2009年12月6日日曜日

交換様式


先週の土曜日に宮台真司の講座を受けて、火曜日に中沢新一の授業に出て土曜に柄谷行人の講座を聴いた。なんと贅沢な一週間でしょうか!これだけの知に触れる一週間をすごした人なんて私以外日本にはいないんじゃないか?その間にも、芥川賞作家の青野聰先生に小説の指導をしていただき、山中元学科長にデザインのお話を聞いて・・・。
いやなこともある人生だが実はすごく恵まれている面もあるんだ。

以下、昨日聴いた

評論家 柄谷行人さん
文芸評論家 高澤秀次さん

対談「世界史の現在」 朝日カルチャーセンター新宿

柄谷 カントの永久平和論を支持したい。
 「永続革命」はマルクスは否定した。「世界同時革命」は否定していない。
 「永続革命」とは権力とったら放さない=「文化大革命」
 丸山真男の「民主主義は永久革命」はマルクス読んでない誤用。
 「世界史の構造」はカント、ヘーゲルをマルクスでやりなおす。
 「世界共和国へ」で「国家」「資本」「ネーション」の形成までやった。
 交換様式D「普遍宗教」が「社会主義」へ切りかわる。そこに、カントがいる。カントは宗教批判をしたが宗教的課題を持っていた。
 1795「永遠平和」は、フランス革命後、戦争が起こったのを見て「諸国家連合」をうったえた。
 カントはルソー派だったが、ルソー批判もしている。「ブルジョワ(市民)革命」は一国ではできない。諸国家との連合が必要。さもないと、革命後干渉戦争がおこる。自分(柄谷)が考えるに「社会主義革命」も同じ。一国で革命が起こってもすぐ他国が攻めてくる。だから「世界同時革命」が必要。
 フランス革命のときも、オーストリア、ハプスブルグ家がつぶそうとした。
 カントは「ブルジョワ(市民)革命」は「市民同時革命」でなければならないと考えた。「社会主義革命」のときに意味をもってくる。
 カントの時代は「市民革命」が危険だった。
 1848年、「世界革命」順番におこってきた。
 1846年、マルクス「ドイツ・イデオロギー」でいっている。電話がない頃は情報が遅かった。鉄道ができてかなり同時性が高くなった。交通は大きな問題。インターネットは本当に同時。

 一国で革命が起こっても、よそから干渉される。だからい「インターナショナル」をつくった。各国の連合だが、個人で入ることもできた。
 第1インター、内部分裂。マルクス派(ドイツ)とバクーニン派(ロシア)=工業国と農奴を使っている国の差。

 ロシアの共同体は日本の共同体と違う。土地は私有してない。日本は私有していた。
 ロシアに封建制はなかった。共同体だった。「私有→社会主義」でなくてもそのままコミュニズムでもいいのではないか(バクーニン)。ある女性がマルクスに手紙を書いた。「このままコミュニズムにいってもいいのではないか?」マルクスは何年か考えて、やはりそれはできないという結論になる。
 もし、遅れた国が「革命」をするなら、その国「ブルジョワ革命」をしなければならなくなる。
 アフガンでやっていること。全体主義者がやることを社会主義者がやるのは嘆かわしい。
 「国際的連帯」は可能か?
 スイスは時計職人の国。自主独立。バクーニン派=アナーキズム。
 ドイツは大量生産でスイスを追いつめた。規律に従う国民性。
 イタリアのような個人主義の国はアナーキストが多い。うらにネーションがでてくる。
 第2インターで同じ対立が起こる。ドイツが中心だった。発展してたから。中国はプロレタリアートいない。なんで革命おこるか?対立するのは当然。
 「ロシア革命」以降。第3インター。国家がある。それまで平等だったのがロシア中心になってしまう。
 1国でもあれば革命があったときたすけてくれる。キューバ。ソ連のおかげ。でもソ連の配下になってしまう。別の<帝国>になってしまう。
 第4インター。影響力ない。トロツキストなんて宇宙人のようなものだ。
 第3世界をいったのが、中国。毛沢東。=「非同盟諸国」
 ソ連崩壊とによって壊れる。今、中国もインドも第3国とはいえない。では、「世界同時革命」がなくなったかというと、そうではない。ネグリ、ハートの「マルチチュード」。しかし、1848年の経験をくんでない。「マルチチュード」に近いのが「アルカイダ」。場所もない。インターネットのような存在。しかし、ネグリは認めない。柄谷は「マルチチュード」とはいってない。「プロレタリアート」といっている。ネグり派は「宗教」について定義してない。

 現代の「世界同時革命」はどうなっているのか?
 アルカイダは途上国の利益を代表しているが、排除、分断されている。分裂の経験をふんでいない。
 そこで思いうかぶのがカントの問題。「諸国家連合」は善意ではできない。戦争によってできると予言した。実際、国連は戦争によってできた。
 
 次の世界大戦のあと、「世界同時革命」がおこる。戦争を期待してはいけないが、そうなる。
 カントはホッブス的に自然状態を戦争状態ととらえた。国家が必要。しかし国家間ではまだ自然状態。
 1国がヘゲモニーをもって統一すればいい(ヘーゲル)。
 違反した国を叩くのはだれか?実力ある国家が必要(ネオコン)。
 ネオコンは国連のカント的なところは甘いという。ホッブス、ヘーゲル的に考えてる。
 もうカントに戻したくないのがヘーゲル。
 ナポレオンによって成立した革命が最後だと考えた。ヘーゲルはイギリスを考えた。当時のドイツには実現していない。
 フランシス・フクヤマが「歴史は終わった」とかいっているが、あれはバカ。

 日本では民主党がつまずけば、元に戻る。ハリー・ポッターの主演の男の子がいっていた。「自分は労働党支持だが、保守党との違いがわからない」

 ヘーゲルの「歴史の終わり」は自由、平等、博愛と重なる。
 国連を歴史的現実として、その上でやるべき。諸国家連合がまがりなりにもある。その他にインターナショナルなんていらない。国連には安保以外にもたくさんある。NPOも入っている。国連システムとして考える。国家と資本の領域は国連はひどい。それ以外もやっている。
 「世界同時革命」、「世界共和国へ」ではいえなかった。統制的理念。アソシエーションのアソシエーション。国家にこだわるべきか?各国の運動は重視する。国家を上から抑える力も必要。下からだけだと抑えつけられる。国家は国際世論に敏感にならざるを得ない。イラク戦争も方向転換した。日本ではまだ小泉を裁いていない。民主党がわるくなったら、またネオリベラルがよかったとなる。歴史の反復。

高澤 アジアの問題は?
柄谷 あまり考えていない。「アジア共同体」を考えていたのは1980年代。1930年代を繰り返すだろうと考えていた。違いもある。1930年代は、中国、インドいいようにやられた。むしろ1870年代の方が現代に似ている。中国「清朝」巨大。なんとなく中国とやるというと戦前のイメージで見てしまうが、むしろ19世紀の感じで見た方がいい。
 日本人が「アジア共同体」というと1930年代のイメージで見てしまうが、今の中国は日本をそんなに必要としていない。
 日清戦争で福沢諭吉が「脱亜入欧」といったが。別の道もある。両方入るという選択肢もありえた。福沢は中国、韓国に期待していた。
 今年、トルコに行ったが、アジアとヨーロッパと両方の文化がある。EUに入りたい気もあるが、イスラム圏に入りたい気もある。しかし、文字が違う。アラビア語を使っていない。宗教はイスラム教の主流派ではない。アレヴィー派。モスクも聖職者もベールも否定。
 トルコ人はもともとそうだった。ヨーロッパ人よりよっぽどすすんでた。
 日本もアメリカと中国のどちらかではなく、両方ともでもいいのではないか。

高澤 福沢も落胆したから「征韓論」「征台論」」をいった。両国が鎖国してたからできなかった。そうでなければ干渉戦争があっただろう。廣松渉「東亜共栄圏」、竹内好「近代の超克とアジア」、三木清「東亜新秩序」あるが、柄谷さんは違うようだ。

柄谷 私は「友愛」という言葉は使いたくない。「友愛」はファシズムにつながる。プルードンは使わなかった。「友愛」のかもし出すものは、アナーキズムではなくナショナリズム。
 スチルナーは、単独者、唯一者と言った。英語でいえばegoist。
 共同体を一度でない人は共同体をつくれない。共同になるために一度、単独になれ。共同体嫌いな人ほど共同体的。

高澤 脱共同体的にカール・シュミットを部分的に肯定したのか?
柄谷 それは、ホッブスについていっただけ。

 交換の中に政治も入る。経済、宗教、政治、すべて「交換様式」に入っている。本を書き終わってからわかった。
 マルクス主義は「生産様式」を重視してきたが「交換様式」を私は重視する。
 はじめは、それは「上部構造」だと思っていた。しかし、それは経済的な「下部構造」だった。
 「生産様式」で考えてきた人は、未開社会というと黙ってしまう。でもそれも「交換」だ。
 サーリンズ(人類学者)は未開社会をマルクス的に考えた。DMP、「家族的生産様式」。どうしても家長的生産になる。これこそ「交換様式」で説明できる。「贈与」。

 ギリシア、ローマは「生産様式」=奴隷制。そこからどうしてギリシアがでてくるのか?逆だろう。ギリシアは市民全員が戦争をした。農業は奴隷にさせた。戦争でまた奴隷とってくる。「奴隷制生産」他の国にも奴隷いたが、ギリシアには民主制があるから。これは「生産様式」では説明できない。
 多くのマルクス主義者は上部構造にいった。「国家」や「経済」も「交換」に根ざしている。
 上部構造にいったらアルチュセールのように「重層的決定」とかいいだす。下部構造を神棚にまつっておいて、敬遠している。アルチュセールは「資本論」を読んだこともない。
 
 私もはじめはその区別がついていなかった。しかし、自分のやっていることがマルクスのいう下部構造だとわかってきた。「交換様式」これも経済なんだから矛盾しない。
 現代思想は、自分を含めて下部構造をやってない。上部構造だけの言説では何も変わらない。
 自分が違うのは経済をやっているから。経済「学」ではない。文学も下部構造から説明できる。

高澤 宗教戦争と言うのはヨーロッパと日本で連動していた。ミュンツァー農民戦争は一向一揆に相当する。
 一向一揆、石山本願寺。土一揆。徳政一揆は経済闘争。
 法華一揆は、京都の反農民。山科本願寺焼き討ち。
 日蓮は天台宗のながれ。浄土宗へ対抗。
 プロテスタントに対抗するためにできたイエズス会と全く同じ構造。
柄谷 イエズス会はプロテスタントに対する対抗運動。日本にまで来る。キリシタン大名の支援を受ける。信長に使われてる。しかしその後自分たちが弾圧されることはわかっていない。キリシタン大名は一向宗を弾圧した。しかし、実は一向宗はキリスト教とよく似ている。

 一方、「1000年王国」的思考は日本にもあった。

 中国思想を勉強したのだが、諸子百家はギリシアにも匹敵する。
 最大のものはやはり、「老子」。儒教に対する反対者。アナーキスト。それが道教になり農民一揆の柱になっている。ある種の「1000年王国」。
 「無為」というのは何もしないことではない。孔子のいっていることを無化する。「脱構築」。「デリダと老子」という本があったが現代思想にとどまっていてはだめ。

 「普遍宗教」ははじめは教会も聖職者も建物も否定する。建物建てたら前の宗教と同じ。
 トルコには教会はない。浄土真宗ははじめは寺院を否定していた。

高澤 親鸞はアニミズムとの違いを説明するのに困った。
柄谷 今の仏教には期待していない。知り合いのお坊さんで寺をもたずにただで葬式をする人がいるが、いまの仏教はなんで葬式にあれだけ金をとるのか?病院のウラで待ってるハイエナのようだ。保護されているから腐敗する。いずれ滅びるのでは?

 「世界商品」。世界資本主義の段階としていっている。
 人間と自然との関係も「交換様式」「物質交換」
 人間と人間の関係を「交換」の問題としてとらえている。
 自然と人間の関係が人間と人間の関係なしにできますか?大きな灌漑は大きな国家がつくる。
 人間と自然の関係をただ技術の問題としてとらえてはいけない。
 テクノロジーをいう人はこれを隠す。

質問者「柄谷さんは選挙には期待されてないと思いますが・・・」
柄谷 私は選挙にいった。現実にできることはやる。一方で理念は捨てない。
 選挙にいった人は「革命」を語っちゃいけないのか?
 「統制的理念」と仮象である。しかし「超越論的仮象」である。消せない。
 人も社会も幻想なしには生きていけない。真実を求めると精神病になっちゃう。「ニヒリズム」もひとつの宗教。
 理念は高く持っていい。
 若いうちは不可能なことを考えるべきだ!
 私は若くないけどいっている。
 あさっての朝からイギリスに行くのでいそがしいけどここの予定が先に入ってしまった。カルチャーセンターの講座は今日で最後だが、ずっと来てくれた人にお礼をいいたい。
 お金をとるのがいやなんだよね。

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