2010年8月31日火曜日

正義


今日は夜、いつもの朝日カルチャーセンター新宿校に行きました。

今日は、社会学者、宮台真司さん、同じく社会学者の大澤真幸さんの対談「正義をめぐって」でした。

両者とも社会学者の見田宗介さんのお弟子さんで、共訳などもされていたのですが、段々スタンスが変わって、お互いに批判などをしていて、いってみればライバルのような関係でしたのでどうなるか興味津々でした。

最初にお互いに敬語で話されていたので、そんな悪い雰囲気はなく、大澤さんが自分の本のためのインタビューという形で宮台さんに意見を聞くように話は進んでいきました。

始めに大澤さんから、今、教育テレビや本で人気のサンデルの話から包摂性の下がった現代に「正義」は可能化という問いが発せられます。
宮台氏、曰く、
71年ロールズは『正義論』で「善(good)」と「正義(justice)」をわけて「善」の多様性と「正義」の普遍性を説いた。

そもそも社会学はフランス革命後に理想の社会が実現しなかったことに端を発している。
ヴェーバーの「正統性」
デュルケーム
ジンメルの「三者関係」
は、自明ではないものに人はなぜ従うのかという問い。
「正義」は「善」に比べ自明性が低いので、フィクションがあって初めて前へ進める。

大澤氏。
ロールズの「正義論」はカントに呼応している。
カントは理性の公共的使用といって世界市民の立場で理性を使用するように考えた。

しかし、ロールズ自身は最後に方向転換して『正義論』を否定してしまった。
正義は不可能か?

宮台氏。
93年のロールズの転向はプラグマティストになった。

アメリカではベトナム戦争終焉まで様々な混乱があった。そのトラウマが宗教原理主義や草の根右翼の運動になっている。
それを考えないで「リベラル」「リバタリアン」・・・といったマッピングはつまらない。

個人か国家か、市場か再配分か、という対立は先進国では70年代に終わって、共同体的自己決定が問題になってきている。
イタリア、スローフード
カナダ、メディアリテラシー
アメリカ、アンチウォルマート

共同体と国家、共同体と市場は両立可能だが、市場だけもしくは国家だけは危険。

日本は80年代に規制緩和をして市場原理を取り入れたが、結果日本は共同体が空洞化してしまったので高齢者放置、児童虐待がおこってもだれも知らせない。

日本の特殊性ぬきに政治を語れない。

サンデルは帰結主義の批判から始っている。
みんなが幸せなら個人は幸せか?
否。そこには合理性に還元できない「超越性」がある。

自分は功利主義的に振る舞っているが本当は違う。

大澤。

日本は「みんな」という概念が崩れている。
沖縄問題も沖縄のエゴととられる。
プロジェクトXの高度成長期の「みんな」の幸せのためというのはなくなってきている。

宮台。

テイラーは「共同体の共生」とはいわない。
「地平の融合」という。
グローバル化した資本主義は不可避。小さな政府しかありえない。
大きな社会が必要。
沖縄の問題では沖縄が客家のネットワークを使ったりして、日本政府に代替案を出して、自己決定できる共同体の姿を見せるのが大事。

大澤。

フクヤマが『歴史の終わり』を書いたが、半分は批判したけれど、半分は当っているんじゃないかという思いをみんないだいた。
資本主義は最後の選択か?他の可能性はないのか?

宮台。

アングロサクソンは市場的でラテンは共同体的といわれるがアングロサクソンでも家族、親族のネットワークはある。

アメリカで一番力を持っているのは「ユダヤ人」と「中国人」。ともに血縁的ネットワークが強い。

市場においてプレイヤーは共同体の一員。
市場が個人のものだと思っているのは日本人だけ。

資本主義と共同体は両立する。

イギリス古典的自由主義、スミスなどは徳論。道徳がインストールされているかぎり神の見えざる手が働く。

しかし、システムの外部もシステムだというルーマン、フーコー的な現在は不合理な動機付けが不可欠。

大澤。

宮台は資本主義の外に出られないというが、最後にミメーシス(感染)という。自分の「第三者の審及」と重なる。

宮台。

初期ギリシャでは重傷歩兵で戦った。身体性や強さが重視された。

後期プラトンでは、イデアや哲人国家など理性が重視された。

ポリスが滅ぶとストア派がでてくる。
コスモポリタンを肯定する。

次にイエスが出てきてコスモポリタンなミメーシスがおこった。

大澤。

ミメーシスは共同体を超えうる。

感染するのは「すごい人」がいるからだが、逆の感染もあるのでは?
弱い倒れた人が人に感染を及ぼすこともあるのでは?
「よきサマリア人の喩え」

宮台。

師小室直樹氏が「日本はダメになるのではないですか」という問いに「社会がダメになった時に個人が輝く」といわれた。

今の人がかわいそうなのは、非常事態になれていないので、恋愛これも一種の非常事態だが、でも臆病になる。

だから、性愛の経験も書いている。

大澤。

カール・シュミット例外状態といったとき敵と味方がわからなくなる。そこで線引きが必要というが逆にあたらしい「みんな」を作れるチャンスなのではないか。

宮台。

ヴェーバー、シュミット、ウォルツァーに共通しているのは非常事態には政治家は法を踏み越えても共同体を守る必要がある。それであとで血祭りにされても。

非常事態にこそ「主権」や「憲法」の概念が生まれる。

大澤。

政治家はかわいそう。
しかし、現在そこまでして守るべき共同体があるのか。

宮台。

フーコーならストア派をもとに「美学」というだろう。
ロマン主義、すなわち一種の思い込みが必要。
ドイツでは政治。
フランスでは女。

しかし、難しい問題。

大澤。

フーコーの最晩年の邦訳されてない講義録を読むと、ストア派とは逆のディオゲネスについて熱く語られている。

宮台。

え!

大澤。

宮台さんと話してみると意外と近い問題意識を持っていると思った。

最後にコミュニティーから普遍性に至る一つの例としてパウロが考えられる。厳しいユダヤ教徒だったからこそ回心があったのではないか。

2010年8月30日月曜日


今日は夕方から、新宿の朝日カルチャーセンターで「哲学の読書会」という講座に出てきました。

哲学者、永井均の『転校生とブラックジャック』を読み進めていくものです。

今日のテーマは、「数多いる人の中でなぜ「この人」だけが「私」なのか?」「数多ある時間の中でなぜ「この時」だけが「今」なのか?」

「私」は、「他人」とは全く違ったありかたをしている。私が打たれれば「私」は痛いが、「他人」が打たれても「私」は痛くない。

この世にたくさんの人がいて、それぞれ生きて生活しているのに「この人」の生だけが、直接に体験できる。

なぜ、他の人でなくて「この人」なのだろう。なぜ「この人」だけが「私」であって他の人は「私」ではないのだろう。

考えてみれば不思議だ。何十億といる人間の中でなぜここにいる、この人だけが特別な存在なのだろう。

普段、普通の人はあたりまえすぎて、疑うことさえしないであろう問いを、真剣に考えている本です。

こう考えてみると、答えはとても難しい。これが「哲学」と呼ばれるものなのかもしれない。

2010年8月29日日曜日

睡眠


どうしても、眠い。起きるのがつらい。

今日は、食事以外のとき、夕方まで寝てました。

起きてるときのストレスがあって、起きるのが億劫。

しかし、お医者さんからは休むことも重要だといわれているので、まあいいか、と思おうと思います。

2010年8月28日土曜日

クール


『日本的想像力の未来〜クール・ジャパノロジーの可能性』という本を読みました。

内外の日本研究者による、現在の日本のポップカルチャーに関するシンポジウムを書籍化したものです。

もともと、日本語でも使われるようになった「クール」という言葉は、黒人のジャズの「ホット」と「クール」からきていることを知りました。

経産省が日本の輸出産業振興のためにカッコいい日本という意味で「クール・ジャパン」というキャッチフレーズを作ったことが議論になりました。

そこで、今世界でヒットしている日本のマンガやアニメを日本研究から分析しようという意図だったと思われますが、議論は段々これは、日本に特異な現象ではなく、ポストモダン化した時代に適応した文化なのではないかという話になってきます。

確かに、日本固有のと考えるのも面白いのですが、もっと普遍的な現象としてとらえると分りやすい。経産省のお役人が作った「クール・ジャパン」なんて概念自体が押し付けがましく感じられます。

そして、議論の最後には本のタイトルに反して日本のポップカルチャーは「クール・ジャパノロジー」に対抗する文化であるべきだという主張に収斂していきました。

たいへん面白い議論でした。

今後は世界でどのように日本のポップカルチャーが受け入れられているのかの具体的な状況を知りたいと思いました。

2010年8月27日金曜日

眠い


今日は朝から病院へ行ってカウンセリング。

帰りに『日本的想像力の未来』という本を買いました。

帰って読んでいるうちに眠くなって、少しうとうとしました。

午後からでかけましたが、帰ってきて疲れて眠くなりました。

2010年8月26日木曜日

写真


今日は、写真の教室で暗室で自分の撮った写真をプリントしてきました。

手順さえ覚えれば、すごく面白い作業です。

2010年8月25日水曜日

不可解


朝鮮学校の無償化に反対している人がいるようですが、どのような論拠なのか全く不可解です。

特定の思想にかかわる学校には援助をしないのであれば、キリスト教や仏教系の学校はどうなのでしょうか。

また、拉致の責任があるというのなら、北朝鮮政府が行ったことに在日の朝鮮人の方々にどんな責任があるのでしょうか。

戦争中の残虐行為や原爆投下を理由に在外日本人やアメリカ人が差別されるべきでしょうか。

僕には全く理解できません。

2010年8月24日火曜日

おとうと


昨日、山田洋次監督の「おとうと」をDVDで見ました。

若い薬局の女の子が結婚します。結婚式、父は亡くなり母の手で育てられたのですが、その母に弟がいて、急に結婚式にきて酔っぱらって式を台無しにしてしまう。結局、おとうとは大阪に帰るのですが、病気で民間のホスピスに入所して、姉やその娘がかけつけるというはなしです。

おとうと役の笑福亭鶴瓶さんが、一生懸命三枚目を演じているのですが、今ひとつはじけきらない感じがしました。

映画全体に、暗くまじめすぎる雰囲気があって、それはそれで山田洋次ワールドで安心して見られるのですが、鶴瓶さんの面白さや、明るさをもっと強調した方が、ラストとのコントラストが強く出てよかったのではないかと思いました。

庶民の生活を淡々と描くというのは、松竹映画の伝統に忠実なのかなとも思いましたが、あまりに淡々としすぎて、姉役の吉永小百合さんの表情もまじめすぎという感じがしました。

若い人たちの恋愛ももっと熱くなるように描けたらいいのではという気もしました。

結局、善かれ悪しかれまじめすぎる雰囲気の映画だったですね。

しかし、最後は予定調和とはいえ、やはりいい意味でまじめで、すなおに感動して涙が出そうになりました。

2010年8月23日月曜日

省察

近代哲学を読もうと考え、最初はデカルトだろうと思い、デカルトの『省察』を読みました。

有名な命題「何者も疑いうるが、疑っている私自身の存在は疑い得ない」という理論から出発します。

自分が思惟しているあいだは思惟していることは実在するというわけです。

さらに、自分は欠陥があるのに完全なものを想像できる、従って我の外に完全なるものが存在しなければならないという理論で神の存在を証明します。

そして、神は完全にして善であるから神は欺かない。だから私にとって判明なことは真である。

と、僕が理解したかぎりではこのように理論が展開されていきます。

さらに、身体と精神とを分離する、心身二元論を展開しますが、これは中世のアリストテレスの自然観を打ち破るものでした。

全体としての感想は、今までの思想を根本から疑ってみるという徹底性は賞賛に値すると思いました。しかし、現在の哲学や科学からすると、まだ未熟な点もあるように思います。それで、デカルトは批判もされますが、まだ誰も近代を経験していない中で、一人でこれだけの哲学大系を作ったことは偉いことだと思いました。

ちなみに翻訳者の三木清は、翻訳中投獄されて獄死しますが、死後この翻訳が見つかったそうです。丁寧な字できれいにそろっていたそうです。

2010年8月22日日曜日

宗教社会学


一昨日から3日間、一日5時間の講座を受けてきました。

「宗教社会学入門」という本にもなっているテーマです。

1日目、一神教
2日目、インドの仏教と中国の儒教
3日目、日本の仏教、神道、儒教
です。

本に出てこないことも触れられて面白かったです。これだけの長時間ですが、全然長く感じなかったです。
終わって少し疲れましたが、世界の宗教を知ることができて充実感もあります。

2010年8月21日土曜日

勉強


今日も東工大で宗教社会学の講座を5時間受けてきました。
それでも、勉強しなければならないことがいろいろある。

まず、webサイトを作らなければならない。これは、本を買いました。

写真の現像をやらなければならない。これも本を買いましたが薬品とかはまだです。

音楽を習っているのでその練習もしなければなりません。

それから、英語の勉強もしているので、その本も読まなければならないです。

小説を書くために小説も読まなければならない。

修士作品のかたちも決めなければならない。

哲学書を古代から読んでいこうとも思っています。

これだけ見ると、二兎を追って一兎も獲ずということになるだろうと思われるかもしれません。そうかもしれません。

まあ、でもせっかくの人生だからやれるところまではやってみたい気もします。

2010年8月20日金曜日

脱構築


今日は午前中病院に行って、午後1時から6時まで5時間、東工大で「世界がわかる宗教社会学入門」という講座に出て、7時から朝日カルチャーセンターで「ジャック・デリダ入門--脱構築とは何か」という講座に出ました。

「宗教社会学」は今日から3日連続です。今日は一神教について、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話をしました。

あまりに長いので、詳細はちくま文庫の『世界がわかる宗教社会学入門』をお読みください。先生もこころなしかお疲れのような感じもしました。

そこで、今日はデリダの脱構築について書こうと思います。

僕はデリダについては講談社の「現代思想の冒険者たち」の高橋哲哉さんの本を読んだくらいの知識でした。
だから、何となく現在あるものの起源をたどって相対化する思想というイメージがありました。

しかし必ずしもそうではない。
西山雄二先生の話によると、脱構築とは必ずしも破壊を意味しない。ハイデガーは古い哲学を破壊して自分が新たに存在論を作ろうとしたが、デリダはそうではない。

「現前の形而上学」を批判するのはニーチェやハイデガーにつながるのでしょうが、デリダはだから古いものを全て否定するのではなく、肯定するためにこそ脱構築はあるといいます。

そして、自分が脱構築したと自慢しない。脱構築は既に常に行われているもので、定義しようのないものだというのです。

西洋の伝統的哲学の二項対立を相対化するのだけれども、ただ単に中立化するだけではない、そこに安住していてはいけないのだといいます。

僕はこの話を聞いて、デリダがより深いところで格闘していたことを知り感銘を受けました。

常に相対化するだけの人や、自分が作った形而上学は絶対視する人とは違う。恐らく、多くの哲学を相対化してきた中で、自分の哲学を語ればそれも相対化されうるといういうことをわかっていたのではないでしょうか。

だから、一方的な破壊や、単一的な定義を拒んだのだと思います。

しかし、このような思想を人に伝えるのは難しい。デリダ自身脱構築は定義できないといっている。

まあ、こういう哲学を簡単に理解しようとする方がいけないのかもしれないですね。デリダを知りたければ、やはりデリダを読むことをしないと、苦労なく難解な哲学を理解しようとすること自体おこがましいことなのかもしれません。

入門は必要だけれども、デリダを本当に理解するのは簡単ではない、しかし本当に勉強すれば何かを開くことにつながるような予感はしました。

2010年8月18日水曜日

イタリアン

今日は、姉と二人で地元のイタリアンのお店へ行って夕食を食べました。

ピザにスパゲッテェ、鶏肉と食べてワインを飲んで、いま少し酔っぱらっています。

2010年8月17日火曜日

今日


今日は久々に、病院でカウンセリング。

久々に外に出ました。

食べもの買って、帰ってきてからいつものように、寝るか、ネットを見るか、本を読むかです。

週末からまたいそがしくなると思います。

2010年8月16日月曜日


夏休み期間中に本を読んでいこうと思って、今日も読んでいます。

2010年8月15日日曜日

今日


今日はやることもなく寝てました。最近、起きるのもつらい。

愚痴になってますか。

2010年8月14日土曜日

苦痛


精神的につらい。いろいろなストレスがあります。

ラジオ聴きつつ、寝ています。

今、起きました。

2010年8月13日金曜日

睡眠


この前から、ずっと眠くて寝ています。
いろいろやらなくっちゃと思いながらも、今までの疲れをとるためにも休むのも重要だと思って。

2010年8月12日木曜日

ポニョ


宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ」をDVDで見ました。

とにかく、この映画の世界観が今までの宮崎作品と違っていて、それをどうとらえるかということに悩みます。

海の中の画は驚くほど幼稚な画で描かれています。これは、監督の一つの実験だとして評価したいと思います。

それから、主人公のこどもと母親のシーンは、今までの宮崎作品と同じように描かれていて、さすがに芸が細かいと思いました。

主人公のこどもと半魚人の女の子のシーンは画としてはきれいに描かれていますが、内容は非現実的です。

また、半魚人ポニョの父なる奇怪な人物は、この不思議な物語のなぞを解くことが期待されましたが、最後までなぞは説明されませんでした。

この映画の不思議なところは、この物語がよい話として描かれているのか、悪い話として描かれているのか、どのような意図で描かれているのかがわからないというところです。

おそらく、監督もそれは悩みながら創ったのだと思います。

結局、結論で主人公と女の半魚人がキスをすることで「世界のほころび」がふさがれた、というのはあまりにも安直な終わりかたであると思いました。

物語自体にはそれほど複雑さのない「となりのトトロ」の終わりの方がずっと感動的です。

ただ、作り手からの立場からいえば、今までのジブリ作品とは違ったものを創ろうという野心はあったと思います。
ですから、「トトロ」のさつきよりさらに年少の5歳児の目から見た世界をていねいに描こうというつもりだったのでしょう。
それは、ある程度うまくいったと思いますが、主人公の感情があまりに平板に描かれていて、感情移入しにくかったという風にも感じました。

しかし、繰り返しますが、これは一つの実験として意図的に今までのジブリ作品とは違ったものを作ろうとしたものです。それは、評価すべきだと思います。
ただし、その実験はあまり成功したとはいえないでしょう。

しかし、断片的に面白かったり感動的なシーンはありました。

そのなかで、この物語かが訴えたかったのは、こどもの純真さが魚にも伝わって女の子になるという、非常に純粋で理想的な世界ではないでしょうか。このよごれた世界であえて「純真」を描くということに挑戦したのだと思います。だから、実験作でもその心意気には共感する部分はあります。

2010年8月11日水曜日

忘却


今日のカウンセリングで話題になったのは、「忘れる」といことです。

僕は「忘れる」とか「忘れられる」ということに異常に恐怖を感じて、何でもメモしたりビデオに録ったり、TV番組も録画したり、ラジオ番組や講座を録音したりして、ビデオテープやカセット、MDを捨てられずにいて、ビデオやカセットが膨大な数たまっているのです。

それは、自分が覚えていないと失われてしまうという恐怖があるからなのです。

Mr.Childrenの「Tomorrow never knows」という曲の中に「人は悲しいくらい忘れていく生き物」という詞がありますが、僕も周りの人がどんどん忘れていくことに悲しみを感じていました。

親に自分のいったことを覚えててもらえなかったからかもしれませんが、それくらいなら誰にでもありますよね。

人間関係でも、そのときは仲良くても時間が経てば忘れてしまうと思うと寂しい感じがします。

みんな忘れるんだと思うんですけど、それを気にする人と気にしない人とがいるのだと思います。

気にしない人から見れば、気にする人は過去ばかり見ている情けない奴に見えるでしょうし、気にする人から見れば、気にしない人は鈍感に見えてしまう。
どちらが悪いというわけではないが、僕はとにかく忘れていくことの恐怖を感じやすい人間なのです。

忘れたら、全てが無に帰すという感じなのでしょうか、「諸行無常」とうい現実を受け入れる勇気がない。

「別れ」について話し合いましたが、人が別れるともう相手のことを忘れてしまうのではないかと思っていましたが、別れていてもつながっているいるというのが大事だ、つながっているからこそ別れられるといわれました。

「忘れたくない」「忘れられたくない」というのは単なる気弱ではなく、意味のあることだったのかなと少し思えたかな?

皆さんは「忘れる」ということにどのような感覚をお持ちでしょうか。

2010年8月10日火曜日

政治


今日は朝日カルチャーセンターで、社会学者宮台真司さんと政治社会学者堀内進之介さんの「日本政治思想の系譜」という講座に行ってきました。

まず、戦前からのマルクス主義者による日本の資本主義に対する分析において「講座派」と「労農派」のあいだで論争があったことが説明されました。

当時の日本に「近代」はあるかという問いに、「講座派」はまだ近代ではないといい、「労農派」は、西洋とは違った「近代」があるということです。

明治の改革期に、地主は豪農になって資本主義に乗り出してくる。それが、はじめ政府に利用されていましたが、後に「財閥」になります。そして、農民を搾取します。それは近代といえるのか。

ところで、当時の政治家はどう考えていたか。
「岩倉使節団」はプロイセンに行ってビスマルクに会い、近代化が周りの国より遅れた国がいかに厳しい立場に立つのかを実感して帰ってきました。

そして官営工場を造ったりして、「上からの近代化」を行います。
福沢諭吉などもそうですが、客観的状況を見れば近代化するしかない、そのためにあらゆる方法をとるというものです。

従って、宮台さんの説明では「明治維新」は「ブルジョワ革命」ではなかったが「ブルジョワ養成革命」であった。

たとえば、国家神道ができたのも西洋の社会にはキリスト教の影響があると考えたからであって、「天皇」を祭り上げたのも「近代化」の目的である。したがって、当時の政治家に「天皇主義者」なんて一人もいなかった。

それら「道具的」に導入されたリソースを次の世代の人たちは本気で受け止めてしまったということです。



それから現在の政治の話になって、宮台さんは次のようにいいます。

「国家」か「個人」か、「市場」か「福祉」かという対立は、先進国では70年代に終わった議論であって、現在は「共同体的な自己決定」ができるかどうかが問題だといいます。

日本にはもともと「血縁」の伝統がない。あるのは「地縁」だけ。
しかし、少しややこしいのですが「一緒に住め」ば「規範」は生まれるのだが、そもそも「一緒に住」まなければならないという「規範」はないというのです。

ですから、日本には他国にあるような「中間集団」がない。従って経済が下降線をたどると、地域の空洞化が顕著になってくる。

その上では、緊急避難的に行政が手を出してでも地域の絆をつくらなければならない。
しかし、ずっと行政の世話になっていてはならず、将来は「自分たちのことは自分たちで決める」どうしても解決できないときにだけ官にたよるという「補完性の原理」に立脚した社会にならなければならない、ということです。

堀内さんから「共同体というと面倒くさいという感覚もある」という質問に対し宮台さんは「自分にも感覚としてはある、がそれでも共同体の空洞化には対処しなければならない」といわれました。

僕は宮台さんの本などを読んで、これが政治家に伝わればいいのになと思っていましたが、実際に政治家の人とも親しく、かなり助言をしているときいて、少しほっとしました。

2010年8月9日月曜日

アリエッティ


スタジオジブリの「借りぐらしのアリエッティ」を見てきました。

河合隼雄さんの本で「床下の小人たち」というのがあると紹介されていて、本のことは知っていました。
床下で小人たちが、人間のものを借りて暮らすってどういう意味かなと思っていました。

最後には、小人たちは借りぐらしできなくなるのですが、それにも深い意味がありそうだと思っていましたが、自分でははっきりその意味が分かりませんでした。

しかし、何か心に引っかかるものがありました。

今回の作品でも、具体的にどういう意味があるのかは述べられていません。
しかし、人々の心の中に何かを残すような作品です。

宮崎駿が監督した作品と比較しては、ものがたりは小さなもので、小作品という感じですが、映像はやはり芸が細かい、日本のアニメ的な意味で美しい作品になっています。

心臓を患った男の子が、小人アリエッティと出会って、彼女を助ける話になっています。しかし少年とアリエッティの出会いの話が中心になると、小人が床下にいることの意味がぼやけてしまうかとも思いました。

でも、意味をそのまま追求するよりも、ものがたりを丹念に描くことで無意識のうちに何か伝わるものがあるのかもしれません。
そういう意味では、これを単にストーリーとして分析してもあまり意味がないのかもしれません。
僕らおじさんはもう心が汚れてしまったかもしれませんが、まだみずみずしい感性の残っている子供たちは、この物語を見てうちの床下にも小人がいるかもしれないと思うかもしれません。それは現実ではなくても、床下に小人がいるかもしれないと思えるだけでも何か大切なものに触れることのできる時なのかもしれません。

明示的にテーマが現れていないだけに、単なる知識としてだけでなく、心の底に何かを残してくれる作品なのかな、と思ったりしています。

2010年8月8日日曜日

作法


斎藤兆史の『英語の作法』という本を読みました。

英語独特の言い回しなどがのっているかと思ったら、「文体論」に基づいて英語を分析していく本でした。

日本語の地の文は容易で読みやすかったですが、出てくる英語は英文学の修士レベルということで、僕には少し難しすぎました。

「文体論」は英語に限った話ではないので、どれだけ英語力向上に役立ったか分りませんが、最後には作者が作った英語の短編小説がのっていたのは面白かったです。

いつか、何かの時にこの本が役にたったと思える日が来てほしいものです。

2010年8月7日土曜日

英語


僕は将来、外国に行ってみたいと思い、英語が話せたらいいなと思って、ずっと少しずつ勉強してきました。

しかし、通信教育で教材がきてもやらずに、何年間か放置したりしてました。

その間でも、英語関係の本を読んだり、英会話スクールに行ったり、イギリスに短期留学したりして少しずつ努力はしていました。

初めてTOEICの模試をやったら590点。そして3週間集中講座を受けていざ本番を受けたら、全く同じ590点でした。何なんだ!

それから、英会話学校行ったりして少し自信がついてきてTOEICを受けたら580点。

下がるって・・・・・・。

今日も英語関係の本を読みましたが、少しは上達していることを願っています。

2010年8月6日金曜日

シナリオ


僕はかつて、シナリオを少し習ったことがあります。
今日カウンセリングで、以前書いたシナリオを次回、カウンセラーさんに見せるということになりました。

前に少しだけ書いて、アイディアはまだある作品を、いくらか書き足しました。

書いてみると面白い。

いずれ本格的にシナリオを書くことにも挑戦しようかな。

2010年8月5日木曜日

今日


今日は、何の予定もなかったので、ほとんど寝てました。起きようと思ってもつらい。たまには休むことも大事だと自分にいいわけして。

2010年8月4日水曜日

ニモ


昨日、ピクサー製作のアニメ「ファインディング・ニモ」のDVDを見ました。

フルCGのアニメです。

ピクサーはAppleのスティーブ・ジョブズが作った会社ということで、興味を持っていました。

ピクサーのアニメは他のCGアニメに比べてもヒットしている。その秘密をしりたいという思いもありました。

とにかく、完全主義者ジョブズの作った会社だけに、ハンパでないほど精密なアニメーションで、本当に魚が泳いでいるように見えます。

海の中の場面だけでも、その美しさといったらズバ抜けています。

ストーリーも魚の立場から、現在のアメリカの家庭を描いていて、一面ではリアルに感情移入ができ、他方では遊び心がいきています。

人間に盗まれた魚のこどもをお父さんの魚が追いかけて見つける話です。
子供っぽい設定ながら、魚の気持ちに共感して感動さえしてしまいます。

スティーブ・ジョブズが里子に出されて、両親を捜したというエピソードも思いだされます。

完璧な技術とデザインへのこだわり、そして遊び心。これらはAppleにも共通しているように思えました。

2010年8月3日火曜日

現像


今日は写真の教室で、写真の現像をやりました。

始めに、真っ暗な中でフィルムをリールに巻き付けるのですが、それがうまくいかず、写真をいくつもダメにしてしまいました。

その後色々な薬品を使うのですが、
難しいのですが、薬品も買って家でやれということで大変だと思っています。

2010年8月2日月曜日

哲学


今日は新宿の朝日カルチャーセンターでやっている「哲学の読書会」に行ってきました。

日本大学教授の哲学者、永井均の『転校生とブラックジャック』という本を読む講座です。

先生は青山学院大学教授、入不二基義先生です。

「転校生とブラックジャック」とはどういう内容かというと、
映画「転校生」のように心が入れ替わってしまった太郎と次郎がいて、こまっている。
そこに漫画『ブラックジャック』のような外科医が来て治してあげるというのです。

医者は次郎の体を持った太郎に、次郎の記憶と性格を埋め込むのです。そうすれば次郎の身体に次郎の心が入るので矛盾はなくなるというのです。

しかし、自分の脳に次郎の記憶と性格を入れられたら太郎はどうなってしまうのか。自分は一体何者なのかという問いを残してこの問題提起は終わるのです。

皆さんはどうお考えでしょうか。

詳しくはこの本をお読みください。

2010年8月1日日曜日

写真


今日は写真の教室で、屋外撮影でした。

個人行動で36枚4本撮りおわったら解散、というものでした。

僕はフィルムを3本しか持ってこなかったといったら、女の生徒さんが一本わけてくれました。
お金も買った値段より安く。ありがたいことです。

御茶の水から本郷へ行って、根津、谷中、最後は日暮里で山手線で帰りました。
山手線の半径くらいは歩きました。

古くから栄えた地域だけれども、表通りはほとんど古い街並は見られませんでしたね。

しかし、お寺やお墓がたくさんあって、そこは古い雰囲気もありました。