2013年1月10日木曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q」

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

映画館で見るのは、2012年11月21日以来、2度目です。そのときにもブログに書きました。

最初見たとき、あまり意味が分からなくてもう一度見ました。
その前に「序」と「破」をDVDで見てから。

TV版は長いので、いろいろ詰まっていて面白かったです。最後の2話も強烈でしたが、続きが見たい。
そこで、旧劇場版で続きをやったのですが、予想を超えるスケールでショックを与えました。
ショックが強すぎて、あれだけ饒舌だった人々の話題も沈静化した感じでした。

そして、改めてリビルドされた新劇場版。
「序」は、総集編的であって、奇麗ではあっても盛り上がりには欠けました。
「破」は、新しい試みが見られましたが、旧劇場版ほどのショックはなかった。しかし、新しい展開が予想されました。
「Q」は、いい意味で予想を裏切ってくれました。

これからストーリーを書きます。未見の方ご注意ください。

いきなり、旧劇場版のラストの時間をも超えた14年後の世界。主人公達のいた世界は、崩壊していた。

批評家の東浩紀さんは、かつて「まどか☆マギカは美少女ゲームを反復しただけだが、エヴァは古いものを壊した」としてエヴァを擁護していました。
ところが「Q」に関しては、ツイッターやニコ生で「悪夢でしかない。唯一の解決方法は、これが夢で、目覚めるとシンジとアスカが結婚していてレイが子どもであるという設定だけだ」といわれていました。
実際に、娘さんを育てておられる親だからこの様なイメージが湧くのかな、などと思ってしまいますが、独身の僕は意見はちょっと違って、この救いようのなさ、突き放した感じがエヴァの魅力ではないのかと思います。かつて、東さんがいわれた「壊す」というのの一つのあらわれではないでしょうか。

庵野氏の魅力が、その正直さにあるというのは昨日2012年1月9日のブログにも書きましたが、観客が望まない展開であっても観客がついていくのは、この厳しい物語にもなにがしかの真実が含まれている、庵野氏がやっているのだから何か意味があると思わせるからではないでしょうか。

2012年11月21日のブログにも書きましたが、エヴァの、そして庵野氏の大きなテーマは「如何にして大人になるか」というものだと思います。
そして、エヴァで子どもたちの成長の物語を描いていった。
しかし、エヴァを見ている視聴者はエヴァの世界に耽溺していって、一向に大人になってないじゃないか。
現実を見れば、時間はシンジの年齢と同じ14年以上たっているのだよ。
そういう思いが庵野氏にはあったのではないか。これは勝手な推測ですが。

旧劇場版から結婚などを経て、ある意味、庵野氏は大人になったと思います。

その大人の視点からすると、まだ古いエヴァに執着している人は「大人になれ」というメッセージをもったアニメに浸って大人になっていない、という滑稽な状態にあるように見える。
だから彼らに「時間はたったんだ」ということをショッキングな形で突きつけたのが「Q」ではないでしょうか。

前回見たときにブログで、アスカのシンジに対する言葉が「バカシンジ」から「ガキね」に変わったと書きました。それを思って今回見てみると、要所々々で「ガキね」という言葉が使われているのが分ります。
僕自身は「ガキ」という言葉は子どもをバカにしていて嫌いなのですが、ここで使われているのは理解できます。
14年たって、大人の視点を獲得したものから見れば、まだ14歳の感覚で考えるのは「ガキ」に見えてしまうのでしょう。

東さんがいう通り、アスカはシンジに対する愛はあると思います。でも、いやだからこそ、未だに「ガキ」であるシンジに我慢ができない、そういう感じではないでしょうか。

ところで、この作品は、戦闘シーンのシチュエーションが複雑で、2回見てもよくストーリーが分らないところがありました。みなさんは分りましたか。

初めの宇宙での戦闘シーンが分らなかった。その後、戦艦が戦うのも誰と戦うのか分らなかった。シンジが目覚めて隔離されているのは分りました。レイのエヴァがでてきてシンジを連れていく理由も分らなかった。荒廃したネルフで暮らして、カヲルと仲良くなって、サードインパクトの原因を聴かされる。そして、槍を奪えば世界をやり直せると思って槍を奪いにいく。ここまでは分るのですが、なぜアスカたちが戦って反対するのかもよくわからない。フォースインパクトが起こると説得することはしないのか。カヲルが、その槍ではないことさとっても、なぜシンジが槍にこだわるのかもよくわからない。
総じて、戦闘シーンは動きが速くて、セリフも断片的で意味が分かりにくいと思いました。それはそれでいいのか、どうなのでしょう。

物語についていうと、初めに戦艦に隔離されたシンジにミサトさんもアスカもみんな冷たい。ちょっとかわいそうだと思ったけれど、シンジのせいでサードインパクトが起こったとなればこうなるのもしょうがないだろうと分ります。

シンジは「破」の最後で、レイを命がけで助ける。しかし、そのことでサードインパクトという世界の破滅をもたらす。シンジからすれば、「世界が崩壊しても君をたすける」という純粋な愛の形だといえるのでしょうし、見る側もそういう感じで受け取っていた。
しかし、それは大人の目から見れば許せないことではないでしょうか。

社会学者M.ウェーバーのいうところの「心情倫理」と「責任倫理」の問題といえるでしょう。

シンジの行動はあくまで子どもっぽい「心情倫理」であり結果を考えていない。大人ならば、それによってどんな結果が生じるかによって断罪される「責任倫理」を持たなければならない。

それなのに世界を破滅させてまで呑気に悪びれずにいるシンジに、ミサトもアスカも苛立っていたのでしょう。

そして、かつての懐かしい第3新東京市はなく、地下要塞であったかつての物語の舞台であったネルフ本部は、天井が抜け荒廃している。そこに、あくまでもとどまっていようとするシンジ。

彼は、庵野氏が「かつての子どもたちの要塞ごっこは終わったのだよ」といっても受け入れない、永遠の子どものようです。

そして、それはこの現実の14年を経て「エヴァ」を見ている僕たちに向けたメッセージでもあるかもしれません。

そして、彼を唯一無条件で受け入れるカヲルは、実は「使徒」であるという残酷な事実が待っている。

絵柄についていうと、アスカは目が死んでいて、鼻の穴だけ描かれていて、あまり美人には見えない。眼帯といい、なんかガイコツみたいに見える。これも、この作品の殺伐さを表わしています。

パンフレットによるとアスカはプロの傭兵だと、庵野総監督はいわれたそうです。
東さんのいうような物語と比べると、実に殺伐としています。でも僕は一方で、アスカには徹底して、冷酷な傭兵になって欲しいと思ったりもしたものです。

旧劇場版がドロドロとした地獄を描いた作品だとしたら、「Q」は、パサパサとした荒野を描いた感じです。

この映画のラストは極めて殺伐としています。
「庵野氏は大人になった」といいましたが、彼は子どもの気持ちも分る。
最後に、アスカは「ガキ」であるシンジをけ飛ばしながらも、彼を連れていく。

かつてのエヴァは子どもの視点から描かれていたと思いますが、今回は大人の視点と子どもの気持ちと両方の葛藤で描かれているように思います。

この殺伐としたラストを、僕は前回のブログで「大人という砂漠」と書きました。
けれども、僕はこのラストが結構好きです。


ユング心理学者の河合隼雄さんの『大人になることのむずかしさ』という本の中に次のような一節があります。(2011年6月10日のブログより)

「大人になるためには、何らかのことを断念しなければならぬときがある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが〜単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている〜もちろんそのときは苦しみや悲しみに包まれるだけのときもあろう。しかし、それによって大人になってゆく人は、そこに深い自己肯定感が生じてくることを感じるであろう。」

「大人という砂漠」に立つということは、一概に悪いことばかりとはいえないのではないでしょうか。

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