2010年8月20日金曜日

脱構築


今日は午前中病院に行って、午後1時から6時まで5時間、東工大で「世界がわかる宗教社会学入門」という講座に出て、7時から朝日カルチャーセンターで「ジャック・デリダ入門--脱構築とは何か」という講座に出ました。

「宗教社会学」は今日から3日連続です。今日は一神教について、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話をしました。

あまりに長いので、詳細はちくま文庫の『世界がわかる宗教社会学入門』をお読みください。先生もこころなしかお疲れのような感じもしました。

そこで、今日はデリダの脱構築について書こうと思います。

僕はデリダについては講談社の「現代思想の冒険者たち」の高橋哲哉さんの本を読んだくらいの知識でした。
だから、何となく現在あるものの起源をたどって相対化する思想というイメージがありました。

しかし必ずしもそうではない。
西山雄二先生の話によると、脱構築とは必ずしも破壊を意味しない。ハイデガーは古い哲学を破壊して自分が新たに存在論を作ろうとしたが、デリダはそうではない。

「現前の形而上学」を批判するのはニーチェやハイデガーにつながるのでしょうが、デリダはだから古いものを全て否定するのではなく、肯定するためにこそ脱構築はあるといいます。

そして、自分が脱構築したと自慢しない。脱構築は既に常に行われているもので、定義しようのないものだというのです。

西洋の伝統的哲学の二項対立を相対化するのだけれども、ただ単に中立化するだけではない、そこに安住していてはいけないのだといいます。

僕はこの話を聞いて、デリダがより深いところで格闘していたことを知り感銘を受けました。

常に相対化するだけの人や、自分が作った形而上学は絶対視する人とは違う。恐らく、多くの哲学を相対化してきた中で、自分の哲学を語ればそれも相対化されうるといういうことをわかっていたのではないでしょうか。

だから、一方的な破壊や、単一的な定義を拒んだのだと思います。

しかし、このような思想を人に伝えるのは難しい。デリダ自身脱構築は定義できないといっている。

まあ、こういう哲学を簡単に理解しようとする方がいけないのかもしれないですね。デリダを知りたければ、やはりデリダを読むことをしないと、苦労なく難解な哲学を理解しようとすること自体おこがましいことなのかもしれません。

入門は必要だけれども、デリダを本当に理解するのは簡単ではない、しかし本当に勉強すれば何かを開くことにつながるような予感はしました。

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