁進した。
その結果、世界第二のGDP、しかも、国民の9割以上が中流だと答える、豊かでかつ平等な社会を作り上げた。また、日米安保を逆手にとり、戦争への参加もひかえ60年以上もの平和を実現した。

これらの点では我々の生活の幸福に、自民党は大きく貢献した。私たちも感謝すべきだと思う。

しかし、この権力構造が固定すると、企業との癒着、地元への利権誘導、党内の醜い権力闘争これらの問題が次々に表面化してくる。すると、今まで自民党の問題だったのが日本自体の問題になり。このような、政官業の癒着がマイナスにはたらくようになった。
しかし、野党が社会党だった時代は、社会党にはほとんど政権担当能力がなく、社会主義陣営に入ることをのぞむ人もそんなにいないので、結局、自民党政権は続いた。
しかし、当時の自民党の腐敗やおごりには自民党支持者であってもよいとは思ってなかったのではないか。

冷戦が終わり、細川、羽田政権が短期間続くが、皮肉なことにかつてのライバルだった自民党と社会党があまりにも急進的で、強引な小沢氏の影響力に反して自社さ村山政権を作る。村山総理がやめてから、いつのまにかまた自民党政権が続いてしまった。森内閣の支持率が10%をきったころ、これでは選挙に負けるということで、旧来の自民とは反するが人気のある小泉氏を総裁にする。小泉内閣の「小さな政府」への転換は、旧来の自民党的なものを壊してある意味では成果を残したが、その結果従来の自民党の権力システムが破壊され、参議院、都議、今回の衆議院とことごとく民主党に大敗する。

自民党は、それなりの役割があり、大きな成功をおさめたと思う。その恩恵に我々日本人浴してきたことも認めるべきだ。
しかし、その後の権力の形骸化による腐敗は、政策決定を遅らせたり、偏らせたりして国益をも損ねていた。これは自民党支持者でも賛意するのではないか。

私は結党以来、一貫して民主党支持者だから自民党が負けることはうれしいのだが、客観的にいって、自民党がダメなままでは日本にとってはよくないと思う。
今までの、権力の癒着などのダーティーな部分をしっかり改革する。そのためにはしばらくは野党経験をしたほうがいいと思う。というのは、細川、羽田政権が短期で終わったのでまた癒着のネットワークが復活したこともあるので。ウラで権力をあやつって政策を決定する旧来のやり方はキパッリと捨て去って堂々と政策論争を戦ってほしい。それが、国民ののぞんでいることではないか。今まで、背負っていた重い荷物をおろしてスッキリした気持ちで新しいきれいな自民党を作ってもらいたい。

党首討論もせっかくだから大いにやってもらいたい。議論で勝つようにしてもらいたい。
民主制には「健全な」野党が必要なのだから。そうでないと、与党に反対する人が投票する政党がなくなっちゃう。

2009年12月17日木曜日

意見


民主制は、国民が政治を(間接的でも)決定するシステムである。
国民はもちろん全員が政治経済のプロではない。
従って、素人であっても発言する権利はあるものと考える。

ここに一国民。素人の感想を記そうと思う。

まず、第一に訴えたいのは国民への説明の重要性である。なぜならば、国民はその政策がどのような意味を持つのかがわからないことがある。メディアの中には現実を無視したイデオロギーだけで(イデオロギーが不要だとは思わないが)評価するものもある。だから、政府の立場をわかりやすく説明することをしないと曲解される恐れがある。
アメリカでも報道官がいるので、私はメディア対策専門の役職を作ることをお勧めしたい。
官房長官は、他にも仕事が忙しいし、メディア慣れしてないおじさんが毎日出てきても政府の顔としては、あまりいい印象を与えない。首相が直接説明する場合、責任が重すぎて抽象的なことしかいえない。そうすると、マスコミが勝手に解釈して間違った印象を与えることもある。
次に、マスコミ世論。これは、非常に建設的で、専門的で、有効な意見もあるし、悪意に満ちた中傷もある。理想ばかりで現実性のないものも多い。よい意見と、無視すべき意見を聞きわける耳を持つことが必要だと思う。
マスコミを通じて、ぜひ説明してほしいことがいろいろある。
まず、現政権以前から、日本は莫大な財政赤字を抱えている。したがって、節約しなければならない。一方リーマンショックで歴史的な不景気が続き、景気対策もしなければならない。これは、矛盾する。その中で政策を実行するので誰がやっても非常に困難な状況にあることを国民に率直にわかりやすく説明してほしい。そうでないと、「財政赤字」も「不況」も鳩山首相のせいだと勘違いする人がでてくるので、そうなっては困る。

それから、「国債」の意味を意外と知らない人もいるので。説明してほしい。「国債」はお金を借りて、「利子をつけて返す」もの。将来、税金などでわれわれが返さなければならない。しかも、利子がついている。返済が長期になれば利子はさらに大きくなる。だから国債発行は景気刺激策など特別に必要な場合以外はできるだけ発行しないことは国民の負担を減らすためだ。それをケチだから国債発行をためらってると勘違いされてはたまらない。

財政と景気対策は矛盾することは先程述べた。では、どうするか。景気や国民の福祉に貢献しない予算はできる限りカットする。これは「刷新会議」の仕事。私はまだ不十分だと思うが考え方は間違っていない。

そして、景気対策は一時しのぎではダメ。なぜなら、毎年続けなければならず財政を圧迫するから。緊急避難的なものを除いては中長期的な戦略を持って、いいかえれば「哲学」をもって制定しなければならない。それは「戦略室」の仕事。同時にそのことを国民にわかりやすく、広く説明してほしい。
菅戦略相は次のようにいっている。「国が公共事業をすることで大きな景気浮揚効果があった時代があった。それが第1の道。しかし、もうすでに道路ができてしまったところに、お金をかけても景気浮揚効果は少ない。財政がひっ迫している中では、効率の高い景気対策をせざるをえない。だからこれは現在ではダメ。次に小泉総理がおしすすめた小さな政府。これは、財政をあまり使わないで民間の競争を奨励する。しかし、民間の競争だけだと、企業は利潤を出すためにリストラしたり工場を海外に移転したりする。すると、雇用が失われる。リストラして儲かった人と職を失った人との格差が生じ失業率も上がる。これが第2の道。そこで、戦略相は第3の道として、お金を使うよりも知恵を使って、新たな雇用を生み出すシステムを作ることを考えている。現在、就職難といわれているが、一方では介護の分野では人手不足といわれている。また、公共事業を縮小するなら、そこで職を失った人たちにあらたな職を提供する必要がある。例えば建設業者を林業に転職させるプログラムを作るとか。必要とされている分野はあるのでそこと、あまった人材とを上手くつなげる仕組みをつくる。環境問題でもお金を出すのではなく、例えば住宅を二重ガラスにして省エネにすることを義務づければ、ガラス屋さんが儲かる。そのように、今までは何兆円使ったかだけで量的に判断されていた景気対策を質的に高めることによって費用対効果を高める。これなどは、少し説明すれば国民も納得するのではないか。そのためにもかえすがえすいうが、国民への説明をしてほしい。今でも規模だけで景気対策を語る人がいるので。

中長期的な戦略が必要なことは識者の意見の一致するところだが、「環境」「雇用」「景気」「子育て」「科学技術」と絞ったことはよいことだと思う。どれも、将来的にも必要なものだし、反対する人はあまりいないだろう。それを、どれだけ実現するか「本気度」が試される。そのためには関連法案とセットでだして「本気度」を示すことも重要だと思う。新聞などでは、識者がかなり、有効と思われる提案もしている。メディアの質を見きわめた上で、本当に有効だと思われるものは積極的に取り入れることはよいのではないだろうか。

それから、いくら景気対策をしても実際に効果が現れるまでには時間がかかるということ。このこともわかっていない国民が多くいる。それも説明してほしい。株価は敏感に反応するが、新規事業が利益を出すまでには、数年はかかる場合があることも説明してほしい。

普天間の問題は、首相があまりにも優柔不断で八方美人なことが問題だと思う。もちろん日米関係も大事、沖縄県民との約束も大事。どちらかを一方的に無視した意見に私は組しないが、首相が(結論はすぐに出なくても)どういう哲学でことにあたっているのかがわからないので、日本側もどうしていいかわからないし、アメリカ側も苛立っている。こういう状態が長く続けば首相への批判は毎日報道される。政権の支持率にも非常に悪い影響を与える。「trust me」といったのを「現行案を受け入れる」と解釈したというのは、アメリカのムリヤリの理屈だろう。首相は「『trust me』とは、どういう結論になっても日米関係を壊すような結論には断じてしない、という意味だ」とハッキリ説明することは有効だと思う。社民党も、県外移設を本気で考えているなら、首脳会談前に与党で調整するべきだろう。私自身もオバマ大統領になって柔軟になるかと予測していたが、そうはならなかった。これは、私の勉強不足でお詫びするが、社民党も理想もいいけれど、現実に可能かどうかを考えなければ無責任だ。過去にも、「自衛隊違憲」「消費税率引き上げ反対」といいながら、自分が政権をとったら一夜にして翻したじゃないか。理想をいう以上は、極めて厳しい考察が必要なのだ。そのような厳しさを私は社民党に感じない。期限をきらないということになれば、この不安定な状態がいつまでも続くことになり政権には明らかにマイナスだ。百歩ゆずって社民党の意見をと入り入れるにしてもおおまかでも、いつまでかは示すことは必要だと思う。

首相の虚偽記載の問題は、母親から大量な資金援助を受けたのが悪い印象を国民に与えるのを恐れて他人名義にしたものだが、特定の団体から裏献金をもらって便宜をはかったという問題に比べれば、罪は軽い。でも、罪であることには変わらない。法的、道義的責任はとらなければならない。私の考えは、この場合は「ワシントンの桜作戦」で、正直であることでリスクを引き受けることで逆に「この人は信頼できる」と思ってもらうこと。とにかく一定のけじめをつけないと政権の命取りにもなるので、曖昧な態度はよくない。なんらかの責任と説明をしてもらいたい。

財政については、マニフェストを見れば予算をゼロから組み直せば、無駄を省くことによって公約を実現できるお金はでるとあったが、95兆円の予算で7000億円の無駄を省いて、どれだけムダを省いたといえるのか。結局、国債の史上最大の発行。いい加減にしろ!といいたい。私は選挙前から、ムダを省いただけでそれだけの予算が出るとはどうしても思えない、とブログで強調していた。マニフェストの概算が甘かったか、見直しが甘かったどちらか、もしくは両方だろう。それは、民主党さん認めますか?認めないならその理由をいってください。認めるなら、次回の参議院選挙では実現不可能な公約はしない。そのためには現状認識を厳しくする。それは、必ずやってもらいたい。「ムダを省けばできます。できます」といっておいて、いざ政権をとったら、史上最大の予算に、史上最大の国債。あきれてものもいえない。私は理念として民主党を支持するし、その限りでは正しい政治をやっていれば世間の風当たりがどんなに強くても民主党を支持し続ける。しかし、正しい政治をやってないなら、いうべきことはいおうと思う。悪意ではないし、一生懸命やってる姿勢は認めるが、実際、選挙前にいったこととかけはなれたことをやっているのでは、なさけない。私の主張を理解する民主党員がいれば、二度とこのようなことがないようにしていただきたい。

小沢幹事長に権力が集中しているとの批判もあるが、幹事長に党の権力が集中するのはあたりまえで、選挙対策を積極的にやるのもあたりまえ。しかし、幹事長が政府の施策まで左右することは越権行為だろう。もしそうなら、責任は小沢幹事長と鳩山総理にある。
鳩山さんがきれいごとばかりいって、ウラできたない仕事は小沢さんにやってもらっているので頭が上がらないなら、きれいごとはきれいごとにすぎなくなる。
首相が幹事長にNOということができなければ、小沢批判報道はずっと続くだろう。実際に頭が上がらないなら、報道以前に民主制の問題だ。

私は最近、小沢幹事長の「日本改造計画」を読んでいるのだが、今の民主党のやっていることを10年以上前から極めて理路整然と述べられていて驚いた。そして、「強引」と批判されても、小選挙区制を導入し10年がかりで政権を奪還しその理想を実現しようとしている点では、私は小沢幹事長を極めて高く評価している。しかし、もし幹事長が首相よりも実際の権力を持っているのなら、小沢さんの主張する、「首相のリーダーシップ」に反するのではないか。そのようなことがないように、鳩山首相には小沢さんにもNOといえるぐらいの強さを持ってもらいたい。

2009年12月13日日曜日

待降節


吉祥寺教会 キリスト教入門講座 シスター田中
2009/11/15 「希望」
◯「ダニエル」12-3「目覚めた人」
今の世の中は何かにおおいかぶされているといったひとがいる。
自分の存在の不確かさ。ここにいていいのだろうか?グラグラゆらいでしまう。ふさがれてしまう感じ。
自分を肯定できない。
◯今では人は番号付けされてしまう。
本当の自分を見られない。→自殺、ひきこもり
存在の根源=誰のために生きているのか?誰に生かされているのか?
◯私たちはどうしてこの世にいるのか?=お父さんとお母さんから生まれる前。お父さんもお母さんも知らない。神様は知っていた。
どうしてこの私がこのママとパパのあいだに生まれたのかわからない。
=それは神様が「あなたがほしい」と思ったから。神様のはからい。
神様は、ご自分がほしいと思った。ずーっと生涯一緒にいて下さる。
「創世記」、神様はご自分の息を吹きかけた。
神様はずっとよりそってくださる。見守ってくださる。お父さん、お母さんを通して。
◯「神様が欲しいと思った」という本当のことがわかれば自殺はありえない。
◯ある老人病院で、あるシスターに「お姉さん来てください。来てください」という人がいた。「さびしいの。さびしいの」と言いつづけた。「そう、どうしようかね」といって手をさすりつづけたら、だんだん手があたたかくなったところで、おばあさんはねてしまった。そして、シスターはそっとふとんをかけてかえった。
◯ある小2の子、お母さんくも膜下出血で亡くなった。おばさんやおばあさんが世話をした。
でも、何かちがう。
人間はいまここに生きているということに安心とか満足できない。
「あなたが欲しいんだ。あなたにここにいてもらいたいと思って、あなたを生んでもらった」と神様は思った。
神様から授かったこと忘れてしまう。
お母さんが無条件に「我が子よ」と抱きしめている瞬間。神様があずけてくださったことわすれる。
◯マリア様。神様の子供と知って育てた。しかし、目の前でおむつかえたり、お乳のませたりしているときはわが子。無条件の愛。
◯「無条件の愛情は神様がくださった」
ホセア、愛情に敏感。奥さんにうらぎられた。その度に神様はよびもどしてらっしゃいという。
預言者(神の言葉を預かる者)
「ああ、エフラエムよお前を見すてることができようか」
無条件の愛情はどんなことがあっても見すてない。
神様は怒っている、無条件の愛、両方ある。引きさかれる苦しみ。
◯神様が預言者をとおして知らせてくらこと。
「私なんかいない方がいいの?」と思ったとき、
「神様がわが子よ」と抱きしめてくださる。「なんではなれてしまう」と怒ってしまう。
そのことを少し考えて下さい。
◯神様は私たち一人一人の心の奥を知っている。
だれもわかってくれない。さびしい。=神様は知っている。
本当の孤独感を深く深く知っているのは神様だけ。引きさかれるほどつらい。じっと見ていらっしゃる。その人を責めるのではなく。いっしょに歩もう。
◯神様に対して、わたしたちが信頼する。たよる。=自暴自棄からにげる道。
殺人犯にだって「わが子よもどっておいで」といってくださる。そして、罪をつぐなって、そのご平安になる。
◯今、不況、家族の崩壊、お父さんが家庭での地位を失う。そういうときは身まもってあげてください。
◯「私たちを悪からお救いください」
悪=さそい
悪魔は実在する者ではなく、私たちを誘う「力」
自分で戦おうとしても無理。「力」のほうが強い。
そこでもっと強い神様に救ってくださいと祈るしかない。
私たちは弱いもの。
お救いください。=神様に対する信頼
失望のどん底にあるとき。
無限に私たちをゆるしてくださるのが見えるのが「ミサ」
イエズス様が十字架の上で死んだ。私たちのために。神様は天まであげられた。復活。パンとぶどう酒。
私たちは何によってゆるされるのか?イエスの血によって。
パン「あなた方にわたされる私の体」
ぶどう酒「あなた方のために流さて罪のゆるしとなる永遠のちぎり」
◯自堕落な生き方をした人でも、引きこもった人でもゆるされる。ゆるしのみなもと=十字架の血
◯自分を正しく理解していれば自殺はありえない。
自分の行いを正そうとがんばっているから神様がよろこんでくださるのではない。人間にはできっこない。人間の実力を神様はご存知。
人間は倒れては起き、倒れては起きをする。それを見守ってくださる。
私たちはもともと無力である。しかし気づかせてくださる。=「良心」
気づいたときに「ああ神様」と飛びこめばいい。=神様に対する信頼
◯信者になったら「良い人」になろうと思う。しかし、人間は「良い人」になろうとしてもなれない。
気づかせてくださる。
「父よわたしをおゆるしください。悪からお救いください」
◯祈りとは生きるための命の叫び。
「たすけてー」
「ゆるしてー」
神様に対する信頼がある。
神様の無条件の愛を頭ではなく腹の底から知っていればいい。
「信じられない」じゃあ「信じさせてください」と祈ったらいい。
◯「ヨハネ10」良い羊飼い。
羊はおばかさん。よく他の羊にくっついていってしまう。
「私はよい羊飼いである」「私の羊は私の声をききわける」
心の声。良心の声。
「私が、私が」をすてたとき、神様のことばを聞きわけることができる。

2009/11/29 「待つ」
◯「待降節」=カトリックの正月
イエスを待ちのぞむ
イエズス・キリスト  インマヌエル(マタイ1-18)
預言者イザヤ「乙女が身ごもって、男の子が生まれる。インマヌエル」
インマヌエル=「神様はわれわれとともにいられる」という意味。
◯マリアと婚約者ヨゼフ
マリア様が身ごもる。ヨゼフ様は苦しんだ。婚約解消も考えた。夢に天使があらわれ「ヨゼフ、恐れないで子を受け入れなさい。イエスと名付けなさい」といわれた。イエス=救う者
ユダヤ人は父親だけが名づける権利をもっていた。ヨゼフ様は父親と認められた。
◯「ルカ1-26」処女マリア。「私は男の人を知らないのに」
天使ガブリエル「聖霊があなたに降り、いとたかき力があなたを包む」
親戚のエリザベート、不妊といわれたのに身ごもった。
◯ダビデ王=昔の偉い王様。イスラエル地方を統一。
都会的、軍事的、いろいろな国から言い伝え集めた。=「ヤーヴェ資料」
人の妻を妻とした。=罪を認めた
一生立派な人はいない。神様はその態度を愛した。
その子ソロモン。多妻。
悪いことしたら反省。攻撃される。
ユダヤ民族エルサレムにあった。
大国エジプトとアッシリアの通り道。戦争のときは農業できない。ダヴィデ待望。
2大国が協定を結ぶ。ユダヤ不安になる。王が預言者イザヤに聞く。イザヤ「恐れるな、動くな、私がたすける」しるし「乙女が身ごもって男の子を産む。インマヌエル」ユダヤ人「神様は見すてなかった」
◯神様が人間の中にいる。インマヌエル=イエス
神様がイエスをとおして働いている。=「奇跡」
盲人バルトマイ、群衆の中から「ダヴィでの子イエスよ私を憐れんでください」群衆は退けた。イエスは「あの男を連れてきなさい」「何をしてほしいか」「目が見えるようにしてください」目に手を当て「見えるようになれ」といって治した。
◯「創世記」「〜あれ」というとなる。
ことば=実現
エンマヌエル、教会の中におられる。
「あなた方を孤児として残さない。救け主を送る」=「聖霊」
ミサ、秘跡
◯教会外。聖霊
父なる神をパパと叫ぶ、なぐさめの力、光。
エンマヌエル=人の心をゆさぶる。
◯「夜回り姉さん」ジャーナリスト橘ジュンさん。
元暴走族。取材されたとき「ただ聞いてくれた」「自分もそんなことできたらいいな」
それから「うちにおいでよ」「『私の人生なんて』という少女にそうじゃないよというのが私の役目」
駆け込み寺を作ろうとしている。居場所がない人のために。
知り合いのシスターから「あなたイエズス様のお友だちになりたくない?」と森司教様を紹介される。偉い人に会うのは気が重い。でも「彼は本当にいい人でどんな話も真剣に聞いてくれた。聖書なんて嘘っぱちだと思ってた。森司教はいい人だなと思う。子供たちは森さんが先生だったらよかったのに」

2009/12/6 「マリア様」
◯「ルカ3-1」神の言葉が下った。→ヨハネ
イエス以降は「聖霊」が教会にいらっしゃるから、預言者は不必要。
◯ヨハネが洗礼を授けたのが救い主イエスだと誰もわからなかった。マリア様だけが知っていた。「ルカ1-26」天使ガブリエルがマリア様のところにこられた。
◯マリア様はごく普通の人。乙女。
「どうしてそんなことがありましょうか。わたしは男の人を知りません」
女神のようにいう人がいるがそうではない。
神様の力があなたを包む。=「無原罪」
「原罪」=心の奥底、利己心、いいわけ、戦争
人間はどうしようもなく自己中心的である。人も国も。=「原罪」
「私が私が」と思ってしまう。「悪」へいざなう力の方が強い。「たすけてー」と祈るしかない。「悪」の力から開放するために神様がおくってくださったのがイエス。
マリア様だけが「原罪」を免除されているのはなぜか?神の一人子イエスの母として前もって決めていたから。
罪のないマリア様は聖なるお方か?=普通の人
ご自分は知らないまま大きな特典の中生まれ、今も天国で無原罪のままでいらっしゃる。
◯マリア様は幸福か?
乙女が身ごもった。不義の子を身ごもったと見られた。マリア様、ヨゼフ様は苦しまれた。
ユダヤ人はいいなづけと一つ屋根の下で暮らす。離縁も考えた。決心した夜夢の中で「イザヤの預言「乙女が身ごもって男の子を産む」神様のなさったことと知る。
◯イエスは、当時差別されていた、売春婦、徴税人とつきあった。
売春=一人一人にご自分の息を吹きかけて尊い「人格」をくださった。それを「商品」とするから「罪」
イエスはファリサイ派、律法学者の目の上のたんこぶ。イエスを革命分子だと危険視した。
ある人がイエスを試そうと「銀貨をローマにおさめることはいいことか」ときいた。
イエスは「銀貨には誰の象が彫ってある?セザルのものはセザルへ。神のものは神へ」といわれた。
◯十字架にはりつけになる。前もって何度もいっていた。逃げるすべもあった。

みなさんも、「これだけはゆずれない」というものをもってください。
シスターの家は日蓮宗。親にかくれて洗礼を受けた。
◯シスターの若い頃は鳥居もくぐれなかった。
公会議のあと教会も変わる。
聖霊がついていてくださるおかげで2000年も続いた。
聖霊がいろいろな人、教皇様をゆさぶる。
公会議「本当に大事なことだけにぎって他のものは開こう」
昔はミサはラテン語でされた。
聖書も新約ぐらいしか訳がなかった。

シスターは普段は温暖、いざというときには親に逆らって洗礼を受けた。修道院に入りたいと祈りつづけた。お父さんが体調崩したとき輸血した。誰もいないところで「神様って一人しかいないから神様なんだと思うよ。だから神様に祈って」「うむ」
お父さんの末期に見ずを額にあてそっと洗礼をする。姉は怒った。
貯金箱こわして教会にいって「御ミサをしてくだい」とたのんだ。
◯教会
1、目に見える教会
2、天国の教会
3、煉獄(れんごく)の教会=心が曇っていると神様のことがわからない。ここでは、身体はない。霊だけで見る。神様の光。暖かい光。親や友人とかいっぱいいる。煉獄の兄弟たち。

教会とはイエス・キリストによって集まった人々の集まり。

2009/12/13 「誕生」
◯「ルカ2-15」マリア様、不思議に思った。
「全て、心におさめ、思いを巡らしていた」マリア様らしい。
マリア様から学ぶべきところ
人生には悪いことがいっぱいある。
「全てを心に納めて、思いめぐらす」
イエスがこられる。救いがきたのだという事実を何度も確認しなおすこと。

真っ暗闇の中でこそ光が見える。
私たちは神様の存在が見えなくなることがある。
マリア様も不安を感じた。しかし「主は必ずなんとかしてくださる。彼は救い主だから」
◯マリア様初めての子ナザレで準備していたが、本籍地へ来いという命令。ロバで荷物のせヨゼフ様がひいた。ベツレヘムへ。
天使が「神様の恵みがあなたをおおいます」=不安が解消
◯マリア様は女神ではない。
一人の人間。一人の母親。
母親の感じる不安、おそれ全てを持っている。それを心に納めて思いめぐらせる。
飼い葉桶が子供のベッド。それも心に納める。
◯貧しさの中で生まれたイエス。

私たちは自分が価値ある存在だと思いたがる。→学歴
あるとき、ある母親がミサに子供を連れていきたいといった。ピリピリした感じ。悪いことをしたときに教会に行かせようとした。それは、間違い。「ごめんなさい」はセリフではない。お母さんが抱きしめて「ママ悲しいよ」といったとき、はじめて泣きながら「ごめんなさい」といえる。うそのことばは神様はのぞまない。
◯クリスマスは私たちに何を教えてくれるのか?
すっぱだかの、ただ「存在」していることの「価値」を教えてくれる。
「いる」ということのすばらしさ。
桶の子はみな知らない。天使は赤ちゃんにホザンナ、ハレルヤと歌う。
神様は「人間として」この赤ちゃんをよろこんでいた。
何か素晴らしいことすることはいらない。
ただ「いる」ということだけで、神様は「我が子」といってくださる。
「マルコ1-9」「あなたは私の愛する子。私の心にかなうもの」
一人一人が神様に抱きしめられている。私たちは神様に愛されている同志。連帯感=兄弟愛、人類愛

根っこがなく「友愛」といってもゆるぐ。根っこに神様から愛されているという揺るぎない信頼があって本当の連帯。
◯本当の「価値」をまっぱだかの赤ちゃんのイエズス様は示してくださる。「いる」ということの価値。神様からの言葉を聞いて、人々に流しつづけていらっしゃる。
◯マリア様に天使は「おめでとう」といった。「主があなたと共におられます」
◯靴屋のマルティン
クリスマスの日にイエスがこないかと待っているが毎年こない。
ある、雪のクリスマス。おばあさんが寒そうに歩いているので家に入れてミルクをあげた。次に赤ちゃんを抱いた女性を家に入れてあげた。家でゆっくりお乳をあげていた。12時を過ぎた。また、イエスはこなかったと思った。寝ているときにまくらもとに誰か現れた。イエスだった。「マルティン今日はありがとう。あのおばあさんも、お母さんも私だったんだよ」
誰かにしてくれたことはみな自分にしてくれたことと考える。
◯どこかでさびしい老人、さびしい病人いるかもしれない。
 お祈り
 カードを書いてあげる
◯マリア様は不条理な世の中の私たちに向かって「全てを心に納め、思いめぐらす」といわれた。これでいいんです。
目指すものは神様への「愛」「希望」「信頼」
私たちはこの暗い世を歩んでいく。
◯自殺者3万人
 彼らに本当に必要な「糧」を与えてください、と祈ってください。
 神様が誰か政治家のこころをゆさぶって解決していけばいいですね。
誰かの心とこことがぶつかって何かが生まれる。
人のこことをを動かせるのは神様しかいない。


2009年12月9日水曜日

現政権


現政権の課題をまとめてみよう。
1、景気対策
2、普天間基地移設問題
3、連立与党内の対立

これらに、共通する問題が鳩山首相の態度の問題だと思う。首相ははじめに抽象的な理想をかかげ、その後みんなで議論して、それを聞いてから自分が結論を出すという姿勢だということがだんだん見えてきた。
上記の問題、特に1と2はたいへん難しい問題だと思う。誰がやっても中々うまくいかないのではないか?財政がこれだけひっ迫した中で、大規模な景気対策をするのは大変な困難をともなう。しかし、景気を考えれば何らかの手は打たなければならない。沖縄の問題も、アメリカは全く柔軟な姿勢を示さず、しかし沖縄県民の苦悩は軽減しなければならない。自民党政権だってそう簡単には結論が出せないと思う。
そこで、対策以前にコミュニケーションの問題として、まずこれらがいかに困難かを国民に説明することから始めたらどうかと思う。マスコミの中には、実現不可能な基準で批判する者もいる。「日本経済新聞」は、かなり具体策を示した上で批判しているのでその点は私は評価したい。しかし、一般の国民はどの程度困難かをわからない者も多い。だから、たとえば田中康夫議員とか、蓮舫議員とか小宮山議員とかマスコミ慣れしている人に現状をメディアで説明する広報になってもらうなどしたらどうか。もちろんこれはメディア対策であり問題の本質ではないが。
しかし、そのためには暫定的であっても政権の意思がはっきりしなければ意味がない。その点については、あまりにも結論を先送りする鳩山首相の態度は問題だと思う。もちろんいろんな人の意見をきいて情勢にあわせて臨機応変に対応することは間違えとは思わないが、あまりにもいつまでも考慮中では優柔不断の烙印を押されてしまうし、実際部下もどう動いていいのかわからなく混乱する。大きな方向と、大体の期限ははっきり示した方がいいだろうと思う。そして、正直にこれらの問題においては日本は大変難しい時期にあることを表明することが大事だと思う。普通の人は、民主党の無策なのか、しかたないのかがわからない。
景気対策は「日経」の主張のように、具体的かつ中長期的な方向を示すことが大事だと思う。単なる思いつきか本気かによって企業がどの程度、例えば環境分野に投資していいかわからないからだ。今でも、経済界は環境重視になるとにらんで環境分野に投資している。広告を見てもエコの文字が列ぶ。さらにそれを後押しするには関連法案を出して「我々は、社会の仕組みをこのように変える」という宣言をすることで企業を勇気づけることができる。それは、「戦略室」の仕事だと思う。将来のこの国のかたちを描いた上で、財政と法律とをセットで出す。
そのためには、十分な知恵が必要だ。多摩ニュータウンや成田空港、筑波学園都市、どれも計画的に行われたが必ずしも成功していない。国家が青写真を描いて知識人の知恵を借りても必ずしも成功するとは限らない。それくらい、将来の設計というのは難しいのだということも知っておいてもらいたい。さらに、難しさを隠さずに国民に説明することは、結果としては政権に有利に働くと思う。
普天間の問題はアメリカがYESといわない限りこちらからできることは、限られている。現実には条件闘争になるしかないと思うが、自分たちの立場ははっきり主張することは必要だと思う。
西洋では、裁判制度を見ればわかる通り、検察と弁護側が徹底的に自分の立場を主張して、最後に両方の意見をきいた上で決める。政治もそうだ。与党と野党が本気でぶつかりあい最後には何らかの合意をはかる。これが、永い闘争の歴史から生まれた、西欧の近代民主制の根本的な考えだ。だから、日本側が自国の主張をすることはあたりまえで、それを日本人自身がアメリカ様を怒らせてはなんねえ、と政権を批判するのはおかしい。親密で対等な関係だと向こうからいってきているんだから、こちらはいうべきことははっきりいうことが当然だ。
しかし、いおうとしても、首相の態度が煮え切らないなら外相は何を主張していいのかわからない。だから、大きな方向性は首相は早期に表明するべきだろう。
その後の細かい詰めを外相がするのが本来の姿だと思う。さらに、首相が煮え切らない態度が続けば、マスコミはそのつど首相批判をくり返し、結果が同じでも国民の政権に対するイメージはずっと悪くなる。
国民に批判されることが確実なことは、早めに一回で誠実に態度表明と説明をすることが、政権へのダメージを最も少なくする方法だと私は思う。
他の与党との関係だが、社民党は普天間移設に異議があるなら、鳩山オバマ会談の前に主張して、それらの意見を調整した上で会談に臨むのが本来のあり方だろう。それを、交渉に入って移設が難しいと方向が見えてから、急に主張するのは遅すぎるし先のことを考えていない無能ぶりを示すことになる。さらには、鳩山政権の支持率が下がれば社民党自身だって損をすることになる。
国民新党も、旧来の自民党的と小泉元首相に判断されたグループの集まりなのだから、民主党とは本来、理念が違うはずだ。それでも連立を組んでいるのは参議院で民主党が過半数をとってないからである。今の自民党の情勢からいって次期参議院で民主党が単独過半数をとる確率はかなり高いと思う。今は存在感を示すために、いろいろ主張しているが民主党との理念の違いが決定的になれば参議院選後には国民新党との関係は不必要になるかもしれない。確かに、お金さえあれば、大きな経済対策ができればいいと思うがお金がないのだから効率を優先するしかないのではないか。国債発行したってそれはいつかは税金その他で返さなければならない。しかも、利子つきで。だから、景気のことを考えなければ、国債を出すより増税した方がいいのだ。国債を出せば利子の分負担が増えるのだから。量的に大きな経済対策で景気がよくなる時代は変わりつつあるのは、歴代の自民党政権の景気対策を見ればわかるのではないか。

では、どういう景気対策がいいか。とにかくビジョンを示すことが大事だ。お金をどこにかけたらいいかを、投資家に示すために。しかも、夢物語ではなく実効性がなければならない。そして、これは大変困難な問題だという認識を国民と共有することも考えた方がいいと思う。市場経済に絶対はない。
その上で、私の乏しい知識の中で思いついたことを書く。いつものようにいうが、私は経済の専門家ではないので必ず専門家に聞いてから実行してもらいたいが。
エコがどういうものかを示すために実験的に「エコシティ」を作るのはどうだろうか。スマート技術などを導入して。それは成功を示すためではない。それを実際に示すことでどこまでが実現可能か、どのような問題があるかを知ることができるからだ。さらに、国民には日本の将来のビジョンがどういうものかを具体的に示せる。感情的にも「希望」を持てる。参加する企業は自分たちの技術を示すよいチャンスだと思って一生懸命いいアイディアを出そうと努力するだろう。その、技術が将来大きな役に立つかもしれない。エコに本気だということも示せる。技術者も具体化されしかも、国がお金を出してくれるならモチベーションも高まる。具体的なかたちで示すものは、人に与える印象は抽象的議論に比べはるかに大きい。対外的にも日本のエコが進んでいることを実感させられる。目標がはっきりしているので、政権の求心力、みんなで一つの目標に向かって結束しようというモチベーションも高まる。
まあ、これはひとつの思いつきでこううまくいく保証はどこにもないが、国民が自分の意見をいい参加して政治を決めることは民主党の理念にも反しないはずだからいわせてもらった。

2009年12月6日日曜日

交換様式


先週の土曜日に宮台真司の講座を受けて、火曜日に中沢新一の授業に出て土曜に柄谷行人の講座を聴いた。なんと贅沢な一週間でしょうか!これだけの知に触れる一週間をすごした人なんて私以外日本にはいないんじゃないか?その間にも、芥川賞作家の青野聰先生に小説の指導をしていただき、山中元学科長にデザインのお話を聞いて・・・。
いやなこともある人生だが実はすごく恵まれている面もあるんだ。

以下、昨日聴いた

評論家 柄谷行人さん
文芸評論家 高澤秀次さん

対談「世界史の現在」 朝日カルチャーセンター新宿

柄谷 カントの永久平和論を支持したい。
 「永続革命」はマルクスは否定した。「世界同時革命」は否定していない。
 「永続革命」とは権力とったら放さない=「文化大革命」
 丸山真男の「民主主義は永久革命」はマルクス読んでない誤用。
 「世界史の構造」はカント、ヘーゲルをマルクスでやりなおす。
 「世界共和国へ」で「国家」「資本」「ネーション」の形成までやった。
 交換様式D「普遍宗教」が「社会主義」へ切りかわる。そこに、カントがいる。カントは宗教批判をしたが宗教的課題を持っていた。
 1795「永遠平和」は、フランス革命後、戦争が起こったのを見て「諸国家連合」をうったえた。
 カントはルソー派だったが、ルソー批判もしている。「ブルジョワ(市民)革命」は一国ではできない。諸国家との連合が必要。さもないと、革命後干渉戦争がおこる。自分(柄谷)が考えるに「社会主義革命」も同じ。一国で革命が起こってもすぐ他国が攻めてくる。だから「世界同時革命」が必要。
 フランス革命のときも、オーストリア、ハプスブルグ家がつぶそうとした。
 カントは「ブルジョワ(市民)革命」は「市民同時革命」でなければならないと考えた。「社会主義革命」のときに意味をもってくる。
 カントの時代は「市民革命」が危険だった。
 1848年、「世界革命」順番におこってきた。
 1846年、マルクス「ドイツ・イデオロギー」でいっている。電話がない頃は情報が遅かった。鉄道ができてかなり同時性が高くなった。交通は大きな問題。インターネットは本当に同時。

 一国で革命が起こっても、よそから干渉される。だからい「インターナショナル」をつくった。各国の連合だが、個人で入ることもできた。
 第1インター、内部分裂。マルクス派(ドイツ)とバクーニン派(ロシア)=工業国と農奴を使っている国の差。

 ロシアの共同体は日本の共同体と違う。土地は私有してない。日本は私有していた。
 ロシアに封建制はなかった。共同体だった。「私有→社会主義」でなくてもそのままコミュニズムでもいいのではないか(バクーニン)。ある女性がマルクスに手紙を書いた。「このままコミュニズムにいってもいいのではないか?」マルクスは何年か考えて、やはりそれはできないという結論になる。
 もし、遅れた国が「革命」をするなら、その国「ブルジョワ革命」をしなければならなくなる。
 アフガンでやっていること。全体主義者がやることを社会主義者がやるのは嘆かわしい。
 「国際的連帯」は可能か?
 スイスは時計職人の国。自主独立。バクーニン派=アナーキズム。
 ドイツは大量生産でスイスを追いつめた。規律に従う国民性。
 イタリアのような個人主義の国はアナーキストが多い。うらにネーションがでてくる。
 第2インターで同じ対立が起こる。ドイツが中心だった。発展してたから。中国はプロレタリアートいない。なんで革命おこるか?対立するのは当然。
 「ロシア革命」以降。第3インター。国家がある。それまで平等だったのがロシア中心になってしまう。
 1国でもあれば革命があったときたすけてくれる。キューバ。ソ連のおかげ。でもソ連の配下になってしまう。別の<帝国>になってしまう。
 第4インター。影響力ない。トロツキストなんて宇宙人のようなものだ。
 第3世界をいったのが、中国。毛沢東。=「非同盟諸国」
 ソ連崩壊とによって壊れる。今、中国もインドも第3国とはいえない。では、「世界同時革命」がなくなったかというと、そうではない。ネグリ、ハートの「マルチチュード」。しかし、1848年の経験をくんでない。「マルチチュード」に近いのが「アルカイダ」。場所もない。インターネットのような存在。しかし、ネグリは認めない。柄谷は「マルチチュード」とはいってない。「プロレタリアート」といっている。ネグり派は「宗教」について定義してない。

 現代の「世界同時革命」はどうなっているのか?
 アルカイダは途上国の利益を代表しているが、排除、分断されている。分裂の経験をふんでいない。
 そこで思いうかぶのがカントの問題。「諸国家連合」は善意ではできない。戦争によってできると予言した。実際、国連は戦争によってできた。
 
 次の世界大戦のあと、「世界同時革命」がおこる。戦争を期待してはいけないが、そうなる。
 カントはホッブス的に自然状態を戦争状態ととらえた。国家が必要。しかし国家間ではまだ自然状態。
 1国がヘゲモニーをもって統一すればいい(ヘーゲル)。
 違反した国を叩くのはだれか?実力ある国家が必要(ネオコン)。
 ネオコンは国連のカント的なところは甘いという。ホッブス、ヘーゲル的に考えてる。
 もうカントに戻したくないのがヘーゲル。
 ナポレオンによって成立した革命が最後だと考えた。ヘーゲルはイギリスを考えた。当時のドイツには実現していない。
 フランシス・フクヤマが「歴史は終わった」とかいっているが、あれはバカ。

 日本では民主党がつまずけば、元に戻る。ハリー・ポッターの主演の男の子がいっていた。「自分は労働党支持だが、保守党との違いがわからない」

 ヘーゲルの「歴史の終わり」は自由、平等、博愛と重なる。
 国連を歴史的現実として、その上でやるべき。諸国家連合がまがりなりにもある。その他にインターナショナルなんていらない。国連には安保以外にもたくさんある。NPOも入っている。国連システムとして考える。国家と資本の領域は国連はひどい。それ以外もやっている。
 「世界同時革命」、「世界共和国へ」ではいえなかった。統制的理念。アソシエーションのアソシエーション。国家にこだわるべきか?各国の運動は重視する。国家を上から抑える力も必要。下からだけだと抑えつけられる。国家は国際世論に敏感にならざるを得ない。イラク戦争も方向転換した。日本ではまだ小泉を裁いていない。民主党がわるくなったら、またネオリベラルがよかったとなる。歴史の反復。

高澤 アジアの問題は?
柄谷 あまり考えていない。「アジア共同体」を考えていたのは1980年代。1930年代を繰り返すだろうと考えていた。違いもある。1930年代は、中国、インドいいようにやられた。むしろ1870年代の方が現代に似ている。中国「清朝」巨大。なんとなく中国とやるというと戦前のイメージで見てしまうが、むしろ19世紀の感じで見た方がいい。
 日本人が「アジア共同体」というと1930年代のイメージで見てしまうが、今の中国は日本をそんなに必要としていない。
 日清戦争で福沢諭吉が「脱亜入欧」といったが。別の道もある。両方入るという選択肢もありえた。福沢は中国、韓国に期待していた。
 今年、トルコに行ったが、アジアとヨーロッパと両方の文化がある。EUに入りたい気もあるが、イスラム圏に入りたい気もある。しかし、文字が違う。アラビア語を使っていない。宗教はイスラム教の主流派ではない。アレヴィー派。モスクも聖職者もベールも否定。
 トルコ人はもともとそうだった。ヨーロッパ人よりよっぽどすすんでた。
 日本もアメリカと中国のどちらかではなく、両方ともでもいいのではないか。

高澤 福沢も落胆したから「征韓論」「征台論」」をいった。両国が鎖国してたからできなかった。そうでなければ干渉戦争があっただろう。廣松渉「東亜共栄圏」、竹内好「近代の超克とアジア」、三木清「東亜新秩序」あるが、柄谷さんは違うようだ。

柄谷 私は「友愛」という言葉は使いたくない。「友愛」はファシズムにつながる。プルードンは使わなかった。「友愛」のかもし出すものは、アナーキズムではなくナショナリズム。
 スチルナーは、単独者、唯一者と言った。英語でいえばegoist。
 共同体を一度でない人は共同体をつくれない。共同になるために一度、単独になれ。共同体嫌いな人ほど共同体的。

高澤 脱共同体的にカール・シュミットを部分的に肯定したのか?
柄谷 それは、ホッブスについていっただけ。

 交換の中に政治も入る。経済、宗教、政治、すべて「交換様式」に入っている。本を書き終わってからわかった。
 マルクス主義は「生産様式」を重視してきたが「交換様式」を私は重視する。
 はじめは、それは「上部構造」だと思っていた。しかし、それは経済的な「下部構造」だった。
 「生産様式」で考えてきた人は、未開社会というと黙ってしまう。でもそれも「交換」だ。
 サーリンズ(人類学者)は未開社会をマルクス的に考えた。DMP、「家族的生産様式」。どうしても家長的生産になる。これこそ「交換様式」で説明できる。「贈与」。

 ギリシア、ローマは「生産様式」=奴隷制。そこからどうしてギリシアがでてくるのか?逆だろう。ギリシアは市民全員が戦争をした。農業は奴隷にさせた。戦争でまた奴隷とってくる。「奴隷制生産」他の国にも奴隷いたが、ギリシアには民主制があるから。これは「生産様式」では説明できない。
 多くのマルクス主義者は上部構造にいった。「国家」や「経済」も「交換」に根ざしている。
 上部構造にいったらアルチュセールのように「重層的決定」とかいいだす。下部構造を神棚にまつっておいて、敬遠している。アルチュセールは「資本論」を読んだこともない。
 
 私もはじめはその区別がついていなかった。しかし、自分のやっていることがマルクスのいう下部構造だとわかってきた。「交換様式」これも経済なんだから矛盾しない。
 現代思想は、自分を含めて下部構造をやってない。上部構造だけの言説では何も変わらない。
 自分が違うのは経済をやっているから。経済「学」ではない。文学も下部構造から説明できる。

高澤 宗教戦争と言うのはヨーロッパと日本で連動していた。ミュンツァー農民戦争は一向一揆に相当する。
 一向一揆、石山本願寺。土一揆。徳政一揆は経済闘争。
 法華一揆は、京都の反農民。山科本願寺焼き討ち。
 日蓮は天台宗のながれ。浄土宗へ対抗。
 プロテスタントに対抗するためにできたイエズス会と全く同じ構造。
柄谷 イエズス会はプロテスタントに対する対抗運動。日本にまで来る。キリシタン大名の支援を受ける。信長に使われてる。しかしその後自分たちが弾圧されることはわかっていない。キリシタン大名は一向宗を弾圧した。しかし、実は一向宗はキリスト教とよく似ている。

 一方、「1000年王国」的思考は日本にもあった。

 中国思想を勉強したのだが、諸子百家はギリシアにも匹敵する。
 最大のものはやはり、「老子」。儒教に対する反対者。アナーキスト。それが道教になり農民一揆の柱になっている。ある種の「1000年王国」。
 「無為」というのは何もしないことではない。孔子のいっていることを無化する。「脱構築」。「デリダと老子」という本があったが現代思想にとどまっていてはだめ。

 「普遍宗教」ははじめは教会も聖職者も建物も否定する。建物建てたら前の宗教と同じ。
 トルコには教会はない。浄土真宗ははじめは寺院を否定していた。

高澤 親鸞はアニミズムとの違いを説明するのに困った。
柄谷 今の仏教には期待していない。知り合いのお坊さんで寺をもたずにただで葬式をする人がいるが、いまの仏教はなんで葬式にあれだけ金をとるのか?病院のウラで待ってるハイエナのようだ。保護されているから腐敗する。いずれ滅びるのでは?

 「世界商品」。世界資本主義の段階としていっている。
 人間と自然との関係も「交換様式」「物質交換」
 人間と人間の関係を「交換」の問題としてとらえている。
 自然と人間の関係が人間と人間の関係なしにできますか?大きな灌漑は大きな国家がつくる。
 人間と自然の関係をただ技術の問題としてとらえてはいけない。
 テクノロジーをいう人はこれを隠す。

質問者「柄谷さんは選挙には期待されてないと思いますが・・・」
柄谷 私は選挙にいった。現実にできることはやる。一方で理念は捨てない。
 選挙にいった人は「革命」を語っちゃいけないのか?
 「統制的理念」と仮象である。しかし「超越論的仮象」である。消せない。
 人も社会も幻想なしには生きていけない。真実を求めると精神病になっちゃう。「ニヒリズム」もひとつの宗教。
 理念は高く持っていい。
 若いうちは不可能なことを考えるべきだ!
 私は若くないけどいっている。
 あさっての朝からイギリスに行くのでいそがしいけどここの予定が先に入ってしまった。カルチャーセンターの講座は今日で最後だが、ずっと来てくれた人にお礼をいいたい。
 お金をとるのがいやなんだよね。

2009年12月4日金曜日

ルソー

前回、ルソーの失神の場面について書いたが、わざわざ本を買って読む人も少ないと思うので、とても意味深いところなので抜粋する。

六時ごろ、私はメニルモンタンの下り坂を、ガラン・ジャルディニエのほとんど真向いにかかっていたが、そのときまえを歩いていた人たちが、突然あわてて道をひらくと、わたしの目のまえに一頭のデンマーク犬が飛びかかってきた。その犬は一台の四輪馬車の先にたって懸命に突進してきて、わたしの姿を認めたときにはも立ちどまるにも、わきへそれるにも余裕がなかった。打ち倒されないですむ方法はただひとつ、うまい具合に宙にとびあがって、そのあいだに犬が下を通り過ぎるようにすることだ、とわたしは考えた。稲妻のようにひらめいたこの考えは、それ以上考えてみる余裕も、実行するひまもなかったのだが、それえが災難にであう直前の意識だった。ぶつかったのも、倒されたのも、つづいて起こったなにもかも、意識を回復するまでわからなかった。
気がついたときにはほとんど夜になっていた。わたしは三、四人の若い人たちに介抱されていて、その人たちがわたしの身に起こったことを教えてくれた。疾駆するデンマーク犬は立ちどまることができず、まっしぐらにわたしの足もとに突進してきて、その体驅と速力でぶつかり、わたしは頭を前にして打ち倒されてしまったのだ。身体の全重量をささえたうわ顎はは凸凹だらけの舗道に打ちつけられ、下り道で頭のほうが足のほうより低かったために打撲はなおさらひどかったわけだ。
犬を連れていた馬車はすぐあとにつづき、もしも御者がすぐに馬をとめなかったなら、わたしの身体のうえを通り過ぎたところだ。わたしを引き起こして、気がつくまでささえてくれた人たちの話でわかったことは、そんなことだった。わたしが気がついたときの状態はあまりにも奇妙に思われるので、ここにのべておく必要がある。
夜は暗くなっていった。わたしは空を、いくつもの星を、それからほかの明るい草原を認めた。この最初の感覚は甘美な瞬間だった。まだそんなことで自分を感じるだけだった。わたしはこの瞬間、生に生まれつつあった。そして、軽やかなわたしの存在をもってそこに認められるいっさいのものを満たしているような気がした。すべては現在にあって、なんにも思いだせない。わたしというもののはっきりした観念は全然なく、わが身に起こった先刻のことも全然意識にない。自分が誰であるかも、どこにいるかもわからない。痛みも、恐れも、不安も感じない。水の流れを見るように自分の血が流れるのをながめ、その血が自分の血であるということさえ考えようとしない。わたしは自分の全存在のうちにうっとりとする静けさを感じていたが、それを思いだすたびにいつも、どんなに強烈な快楽の経験のうちにもそれにくらべられるものがないような気がする。

ルソー「孤独な散歩者の夢想」岩波文庫

2009年12月2日水曜日

レヴィ=ストロース


前回と今回の「芸術人類学」は、ちょうど授業で扱ったレヴィ・ストロースが先日100歳で亡くなったので、レヴィ・ストトースのお話だった。

クロード・レヴィ・ストロースは、今まで実証科学だった「人類学」を「思想」にまで高めた人だ。その思想は、いわゆるポストモダン(近代以降を考える思想)の口火をきったといってもいいほど大きな影響を思想界に与えた。

以下授業(2009年11月22日)

レヴィ・ストロースは、お父さんが印象派の画家でベルギーの印象派やシュールリアリズムとの交流があった。

レヴィというのはユダヤ人の名前で聖書の「申命記」や「レヴィ記」に出てくる。
モーセがユダヤ教の儀礼を作った。そのときレヴィ一族は神官だった。

ユダヤ人はその後東ヨーロッパに移動して黒海のほとりの人々がユダヤ教に改宗。
黒海、ウクライナは中世ヨーロッパの中心地となる。

ユダヤ人、南イエメン系の人たちはカッコイイ。
ヨーロッパ系の人々、今のユダヤ人顔。

ユダヤ人はポーランドに移住。中世はロシア人に抑圧された。
西ヨーロッパにも移住した。

勤勉、頭がいい。タルムード(数の神秘学)を学ぶからだという説もある。

ユダヤ人は土地がなかった。アイデンティティは「ヘブライ語」と「ユダヤ教」

スペインのマルセーユあたりは、中世にはユダや神秘主義が興った。

ユダヤ人にとって大事なものは、持って逃げられもの。「知識」=「聖書」、「お金」

ユダヤ人はヨーロッパに散っていったが、各地で隔離された。シナゴーグ(ユダヤ教の教会)を中心として悪い環境に置かれた。

一方、「金融」と「知識」の代表。

知識人、カント、フッサール・・・音楽家、メンデルスゾーン・・・

20世紀弾圧でアメリカに逃れたユダヤ人オペレッタ歌手がミュージカルを創った。
「屋根の上のヴァイオリン引き」

一方ロシアボルシェビキ共産党の98%がユダヤ人。ロシア革命もユダヤ人と深くかかわっている。レーニンは1/8ユダヤ人。

その中でレヴィ一族は司祭。
アメリカに渡ったレヴィ一族が、当時船の帆を青く染めて新しいズボンを創った=リーバイス

ある時アメリカのレストランで順番待ちをしていたレヴィ・ストロースが「Lévi-Strauss」と書いたら「Book or Jeans?」ときかれウェイトレスの頭の良さに感激したそうだ。

レヴィ・ストロース家はベルギー
クロードは法学部に入る。社会学。デュルケーム「集合意識」や「自殺研究」をしていた。
その甥のマルセル・モースがソルボンヌ大学にいた。「未開社会における分類」「贈与論」
フランスではエリート養成機関が他にあるので、ソルボンヌでも普通の人がいくという感覚。
第一次大戦で学生半分死んだ。上の世代いない。
大学教授資格試験を哲学で受ける。同級生、シモーヌ・ボーボワール、メルロポンティなど

教授試験に通ると、田舎の高校の教師をして大学の教授になるのが出世パターンだったが、哲学に疑いを持ちはじめる。
ローニー(アメリカ)の「プリミティブカルチャー」を読んで感銘を受ける。=
「西洋文化だけが文化ではない」
ブラジル、サンパウロ大学の社会学教授になる。2日、馬で奥へいくとアマゾンの未開社会があった。週末アマゾンで過ごす。未開人から学ぶ。3年間。
ヨーロッパに帰っても、ベルギー時代社会主義運動していたので職がない。
ナチスの台頭でフランスのユダヤ人、脱出。レヴィ・ストロースはアメリカ行きの小さな船で脱出。アンドレ・ブルトンも同乗していた。
ニューヨークでは、ユダヤ人たちが学校を作った。アルフレッド・シュッツ、ニュースクールオブソーシャルサイエンス。
レヴィ・ストロースは教授だったが貧乏。スミソニアン博物館に通った。
そこで、ロシア系ユダヤ
人の言語学者ヤーコブソンに出会う。
ロシア言語学、プラハ、モスクワ、サンクトペトロブルグ

現代言語学F.ソシュールから。天才。10代でヨーロッパ後とインド語の共通性を発見。
「構造言語学」を創る。その影響で新しい言語学ができる。
レヴィ・ストロースはヤーコブソンから構造言語学を学ぶ。
そこから「親族の基本構造」を書く。構造言語学を人類学に適用。
戦後フランスへ戻る。人類学博物館の副館長。
1955「構造人類学」を上梓。

授業(2009年12月1日)

レヴィ・ストロースの中で重要な人=ジャン・ジャック・ルソー
ルソー=フランス革命の理論的基礎を作った人だが複雑な人格。「告白」「エミール」
人間の根源的「悪」を犯してきたと考えた。
日本文学にも影響。太宰治も読んでいたのでは?

ある意味、矛盾を抱えた人。フランスを追放=ジュネーブへ(元々スイス人)

レヴィ・ストロースの講演「人類学の創始者ルソー」
もともと人間は自然の一部と考えられてきた。生と死のサイクル。人間の生きることは矛盾を孕んだもの。自然の中で変化しないものはなにもない。しかし、近代では人間と自然とを分けてしまった。
昔は、例えば日本では「無常」ということが重要視された。近代人(それ以前の西洋人も)は、自然と人間を分けた。人間=不死という考え、エジプトのミイラ、ピラミッド、昔偉い人は水銀を服用した、死後の腐敗を抑えるため(丹薬)。

ヨーロッパ人は未開人を動物扱いした。ヒューマニズムの名のもとで。アジアもポルトガルとスペインの植民地にされたが、日本は鎖国とキリシタン弾圧で奇跡的に逃れられた。
人間が自然より偉いという考え方は第二次大戦まで続いた。戦後、理性的なはずの人間のしてきた残虐性を見て反省したが、昔から反対していたのはルソーだけ。
オランウータン(マレー語で「森の人」)を(過ちかもしれないが)人間かもしれないと言った。
ルソー「同胞が苦しむのを見ることに対する生来の嫌悪(ピティエ)」が「法」「風俗」「徳」に先立つ社会の根本と考えた。ルソーの場合「同胞」の範囲が広い。これは、東洋思想と共通する考え。
仏教では「有情(うじょう)」といって、動物や植物も感情を持つと考えられてきた。犬、猫はもちろん、魚も飼い主に反応する。ゾウリムシさえも暖かいところに置くとリラックスする。
あらゆる有情は苦悩を抱えた存在である。そこに憐れみの能力が必要とされる。

言語学では、文法があって言葉ができたと考えられていた時ルソーは人間最初の言語は「音楽」だと考えた。音楽は「感情」と「秩序」の結合。ルソー作曲の歌で有名なのは「むすんでひらいて」
レヴィ・ストロースはさらに「詩」と「神話」を重視した。
レヴィ・ストロースは70歳ぐらいから「絶望的」になる。自分の望まない社会になってきている。
仏教では人間=生き物=生きかつ苦悩する存在

先進国、アフリカ、アジアから資源を収奪してきた。日本もそのルールに乗ってしまった。そのルールの上では戦争もある程度の合理性はあるが、そのルールがいいのかが問題。終戦後はアメリカの属国になってしまったのであまり真剣に考えてこなかった。

今、権力の図式(スキーム)が変わってきている。中国はかつての日本と同じ道を歩んでいる。その先が大事。もう一度「坂の上の雲」ではなく、スキーム自体をひっくり返さないといけない。

次世代の産業はナノテクノロジーが重要になるがそれには、レアメタルが必要。それはアフリカでしか採れない。アメリカ、ヨーロッパ、日本は(お金は出しているが)上からの目線で見てきたからダメ。中国だけが1950頃〜一貫してアフリカ人と同じ目線で援助してきた。武器供与。しかし、労働者を働かせてレアメタルは持っていってしまうだろう。

日本は違う道を考えなきゃいけない。

レヴィ・ストロースはルソーの「孤独な散歩者の夢想」の中で、ルソーが犬にぶつかって失神したときの体験を書いてある所をあげて、「全てとの同化」「根源的同化」としてわれわれの目指すべき道だと考えた。

2009年11月30日月曜日

スティーブ・ジョブズ

私は、経済学には興味はあったが、「サラリーマン」にはなりたくなかったので、経営学には全然興味がなかった。そしてデザイナーの道を選んで現在学習中だが、WEBデザインする際には経営のことも知らなければならず、本屋でいわゆるビジネスものも見るようになった。
スティーブ・ジョブズの本が結構あるが、それを読むビジネスパーソンにいいたい。
スティーブ・ジョブズはスティーブ・ジョブズになろうとしたのだ。
そこから学ぶべきことがあるとしたら「あなたもスティーブ・ジョブズになろう」ではなく、「あなたはあなた自身になれ」ということだ。