2013年1月25日金曜日

『エ/ヱヴァ考』

山川賢一著『エ/ヱヴァ考 The animation from hell』を読みました。

去年末の発売ということで、「新劇場版:Q」のことが書いてあるかと思って買いました。
しかし、まだ書いてありませんでした。

著者は、「エヴァ」の論考は、一方で「謎解き」に、もう一方にテーマ性や作家性を追求したり作中に現代社会の反映を見いだしたりする「批評」に分かれるといいます。そして、自分はこの両方を分断せずにやりたいといいます。

なるほど、と思いました。そして、細かい分析をおこなっていくのですが、どうしてもそれでそもそも「エヴァ」とは何なの?という問いには答えきれていないように思いました。

例えば、「父とその恋人が争う」というテーマが分析されますが、過去の「ナディア」や「トップをねらえ!」等が参照され、共通のテーマが現れるといいますがそこで終わってしまう。ところで、そのテーマは何を意味しているのか、という疑問には答えていないように見えてしまう。「So what?(だから何なの?)」とききたくなってしまいます。

共通点や、変換点を指摘するのですが、その意味はあまり語られない。僕は読んでいて不満に感じてしまいました。

「旧エヴァ」を見るときは水に潜るときのように緊張感があるが「新劇場版」は気楽に見られるなどということは共感できるのですが。

ただ、物語を追っていって、どの場所と関連があるなどということだけでは不満足でした。

これは僕の勝手な考えですが、「エヴァ」に限らず芸術作品というのは、ある意味作り手と受けてのコミュニケーションだと思うのです。作品はそれを媒介するコミュニケーションメディアだと考えます。
だから僕は作り手が何を考えて作ったかを考えます。作品自体のでき不できは、作者のメッセージの強さや、正直さ、メディアの技術の高さなどから結果として得られるものだと思っています。そういう意味では、庵野監督は極めて正直に作ろうとしている、そこを評価したいと思っています。だから、ストーリーが途中で破綻したことなども二次的なことだとも思っています。どのような目的で、メッセージを発信しているかが重要だと思うのです。

「旧エヴァ」は監督が「壊れた自分をフィルムに焼き付ける」ことを目的にした作品だと思います。それは極めて、正直で生々しく、危険でさえある突出した作品です。
それに対して、「新劇場版」は「良質なエンターテインメント」として作られたのだと思います。
だから、僕は「新劇場版」を「旧エヴァ」と比較しないで見ようと、全く違う目的で作られたものとして見ようと思いました。

僕は、謎解きやストーリーの破綻にはあまり関心がないのは、以上のような理由です。
その意味で僕は、完全に「批評派」です。

メッセージの意味を理解しないで、ストーリーだけを追って分析しても、特に「エヴァ」の場合は意味が薄いと思います。
もともと、ストーリーを重視して作られた作品ではないと思うからです。

もちろん、いろんな楽しみ方があっていいと思います。ストーリー分析もあってはいけないとは思いません。
しかし、その前提としてどのようなメッセージが込められているかを知らないと、あまり深い理解には達しないのではないでしょうか。

2013年1月23日水曜日

深大寺そば

父母とお墓参りにいって、帰りに深大寺でおソバを食べてきました。

2013年1月21日月曜日

『エヴァンゲリオン 正体・究極読解』

iPadアプリ『エヴァンゲリオン 正体・究極読解 〜そして最後のシナリオへ〜』
エヴァンゲリオン研究会
を読みました。

iPad有料アプリで、ランキング1位で、85円と安かったので買いました。

始めの用語解説は、辞典的な意味ではなく、物語中の意味を解説しているようでいて、うまく解説しきれていなくてちょっと残念でした。

しかし、後半は感銘を受けました。

アニメ監督の押井守氏が、エヴァは訴えたいことがないといい、実際エヴァは過去の作品の寄せ集めではないかという批判があります。
そのことを検証します。

「新世紀エヴァンゲリオンには、4年間壊れたままで何もできなかった自分の、全てがこめられています。4年間逃げ出したまま、ただ死んでいないだけだった自分が、ただひとつ「逃げちゃダメだ」の思いから再び始めた作品です。」
「自分の気持ちというものをフィルムに定着させてみたい、と感じ、考えた作品です。」
「それが、無謀で傲慢で困難な行為だとは知っています。」
「だが目指したのです。結果はわかりません。」
「無責任だとは、感じます。だがしかし、我々と作品世界のシンクロを目指した以上、当たり前のことなのです。『それすらも模造である』というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないないのです。私たちの「オリジナル」は、その場所にしかないのですから・・・」
「この世界に本当のオリジナルは、自分の人生しかないですから。」
以上は庵野監督の発言。

この本の結論は
「つまり、自分には何もないという不安から抜け出すため、「自分」というオリジナルが存在した証を、エヴァンゲリオンを通じて永遠に残すこと。これこそが、エヴァ放映前のインタビューから、The End Of Evangelionのラストまでを通じ、監督および作中人物が目指してきた、エヴァンゲリオン最大の秘密であり、コアであるといえるでしょう。」とのことです。

全く同意です。

2013年1月20日日曜日

『ガラスの仮面』

『ガラスの仮面』
コミック 1〜48巻
TVアニメ、1984年版 1〜23話DVD
OVA1998年 1〜3巻VHS
TVアニメ、2005年版 1〜51話インターネット動画配信サービス
で全て見ました。

多摩美の学部時代、女の子の友達が、少女マンガは読まないけれど『ガラスの仮面』だけは別といっていました。

その前にNHKのニュースでマンガ『ガラスの仮面』が能になるというのを聞いて、すごいものだと思った記憶があります。

そこで、読んでみようと思いTSUTAYAのコミックレンタルで借りました。

なんと、1975年、30年以上前にスタートした作品です。いまだに続いているのはすごいと思いました。

内容は全く知らなかったのですが、タイトルから何か冷たい物語なのかなと思っていました。

実際には演劇の話で、そこに冷たい人間関係も描かれているけれども、基本は暖かい演劇根性ものとでもいうものです。

往年の名女優、月影千草が自分が演じた幻の名作「紅天女」を演じる役者を育てるというストーリーです。
主人公は、13歳の何の取り柄もない女の子、北島マヤ。大女優と世界的映画監督との間に生まれた天才、姫川亜弓がライバルです。
それに、「紅天女」の上演権を奪おうとする芸能プロダクションとのやりとり。その若
社長との愛憎する関係などが描かれています。

最初のTVアニメは、原作に忠実な絵柄です。しかし80年代のアニメは今見ると古く感じます。OVAは、内容を少し変えてあります。
最後のTVアニメは、ストーリーは原作に忠実ですが、絵柄を現代っぽく変えてあります。しかし、「エヴァンゲリオン」などのアニメと比べてしまうと、深夜アニメのせいか、あまりきめ細かく作られていないように感じてしまいます。
原作のマンガが一番おもしろく、また主人公の北島マヤもかわいく描かれています。
「自分は美人でもない」といいつつ、けっこう美人に描かれています。

このマンガの魅力は、主人公マヤが次々と演劇の舞台に挑戦していくのですが、その度ごとに特訓がされ、段々女優として成長していくところです。
またマンガの中では、実際に存在する演劇と、作者が創作した演劇が両方あるのですが、作者の創作した劇も内容が面白く良くできていて、本当に世界の名作なのかと思わせるほどです。とくに、幻の名作という「紅天女」もしっかりと描かれています。すごい迫力で。

マンガの中でマヤは13歳から成人にまでなるのですが、実際の連載は30年以上。新しい物語には携帯電話などもでてきて、いつの間にか現代になっています。時間感覚がおかしくなりそうです。

現在は、「紅天女」の最終選考の直前まで描かれています。

そうして、アニメを見ているうちに、なんと新刊49巻が発売されました。
どれだけ続くのやら。でも、楽しみです。

主人公マヤのひたむきな魅力に惹かれてしまいました。

ちなみに諸説ありますが、累計出版部数5000万部だそうです。

2013年1月17日木曜日

3度目の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q」

吉祥寺バウスシアターで、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」を見てきました。
劇場で見るのが、3度目です。

内容が理解できなかったし、パンフレットにもストーリーが載っていなかったので、Wikipediaでストーリーを調べてから見にいきました。

なんとかついていけましたが、これは一度見ただけではストーリーが分る人はいないのではと思いました。

以下、ストーリーを書きます。

まず、同時上映の「巨神兵東京に現わる 劇場版」ですが、庵野秀明氏が「風邪の谷のナウシカ」の中で手がけた巨神兵を実写の特撮で復元したものです。「特撮博物館」という展示会で作ったものです。東京にいきなり巨神兵が現れ、街を破壊し尽くす物語ですが、この様に、街をぶっ壊したいという衝動がSFマニアにはあるのではないでしょうか。それを丁寧に作り込んで、リアルに表現して、そのカタルシスを味わうことができます。
始めに巨神兵が出てきたところを、みんなが携帯のカメラで撮っているところがリアルで面白かったです。
破壊に関するナレーションが入るのですが、あまりその意味を勘ぐるよりも、単純に破壊願望を楽しむのがいいのではないでしょうか。
その中に、世の儚さのようなものが結果として感じられればいいのではないでしょうか。

「Q」ですが、初めの戦いはエヴァ初号機を回収するところだったそうですが、これでは分りません。
最後の戦いも、フォースインパクトを起こしそうになったのを止めるのが目的というのも分りにくいです。

とにかく分りいやすくまとめると、サードインパクトを起こしてしまったシンジは、カヲルにロンギヌスの槍とカシウスの槍を奪えば世界をやり直せると説得されてエヴァ13号機に二人で乗って槍を奪いにいく。しかし、それはフォースインパクトに繋がるとアスカとマリに邪魔されて、エヴァ同士が戦う。槍は実は違うものだとカヲルはさとるが、シンジは槍を抜いてしまう。カヲルはチョーカーを爆発されて死ぬ。そこから、フォースインパクトが始まりそうになるのを反ネルフ組織のヴィレは止めようとしてとまる。最後にエントリープラグがのこって、その中にいるシンジをアスカは引き起こして通信の繋がるところまで歩いていく。もう一人のレイも歩いていく。そこで終わり。

というのが最後の戦いのシーンのあらすじらしいのですが、分りにくいですね。

しかし、3度見てやっと納得しました。

それから、「Q」の中に出てくるキーワード「ガキね」については思うところはあるのですが、以前ブログに書いたので、そのままです。

それぞれのブログです。日付にリンクが貼ってあります。

TVシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」1〜13話  2013年1月2日
TVシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」14〜26話  2013年1月3日

DVD「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 EVANGELION:1.0 YOU ARE (NOT) ALONE.」
1回目  2012年7月17日
2回目(1.11)  2013年1月6日

DVD「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.」
1回目  2012年8月5日
2回目  2013年1月9日

劇場「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」 
1回目  2012年11月21日
2回目  2013年1月10日

BD(3.33)
1回目  2013年7月17日 2013年7月18日

Mr.Childrenとエヴァンゲリオンの関係
2013年1月14日

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 2021年3月9日



最後に、最後まで凛然としていたアスカに対する、アスカの声優宮村優子さんからの言葉。

「何回も言うように、「アスカの行末は幸せ」って信じてるから!エヴァが始まって以来、ずっとそれだけが願いだったから。アスカが幸せならどんな結末でも「にゃー!」でも「わん!」でも、ま、とっくの昔に腹くくってるから。」

泣かせる言葉です。

2013年1月16日水曜日

『桐島、部活やめるってよ』

朝井リョウ著『桐島、部活やめるってよ』を読みました。

全くの偶然ですが、ブログを書こうと思ったら、ちょうど直木賞の選考中ということで、決まってから書こうと思いました。

朝井リョウさん、直木賞決定です。おめでとうございます。

タイトルの桐島君とはあまり関係なく、ある高校の様々なタイプの学生の生活を、一人ずつ細かく描写した作品です。

高校生の日常を、年代の近い年齢(執筆時19歳)で描くことでリアルに描ける。そういう作品です。

こういう青春ものをリアルに描くというのもあっていいともいますが、いくつか感じたことがあります。

もっと、シンボリックに描くならいいのですが、リアルに描くとなると、現実との違いに疑問を感じてしまうことがあります。

スポーツができるかどうかで、学校での地位が決まってしまうように書かれていますが、実際には勉強のできなども複雑に絡み合って、一つの評価軸だけで序列がきまるとはいいがたいのではないか。

映画部の人がダサいといわれるけれども、中学時代にはかわいい女の子とつきあってもいた。結構もてるじゃないか。もっと報われない子もいるのでは。

女子ソフトボール部の子が、オシャレに、恋愛に悩むけれども、実際には女子の運動部員で、部活に力が入りすぎて、オシャレや恋愛に乗り遅れてしまう子の悲喜劇もあるのではないか。

だいたい、女の子でも小説の主人公になるくらいかわいい子は、クラスに一人いるかどうかという感じではないでしょうか。みんながかわいく描かれるのもちょっと現実から乖離して、理想的に語っているようにも思います。男の子に全く相手にされないような、かっこわるい女の子の描写もほしい気がしました。

高校生では、まず進学の問題が大きくのしかかってくると思うのですが、勉強のことはあまりでてこなかった。

また、男子高校生を悩ます性の問題。その、悶々とした部分も描かれずにいた。

等々、考えていけば色々ありますが、僕自身の暗かった高校時代を思い出すと、何かきれいすぎるように見えてしまいます。僕のひがみも含めて。

描写も一人称で書かれていますが、リアルなセリフと奇麗な情景描写が混在していて、ちょっと読みにくかったです。

きれいなら、きれいに。リアルならもっと突き放して書いた方が読みやすいのではないかと思いました。

色々文句を書いてきましたが、僕に書けといわれても書けないし、色々なタイプの男女をここまで細かく描けるのはすごいと思います。

直木賞も別の作品で取ったので、一発屋ではないでしょう。もちろんその才能は評価します。

ただ、自分が男子校で暗ーい高校生活だったので、この様な作品に共感できない部分が強く意識されてしまいます。

2013年1月14日月曜日

Mr.Children


『別冊カドカワ総力特集 Mr.Children』
『音楽誌が書かないJポップ批評40 Mr.Children「幸福の探し方」 (別冊宝島)』
『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』

の3冊を読みました。

『別冊カドカワ〜』は、アルバム「HOME」のできるまでをまとめた本。
『〜別冊宝島』は、アルバム「I♥U」までのバンドの軌跡。
『Everything〜』は、桜井和寿の音楽の魅力を理論的に分析した本で、音楽の知識のない僕には内容は理解できませんでした。


Mr.Childrenのファンになったのは「名もなき詩」を聴いてからで、それまではオシャレすぎて、僕のようなダサい人間には触れがたい世界という感じでした。

ところが、「名もなき詩」では、はじめ「ちょっとぐらいの汚れ物ならば、残さずに全部食べてやる」ときた。
僕のような汚れた人間でも受け入れてくれるのか?ほんまかいな?と思ったら、「君が僕を疑ってるなら、この喉を切ってくれてやる」ときて、ああ信用できるんだと思いました。
そして、「あるがままの心で、生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしてる。知らぬ間に築いてた、自分らしさの檻の中でもがいてるなら。僕だってそうなんだ。」というのが、あまりにも自分に当てはまって、それからこの曲の他の部分も、当時悩んでいた自分にぴったりしすぎて、泣いてしまいました。

この感動を、どう表現しようかと思い、僕はこの曲を英語に訳してみようと思いました。

訳すということは、桜井さんの歌詞を生かしていることになるし、同時に僕がその内容を理解している証拠にもなると思ったからです。

その訳は、あるアメリカ人詩人に渡してしまって、今はどうなっているか分りません。

それから、ミスチルというか桜井さんの混迷期のアルバム「深海」と「BOLERO」を買って、車を運転しながら聴いていました。

自分の苦しみの中、これらの曲を聴くことは、「答え」にはならなくてもショーペンハウアーのいう「共苦」になりました。

「深海」はアルバム全てが、僕の悩みの世界を形成しているようでした。「BOLERO」は、中の曲に共鳴しました。

特に、「ALIVE」という曲の「夢はなくとも、希望はなくとも、目の前の遥かな道を」というところは励みになりました。

お正月に「エヴァンゲリオン」のTV版を全話放送をしたお陰で、今自分の中で「エヴァ」の世界に深く入り込んでいますが、「エヴァンゲリオン」とMr.Childrenの共通点というのも当時から感じていました。

ちょうど「深海」「BOLERO」が「エヴェ」TV版と近い時期だったと思いますが、どちらも「チルドレン」という言葉がキーワードになっている。

ミスチルは名前が「Children」だからにとどまらず、歌っている内容が「子どもの世界」「無垢な世界」です。

そして、そんな「無垢な世界」をただでは生きられなくなったのがちょうど90年代半ばではないでしょうか。

「子どもたち」の「無垢な世界」を生きていた。けれど、それが難しくなってきた厳しい状況。それを、敏感に感じたのが桜井和寿であり、庵野秀明であったのではないかと思います。

かつての、共同体が壊れ弱い個人がむきだしにならざるを得ない世界。

ちなみに、そこで、その弱い個人を人工的に助けようという計画が「人類補完計画」というアイディアではないでしょうか。
しかし、その計画は人為的に個人を補完するという傲慢さがあるようにも思います。


80年代的「オシャレ」な世界、「オタク」の世界、それからバブルが崩壊してグローバル化が進んで、今までの共同体が崩壊した90年代的世界への変化は、個人に例えるとちょうど子どもから大人へ向かう思春期、14歳頃ということになるのではないでしょうか。

心理学者のC.G.ユングは、青年期に人は一度「死」をむかえるといいました。
「エヴァ旧劇場版」の最初のタイトルが「DEATH AND REBIRTH」で、最終盤のイメージは明らかに「死」のイメージです。

「深海」の中の「花-memento mori-」という曲のタイトルの意味は「死を思え」です。

直接に両者に影響関係はないのではないかと思いますが、ちょうど90年代後半という、共同体崩壊の時代に、「無垢な世界」を生きていた人達が感じた厳しさを、両者ともに表現しているように思います。
だから、僕は両者にこれほどのめり込んだのだと思います。

そして、両者とも現在に至るまで僕らにメッセージを発し続けています。

ちなみに、僕のMr.Childrenベスト3は

1.「Tomorrow never knows」

とにかくメッセージとともに「カッコいい」。

2.「名もなき詩」

メッセージに強く共感。

3.「終わりなき旅」

苦しくても、未来に希望が持てる。

です。

今、You Tubeで「終わりなきの旅」のPVを見たら最後に、エヴァの「セカンドインパクト」にそっくりの場面がありました。意外に影響関係があるのかもしれません。

Mr.Childrenのプロデューサー小林武史氏が音楽を担当した「スワロウテイル」の監督の岩井俊二さんは、庵野秀明監督の実写作品に俳優として出演している、という遠い関係はありますが。

とにかく、僕にとってMr.Childrenは、J.レノンやB.ディランとともに非常にデリケートな部分です。

エヴァの感想まとめ

2013年1月10日木曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q」

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

映画館で見るのは、2012年11月21日以来、2度目です。そのときにもブログに書きました。

最初見たとき、あまり意味が分からなくてもう一度見ました。
その前に「序」と「破」をDVDで見てから。

TV版は長いので、いろいろ詰まっていて面白かったです。最後の2話も強烈でしたが、続きが見たい。
そこで、旧劇場版で続きをやったのですが、予想を超えるスケールでショックを与えました。
ショックが強すぎて、あれだけ饒舌だった人々の話題も沈静化した感じでした。

そして、改めてリビルドされた新劇場版。
「序」は、総集編的であって、奇麗ではあっても盛り上がりには欠けました。
「破」は、新しい試みが見られましたが、旧劇場版ほどのショックはなかった。しかし、新しい展開が予想されました。
「Q」は、いい意味で予想を裏切ってくれました。

これからストーリーを書きます。未見の方ご注意ください。

いきなり、旧劇場版のラストの時間をも超えた14年後の世界。主人公達のいた世界は、崩壊していた。

批評家の東浩紀さんは、かつて「まどか☆マギカは美少女ゲームを反復しただけだが、エヴァは古いものを壊した」としてエヴァを擁護していました。
ところが「Q」に関しては、ツイッターやニコ生で「悪夢でしかない。唯一の解決方法は、これが夢で、目覚めるとシンジとアスカが結婚していてレイが子どもであるという設定だけだ」といわれていました。
実際に、娘さんを育てておられる親だからこの様なイメージが湧くのかな、などと思ってしまいますが、独身の僕は意見はちょっと違って、この救いようのなさ、突き放した感じがエヴァの魅力ではないのかと思います。かつて、東さんがいわれた「壊す」というのの一つのあらわれではないでしょうか。

庵野氏の魅力が、その正直さにあるというのは昨日2012年1月9日のブログにも書きましたが、観客が望まない展開であっても観客がついていくのは、この厳しい物語にもなにがしかの真実が含まれている、庵野氏がやっているのだから何か意味があると思わせるからではないでしょうか。

2012年11月21日のブログにも書きましたが、エヴァの、そして庵野氏の大きなテーマは「如何にして大人になるか」というものだと思います。
そして、エヴァで子どもたちの成長の物語を描いていった。
しかし、エヴァを見ている視聴者はエヴァの世界に耽溺していって、一向に大人になってないじゃないか。
現実を見れば、時間はシンジの年齢と同じ14年以上たっているのだよ。
そういう思いが庵野氏にはあったのではないか。これは勝手な推測ですが。

旧劇場版から結婚などを経て、ある意味、庵野氏は大人になったと思います。

その大人の視点からすると、まだ古いエヴァに執着している人は「大人になれ」というメッセージをもったアニメに浸って大人になっていない、という滑稽な状態にあるように見える。
だから彼らに「時間はたったんだ」ということをショッキングな形で突きつけたのが「Q」ではないでしょうか。

前回見たときにブログで、アスカのシンジに対する言葉が「バカシンジ」から「ガキね」に変わったと書きました。それを思って今回見てみると、要所々々で「ガキね」という言葉が使われているのが分ります。
僕自身は「ガキ」という言葉は子どもをバカにしていて嫌いなのですが、ここで使われているのは理解できます。
14年たって、大人の視点を獲得したものから見れば、まだ14歳の感覚で考えるのは「ガキ」に見えてしまうのでしょう。

東さんがいう通り、アスカはシンジに対する愛はあると思います。でも、いやだからこそ、未だに「ガキ」であるシンジに我慢ができない、そういう感じではないでしょうか。

ところで、この作品は、戦闘シーンのシチュエーションが複雑で、2回見てもよくストーリーが分らないところがありました。みなさんは分りましたか。

初めの宇宙での戦闘シーンが分らなかった。その後、戦艦が戦うのも誰と戦うのか分らなかった。シンジが目覚めて隔離されているのは分りました。レイのエヴァがでてきてシンジを連れていく理由も分らなかった。荒廃したネルフで暮らして、カヲルと仲良くなって、サードインパクトの原因を聴かされる。そして、槍を奪えば世界をやり直せると思って槍を奪いにいく。ここまでは分るのですが、なぜアスカたちが戦って反対するのかもよくわからない。フォースインパクトが起こると説得することはしないのか。カヲルが、その槍ではないことさとっても、なぜシンジが槍にこだわるのかもよくわからない。
総じて、戦闘シーンは動きが速くて、セリフも断片的で意味が分かりにくいと思いました。それはそれでいいのか、どうなのでしょう。

物語についていうと、初めに戦艦に隔離されたシンジにミサトさんもアスカもみんな冷たい。ちょっとかわいそうだと思ったけれど、シンジのせいでサードインパクトが起こったとなればこうなるのもしょうがないだろうと分ります。

シンジは「破」の最後で、レイを命がけで助ける。しかし、そのことでサードインパクトという世界の破滅をもたらす。シンジからすれば、「世界が崩壊しても君をたすける」という純粋な愛の形だといえるのでしょうし、見る側もそういう感じで受け取っていた。
しかし、それは大人の目から見れば許せないことではないでしょうか。

社会学者M.ウェーバーのいうところの「心情倫理」と「責任倫理」の問題といえるでしょう。

シンジの行動はあくまで子どもっぽい「心情倫理」であり結果を考えていない。大人ならば、それによってどんな結果が生じるかによって断罪される「責任倫理」を持たなければならない。

それなのに世界を破滅させてまで呑気に悪びれずにいるシンジに、ミサトもアスカも苛立っていたのでしょう。

そして、かつての懐かしい第3新東京市はなく、地下要塞であったかつての物語の舞台であったネルフ本部は、天井が抜け荒廃している。そこに、あくまでもとどまっていようとするシンジ。

彼は、庵野氏が「かつての子どもたちの要塞ごっこは終わったのだよ」といっても受け入れない、永遠の子どものようです。

そして、それはこの現実の14年を経て「エヴァ」を見ている僕たちに向けたメッセージでもあるかもしれません。

そして、彼を唯一無条件で受け入れるカヲルは、実は「使徒」であるという残酷な事実が待っている。

絵柄についていうと、アスカは目が死んでいて、鼻の穴だけ描かれていて、あまり美人には見えない。眼帯といい、なんかガイコツみたいに見える。これも、この作品の殺伐さを表わしています。

パンフレットによるとアスカはプロの傭兵だと、庵野総監督はいわれたそうです。
東さんのいうような物語と比べると、実に殺伐としています。でも僕は一方で、アスカには徹底して、冷酷な傭兵になって欲しいと思ったりもしたものです。

旧劇場版がドロドロとした地獄を描いた作品だとしたら、「Q」は、パサパサとした荒野を描いた感じです。

この映画のラストは極めて殺伐としています。
「庵野氏は大人になった」といいましたが、彼は子どもの気持ちも分る。
最後に、アスカは「ガキ」であるシンジをけ飛ばしながらも、彼を連れていく。

かつてのエヴァは子どもの視点から描かれていたと思いますが、今回は大人の視点と子どもの気持ちと両方の葛藤で描かれているように思います。

この殺伐としたラストを、僕は前回のブログで「大人という砂漠」と書きました。
けれども、僕はこのラストが結構好きです。


ユング心理学者の河合隼雄さんの『大人になることのむずかしさ』という本の中に次のような一節があります。(2011年6月10日のブログより)

「大人になるためには、何らかのことを断念しなければならぬときがある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが〜単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている〜もちろんそのときは苦しみや悲しみに包まれるだけのときもあろう。しかし、それによって大人になってゆく人は、そこに深い自己肯定感が生じてくることを感じるであろう。」

「大人という砂漠」に立つということは、一概に悪いことばかりとはいえないのではないでしょうか。

2013年1月9日水曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.」をDVDで見ました。

エヴァを見るのは、結構精神的に疲れるので気が重たかったのですが、見てみると見やすい作品でした。

2009年6月の劇場上映は見られなくて、2012年8月5日にDVDで見ました。そのときブログにも書きました。
けれど、結構忘れていたところも多かったです。

TV版を今月に見たので、それと比べると「序」はかなり焼き直し的な感じがしましたが、「破」は一から別のものを作った印象でしたが、大まかにはTV版のストーリーを踏襲して、細かい設定を変えてあるのが分ります。

何度も繰り返していっているように、エヴァは日常大の学園コメディと世界大の人類の存亡を賭けた戦いのコントラストが魅力なのですが、「序」のときは前者があまりなくて、ちょっと暗い感じがしたと書きました。(2013年1月6日)
それに対して「破」は、マリのとぼけたキャラクターから始まって、アスカや同級生たちの水族館見学など、明るい感じの映画になっているように感じました。
絵柄も、アスカはTV版よりずっと美少女になっています。お茶目なところは少なく、いつも不機嫌そうではありましたが「あんたバカぁ」のセリフも何回か出てきたり、セクシーな衣装が多く出てきたり、まさにアスカファンへの「サービス」精神が感じられました。
僕は、個人的にはアスカとシンジの関係の方に興味があるのですが。

全体に明るい雰囲気の作品で、無表情のレイまでもが「(シンジといると)ポカポカする」などといって、みんなを食事に誘います。

僕はアスカファンなので、レイの魅力というのは今ひとつ分らないのですが、シンジの母親のクローンらしいので母性の象徴なのかなと思っていました。レイのファンの人は無表情なところに安心感をいだいているのかなとか思たりしましたが、今回レイの内面が表れてきてこれをどう思っているのでしょうか。どう解釈していいか迷ってしまいます。

シンジも人にお弁当を作ってきてあげたり積極的です。
いえることは、庵野監督自身TVシリーズ、旧劇場版のような病的な内向性から抜け出して、積極的になられたのではないかということです。2012年11月21日のブログにも書きましたが、旧劇場版を作ること自体が庵野氏のイニシエーションになったのではないでしょうか。

明るい雰囲気から使徒が登場すると一気に緊迫感が走ります。使徒にいつもすごくやられてしまうが、最後に起死回生で勝つというパターンですが、その度にいつも手痛い打撃を受けます。

それで、この「破」もお気楽なコメディと深刻な物語との共存というエヴァの魅力が発揮されるわけですが、アスカが乗ったエヴァが使徒に侵され、レイが使徒に喰われる。最後はサードインパクトが起こって世界が終わる。これほど深刻にも関わらず、以前のような「病的」な感じはあまりしません。

良くも悪くも、あくまで過去の病的なエヴァに比べてですが、「健全」な作品になっているという印象を持ちました。

iPadアプリの「破」のパンフレットで、鶴巻監督は「庵野総監督は帰納法ではなく演繹法で考える人」といっていました。

ある目的から考えるのではなく、例えばシンジがエヴァに乗らないといったら本当に乗らないとして描く。そして次の状況でまた判断をしていく。その場その場で二者択一で選んでいき続ける。だから、初めから決まったところにはいかないが、そこへたどり着くのは必然だと。

僕がTV版最終二話を肯定する理由を2013年1月3日のブログで視聴者を導く心意気を買ったというふうに書きましたけれど、正確に言うとその流れが非常に「自然」だったからです。

庵野さんは、極めて自分に正直な人だなと思ったから、たとえ物語を放棄してもそうなるのが必然だと思ったら、そっちの道に進む。そういう正直さを感じたから肯定できました。

今回の「破」も、「病的」なものは影をひそめましたが、やはりこうなるのが必然だという道を進んでできた物語だと思うのです。その点で僕は肯定する。
ただ、どうしても映画版だと時間が限られてしまうので、シンジとアスカが関係が強くなる過程をもう少し見たいと思ってしまいますが、これは贅沢というものでしょう。

アスカがやられるときに「今日の日はさようなら」が流れるシーン。以前見て知っていたので今回はすごく感動したというのではないのですが、この歌を選んだ庵野氏の気持ちに感動します。キャンプファイアーで青春の一ページを共にした友だちとの繊細な友情、そういう関係がシンジたちの間にあることを示しているようだからです。

最後に綾波レイに手を伸ばし、「翼をください」が流れます。僕は実はこの曲は子供のころから好きではなかったのです。「若者たち」の方が好きで、この曲は一種の現実逃避に感じられたからです。

でも、ここでこの曲というのもある種の必然性を感じます。レイの自我が目覚めたとか、シンジの積極性のあらわれだとか、色々な解釈が可能でしょうが、やはりこれだけ残酷な目にあった子どもたちが翼が欲しいという切ない思いを持っていると考えるとしんみりきます。

新劇場版は、TVシリーズ、旧劇場版に比べて総じて「病的」でない「健全」なものだと思います。いい意味でも悪い意味でも。その中で「破」は、色々なサービス精神にあふれていて、明るい見やすいし面白い作品になっていると思います。

TV版、旧劇場版のどんよりと暗い深みはないのですが。庵野氏は、娯楽作品を作りたいとい気持ちも強い方なので、これはこれでいいのではないでしょうか。僕は、TVシリーズ、旧劇場版、新劇場版を全て含めてエヴァの世界だと思いたいです。


2013年1月6日日曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序」

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 序 1.11 you are (not) alone.」のDVDを見ました。

公開当時(2007年)は見ていなくて、2012年7月17日にDVDで見たものをもう一度見ました。当日のブログにも書きました。

TV版を先日見ましたが、TV版は旧劇場版の公開された97年以来ですからおよそ15年ぶりに見ました。

そのあとこの「序」を見たので、TV版と比べて同じカットを書き直したものが多いと気づきました。

iPadのアプリで「新劇場版:序」と「破」のパンフレットを買って読んだのですが、昔の原画が残っているものもあって、参照したそうです。

TV版で気になった、顔のあごと鼻がとがっている絵柄が、もう少しマイルドになって見やすくなりました。

エヴァの魅力は、迫力ある戦闘シーンやリアルなメカの動き、人類大のストーリー、登場人物の心理、等身大の日常のストーリー等ですが、大きな物語の中に、普通の中学生の等身大の物語が対置されていて、そのギャップが面白さを生むことは何度も強調してきました。

この「序」は、映画としては短い98分ですが、作る時間は結構あったと思うのでもっと長くしてもいいのではないか思いました。
とにかく、短い映画の時間の中でTVの全てを詰め込むことが出来ないので、日常のコミカルなシーンは捨てられシリアスなシーンをつないでいった感じなので、全体として暗い映画になった気がしました。

エヴァといえば、シンジの成長の物語といわれることが多いので、その面を多くしたのかもしれませんが、エヴァの魅力は等身大の日常の物語にもあるのだといいたい気がしました。

心理描写も描かれているのですが、当然TV版のしつこさはなく、深みに欠けるようにも見えました。

最初見たときはアスカは出てこないのかと思ったのですが、TV版でもアスカの登場は中盤からでした。印象が強いキャラクターだけにもっと早く出てきたのかと思っていました。

今こうして分析的に見てみると、メカニックな部分はほとんどCG化されていてかっこよさはさらにましています。この尺では「ヤシマ作戦」をクライマックスに持ってくるのは、一番理にかなっていると思います。よくできた、きれいな作品だと思います。絵も描きかえられてかっこよくなっています。

しかし「序」はTV版のきれいにまとめた総集編といった感じで、新しいものはあまりないようにも思えます。作者も、それをねらったのであればそれでいいとは思いますが。

しかし、「破」になるとTV版とは違った展開になります。それも面白い。作者、庵野秀明氏の成長が見られる気がします。偉そうないいかたで申し訳ないですが。

TV版を見たあとに「序」を見ると、結構同じ部分が多いと感じてしまいます。変わっているところもあるのですが。

メカニックな映像美は、いつもながらすごいと思いますが、劇場版一作目は失礼ながら「まあ、こんなものか」という普通な感じです。

作っている人の苦労を思うとなんとも失礼ないい方ですが。

2013年1月5日土曜日

病院

朝早くから病院にいって待って、診察を受けてきました。

2013年1月3日木曜日

「新世紀エヴァンゲリオン」14〜26話

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の14話〜最終26話までを、昨日に引き続きニコ生でタイムシフトで夜中見ました。

ちなみに、アンケート結果は以下の通り。

1〜13話
とても良かった・・・・・・・・・83.2%
まあまあ良かった・・・・・・・・12.6%
普通だった・・・・・・・・・・・2.6%
あまり良くなかった・・・・・・・0.3%
良くなかった・・・・・・・・・・1.3%

来場者数・・・・・・・・・・・198,138人
コメント数・・・・・・・・・・242,807


14〜26話
とても良かった・・・・・・・・・73.4%
まあまあ良かった・・・・・・・・14.8%
普通だった・・・・・・・・・・・5.0%
あまり良くなかった・・・・・・・1.8%
良くなかった・・・・・・・・・・4.4%

来場者数・・・・・・・・・・・184,595人
コメント数・・・・・・・・・・304,526

二夜目の方が評価が低いのは、最終二話の賛否が分かれたからでしょう。

昨日はかなりのめり込んで見て、興奮して眠れなかったので、今日はちょっと距離をとって見ました。

エヴァの魅力は、もちろん物語にもあるのですが、かっこいいロボットやメカの描写、魅力的なキャラクターの学園コメディものの魅力、それと対比的な人類の命運をかけたシリアスな展開等にあると思います。

アクションシーンでも、単に敵をやっつけるだけでなく、戦っていてもちょっとズレてハズしてしまう。そこから、いろいろなアイディアで回復してやっつける。このズレのうまさに感心させられてしまいます。

そして、人類の命運をかけたすごい戦いと学園コメディのギャップ。これによって、いわゆる異化作用によって、両方がより際立って魅力的に見えるのでしょう。のちにこれは、セカイ系といわれる作品に形だけ受け継がれていきますが、庵野監督のメッセージはもっと深いところにあると思われます。

このような分裂した世界を、両方とも魅力的に描く庵野氏自身、自我の分裂に苦しんでいるようにも思います。

「分裂病の人の気持ちは、分裂病になった人にしか分らない」という庵野氏の言葉がありますが、僕自身精神分裂病(現在の呼称、統合失調症)と診断されたので、分るといっても怒られないでしょうか。

エヴァの意味は、当時の時代背景と「オタク」という問題を抜きにしては理解しづらいと思います。

1980年代、日本はアメリカの貿易赤字の解消のため内需拡大の要求をされます。そして、日本では大幅な公共事業が行われ、地価が高騰します。土地を持っているだけで何もしなくても莫大な財産が得られる人達が生まれ、株価も上昇して景気が過熱します。そして、ついに実体経済を上回る値段で投資が行われます。中身のない膨らみという意味でバブル経済と呼ばれます。金あまり現象を謳歌する心理と、それがいつか崩壊して債券が暴落するのではないかという不安がないまぜになった時代でした。

1990年代初頭にバブル経済は崩壊して、多くの人には借金だけが残りました。
そしてグローバル化が始まり、日本は世界へと開かれざるを得ない場面へと直面させられます。その90年代半ばに作られたのが、このアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」でした。

バブル時代、社会学者宮台真司氏の分析によると、かつての階級に代わって、コミュニケーションスキルのうまいへたによって若者は二つに分化していきます。一つはバブル時代の高度消費社会を謳歌する「新人類」。そして、もう一方では、趣味の世界に没頭する「オタク」です。両者とも豊かな時代だからこそゆるされたライフスタイルだと思います。「新人類」たちがちょっとした差異にこだわって「オシャレな」生き方を競っていたのに対して、「オタク」は、オシャレなどとは一切関係なく、マンガやアニメに没頭していました。当然、新人類たちの嘲笑の的になっていたのですが、オタクたちは外界からの情報を遮断するかのように自分たちの世界に引きこもって、好きなものひたって生きていました。

僕がエヴァを語るときに、繰り返しいうことは、エヴァはオタクの中からでてきたにもかかわらず、オタク批判となっているということです。

90年代、バブルも崩壊して、自分たちが籠っていられる繭を維持するだけの経済が失墜した。そしてグローバル時代に直面して日本そのものが世界にさらされる。このなかで、いまやオタクとして繭に閉じ籠もっていることはできないという直感が、庵野氏にはあったのだと思います。そして、それがオタクの中の中心部にいた人だからこそ、それを痛切に感じてなんとか他のオタクたちに伝えたいと思ったのではないでしょうか。

エヴァを造った会社、GAINAXを設立した岡田斗司夫氏は自ら「オタキング」と称してオタクの世界を自嘲的に語ったオタク評論家です。彼らの存在は、同僚の庵野氏に大きな影響を与えたのではないでしょうか。オタクであると同時にオタクを笑いの種にする。この様な環境の中で、オタクが外から見るといかにみっともないかを自戒を込めて強く感じたのではないかと思うのです。
岡田氏が原作を書き、庵野氏が監督を務めたオリジナルアニメ「トップをねらえ!」は、過去のアニメ作品のパロディーで出来た作品です。しかし、庵野氏は原作を読んで泣いてしまったということです。このように岡田氏との人間関係の中で庵野氏は、オタクを笑い物にする視点と、まじめに引き込まれてしまう視点との共存するものの見方を獲得していったのではないでしょうか。
これは、エヴァが一方でシリアスなドラマであると同時に、等身大のコメディとして笑えるものであるという二重性にも繋がるものだと思います。
「トップをねらえ!」は、岡田氏が前作の失敗がロボットと美少女がでてこなかったせいだと思って、とにかくロボットと美少女を出すアニメを作ろうとして作った作品といわれます。
これなども、セクシーなシーンを出しておいて、一方でそれを「サービス、サービス」と突き放した言い方をするエヴァの視点に共通していると思われます。
さらに「トップをねらえ!」は、内容や描写においてもエヴァのオリジナルと見なすことも出来るほど共通点の多い作品です。
正体不明の宇宙怪獣が攻めてきて、未熟な少女がロボットに乗って戦う物語です。
とりあえずロボットと戦う敵が必要だということで、人間が敵だと人を殺すことが人道上問題があるので、怪獣ということにしておこうという感じで作られたように見えます。
この作品もラスト近くなるとシリアスな展開になっていきます。まさにエヴァの原点ともいえる作品です。

そこでエヴァですが、使徒とはなにか。ただ敵としてご都合主義的に最初はでてきたと思います。しかし回を重ねるに従って、人間心理にある何か「不気味なもの」の現れであるようになっていたのではないでしょうか。
フロイトなら「不気味なもの」と、ラカンなら「排除したものの回帰」と、ユングなら「影」というかも知れません。とにかく、意識から排除したものが何度やっつけても回帰してくる。そういう無意識の何かではないでしょうか。

先ほどオタクについて書きましたが、オタクは自分の趣味の中に没頭するために外界の不都合なものを意識の外に排除してきたのだと思います。
僕自身も、自分の嫌なこと意識の外に排除することがあります。
そして、これも先ほど書いた通り、時代はオタクの繭の中で安穏と暮らしてくことができない、そとに出て他者とコミュニケーションをして生きていかなければならない、そういうことを要請してきていたのだと思います。
そういう意味では、使徒とは、排除しても排除してもやってくる「他者」の別名なのではないでしょうか。

僕自身にも当時そういう感覚がありました。だから、この作品に強くシンクロしたのです。

同時期に、神戸小学生連続殺傷事件があり、犯人が14歳の少年だということが話題になりました。

庵野氏は主人公の年齢を14歳にした理由を「ちょうど、自分の中に哲学のようなものが生まれる年代なので」というようなことをいっていました。

14歳とは第二次性徴を終えて、子どもをつくれる年代。いってみれば子どもから大人になる年代。

第二次大戦後、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本人は12歳の少年だといいました。
そして、時代は下って90年代、グローバル化の中外に出ていくべき日本人はちょうど大人になるべき14歳になったのではないか。つまり日本そのものが14歳の時期だったのではないかと思いました。

僕もそのとき、精神的に病んでいて、自分の中に「セントラルドグマ」のような譲れない価値観があり、それが外界から干渉されないように戦っているイメージがありました。大人になれというプレッシャーがあるのに、なれない、なりたくない。そして外界から内に向かって攻めてくるものがある。使徒のように。使徒とはその名の通り、なにか使命を果たしにきたものかもしれません。でも、受け入れることが出来なかった。それこそ、使徒がセントラルドグマに接触しようものなら自分の「世界」が破滅するのではないかという感じでした。そして、自分の自我の境界をATフィールドという固い殻で守っていた。それを超えられるのは、同じATフィールドを持ったものだけ。そんな感じで、エヴァには自分とあまりにも重なる問題設定があると感じられました。

とくに、この回の中ではアスカが精神汚染をされて最後に「汚れちゃった」というところは、本当に共感できて心の琴線に触れました。僕自身は汚されたと感じたときに中原中也の「汚れちまった悲しみに」という詩を思い出し、死にたい気分でした。

他者と交わって生きていかなければならない。それが大人だから。でも、自分の中の大事なものは、子どものものであっても汚されたくない。そういう気持ちでした。

最終二話は、25話は自分悩みを登場人物が順番に語っていきます。自分の悩みをいうと、「それは怖いからではないの?」などの反問がきます。その反問に対して「違う!違う!」と強く否定していきます。これは、フロイトの精神分析の中で、自由連想法で思ったことを全て話すようにいわれて話したことを分析家が分析すると、必ず被分析者が「抵抗」を示すという状態を思い起こさせます。この作品の中で、庵野氏は自分で話して、自分で分析して、自分で抵抗をする。そのような自問自答の中で、登場人物の心理に深く切り込みます。それは同時に作者自身の内面でもあり、視聴者の分析でもあるようです。作者は、自分の恥ずかしい部分をさらけ出すことによって、視聴者へ気付きを促します。

26話は、その解答へ向かって自問自答は進んでいきます。基本的な考え方は、「自分の世界は、自分が作っている世界に過ぎない。だから考え方次第でどうにでもなるのだ」ということです。これは、認知療法と呼ばれる精神療法と共通すると思われます。このように「自分の世界とは自分で勝手に思っているだけなんだ」という考えに至って突然、夢から覚めて、本編とは全然別の設定の学園コメディが始まります。シンジとアスカは幼なじみ、一緒に学校にいこうといって、学園生活が始まり、レイは明るい転校生という設定です。僕は初めにこの場面を見たときは、庵野氏の痛烈な皮肉だと思いました。視聴者に、こうなってほしいんだろ、こんな世界を描くこともできるんだよ、と視聴者の願望を先取りして見せて反論できないようにしようとしたのかと思いました。しかし、今回見てみるとその直後に世界に亀裂が入ってまわりの人達が拍手をして、皆が「おめでとう」という。そして、悩みを克服したシンジを祝福して終わる。結構、前の学園コメディを肯定しているようにも見えました。これは、視聴者に心地よい感じをあたえるのですが、僕はそれを単純に肯定するきになりません。やはり、そんなに楽にハッピーにはなれないという気持ちがあるからです。

そして画面に「父にありがとう。母にさようなら。」という文字が出るという有名なシーンで終わります。

この結末は、ドラマの中の謎解きを一切切り捨てて、専ら心理的な解決だけを示したものですが、これには当然賛否両論ありました。

僕はというと、学園コメディは単純に肯定できなくても、当時はこの終わり方に対して肯定的でした。登場人物の悩みを真正面から追求して自ら一つの答えを出し、悩める視聴者を導いていくという気概を買ったからです。これは、オタクが大人になる一つの道を示したことだと思いました。それも一つの倫理的態度だと思いました。

しかし、僕は当時も精神の病いで悩んでいました。認知療法の本等も読んでいましたが、認知療法だけでは僕のような深い悩みは解決できないとも感じていました。
この最終回を見ても、率直にいって救われた気持ちがあまりしませんでした。
作者の心意気は買っても、それで全てが解決したわけではない。

その後、最終二話をリメイクする「旧劇場版」にいくわけですが、そこではこの解決なんかとは比べ物にならないくらい、おそろしい展開になっていきます。そこで示された、極めて厳しい答え。きついながらそれこそ作者の実存をかけた結末。
これほど真摯に追求されるとは。見終わったあとおそろしさで気分がメチャクチャ悪かったですが、TV版のような安易さを避けたところを認め、肯定するということにはなりました。そのことについては、それを見たときに述べましょう。

2013年1月2日水曜日

「新世紀エヴァンゲリオン」1〜13話

深夜から今朝にかけて「新世紀エヴァンゲリオン」TV版、1話〜13話をニコニコ生放送でタイムシフトで見ました。

1995年に放送されたロボットアニメです。そして、現在「新劇場版」の3作目が公開中です。

放送当初から、センセーショナルな話題を放った作品です。

僕が初めて「エヴァ」に触れたのは、深夜に何気なくチャンネルを変えていたら、中学生の子どもたちが建物の中を這いつくばって歩いているところを、敵の怪獣(使徒)が暴れているとこに出くわすというシーンでした。

普段はあまりアニメーションは見ないのだけれども、このシーンを見ただけで面白そう、学園ものとSFアクションものとが重なって、さらにそのギャップにそれぞれのリアリティーや面白さが増幅されていると思いました。(第拾壱話 静止した闇の中で The Day Tokyo-3 Stood Still)

最初は自分だけが見つけた、マニアックな楽しみと思っていました。
しかし、段々と他のメディアでも取り上げられ社会現象にまでなっていきます。

朝日新聞だった思いますが、社会学者の宮台真司さんが「子どもたちは、ここまで根源的な問題に直面している」という趣旨の解説をされていたと思います。

また、「エヴァ」に関する書籍も多く発表されていて、その多くは謎解き本でしたが、その中に「エヴァンゲリオン快楽原則」という本があり、その中ではアカデミックな人が「エヴァ」について語っていました。
その本の中に、まだ大学院生だった思いますが、若い批評家が「なぜ庵野秀明は80年代アニメを終わらせたか」というような論考をしていて、それまで謎本とか表面的な問題として扱っていて不満だった僕は、これこそ僕のいいたかったことだと我が意を得たりと思いました。僕は、庵野監督は作品によって、オタク的空間自体を破壊した。そのことが重要だと思っていたからです。その批評家が東浩紀さんです。

僕と「エヴァ」との関係の話に戻ると、深夜枠で最初に見たのを見続けたのか、他の回の再放送なのか忘れましたが、とにかく深夜の再放送を途中から見始めて、最終2話を見て「なるほどね。気持ちは分る」という感想を持ちつつも、自分の悩みはこれだけでは解決できないと思いました。

それから、春に公開された劇場版(春エヴァ)は見損なったので、順番は入れ替わるが夏の完結編(夏エヴァ)を見ようと思っていました。何回か深夜で再放送していたのでそれをVHSテープに録画したものを最初から見ていきました。そして、自分が見ていた回になったところで劇場の上映時間が迫ってきたので、しかたなくそこでやめて車で銀座の
松竹ビルの建物の映画館へ向かいました。
どんよりとした夕方、親のフォルクスワーゲンで期待を抱きつつ向かい、立体駐車場にいれました。

劇場版では「春エヴァ」の続きをやっていたので、このあと見直す必要がなくなりました。よかったと思いました。
そして、本編。
中身がすごすぎて、ショックが大きく、帰りの車の中で、運転しながらビデオカメラに感想をずーっと語り続けて、各地をさまよい夜が開けるまで徘徊していました。

その後、TV版を見直す気にもなれず、そこで一つエヴァは終わりました。
それがエヴァでの衝撃体験でした。

新劇場版ができるというのをきいて、「宇宙戦艦ヤマト」のように何度も設定変えて、生き延びさせるのはどうかと、庵野さん自身がいわれていたので、ちょっと心配もしましたが、僕は庵野秀明をかなり信じているのでこれはこれでみっともないことのないようになるのではと思いました。

とにかく、旧劇場版の衝撃がすごすぎて、TV版をあれから一度も見直していなかったのです。

今回、インターネット動画サービスのニコニコ生放送が新劇場版上映記念として、お正月に2日に分けて、TV版26話を一挙放送というので、一日5時間以上と厳しいのですが、せっかくのチャンスとしてみてみようと思いました。

ニコ生では、視聴者のコメントを見ることもできるので、一人で見ている寂しさを紛らわすこともできるので。

中身ですが、意外と記憶が曖昧なものもあり驚いたところもありました。
アスカの登場。ワンピースで仁王立ちする姿に、一発で心を奪われてしまいました。僕だけかと思っていたら、アスカにこころ奪われた人は多いようです。

絵柄ですが、今見ると人の顎と鼻が尖っているのがちょっと気に入らなかったです。新劇場版では、顔ももっと普通に直してあったので、よけい目立ちました。

アスカの顔も、今見るとそれほどの超美人というわけでもない、それなのにこれだけ惹かれるのはその内面から溢れ出す力強さでしょう。一方で、よわいかわいい部分もあるのが魅力だと思います。

昨夜は徹夜で見たにもかかわらず、朝眠れず、お昼過ぎまで興奮して寝られませんでした。

今回を機に、もう一度「エヴァンゲリオン」全体を見直していこうと思っています。
今回書ききれなかったことは、これ以降で書いていこうと思います。





2013年1月1日火曜日