2010年8月31日火曜日

正義


今日は夜、いつもの朝日カルチャーセンター新宿校に行きました。

今日は、社会学者、宮台真司さん、同じく社会学者の大澤真幸さんの対談「正義をめぐって」でした。

両者とも社会学者の見田宗介さんのお弟子さんで、共訳などもされていたのですが、段々スタンスが変わって、お互いに批判などをしていて、いってみればライバルのような関係でしたのでどうなるか興味津々でした。

最初にお互いに敬語で話されていたので、そんな悪い雰囲気はなく、大澤さんが自分の本のためのインタビューという形で宮台さんに意見を聞くように話は進んでいきました。

始めに大澤さんから、今、教育テレビや本で人気のサンデルの話から包摂性の下がった現代に「正義」は可能化という問いが発せられます。
宮台氏、曰く、
71年ロールズは『正義論』で「善(good)」と「正義(justice)」をわけて「善」の多様性と「正義」の普遍性を説いた。

そもそも社会学はフランス革命後に理想の社会が実現しなかったことに端を発している。
ヴェーバーの「正統性」
デュルケーム
ジンメルの「三者関係」
は、自明ではないものに人はなぜ従うのかという問い。
「正義」は「善」に比べ自明性が低いので、フィクションがあって初めて前へ進める。

大澤氏。
ロールズの「正義論」はカントに呼応している。
カントは理性の公共的使用といって世界市民の立場で理性を使用するように考えた。

しかし、ロールズ自身は最後に方向転換して『正義論』を否定してしまった。
正義は不可能か?

宮台氏。
93年のロールズの転向はプラグマティストになった。

アメリカではベトナム戦争終焉まで様々な混乱があった。そのトラウマが宗教原理主義や草の根右翼の運動になっている。
それを考えないで「リベラル」「リバタリアン」・・・といったマッピングはつまらない。

個人か国家か、市場か再配分か、という対立は先進国では70年代に終わって、共同体的自己決定が問題になってきている。
イタリア、スローフード
カナダ、メディアリテラシー
アメリカ、アンチウォルマート

共同体と国家、共同体と市場は両立可能だが、市場だけもしくは国家だけは危険。

日本は80年代に規制緩和をして市場原理を取り入れたが、結果日本は共同体が空洞化してしまったので高齢者放置、児童虐待がおこってもだれも知らせない。

日本の特殊性ぬきに政治を語れない。

サンデルは帰結主義の批判から始っている。
みんなが幸せなら個人は幸せか?
否。そこには合理性に還元できない「超越性」がある。

自分は功利主義的に振る舞っているが本当は違う。

大澤。

日本は「みんな」という概念が崩れている。
沖縄問題も沖縄のエゴととられる。
プロジェクトXの高度成長期の「みんな」の幸せのためというのはなくなってきている。

宮台。

テイラーは「共同体の共生」とはいわない。
「地平の融合」という。
グローバル化した資本主義は不可避。小さな政府しかありえない。
大きな社会が必要。
沖縄の問題では沖縄が客家のネットワークを使ったりして、日本政府に代替案を出して、自己決定できる共同体の姿を見せるのが大事。

大澤。

フクヤマが『歴史の終わり』を書いたが、半分は批判したけれど、半分は当っているんじゃないかという思いをみんないだいた。
資本主義は最後の選択か?他の可能性はないのか?

宮台。

アングロサクソンは市場的でラテンは共同体的といわれるがアングロサクソンでも家族、親族のネットワークはある。

アメリカで一番力を持っているのは「ユダヤ人」と「中国人」。ともに血縁的ネットワークが強い。

市場においてプレイヤーは共同体の一員。
市場が個人のものだと思っているのは日本人だけ。

資本主義と共同体は両立する。

イギリス古典的自由主義、スミスなどは徳論。道徳がインストールされているかぎり神の見えざる手が働く。

しかし、システムの外部もシステムだというルーマン、フーコー的な現在は不合理な動機付けが不可欠。

大澤。

宮台は資本主義の外に出られないというが、最後にミメーシス(感染)という。自分の「第三者の審及」と重なる。

宮台。

初期ギリシャでは重傷歩兵で戦った。身体性や強さが重視された。

後期プラトンでは、イデアや哲人国家など理性が重視された。

ポリスが滅ぶとストア派がでてくる。
コスモポリタンを肯定する。

次にイエスが出てきてコスモポリタンなミメーシスがおこった。

大澤。

ミメーシスは共同体を超えうる。

感染するのは「すごい人」がいるからだが、逆の感染もあるのでは?
弱い倒れた人が人に感染を及ぼすこともあるのでは?
「よきサマリア人の喩え」

宮台。

師小室直樹氏が「日本はダメになるのではないですか」という問いに「社会がダメになった時に個人が輝く」といわれた。

今の人がかわいそうなのは、非常事態になれていないので、恋愛これも一種の非常事態だが、でも臆病になる。

だから、性愛の経験も書いている。

大澤。

カール・シュミット例外状態といったとき敵と味方がわからなくなる。そこで線引きが必要というが逆にあたらしい「みんな」を作れるチャンスなのではないか。

宮台。

ヴェーバー、シュミット、ウォルツァーに共通しているのは非常事態には政治家は法を踏み越えても共同体を守る必要がある。それであとで血祭りにされても。

非常事態にこそ「主権」や「憲法」の概念が生まれる。

大澤。

政治家はかわいそう。
しかし、現在そこまでして守るべき共同体があるのか。

宮台。

フーコーならストア派をもとに「美学」というだろう。
ロマン主義、すなわち一種の思い込みが必要。
ドイツでは政治。
フランスでは女。

しかし、難しい問題。

大澤。

フーコーの最晩年の邦訳されてない講義録を読むと、ストア派とは逆のディオゲネスについて熱く語られている。

宮台。

え!

大澤。

宮台さんと話してみると意外と近い問題意識を持っていると思った。

最後にコミュニティーから普遍性に至る一つの例としてパウロが考えられる。厳しいユダヤ教徒だったからこそ回心があったのではないか。

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