2009年11月30日月曜日

スティーブ・ジョブズ

私は、経済学には興味はあったが、「サラリーマン」にはなりたくなかったので、経営学には全然興味がなかった。そしてデザイナーの道を選んで現在学習中だが、WEBデザインする際には経営のことも知らなければならず、本屋でいわゆるビジネスものも見るようになった。
スティーブ・ジョブズの本が結構あるが、それを読むビジネスパーソンにいいたい。
スティーブ・ジョブズはスティーブ・ジョブズになろうとしたのだ。
そこから学ぶべきことがあるとしたら「あなたもスティーブ・ジョブズになろう」ではなく、「あなたはあなた自身になれ」ということだ。

2009年11月29日日曜日

ドバイ


今回のドバイショックで、円高になり景気に悪い影響があることが心配される。
そこで景気とは別に2つのことを思う。
1、これは、多くのエコノミストに感情的に反発されそうだが、ドバイショックは勿論、日本政府の責任ではない。しかし、何らかの対策は必要だろう。それは、当然の話。
ところで、世界的に株が下がった中、何故「円」だけが買われたのか?
新聞を読む限り、消去法で「円」しかなかった、と他の通貨の欠点をあげているが、日本だって史上最高の国債発行、景気対策はまだ出ていない状態であった。悪い条件はいくらでもある。
しかし、投資家の多くは「緊急避難」にしろ「円」を買いまくった。
投資家はどうすればより多くの利益をあげられるかを冷徹に計算する。
そして「円」にとりあえず逃げた。
もし日本が、日本政府が本当にダメならばいつ下がるかわからない「円」を緊急避難場所にするだろうか?

マスコミは権力をチェックするのが仕事だから当然だが、私たちはいつも現政権の批判ばかり聞かされている。また、他国と比べて批判されることが多い。だから、つい日本は他の国に比べてダメなんじゃないかと思ってしまいがちである。
でも、例えば教育問題でアメリカに素晴らしい学校があるとしよう。だからアメリカ型の教育システムを導入しようと多くの人は思う。しかし、その一方で金持ちが行ける私立の学校と、貧しい人が行く公立の学校の格差が広がり、ひどい学校もたくさんある。毎日、正門前で金属探知機で拳銃を持っていないかをチェックする学校。託児所付きの高校。麻薬、セックス、暴力におかされた教育現場があることも知らなければならない。
だから、ある分野の一面だけ比べて外国の方がいいと思ってきた近代日本だが、必ずしも日本は自分で思っている程ひどくはないのかもしれない、と思うようになってきた。

「消去法で日本が残った」というけれども、つまりは「円」だけが買われる決定的な理由がないとすれば、「消去法で日本が残った」と言うことは「(絶対値は低いが)相対的には「円」が最も信頼できる通貨だと投資家が判断した」ということと同じことを意味する。絶対値は「リーマンショック」「ドバイショック」で世界全体が下がっている。もちろん日本でも下がっている。その中で、よりマシなところとして「円」が選ばれたとしたら、ある意味世界はけっこう日本を高く評価しているのかもしれないと思った。
自惚れに陥るべきではない。しかし、客観的に考えた結果であれば自分たちを肯定することもあってもいいのではないか。今まで国内のニュースばかり見ていたから、日本の対策は遅れてると思っていたが、他の国も実はかなり遅れているということが今回の「円高」でわかった。
私は日本をヨイショする気は全くない。ただ真実がどこにあるかを知りたいのだ。だから公平にいって日本は日本人自身が思っているよりも外国からの信頼度は高いのかもしれない。
これは、今までの自民党政権のお陰かもしれないし、新政権への評価なのかもしれないが。

今、たまたま英語の小論文を書く勉強をしているのだが、今回の宿題が「cause and effect(原因と結果)」だが、報道はeffect の方を強調して現政権に対応を要求するが、私としてはcauseの分析も不可欠だと思う。
「日本が(相対的に)最も信頼できる国だ」というのは、今まで政権を批判してきたメディアはいいたくないだろうが、「消去法で日本が残った」ということはそういうことだ。
しかし、批判するなとは思わない。私は今までの民主党のやってきたことは「ガンバってはいるけれどもマニフェストは実現できていない」と思う。
予算をゼロから組むといっておきながら何故見直しが3兆円だけなのか?95兆円全て精査するはずじゃなかったのか。仮に3兆円全てが廃止になっても全体の3%に過ぎない。95兆円が92兆円になるだけで財政の健全化とはとてもいえない。ましてや野党時代に無駄を省けといっていた議員が大臣になったら予算を要求する醜態は許しがたい。
基地は県外移設するんじゃなかったのか?無駄を省けばマニフェストの実現に足りるだけのカネが出てくるんじゃなかったのか。


もちろん、それでも少しでもマニフェストに近づく努力はするべきだと思うが、マニフェストを作る段階での分析が甘過ぎた、結果国民の期待を裏切ったことはしっかりと受け止めてもらいたい。その上で、次期参院選で実現可能なマニフェストを出してもらいたい。
このように、批判したいことは色々あるが「円高」をeffectだけを見て何か政府が悪いことをしたかの様な印象を与える報道は不適切だ。藤井財務大臣も「『円高』とは我々の通貨の価値を高く評価してくれたことの現れなのでそれはありがたいが、しかし輸出業者のために対策は行わなければならない」ぐらいのことを言ってもいいのではないかと思う。こういう視点の報道があまりないように思うのでいわせてもらった。
2、は「リーマンショック」の次の「ドバイショック」で「グローバル化した金融」は、一つコケると世界中に波及するという極めて危険なシステムであるということがわかった。一方ではそれを収束させるためには国際協調しなければならない。自由化が「経済的」豊かさをもたらすのは確かだが、そういう負の側面もあることは気をつけておかなければならないだろうということだ。

2009年11月27日金曜日

円高


円が買われているようだが、円高は日本の経済にマイナスに働くだろうことは新聞に書いてあるが、どうしてドバイの企業が破綻したら円高になるのかがよくわからない。ドル安を容認する発言をアメリカ連邦市場委員会が発表したそうだが、その金が何故、円にまわってくるのかが新聞を読んでもよくわからない。他の通貨に対しても円だけが買われてるようである。
他の国の不安材料もあげられているが、日本だって景気も良くないし、財政もひどい状態。
景気対策をするけど、どこまで効果が上がるかもわからない。
政府は予算を削るのに汗を流している。首相は金銭スキャンダルで攻撃されてる。なのに、なんでみんな円を買うんだ?わからない。
経済学者の人、教えて下さい。わからなければ正直にわからないと言って下さい。

2009年11月26日木曜日

金銭


私は歌を習っているのだが、今日は先生に褒められて嬉しかった。しかし、家に帰って録音を聴いてみると、ちょっと恥ずかしくなる。やっぱり、歌手の人ってすごいんだなと思う。モー娘。なんて、中学生くらいが数ヶ月レッスンして歌も踊りもプロになっちゃうんだからすごい。
ちなみに、課題曲はシンディーローパーの「Time After Time」

if you`re lost you can look and you will find me
Time after time
if you fall i will catch you ill be waiting
Time after time

Time after time
Time after time
Time after time

time after timeは「何度でも」という意味。

家に帰って新聞を見ると、鳩山首相の政治献金虚偽記載の問題が出てる。
先ずこの記事を見ていただきたい。その上で私の言っていることが、単なるその場の雰囲気に流されていったことかどうかを判断していただきたい。


私は、
1、失言
2、金銭の集めかた
に気をつけてほしいと言った。あたりまえすぎて、気にもとめなかったかもしれないが、その重要性はわかっていただけたのではないか。
べつに私が予言をしたとかいうことではない。単純なことだ。今まで自民党の閣僚が辞任する理由が、「失言」と「金銭問題」が多かったので、民主党政権になれば同じことが起こるだろうということは誰にでも容易に想像がつく。

金銭問題については、TVの「ヤラセ」と同じく、「そんなのみんなやってるよ。捕まるかどうかは政治的な問題だ」なのか、「本当にひどいこと」なのかは私はわからないが、前者である気もするが、本当に違法性があるのならそれでも責任を問われるのはしかたあるまい。

なぜ、「失言」と「金銭問題」に気をつけてもらいたいかと書いたかというもう一つの理由は、「失言」や「金銭問題」は、政治本来の目的とは関係ないことだから。
マスコミは面白がって書くだろうが、そんなことより重要なことがあるじゃないか、といつも思っていてこのレベルの議論がマスコミをにぎわすのにうんざりしていたから、今度の政権はちゃんと前もってそういうことのないようにしてほしかった。
その時間を、もっと重要な政治の議論に使ってほしいといつも思っていた。

しかし、新聞報道を見る限り虚偽記載が事実なら、いくらサポーターでも認めるわけにはいかない。責任はとるべきだろう。
そして、今度こそ本当に不当な金銭問題を起こさない政治をしてほしい。

私は、いっそ政治は全部「政党助成金」でしたらどうかとも思う。その方がスッキリする。
あるいは、個人献金も匿名にするとか。しかし、また裏で情報漏洩があるだろうな。

アメリカはケネディがメディアを最大限うまく利用してから選挙のメディア対策が行き過ぎなほど進んでいる。クリントンが大統領になったときには、何人か市民を集め、どの言葉に反応するかを調べ統計を出しそれで選挙演説に反映させたというのを、アメリカのドキュメンタリーで見たことがある。
ケネディはメディアをうまく使ったから勝てたというより、彼のカリスマ性がメディアでどううつるかの計算までしてまでも大統領になるとういう雰囲気を作り出した。
しかし、ブッシュ(子)は、カリスマ性がないのにメディア戦略で(辛うじて)勝った。ゴア候補と比べれば、見た目も中身もどうみてもゴアの方が上に見えるが、実際総得票数ではゴアが上回っていて、最後は数え直しを継続することをフロリダ州の最高裁が決めたタイミングで決まった。その差200票。2億人の人口の100万分の一の差。そんなの誤差の範囲内だろ!
私は、時々思ったことがある。あの時ゴアが勝っていたら9.11はあっただろうか?イラク戦争はあっただろうか?政治学者に聞いてみたい。
接戦の大統領選の終盤で、ブッシュ候補の、交通違反が発覚した。もちろん、ゴアシンパのメディアがここぞと思って出したのだろう。私は当然ゴアを応援してたのでこれで有利になったかと思った。ところが向こうもメディア戦略の専門家がいて、うまくかわした。ブッシュはそのことをすぐに認め「私は過去に過ちを犯した」と反省したのである。あの時点で事の真偽を争ったら不利になるという判断があったのだろう。すると今度は交通違反ぐらいで責めてくるゴアの方がセコい奴、ヤな奴に見えてくる。なかなか、うまいこといいよるなと思った。

いまもし私が民主党の広報担当者だったらどうするかな?

先ず事実関係を整理してどこまでが首相の責任かどうかを峻別する。首相の責任といっても色々あって、直接犯罪を犯したのか、監督責任か、それがどの程度の重さの罪なのかをきちっと精査する。そして、首相の責任の範囲内のことで過ちがあれば認め、その罪の大きさの度合いに応じて謝罪をする。

タイミングも重要で、問題が大きくなりそうならその手前で早めに、そうでなければ慎重にする。

まずは、よかれあしかれテレビが今でも一番影響の大きいメディアなので、タイミングのいいところで首相自らが全てのキー局の夜のニュースに生出演させる。テレビ局は首相が生でスタジオに来てくれれば視聴率を期待できるので応じる可能性は高いだろう。
そこで重要なのは、「責任の範囲」を明確にした上で「範囲内」の罪を真摯に謝罪する。
全ての局で、言い方は違っても内容は全て一貫させる。もちろんそのためには、内容は事前に熟考する。

そして、ネットではYouTubeで同じ内容の動画を配信する。
民主党のサイトでの公開はしてもいいが、民主党が嫌いな人は民主党のホームページは見ない。実際、私は自民党のホームページは1、2度くらいしか見たことがない。

しかし、YouTubeに載せれば、反民主の人も目に触れる。鳩山が頭下げる映像なら彼らも見るだろう。

後は余計なことはいわない。質問されたらネットに詳しく載せましたといえる。どうしても答えなければいけないときは、忠実に同じことを繰り返す。
徐々に発覚されると、その度に新聞をにぎわす。だったら先に自分で調査して全部疑わしいものは明らかにする。そうすれば、1回は新聞をにぎわすがその後、出てこなければ痛手は1回ですむ。徐々に出てきたら何回も悪いイメージがマスコミに出るので、痛手は大きくなる。
このように同じ情報でも出しかたによってダメージが大きく違うことはしっかり頭に入れておく必要があろう。

まあそれで支持率が絶対落ちないと保証はできないが、私が担当者ならこうする。

2009年11月23日月曜日

倫理

私には色々なことが、起こっているがこれらは私に対するいやがらせである場合が多いと考えている。
起こっていること。
1、ほぼ毎日5〜10回くらい、うちの上空をTVが聞こえないくらいの音を立てて飛行機やヘリコプターが飛んでいる。
2、周りの人が、誰かにコントロールされている様な奇妙な動きをする。たとえば、電車で向いの席の人が全員うつむいていたり。ちょうど私がファッションを勉強しようと思ったときに、同時に多くの人がいっせいに着ているものが派手になったりした。
3、私がデザインを大学で専攻したからだと思うが、ちょうど私が入院している頃から色々な商品のや店や駅員の服など、著しく多くのデザインが変わった。
4、建物や公共の施設などが非常に多く改築された。現在も多くの改築が行われつつある。っそれが、私のうちの近くや学校への道の途中だとか、私に関係のあるものが多い。

これらの規模が大きくなっている。
私はこのblogを見ればわかるように熱心な民主党支持者で、左翼リベラルの立場から色々発言してきたのでそれへの反発だと思われる。
一つには、力を見せつけることによって私を恐がらせて政治的発言を止めさせようという理由。
一つは、私をいくら脅しても変わらないので、私にいやがらせをすることで他の人をこわがらせて、自分に反発しない様にする目的が考えられる。

犯人は右寄りの立場の人でリベラルが勝つと面子を失う人。周りの人を動かす力の強い人が考えられる。

そこで、私はどうやって犯人を逮捕するかをいろいろ考えた。
今の時点では、全てはいえないが

まず、自民党政権があると警察に行っても政治家がコネによって圧力をかけて隠してしまうことが考えられるので、民主党政権を作ること。私はサイトを作ったぐらいだが民主党を応援してそれは実現した。

次に、普通の人には信じてもらえないのではないかと言う不安があったので、できるだけ色んなところへ出かけていって、いやがらせにかかわる人を増やそうと思った。これも、向こうは無邪気にも私に意地悪しようと多くの人を巻き込んだ。
その結果、このサイトを見てる人の多くがいやがらせが実際あったことを知っているだろう。

だいたい順調に計画通りに来ている。

次の段階では、まだ敵を捕まえるまでは出来ない人が多いと思うので、

1、証拠の収集。
証拠があれば警察に圧力がかかっていても、警察は動かざるを得ない。

2、私自身の信頼の構築。
いくら口で強そうなことを言っていても、実際脅されたら変わるんじゃないかと思う人もいるので、変わらないことを証明しなければならない。そのためには是非、敵に大規模で普通の人が耐えられないくらいのいやがらせをやっていただきたい。それでかわらなければ、多くの人が私が変わらないことを信じるだろう。口先だけではなかなか信じてもらえないだろうから。

次の段階のいくつかのプランは今の段階ではいえない。

いやがらせの規模が大ききなったので、多くの人が私が何を言っているかわかるだろう。
しかし、あからさまに敵に反対するのが怖い人もいると思う。

そこでお願いは、いやがらせの命令を受けたら、実行してかまわないけど実際は怖いからしているんであって本心ではしたくない。明らかに悪いのは犯人側だと心の中で思っていただけるだけでいいです。
それが、次の段階に生きてきますので。

おどし


また、しばらくいやがらせが悪化するだろうが私は変わらないので、いやがらせが激しくなればなる程、「これだけやられても変わらないのか」という信用を作ることが出来るので、歓迎です。もしかしたら人によっては「こわい」と思ってシュリンク(萎縮)してしまう人がいるかもしれないが、それこそ正に敵がもくろんでいる目的であって、「恐怖」で人を自分の思うがままに操ろうとしているのです。そのことをよく知っていて下さい。
まあ、私の経験上、犯罪の被害者であるにもかかかわらず、警察に通報しない人が多いようで(私は犯罪の疑いが強ければすぐに警察に連絡する。今まで2度通報した。弁護士にも今まで3回以上相談した)まあ、報復とかが怖いのでしょうが、怖い人はそれを表に出さなくてもいいから、せめて頭の中にこの構造があるんだということは入れておいて下さい。

削除


もう書くのもアホらしいが、知らない人もいるかもしれないので一応書くが、私が自分のblogに載せたYouTubeの動画が色々な理由で削除されている。
普通自分で載せた動画を削除する人がどれだけいるか?それが私のblogに載せたものに集中しているのが偶然と言えるか?
民主党を応援していたblogにこういうことが起こったって事はどういうことかみなさん容易にご想像がつくでしょう。
どうなっているかは興味があればご確認ください。
http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/アーカイブ.html
削除されたアーチストの方々、どうか誇りに思って下さい。権力者が危険だと感じない様な凡庸な曲なら削除されないでしょうから。
YouTubeの方々こんなことが偶然に起こると本当に思いますか?
法に触れる可能性があるか私も調べられれば調べようと思います。

この記事を読んだみなさんは、怒りを感じるのですかね?
よもや、こんなことするなんて怖いなんて怖じ気づかないで下さいね。

こんな記事を書く時間すらもったいない、アホらしい記事でした。

2009年11月21日土曜日

ユニクロ化


菅副総理は、日本がデフレにあることを発表した。

出来るだけ毎回断るが、私は経済の専門家ではないので、それが正しいか否かは必ず専門家の判断を仰いでから判断していただきたい。これが、単なる謙遜でないことはこのblogを読んでる方なら分かるだろう。

物価が下がることはいいことか?

消費者にとってはいいことのハズである。

しかし、国全体にとっては大きな問題である。

経済学の専門家やメディアは、このように全体の利益が普通の人の感覚と反対になるときにそれを分かりやすく説明してほしい。

物価が下がれば、ものがよく売れるようになるならばいい。しかし、社会保障に不安がある場合、景気が悪ければ安いものでも買わずに、「節約」してしまう。
私自身、現在お金がないので飲みたい飲み物を我慢したり、電車の切符も回数券を買うなど、節約に勤めてしまう。

一方で、政府は史上最大の予算を削るべく日夜必死の努力をしている。それを見ると、人によっては政府も我慢して節約しているんだから、私も出来るだけ節約しようと善意で思ってしまう人がいるかもしれない。

しかし、みんなが節約すれば、ものが売れなくなり(消費の低下)、ものを売っている会社は儲からなくなる。そうすると、従業員の給料もカットしなければならなくなる。
会社員のお父さんの給料が減ると、また節約しなければ、と思ってしまうするとまた、会社の売り上げが落ち、会社が儲からなくなる。すると、またお父さんの給料が下がる。

「デフレ」とか「消費」とか「需要」といっても、日本人全員が経済学部を出ているのではないのだから、分からない人が多くても当然だ。だから、専門家向けに書く文章ならいいけれども、一般人に向けていう場合は、専門用語を使わずに具体的に伝えるように、エコノミストの方々にはお願いしたい。
もしろん、そうしてる人は沢山いることは確かなんだけど。

今、話したのはマクロ(巨視的)経済学の問題で、今民主党が無駄を削ろうとしているのは、財政(学)の問題なので、目的が違うのだが、紛らわしいので間違える人もいると思った。なので、そこを、わかりやすく伝えてほしいし、私も無知ながら伝えようと思っている。

もともと、バブル崩壊以降の日本は「景気」と「財政」のジレンマに苦しんで誰もそれを解決することが出来なかった。

「景気」を良くするためには、国がお金を出して働き口(需要)を創出すれば、人々は働き、お金を得、それを使う(消費の拡大)すると。それを売った会社は儲かり、給料を上げることができる。給料が上がればまた買い物が出来る。こういう状態を「景気の好循環」と呼ぶ。
このように、政府がお金をまず出して景気を良くしようという考え方は、20世紀のイギリスの経済学者のケインズという人が考えた。従ってこの考え方を一般にケインズ主義といったりする。

日本の高度成長はこの考え方による政策が主のものだった。

ちなみに、バブル経済はどうなのか?
バブルが何故起きたかというと1985年、貿易赤字に手を焼いていたアメリカがドル安を容認することをニューヨークのプラザホテルで発表した。
ドルが高いということは、アメリカの国力を表す。アメリカのものを買おうと思えば高いお金を払わなければならない。逆に、アメリカ人は普通の人の給料で外国製品をたくさん買える。
ところが、アメリカ製品と日本の製品に品質の差がなかったらどなるか?当然、アメリカ人が日本製品を買うことになる。すると、アメリカ製品が売れなくなる。このように日本や他の国の製品ばかり売れて、アメリカ製品が売れなくなって(貿易赤字)困ったアメリカはドルの価値を下げてアメリカ製品を安く売る、外国製品を高く買う政策をとることに決めた。

ここからが皮肉なことなのだが。現在我々が「経済学」と呼んでいるものは正式には「近代経済学」だが、それをはじめて学問としてまとめたのが18世紀のイギリス人アダム・スミスという人であるのは常識だが、彼の考え方は私は今までの思想家の中かでも極めてユニークだと思う。
彼は、人々が利己的に振る舞うことによって全体としてよい社会が出来ると考えた。
私は普通の思想では、人々が「利己的」振る舞えば社会は悪くなると考えられていると思っていた。社会を良くするためには「利己心」を捨てて「利他的」にならなければならないと、いうものだと思っていたので驚いた。
「利己的」で「いい」のみならず、「利己的」である「べき」なのだ。しかもその結果、社会は良くなる。こんなお得な考えはないではないか。これが本当なら、何の苦労もなくなる魔法の様な思想だと思った。

実際彼の考えは、半分当たって、半分はずれた。現在の先進国や、新興国の中国やインドを見れば基本的には、彼の主張した「自由主義経済」が、人々を「経済的に」豊かにすることに誰も異論はなかろう。

しかし影の面もある。経済至上主義の結果失われた、「伝統」「自然」「共同体」などを上げることもできる。

大きな問題は、持てるものと持てないものに大きな格差を生む。例えばアメリカには国民皆保険制度がないので、お金持ちは高い薬を買ったり、高額な治療を受けられるが、保険にも入れない人はお金がないので医者にも行けない。

このように経済の市場の原理が社会の原理になるという考え方を「資本主義」というが、19世紀ドイツの哲学者、経済学者、ジャーナリスト、社会運動家のK.マルクスは資本主義を徹底的に研究した。彼によれば、まず工場を持っている人と何も持っていない人がいれば、何も持っていない人は工場で働いて給料をもらう。働いた分だけ給料をもらうので別に不公平ではない。しかし、工場(生産手段)を持つものは給料を払ってもさらに「儲け(剰余価値)」がある。すると工場を持ってる人は怠けていても莫大な財産が入るのに対して、働いている人はいくら働いても最小限の財産しか得られない。この不公平を是正するために工場をみんなで共有する社会にしよういう考えを「社会主義」という。

20世紀後半は、資本主義の国と社会主義の国が対立していたが、結局社会主義は効率が悪いということが明らかになり、社会主義国は崩壊するか資本主義に転向することになった。

社会主義まで極端ではないけれども、お金のある人からは多く税金を取って貧しい人に分配しようという「福祉国家」という考え方もあり、北ヨーロッパの国々はこの考え方に近い社会を作っている。

資本主義もお金を儲けることは上手いが、その他の価値を失わせるという批判もあり、社会主義や福祉国家的な政策も取り入れて来た。

景気を良くするために、国がお金を出そうと言うケインズの考えも資本主義(自由主義)の中では社会主義的だ。

ケインズの考え方はアダムスミスのように野放しの資本主義を否定したわけで、一時期は経済学の主流であり多くの成功例も出してきたが、欠点もある。国がお金を出すことで、景気が良くなるならどんどん出してくれと国民は要求する。すると、国のお金がなくなってきて赤字になる。しかし、国に頼りすぎた国民は自力で景気を良くすることが出来ないので国に要求せざるを得なくなる。そこで、国は赤字がどんどん増える。国のお金は国民のお金なのでいつかは税金その他で返済しなければならない。

この様なケインズ主義の批判として、もう一度アダム・スミスの考え方に戻ろうというのが「新古典派」といわれる人たちの考え方である。

アダム・スミスのいったように、人々が自由に振る舞えば景気はよくなる。

ところで「市場」というと自由競争の社会だから格差を生む強者の論理だと勘違いしている人がいるがそうではない。「市場」とは、人々が自分が一番得になるように考えてものを売買する場であるが、その結果適正な価格が決定されるというのが「市場」の考え方である。従って市場主義は「独占禁止法」と必ずセットになっていないと機能しない。一人の人がある商品を独占してしまえば、そこで自由な競争は行われずその人に都合のいい値段がついてしまう。高いと思ってもそれはその人しか持っていないのだからその人の言い値で買うしかない。
マイクロソフトが独占禁止法の疑いで訴えられたのもこの原理のためであって、別にビル・ゲイツに嫉妬したからではない。

それぞれの人が、利益を最大化しようと振る舞えば買い手は少しでも安いものを買おうと思う、売り手は少しでも高く売ろうと思う。しかし、独占は出来ないのでとなりよりも高ければ客はとなりの商品を買うことになる。だから、売り手は高く売りたくてもとなりより高くは売れないしかし、値引きしすぎたら儲けが出ないので商売をする理由が無くなる。そこで売り手は、従業員を雇って商売が出来るギリギリ安い値段で売らざるを得ない。このようにして、全ての人が利己的に振る舞うことが適正な価格を決定するというのが「市場」の考え方だ。

80年代に、レーガン(米)、サッチャー(英)、中曽根(日)たちは、「新古典派」的な経済政策に転換することを宣言した。ケインズ主義では効率が悪く財政赤字が膨らむばかりだからだ。
アメリカは、財政赤字と貿易赤字という双子の赤字に苦しめられていた。貿易赤字とは輸入が輸出を上回ることで、日本製品はアメリカでよく売れるけどアメリカ製品は外国ではあまり売れない。
その対策の一つがドル安容認で、その象徴がプラザ合意である。
しかし、それだけではない。アメリカの求めたことは日本人にアメリカ製品を買わせるこだ。
そこでアメリカは、日本でアメリカ製品が売れないのは日本の市場が閉鎖的だからだという論を立てる。私は「実際に日本の市場は閉鎖的な面もあるが、それはどこの国でも大なり小なりあることでそれをも見越して努力した企業は、マクドナルドもコカコーラも成功しているじゃないか」と思った。
ともあれ、アメリカは日本人がもっとアメリカ製品を買うことを求めた。親米保守の中曽根首相はそれを受け入れる立場を示す。

一つの皮肉は、レーガンもサッチャーも中曽根も、元来伝統的価値を否定する性質の「新古典派(新保守主義)」の経済政策をとりながらも、自分は伝統主義者であるがごとく振る舞ったということである。これは、右翼へのエクスキューズ(アリバイ)であり、小泉が靖国参拝にこだわったことと同じことなので、それほど不思議ではないが、皮肉ではある。
アメリカは貿易赤字是正のために日本に様々な要求をしてくる。「規制緩和」10年間で500兆円ちかくの「公共投資基本計画」、それらを実現するために「日米構造協議」さらには口約束ばかりして効果が上がらないと「数値目標」まで出してきた。

私が一番皮肉に思うのは、本来「新古典派」的な政策を訴えたアメリカがしてきたことが、ケインズ的であったり場合によっては社会主義的、計画経済であったということである。アメリカは国益のためには、理念は如何様にも解釈してくるのだと思った。

80年代に消費文化が日本を席巻して、日本人のライフスタイルや思考を大きく変えたのは、このように、日本人に「消費」が悪で「倹約」が美徳だという考え方を変えさせようというアメリカの意思が背景にあることは明白であろう。80年代を代表する大衆文化は、自民党との関係も深い「フジテレビ」の「楽しくなければテレビじゃない」という「軽ちゃー」路線やセゾングループの「おいしい生活」などの文化によってリードされていった。

私はsonyがCMで「若い頃の苦労は買ってでもしろっていうでしょ。あれ、嘘だよー」というのを見て、今までファンであったsonyが一時期嫌いになった。

経済界で起こったことは、空前の好景気。日経平均が3万円を超えた。

「バブル経済」とは実際の値段(名目経済)が実際の価値(実質経済)を上回ることで、それ自体は資本主義であれば必然的に起こる現象であるがその乖離が著しい場合に「風船のように外身は大きいけれども中身が空っぽだ」という揶揄を込めた言葉である。

投資とは何か?
ある人があるアイディアを持って商売をしようと思う。しかし、金がない。そのとき、将来儲かったらより多く返しますといって人から金を借りようと思う。お金を持っている人(投資家)は、その商売が将来成長するかどうかを見極め、成長しそうならお金を貸す。
これが「投資」である。

投資家は、従って将来どの会社、どの分野が伸びるかを冷徹に計算する。その時に一番楽なのは、大きな組織がお墨付きを付けることだ。バブル時代は、政府が消費を奨励し実際公共事業を多く行った。

駅前に1億円の土地があったとしよう。政府が駅前の開発を発表すれば、その土地は将来の利便性が上がることが確実である。投資家は争って土地を買いあさった。1億円の土地が将来3億円の価値になるかもしれない。

山の中の土地も、将来リゾート地やゴルフ場になって高くなるかもしれない。
政府が金を出すと言っているのだから安心感は強い。
それどころか、その裏にはアメリカの圧力があるのだから確実性は極めて強固なものになる。

そこで、みんな土地を買いあさり売らないところには地上げ屋が脅しにくるようになる。

中曽根首相の信念に反して、地域の共同体はズタズタに引き裂かれた。
高度成長期にあった「勤勉」の美徳は否定され、新たな「自己責任」の倫理も生まれなかった。英米の新保守の「小さな政府」を「民間活力を政府も利用する」と意図的に曲解して、「公共心」もなく金儲けはしつつ、「自己責任能力」もなく破綻したら政府に尻拭いさせる「第3セクター」なるものを作った。
公のものであるなら、私的に利益を追求すべきではないし、私企業なら金儲けをしてもいいけど失敗すれば自分で責任をとるのが当然なのだが「第3セクター」にはどちらもなかった。

1億円の土地が将来3億円になるかもしれないので2億円で買う。ここまでは健全な経済行為だが、地価の上昇が「土地神話」にまでなると、将来3億円の土地が競り上がって4億5億、10億と払われることになってくる。そのころから、バブルと言う言葉ささやかれはじめる。「もしかしたら、ちょっと払いすぎかも」という不安と「いやまだ日本の経済力からいえばまだまだ伸びる」と自分に言い聞かせる様な言説が交じりあい、ついに「やはりこれはいきすぎだ」と気づいた。そこで、このバブルをどう軟着陸させるかが問題となる。3億円の価値の土地に10億円払った人は、「競り」が一気に引けば7億円の借金を持つことになる。日本中が借金だらけになれば、新しく投資しようとする人がいなくなる。しかし、バブルをそのまま放置しておけば痛手はさらに大きくなる。

1990年、政府は「土地取引の総量規制」を発表。
多くの投資家は、バブルの終焉と捉え少しでも損を少なくするため競って投資から手を引く。
バブルは軟着陸できずに90年代はほぼゼロ成長の不況の10年であった。

経済を立て直すためには、先ず投資をしてもらわなければならないが、その主体である金融機関が売れ残った土地(不良債権)をたくさん持っているので、借金があるうちは思いきった投資はできない。そこで、景気対策として企業の不良債権処理に国の金を使おうとすると、私企業に公の金を使うのは不公平だと批判される。それはもっともなことなのだがその結果景気回復が遅れ一番苦しむのは弱者だということも知らなければならない。

結局、不良債権処理は遅れ、公共事業をやっても景気は上がらない。でも、止めたらもっと下がるのでやめられない。一方で、財政もバブル崩壊で赤字に転じ借金もふくれあがる。

90年代は、「公共事業」をやれば「財政赤字」が増え、やらなければ「不況」はつづく。
「財政」と「景気」のジレンマの時代だった。だれも、正しい答えは出せない。仮に私が当時総理大臣だったとしても、解決するためにどうすればいいかわからない。森内閣では、橋本、宮沢、二人の総理経験者にして党きっての政策通を入閣させ、日本を代表するエコノミストの堺屋太一氏に経済企画庁長官を担わせたが。堺屋がやったのは「インターネット万博(インパク)」だった。「大阪万博」とは「質」が違うことがわからなかったのだろうか?わかっていてもそれぐらいしか思い浮かばなかったのか、結局国債を出してだらだら景気対策をつづけるしかなかった。

そこで2000年代に小泉首相が登場して「小さな政府」(アダム・スミス的)な立場を一貫して主張し実行する。痛みがあり反対者も多い政策が実現できたのは彼の一徹なキャラクターによるところが大きいと思う。実際彼が壊した古い自民党のネットワークは破綻して。小泉以降の自民党は選挙ではことごとく民主党に負け。2009年、史上初の選挙による政権交代がおこり現在に至る。

そして、一時期は小泉路線で日本は復活するかと思われたが、今度はアメリカ発の「リーマンショック」で世界同時不況に襲われる。構造は日本のバブルとかなりかさなるが、アメリカ人の方がドライに金儲けに徹して、複雑な金融商品を様々開発して結局殆どの人が何が得かがわからなくなり、破綻したと思われる。これは、外国発なのでどうしようもない。

では、これからどうするか?
まず、「財政」と「景気」のジレンマは現在でも続いている。
これは、誰が悪いからともいえず、また誰もが解決することが極めて困難な状態であると私は考える。民主党サポーターだから民主党びいきに考えてではなく、自民党政権時代から私にはこれという解決策はなかった。つまり「特効薬はない」「地道に無駄を省き、費用対効果を考えた景気対策をする。そしてそのことを国民にわかる言葉で説明する」しかないのではないかと思う。
今日の日経の社説「潜在的需要の大きい医療、教育、保育などの分野の規制を一段と緩和することが大切だ。企業経営を後押しするためには、法人負担の軽減も重要。貿易自由化交渉に弾みをつけることで、海外の需要を取り込むことも欠かせない。世界でデフレのワナから抜け出せないのは日本だけ。経済の閉塞感を打破する政府のメッセージが何より大切だ」
投資家が読む新聞なので、かなりアダム・スミス的なのは当然として、規制を緩和しさえすればいいとは限らないのは「リーマンショック」が証明しているし、仮に景気が上がっても他の社会的価値が失われることにも政治家は目を配らなければならない、という反論も成り立つが、私がいいたいのはそのことでなく、日経の社説でさえもこれという決定打を出すことが出来ない地道にいろいろ規制緩和をしていくしかないとしかいえない。それは、別に新聞社を否定したり肯定したりする意味ではなく、それぐらい専門家でさえも難しいということがいいたいのだ。

その中で健闘しているのが、象徴的にいえば「ユニクロ」だ。
個性を出来るだけ出さないことで購買層を広げ、安価にある程度の質のものを提供する。
安価にいいものを持つ方がかっこいいという価値転換の戦略が功を奏して成功している。
そこで私が思うのは「ユニクロ」が成功している。従って日本の企業は「ユニクロ」を見習うべきか?という点である。
「ユニクロ」に限らず現在私たちの使っているものの殆どが、アジアなどの新興国で作られている。「ユニクロ」的経営を肯定するなら、当然最も労働単価が安いところで生産する必要がある。人々を引きつけるには人々が驚く様な「安価」な目玉が必要になってくる。
もし、他の日本企業が「ユニクロ」にならったなら、労働力は外国に行き、売れるためには値段を下げる。それでも、利益を出し続けるためには、薄利多売なので多くの人に注目され続けなければならない。ときおり有名デザイナーを採用したりして話題を作り、値段はさらに安くしていかなければならない。

グローバル化した労働市場では、嘗てK.マルクスがイギリスで見た労働力を商品として売るしかない人々(プロレタリアート)と、持てるものがさらに持とうとする、持たなければ破綻してしまう、マルクスが「資本」と名付けた形も意図もない巨大な運動に巻き込まれていく社会、そんな風景が再現されるのではないかという不安も頭をよぎるのである。

グローバル化した社会に残る国境は逆にグローバル化の壮絶さを見えないように働くのかもしれない。ネグリ、ハートのように悪者探しをするつもりはないが、現在日本で進むデフレという現象は、「ユニクロ」的資本主義を生み出し回転させ、グローバル化に対応するという目的でグローバリズムに棹さす役目を果たす可能性はないのか?その時、労働市場の海外への流出は必然であり、相当強い保護主義をとらない限り止められないが、それだけ強い保護主義を実行することは状況がゆるさず、自由貿易圏がブロック主義をまねくことはアメリカが許さない。

すると、私の関心は旧来の「財政」と「景気」のジレンマ。これを解くのも極めて難しいが、問題自体は古いものだ。
もう一つの関心である「ユニクロ」的、デフレの世界史的な意味である。

2009年11月18日水曜日

基地


基地問題に対して私は、大統領が来る前に決着をつけるよりも、まず大統領と信頼関係を結んでその上で協議した方がより有利な結果が得られるのではないかと、blogに書いた。しかし、報道を見る限り、アメリカの譲歩はほとんどのぞめない模様だ。間違った意見を無知な者がして、国益を損ねるかもしれないので、ここで謝罪する。「申し訳ありませんでした」
私は、オバマ大統領の性格からして沖縄県民のことを考えて少しは譲歩してくれるかと考えたが、そうはならなかった。大統領だけがアメリカではないということを考慮に入れていなかった私の過ちだった。もしここで妥協すれば、アメリカの世界中の他の基地にも波及することをおそれゆずれなかったのだろう。私の観測が甘かった。
しかし、友好関係を築くこと自体は悪い事ではなかったとは思う。
これで、私の発言への信頼は失われたので発言しても意味がないかもしれないが、一人の愚か者のつぶやきをゆるしてもらえるならば、せめて「沖縄県民の方々にはご負担をおかけするが」という一言でも大統領の口からだされれば、沖縄県民の気持ちも少しは和らぐのかもしれないと思う。

部分否定


All apples are not red.
Not all apples are red.
この二つの文章の違いがわかるだろうか?。
上は「全てのリンゴは赤くない」
下は「全てのリンゴが赤いわけではない」

ここにリンゴが100個あったとしよう。
リンゴには赤いのと青いのと2種類としよう。
上の文では、100個のリンゴ全てが赤ではなく青いリンゴであることを示す。
下の文では100個のリンゴ全てが赤い場合だけはない事を示す。
つまり、下の分ではリンゴは0〜99個までは赤か青かは分からない。
英語ではこれを部分否定と言う。

数学の世界ならともかく、「現実の世界には絶対と言えるものはない」という命題を加えて考えてみよう。100%赤、もしくは100%青はなくなる。
すると、「0~99個のリンゴが赤か青かわからない」ということは、いかなる情報も与えていない。

政治に限らず、社会的責任を持った人が、この部分否定を使うことをよく見かける。
「全ての◯◯がXXと言ったわけではない」
この言明は何の情報も与えない。無意味な言明である。
しかし、そこまで細かく分析しない人には、何か意味のあることを言ったかのような印象を与えることもある。
「無意味な言明」を「意味がある」と勘違いさせることは望ましくない。
社会的責任のある方々には、この事を頭に入れておいて欲しい。
無意味な「部分否定」は、使わない。

嘗てテレビ朝日の報道部長が「細川政権はマスコミが応援したからできた」旨の発言をして、放送法に違反するのではないかと疑われた。
私から見ると、明らかに偏向報道をしているテレビ朝日がどんな報告をするのか、見守っていた。
テレビ朝日によると、調査の結果「偏向報道はなかった」そうである。報道部長の発言は「荒唐無稽」だそうである。公の席で社会的責任のある人が「荒唐無稽な発言」をするなんて奇妙なことがあるものだと思った。
その際に、テレビ朝日が出した声明文皆さんはもう忘れているだろうが、それがこの部分否定のオンパレードだった。「報道は偏向してはならない、しかしどんな思想を持ってもいけないとまではいえない、云々」。

なぜ、多くの人はこのような部分否定の文を使うのだろうか。
一応「言葉」だから何か意見を言っているような印象は与えられる。しかし、「赤」か「青」かは全く表明していないので、どちらに転んでも責任逃れの道が残される。
結論が「赤」なら「私は全てが青とは言っていない」
結論が「青」なら「私は全てが赤とは言っていない」
こらなら、万全。必ず弁明できる。

しかし、この様な「無意味」な言葉を吐き続ければ、その人の「言葉」は人々から軽く扱われる。当然のことだ。

従って、この様な発言は、社会的立場の高い人は使うべきではないと私は考える。
100%はないんだから、また人間誰にでも間違えはあるんだから、この様な予防線を張ることに気を使うよりも、「私は(絶対とはいえないけど)青だと思う」と、はっきりどちらに重きを置くかを表明してもらいたい。もちろんそこで責任が生ずる。間違っていれば、最悪な場合職を失うこともありうる。しかし、それだけの重い責任を持つものだからこそ社会的に高い地位についているのだから、責任が重いのは当然だ。それがいやなら、その地位に就くなと言いたい。

以上の理由から、社会的地位の高い人、特に政治家は上記の「無意味な発言」をすることをやめてもらいたい。
これが、私の言いたいことの一つである。

もう一つ。
国会議事堂には傍聴席があるが、そこで国会の議論を聞いたことがあるだろうか。ほとんどないのではないか。つまり、我々は政治を見るときには必ずメディアを通して見るということだ。その場合、ある発言をしたらメディアのバイアスを通して国民に伝わる。
嘗て佐藤元首相が「新聞は偏向して伝えるのでテレビでだけ話す」と言ったことだが。テレビだって偏向することは先の椿発言問題でも明らかだ。
だから、政治家は、自分が発言する際に「何を言うか」と同時に「どう伝わるか」を常に意識しなければならない。
仮に「文字通り」には「論理的」には「真」であっても、この発言をすればマスコミはこう反応するだろうということを計算して発言するべきだし、そうでないといらぬ批判にさらされて自分が損をすることになる。
小沢幹事長の「キリスト教批判」だって、そんなに悪意はないだろうと思うが「余計なことを言ってしまったな」と感じた。「占領時代の日本はいい事もした」と言って反発をかった大臣もいたが「文字上」は「真」かもしれないが「またマスコミが騒ぐな」と思った。私でさえ思ったのだから、経験上政治家っていうのはわからないものなのだろうか?
私が、民主党が勝利したときにまず言ったのが「失言」に気をつけてほしいということだったが、こういう意味だ。マスコミが大げさに言うからマスコミが悪いと思うかもしれないが、そうだとしても結局は自分が損をするんだから、こういう偏ったマスコミなんだと認識した上で「どう伝わるか」を計算することが大事だ。そのためには、まず自分が何を考え、何を目指しているかをしっかり持っていないといけない。そのためには自分の思想を整理しなければいけないので、ちょうどいいチャンスだと思って、何を目指しているのか、そのためには「どう言え」ば「どう伝わる」のかをしっかり考えることをしてもらいたい。


2009年11月16日月曜日


「精神科」ときくと、あなたはどんな印象が思い浮かぶだろうか。
昔は「キチガイ病院」などと、毛嫌いされてきた。
確かに精神の病を患った人の中には、他者に危害を加える可能性のある人もいる。また、患者が普通の人の使う言語を失った場合、その人との普通のおつき合いが出来ない場合もある。
だから「精神病院」に対する否定的感情は、必ずしも理がないわけでもない。
しかし、昨今はクスリが飛躍的に改善され、先進国では精神病患者に対する考え方は大きく変わってきている。
その流れにしたがって我が国でも精神科医療は大きく変貌を遂げつつある。
嘗て「精神分裂病」と訳されていた、schizophreniaは、「統合失調症」と名称を改められ、より我々健常者と距離が近づいてきた。昔は、分裂病は不治の病とされ一生隔離されることもあったが、現在では通院して治療する例もあり、嘗てのような絶望的暗さはそうとう和らいだ。

ここに一つの精神科クリニックがある。
そこに一人の患者が訪れた。
意識はしっかりしているが、統合失調症特有のまどろんだ視線は明らかに精神の病をうかがわせる。
クリニックの受付の女性はもう慣れているので、患者との適切な距離をとりながら応対する。
初診なので、診察までに所定の用紙に必要な情報を書くように勧められ、彼はゆっくりと長椅子にすわって、受付から受け取ったボールペンで書き始めた。
書き終わり受付に前の病院でもらった紹介状と一緒に紙を渡すと、時間まで彼は長椅子にすわってじっと虚空を見上げていた。彼の視線の先には、やや大きめの何の飾りもない時計があり、その秒針が動くのを彼はじっと見続けていた。
時間が来て、診察室に呼ばれた。
医師一般にいえることだが、精神科の場合は特に、第一印象が大事だ。それは、双方ともにだ。
医師は、先に記入された用紙を見て情報を入れると同時に患者を見て、病状を判断する。
同時に、患者は患者でこの医師がどの程度信用できるかの値踏みをする。患者が医師を信用できないと判断した場合、治療は極めて困難になる。信用できない医者に対しては患者は心を開かない。そのまま信用を回復できなければ最悪、別の病院へ行ってもらうしかない。
そうならないためには医師の方が患者に信頼される印象を与えなければならない。医師はただ「見る」人だけではなく、信頼される人に「見せる」ことも必要なのだ。

「昭和45年生まれ、39歳。今は誰と暮らしているの?」
「両親とです」
「お父さん、お母さんと」
「はい」
「ご兄弟は?」
「姉が2人いましたが、一人は僕が小学生のときに病気で亡くなりました」
「何の病気?」
「癌です。子宮癌かなんか・・・ちょっと詳しくはわからないんですけ・・・」
「もう一人のお姉さんは?」
「結婚しましたが、離婚してうちの近くに子供2人と住んでいます」
「歳はいくつ離れているの?」
「上の姉とは14、下の姉とは7つです」
「ずいぶん離れてるね」
「は、はあ・・・」
「職業は・・・大学院生・・・多摩美術大学。タマビだ」
「はい」
「何ならってるの?」
「えーデザインです」
「ふーん。どんなデザイン」
「えーと、コミュニケーションデザインていって・・・」
「どんなことするの?」
「えー、あの口で言うのは難しいんですが、グラフィックデザインみたいな・・・」
「今は何をデザインしてるの?」
「えーと。コンピュータのインターフェースです」
「コンピュータのデザイン?」
「えーと、その、インタフェースっていって、コンピュータの画面とかってお年寄りとかには難しいと思ったので、もっと使いやすいインターフェースをデザインしようと思いました」
「ああ、それはいいよね。確かにコンピュータは使い方は難しいよね」
「はい」
「今は大学にはいってるの」
「はい、一応今年の4月から復学して。それまで2年間入院していたんで休学してました」
「今なんか、辛いところとかある?」
「時々、なんか落ち着かないような、内側から衝動が沸き上がるような辛さがあります」
「衝動って、どんな衝動」
「えーと、口で言うのは難しいんですが、何か内側からせかされるような・・・」
「内側ってどのへん?」
「だいたい胃のあたり」
「ふーん。それは、いつもなの?ない時もあるの?」
「あるときと、ないときがあるんです」
「今は?」
「今は、ないです」
「それから、昔はひどくてすごい辛かったんですけど、最近は段々減ってきた感じ・・・」
「ふーん。衝動ね」
「はあ」

医者は、紹介状をながめ様々な病名を思い浮かべた。しかし、紹介状を書いた医師のいう通り、統合失調症の回復期というのが最も妥当だろうと思った。抗精神病薬を続けていくしかないだろう。少しづつでも社会に慣れてもらって、社会復帰をしてもらおうと思う。
「じゃあ今日はこれで」といって医師が処方箋を書き出すと、患者は立ち上がり
「ありがとうございました」といって診察室を出た。

翌週、同じ時刻にその患者は現れた。
この前と違って、表情が険しく苦しそうにも見えた。
「次の方どうぞ」
患者はドアを軽くノックして、診察室に入った。
苦悩の表情で椅子に座った。医者は、その表情を見て少し心配になった。
「なにかあった?この一週間」
「・・・」
「なんか辛いことでもあったの?何か苦しそうだけど」
「・・・」
患者は苦悩の表情を微動だにせず、一点をずっと見つめていた。
医者はどこを突破口にしようか考えた。あまり、中に入り込むと危険だと感じたので、周りから責めていこうと思ったが、患者が何に反応するかはわからなかったので、手探りで診察を進めいくしかなかった。
「今の気分はどう?」
「(小声で)良くないです」
「どうよくないのかな」
「苦しい」
「苦しい・・・」
「・・・」
「どう苦しい?」
患者は眉間に皺をよせて、苦悩に耐えるように目をつぶって、頭をすこし上へ傾けた。
医者は、無言で患者の言葉を待って、患者を見つめ続けた。
患者は、必死に言葉を探しているようだった。自分が体験したことがない感情を何とか言葉にして伝えようとして、言葉が見つからないで苦しんでいる。ときどき、小声で独り言を、音になるかならないかほどにつぶやき、すぐに首を振って、「ちがう!ちがう!」と打ち消そうとする。
医者も今が極めて重要な時だとわかっているので、彼の口から言葉が出るのをいつまでも待ち続けた。
患者は医者の態度を確認して、深いため息をついて小声で話し始めた。
「実は、狙われてるんです」
「狙われてる?誰に?」
「それはいえません」
「どうして君が狙われているの?」
「僕はが以前、政治的な発言をしたことがあって、僕は思想的には「左」なんですが、多分右寄りの人たちがそれに怒ってやっているんだと思います」
「そんな、大変なことを言ったの?」
「いや、大変というよりも。以前、少年法時改正のときに少年に風当たりが強くなって、皆が少年を厳罰化すべきだという雰囲気の時があったんですよ。そのときに僕が厳罰化反対とはっきり言ったことがあります」
「うーん。それで、どんな風に狙われてるの?」
「狙われていると言うか、すごいいやがらせですね」
「どんないやがらせ?」
「例えば、うちの上空を飛行機やヘリコプターが一日に何度も、大きな音をだして飛んでいたりとか・・・」
「うーん。でも、うちの上にも飛行機やヘリコプター飛んでくることあるよ」
「それが、毎日ですよ。しかも一日多い時で10回以上」
「いやがらせはそれだけ」
「いいえ、他にもあります」
「どんな?」
「まず、明らかにこの人たちはコントロールされているなという人が街に何人もいたり」
「どうして、コントロールされてるってわかるの?」
「例えば電車に乗ったときに、向かいの席の人が全員うつむいているとか」
「う~ん」
「あとは、色々なものが変えられている」
「変えられている?例えば?」
「例えば、うちの隣の家は30年以上普通に住んでいて、きれいな日本庭園があったんですけど、僕が病院から帰ったときにぴったりそのときに取り壊されなくなってしまったり、あとは僕の最寄りの駅が、僕が2年前入院したときに改築したんですけど、それがまた全然違う建物になっている。2年前に改築したばかりでまた改築するなんて普通ではあり得ないでしょう。それから、学校へ行く電車が全て各停だったのが、線路が増えて急行ができてたり。乗り換える駅の前は再開発の大工事中ですよ。ずっと通ってたカルチャーセンターの地下の商店街がすべて閉鎖されて壁になっていたり、10年以上同じだった受講券が違うものになっていたり。あと、商品も変わっていて、まずタバコのパッケージが変わった。僕は今は吸わないけど、昔吸ってたマルボロだけは変わっていないんですよ。不自然だと思いませんか?さらに、僕の住んでいる吉祥寺の街が変えられているかもしれないと恐る恐る、訪問看護の人と一緒に見に行ったら、7割方店が変わっていて、残りの店もほぼ全て改装されていました。これだけのことがちょうど僕の退院のときに重なるなんて、偶然だと思いますか?さらに商品のパッケージデザインもほとんど変わってるし、建物も2年前にあったものがなくなり、新しくなっている。偶然そう感じるだけじゃないですよ。僕は前に病院ではっきり言ったんです。敵の性格からいって、僕にプレッシャーをかけても僕は変わりませんから、今度は周りにプレッシャーかけてけて変えてやろうと思うだろう。だから、病院の閉鎖病棟で外に出られないときにも、街が変えられると心配してました。そして、まさにその通りになったのです。だから、たまたまそう思ったというわけではありません。
僕がデザインを勉強しているからデザインでいやがらせをしてやろうと思ったんじゃないですか。デザインの中身では勝負できないので物量作戦で、これだけたくさんデザインを変えてやれば、自分の力を見せつけられるので、それで、こっちが恐がって政治的立場を変えるとでも思たんじゃないでしょうか」
「・・・でも、それらの変化が本当に鈴木さんへのいやがらせのためにやられたのかねえ?そこまでするには相当お金もかかるでしょう。そこまでしてまで鈴木さんをやっつけなきゃいけない理由があるんですか?一度カルチャーセンターで発言しただけでしょ?」
「それから、僕の書いた小説を有名な学者に見せたこともあります。それで、カルチャーセンターは日本を代表する学者が集まってくるところだから、そこで僕のことが話題になった様子なんですよ。だから、僕が発言することで学者が本を書いたりして、それで世論の論調が変わったりするすることがあるのです。だから、その元になってる私をまず黙らせようと考えたんじゃないですか。敵の言いなりになる人ばかりの中で、一人言うことをきかない人間がいると、他にも反発する人が出てくるかもしれないから僕を叩いて、逆らうとこんな苦しい思いをするぞという見せしめと自分たちの力の強さを見せつけ、かなわないと思わせて怖くて逆らえないような脅しの部分んもあるんじゃないですか。実際そうされると、怖くてしたがっちゃう人がものすごく多いんですよ、日本では。ほんと、驚くほど多いですよ」
「君は、犯人は誰かは知っているのかい?」
「だいたいあの辺りだなというのはわかりますし、固有名詞も浮かびますが証拠がないのに名前を出せば名誉毀損になるので今はいえませんが」
「あのあたりって?」
「だから、右翼とかそれに近いあたりじゃないですか」
「固有名って右翼の?」
「いえ違います」
「どんな関係の人」
「テレビとかで色々意見を言ってたりする人でこの人かもしれないというのがいるんです。名前は、証拠がない間はいえませんが、証拠が出てきたらもちろんいうし、警察にいって逮捕してもらいますよ。今はタレントをやってるBとだけ言っておきましょう。ところが、困ったことにパソコンとかもいじられていますから、パソコンや携帯がおかしくなったときにすぐに警察に電話してきてもらったり、出向いたこともあるんですが、警察は機械のことはぼくらわからないからメーカーに聞いてから来てと、なんか面倒なことにかかわりたくないという態度が見え見えなんですよ。
そういえば、鉄道会社の制服もほとんど、この2年で変わったんですが、警察の服やパトカーのデザインも変わったんで、最悪その圧力が警察にまで及んでいる可能性もあると考えています。ですから、犯人を逮捕するためにはまず警察の自浄をしなければならないと思います。あと、本も新書とか文庫のデザインが変わっていたり、雑誌が無くなっていたり、マスコミにも圧力がかかっている可能性が高いです。デザインの変遷を細かく調べていけばこの2年に突出して変わったというデータが出るはずです」
「でも、デザインってよく変わるからね・・・」
「それが、尋常じゃない量で、しかも僕に関わりが深いものが集中的に変わっているんですよ。偶然であり得ません」
「確かに色々変わったかもしれないけど、今の時代の東京なら2年経ったら相当変わるよ。2年あれば全然違うものに見えることもありうるんじゃないかな。それに、君の周りだけが変わったって言うけど、じゃあ他の街には行ったの?」
「知らない街なら変わったか、変わらないかわかりません」
「まあそうだね、でも街が変わったのが君へのいやがらせだとしたら随分お金をかけたいやがらせだね。だいたい、テロリストに対してだってそこまではしないと思うよ。そんなに君は敵から見たら危険なのかい?」
「さっきも言った通り、一人逆らう人がいればそれが蟻の一穴になってみんな逆らうかもしれないし、僕が怖いというより、俺たちに逆らったら怖いぞというメッセージとしてやっているんだと思います」
「それで、君はどうするの警察も圧力かかっているんだろ。どうやって戦うんだい?」
「一応blogで僕の意見は発表しています。僕は民主党支持なので、民主党が政権をとることで、僕に有利な状況が生まれることはありうると思っています。今回の選挙でもblogでも僕は民主党を応援するblogを工夫して作りましたし」
「でも、君のblogを見る人が何人ぐらいいるかな・・・何人ぐらいに教えたのアドレスを?」
「親戚やカウンセラー以外は、一人有名な学者に見せました」
「一人・・・」
「でもその人も民主党に人脈があるし、学者や政治家やマスコミ人がよんでる可能性は高いと思います」
「どうしてわかるの?」
「書いてあることや、発言が僕のblogの言葉と一緒だったりするんです」
「例えば」
「例えば、鳩山首相が選挙後に『これがゴールじゃない今はスタートラインに立った時だ』といいましたが、これは僕のblogに書いた言葉です」
「でも、その言葉は私は昔からよく聞いたような気がするな。いわゆる常套句ってしってるかい?」
「他にも、外国とはwin-win関係であることが望ましいとか・・・」
「僕はその言葉は、ニュースで何度も聞いたよ。君の専売特許じゃないだろう。あのね、君の病気の特徴というのはね、色んなことを繋げて考えちゃうことなの。それで、それを信じ込んで疑問を一切拒否する態度を取るの。だから、「スタートライン」も「win-win関係」も昔からみーんな言ってた言葉なの、それを、自分のblogの言葉と総理大臣が言った言葉が同じだからって君のblogを総理大臣が見たっていうのは、もすごーく離れたもの同士を繋げちゃう君の病気の特徴なのね、だから、なんか変化があったらきっと裏で操っている奴がいる、僕をいじめる奴がいるってすぐ思っちゃうの。あのね、昔僕の患者でね自分は火星から電波が送られてきて動かされてるって人がいてね、その証拠に自分には超能力があって信号を変えられるって言うんだ。そして、信号の前に行って待ってるとしばらく念力をいれてね、その念力は2~3分かかるんだって。それで、信号が変わったから自分は超能力があるって言い張るの。でも2~3分経ったら信号って変わるよね(笑)。そうやって、何でも自分に結びつけて考えちゃうのが君の病気の特徴なんだ。だから、これからは、俺へのいやがらせだぞ!と思うよりも偶然こういうこともあるよねって考えた方がいいんじゃないかな。その方が楽だよ人生。何もかも自分と関係あると思って、自分がblogを書いたらそれで総理大事の態度が変わるなんて思ってたら、生きてくのが重くてしょうがないでしょ」
「・・・」
患者は、少し落胆した様子だったが、先程の苦悩の表情は消えて力ない足取りで帰って行った。


翌週、またその患者はクリニックを訪れた。
今日は何かに苛立ちを持っているように見えた。
「どうですか?この一週間は」
患者は、医者の服装と腕時計に目を向けた。
医者は患者の態度に今までにない、一種の攻撃性のようなものを感じた。
「またblog書いた?」
「はぁ」
「どうだい、反応あったかい?総理はまだ読んでるの君のblog?」
「(小声で)そう思います」
「なんか、今言いたいことがあるのかな?」
「まぁ・・・」
「何?言ってごらん」
「コントロールされる人の度合いが強くなりました」
「街に出ると、誰かにコントロールされてる人が沢山いると」
「はい」
「その量が増えた?」
「量だけでなく、見た目も変わりました」
「ふ~ん。どんな風に?」
「僕は今までファッションにうとい『ダサイ奴』でしたが、デザイナーになる以上ファッションも少しは知っておかないといけないと思っていとこに代官山、や表参道の洋服屋さんに見に連れてってもらったんですよ」
「うん」
「そして、その日はリーバイスのシーンズ買っただけだったんですけど、すごくいい刺激になって楽しかったって叔母にFAXしたんですよ」
「うん、それは良かったね」
その後、患者の顔が急に曇った。
「それからしばらくして、街を歩いていると、何かみんな雑誌に出てたようなファッションしているんですよ」
「雑誌で出てくるようなファッションていうのはお洒落なっていうこと?」
「まあ、おしゃれっていえばおしゃれですけど、普通の人があまりしないような重ね着とか・・・」
「最近は若い子はみんなお洒落になってるんじゃないの?」
「いや、以前にもおしゃれな娘はいたにはいたけど、それが、街中の人全員なんですよ。普通のおばさんやおばあさんは昔は地味だったけどいま僕が行くとこ行くとこみんな、スタイリストがついたような素人では思いつかないような派手な格好をしているんですよ」
「でも、君は今までファッションに興味なかったんだよね」
「はい」
「それで、最近ファッションを勉強しようと、デザインのために・・・」
「はい」
「だったらあれかな。周りが変わったんじゃなくて君の見方が変わったから他の人の服装も気になりだしたんじゃないかな?」
「それはありません。以前でもおしゃれな人とそうでない人の区別ははっきりできました。ところが今起こっているのは、僕の行くとこ行くとこどこでも全ての人がどこか派手さを出した格好をしているんです。しかも、普通の人だけではないんです。カルチャーセンターで教えている偉い学者で権力に批判的な人までも急に色つきのシャツを着たりストライプのシャツを着たり、ボタンダウンのシャツを着たり、今までもっとコンサーバティブな格好していた人がことごとくなんです。学校の先生も、カルチャーセンターの先生も、ギターの先生も、編集の先生も、ビデオの先生も、教会の神父様までも一斉に変わったんです」
「うん、だけどね、僕も色つきのYシャツや、ストライプのシャツは持っているし時々気分を変えたいときには着るよ。それがそんなにおかしいことかい?」
「それが、丁度僕がファッションに興味をもったときに一斉にあらゆる人がお互いに知らない人たちが、変わったというのが不自然だと言っているんです」
「でも、季節の変わり目とか、何かブームがあった時とかにみんなが一斉に変わることはありうると思うよ」
「全ての人がですよ!おじいさんやおばあさんもですよ全ての人がファッション変えるきっかけってなんですか?」
「それはわからないけど・・・。でも、君のいうことが正しかったら敵は君の周りの人全員に服装を変えさせたということになるね。しかも、街や電車の中の人も?君がどこへ行くかは君しか知らないのに、東京中の人の服装を変えさせたって事かい?どうやってそんなことができるのかな。何千何万人のスタッフがいなきゃ出来ないんじゃないか?そんなことは、どんな政治家でも出来ないんじゃないかな?」
「先生は今日、赤い柄のシャツを着てらっしゃいますよね」
「え?ああ、これ?これはね、3年前ハワイで買ったので、久々に今日は級友に会うので着ようかと思って(笑)」
「時計も随分立派なものを着けてらっしゃいますね。僕の記憶にはないんですけれど」
「ええ!そう?これは、時々付けるんだよ、今日はシャツが派手だから目立ったのかな?(笑)」
「実は僕の持っている腕時計はスポーツ用なのでスーツのときに合わないと思って時計を買おうと思ったんですよ。でも、どれを買っていいかわからないので時計関係の本を沢山買ったんですが、それからすぐに周りの人たちがいかにも高級って感じの腕時計をしているとこに何度も出くわしたんですよ。普段腕時計を付けていない人もですよ。そしたら、今日先生は高級腕時計をされてる。これも偶然ですか」
「・・・(小声で)まぁ、そうですね。偶然でしょう。たしかにたいへん珍しい偶然ですが」
「僕は服装のいやがらせが起こったときに喜んだのですよ。何故かと言うと、無意識に洋服を着たり腕時計を付ける人はいない。もし、なんらかの圧力がかかったなら、その人は圧力を受けたことは必ず自覚していることになる。その中にわずかでも勇気のある人がいれば誰に、どのように圧力をかけたかを証言してもらえる可能性があるからです。そこで、先生に質問させてください。今日着ている服、腕時計についてだれかから指示や命令や提案を受けましたか?それともご自分でお決めになりましたか?」
「天地天命に誓って、誰からの指示も命令も一切受けてません。間違いなく、私が決めました」
「そうですか。よのなか偶然ってあるもんですね」
「・・・」

2009年11月15日日曜日

ディア・ドクター


昨日と今日の二日間で3本映画を見た。
私はアメリカ人と英語のできる日本人に音楽を習ってるが、アメリカ人の先生がマイケル・ジャクソンの「This is it.」はすごい勉強になると言っていたので見に行った。先生は「attitude」が凄いと言う。
私はマイケルはあまり好きではなかった。無理して白人になろうと整形手術をして結局死んじゃった、愚か者のように思っていたが、映画を見ると確かに引き込まれる「attitude」とは単に「態度」という意味でなく、彼がいることでその場の空気が変わるようなパワーであると言われた。
ちなみに、私は2年間入院していて、その間テレビはホールに一つしかなかった。その中で患者に最も人気の番組は何だと思うだろうか。答えは「ミュージック・ステーション」。私はあまり見なかったが、少しトークもあるがシンプルに音楽を流しそれを聴くことが、結構人間の根源的な欲求なのかもしれないと思った。私はマイケルは好きではないが、コンサートのリハーサルのドキュメントだが、マイケルが好きでない私でさえも、映画に引き込まれる。演出もあるけどほとんどはやはりマイケルのパワーだと思う。これが「attitude」なのかな?ちなみに18~19世紀のインド哲学を学んだ哲学者ショーペンハウアーは音楽こそが芸術の最高形態だと考えた。ちなみにライバルの西洋哲学を完成したような人であるヘーゲルは「詩」こそが最高形態と考えた。
今日は、「ディア・ドクター」を見に行った。原作も読んだし、鶴瓶さんのほのぼのとした笑いもキャラクターも好きなので楽しみにして行った。
すると、「ガマの油」と同時上映なので両方見た。「蝦蟇の油」は黒澤明監督の自伝のタイトルなのでてっきり黒澤監督の伝記映画かと思ったらちがった。
いろいろ、思ったが結論から言えば駄作である。
まず役所広司を使えばいい映画になるという考えが間違っている、監督は誰だろうと思ったらなんと役所広司が監督と出ていて苦笑したが。
こういうのを何と言うのか知らないが、私の言い方で言えばコラージュ的にマルチストーリーでストーリーと関係ないような映像も出ていて芸術ぶっている。
たしかに、コラージュ型の名作もある。フェリーニの「81/2」や鈴木清順監督作品。
しかし、そのためにはまず、映像美が突出してよくなければならない。しかし、この作品は、どこにでもある風景に奇妙な車や家の組み合わせで、何の脈絡もない。しかも、全く美しくない。若者が死んだのを、カラカラ笑うシニカルさは現代風かなとも思ったが、ストーリー展開も計算されていない。最後に、死んだ若者の父と恋人が携帯で話して、実際に合うように話は収斂されていくので、そこは少し感動的だった。が、10年後には誰も覚えていない作品だろう。
その次に「ディア・ドクター」を見たので、その素晴らしさがよけい際立った。あらゆるカット、セリフ、演技、演出が全て完全に機能している。そして、「うまい」。私の大学は映像演劇学科があるが、最近成績表でABCDの他に、極めて優れた成績の者にSをつけるようになったが、この作品を出せばおそらく「S」だろう。
英語で感動したことを「be moved」というが、文字通り心の中のいろいろなものが動かされた。刺激を受けたゆえに、いいたいことがたくさん出てきた。
まず、「じゃあお前はこれだけの作品を作れるか?」ときかれたら「いくつかのシーンは作れるが私には決して作れないシーンがたくさんある」だから、自分を棚に上げて偉そうに言うが決して否定しているからではないし、私がそのレベルに達していることを示すものでもない。
見る人が見れば、最初の10分でこの映画は「今年のベストテンに入るな」とわかるだろう。
私はもう高い評価を受けたのを知ってるから当然だけど、私でさえも1/3ぐらい見れば初めて見ても「ベストテン入り」はわかるだろう。
2009年を代表する作品であることは間違いないが、贅沢を言って歴代の日本映画のベスト100に入るぐらいになってほしいと思った。その視点で偉そうに言わせてもらう。
まず、「人情味のあるいい人をシニカルな現代に描くことで、逆説的に現代を批判する」ことはずっと「男はつらいよ」シリーズが担ってきた。しかし、主演の渥美清さんが亡くなられて、担い手が定まらなかった。「釣りバカ日記」の西田敏行は一見いい人がいい人を演ずるので、「テキ屋こそが実はいい人」という逆説的なインパクトがない。鶴瓶は「完全に計算し尽くされた自然さ」を持っている。最近私はテレビを見ないので知らないが、昔は何回かドラマに出たと思うが、思ったほどいい味がでない印象があった。逆に鶴瓶のよさを出せるだけの力がテレビドラマにはなかったのかもしれない。しかし、皮肉にもだからこそこれだけ高度に計算し尽くされた映画を作らないと、鶴瓶の貴重な良さを活かすためには、いけないという結果になり、良かったとも言える。その上で、あえて意見を言わせてもらおう。
まず、オープニング。明け方か夕方の田んぼに自転車の明かりは美しい始まりだと思うが、鶴瓶が失踪したところから始まる。さらに鶴瓶にスポットライトが当たってタイトルが出る。安い週刊誌の記事なら「最初にインパクトのあるものを持ってこい」と言われるかもしれないが、彼女の実力なら、後からでも必ず人を引きつけることが出来るので、私はもっと普通を装ったオープニングの方がいいと思う。ちょうどNHKの特報首都圏で過疎の村で働いているいいお医者さんでも見るかのように、ほのぼのした感じだなぐらいに思わせておいて、見るものを油断させておいて、徐々に気づかれないように観客を捕まえることが出来ればさらに高度といえるのではないか。鶴瓶ほどのキャラであれば集合写真でもそのままでもオーラが出てるのでわざわざスポットライトあててこの人が主人公ですよというのは、余計な説明だと思う。さらにいえば鶴瓶の役名「伊野治」。あまりにも普通過ぎる。もう一人の若者の名でもおかしくない。彼のキャラならもう少し、強い名前が欲しい。◯◯之介、◯◯太郎、◯◯次郎、など。あれだけキャラが立ちながら「伊野治」という名と結びつかない。今もこの文章を書くときにパンフレットを見直さなかったら役名が分からなかった。「車寅次郎」なら、一本見たら忘れない。私も、小説を書くとき主人公の名前をつけるのが苦手だが、この場合は珍しい漢字の苗字と少し古くさくコミカルな面も持った名前がふさわしいと思う。彼が主役なので名前は、相乗効果を上げるものを選んだ方がより、心に深く残ると思う。
狙いがどこなのかにもよる。そうなると、必ずしも私の狙いが良いとは限らないので、絶対ではないが、私の理想のイメージは、のどかな山村にいい人でちょっと面白いお医者さんがいるという、音楽で言えばスローテンポで滑り出し、少しずつ「実は、明る顔の裏には・・・」という展開を狙う。安っぽいかな?でも、私はそれぐらいオーソドックスでもいいと思う。なぜならば、それでもなお人を魅了する力が監督にあるから。始めに腕を見せてしまうのはもったいないと思うから。
そうすると、人によっては安っぽくレベルを下げてしまうと言うかもしれないが、私は音楽をもっと使ってほしい。はじめは、「のどか」「コミカル」な音楽で、こちらの出したい雰囲気の意図をハッキリ示す。
ストーリーも、少し広がりすぎで鶴瓶に焦点を当てる場合、本人に語らせるのは野暮だからダメで、若い医者に語らせるのがベターだと思う。それなら、その形式は守るのがいいと思う。
鶴瓶の笑いは、始めまじめに起こったこと話して行くうちに、いつの間にか自分に不運が訪れる「なんでやねん」で笑いとなるもの。作品にも活かして、始めにはシリアスさを出さずに隠しておいて、面白い医者がいるね、と観客に意識すらさせずに、その雰囲気にひたってもらう。この監督の欠点は、上手すぎるところなのだ。部分だけとれば山田洋次でも撮れない、シーンをいくつも撮っている。しかし、私は山田洋次の方が安心して見られる。なぜか?リアルに描くところとフィクションで描くところをはっきり意識してバランスをとっているからである。彼女は、リアルに撮れれば全部リアルにしてしまう。だから、「絵」に例えると、部分部分は超リアルだが、リアルなところとそうでないところを意識的に使い分けていない。だから、全体のバランスが運任せ、コントロールできてない。小津安二郎がある役者がうまく演じたら怒ったそうだ。作品は一つの絵なのだから、一人だけうまい演技をすると絵のバランスが崩れる、と。だから、これだけ上手くリアルなセリフ、演出が出来るのだから、最も効果的にそれを使うように意識して、使う時は使う、使うべきでない時はストイックになるようにしてもらいたい。鶴瓶の普段のポーカーフェースとギャグで驚いた顔とマジで驚いたところを使い分けてもらいたい。私が例を出すとレベルが落ちるかもしれないが、例えば始めは普通のいい医者、面白い医者、まじめにやっててもついドジをしてしまう。そのときは本気で喜劇を描く。まじめにドジをする。そして、村人は鶴瓶のことが大好きなんだと無意識に感じさせる。子供との交流も描いてほしい。子供にやさしいのではなく、子供にバカにされて怒るが、子供はさらに面白がって鶴瓶をからかう。もちろん、底の底では鶴瓶もわかっているのだが、表面上は怒りまくる。でもなぜか、鶴瓶が本気で怒れば怒るほどみんな笑わずにはいられない。コミカルな音楽。そうやって観客を和ませておいて、「実は!」とするほうがショックが大きい。作品にリズムが出る。彼女の作品を見てると、たいへん上手いが、「若いな」と思わせる。手の内を全部見せちゃう。老かいな監督は、いい手はここぞというところにとっておく。鶴瓶と八千草の関係がメインならあまり複雑になりすぎない方がいいかもしれない。ある程度は複雑でないと、深みが出ないが。横道とメインストリートを観客が区別できるようにして欲しい。私もストーリーを完全には理解できなかった。
それから、技は使いすぎると食傷気味になる。私が習ってるビデオの先生、元NHKのカメラマンは基本はフィックスで、カメラを振り回さない、と口が酸っぱくなるほど言う。
カメラの問題だけでなく、広い意味で視点をどこに置くか?この作品なら、最初は鶴瓶の診察室に置くべきだろう。私は何人もの医者に行ったが。医者の顔と診察室の置物やカレンダーや机などは頭に染み付いて、その医者と繋がって強く記憶される。この物語だと、観客は鶴瓶の診察室の配置から置物まで頭に染み付くくらいでないと、「村人にとけ込んだ医者」には感じられない。そのためには、反復が必要で、同じアングルでいろんな患者を鶴瓶が診る診察室の場面を繰り返すことが望ましいと思う。「男はつらいよ」シリーズの舞台の団子屋は、観客の頭の中には位置関係が入っているが、この映画では診療所の構造は観客は理解できない。
診察は人ごとにいろいろだが診察室の置物のカエルはいつも同じとか。変化をつけるために外来を入れるのもいい。鶴瓶が自転車か原付でフラフラ行く感じが思い浮かぶが、それは監督次第だが。若い医者が、ステレオタイプの「今時の若者」であること、と「監督の自画像」を思わせる八千草の娘がきれいすぎることもすこしイヤミも言いたくなる。鶴瓶が人助けをするのは愛ですか?の質問に「だれでも人が倒れればたすけるでしょ」といって「あなたは私を愛してなんかいないでしょ」というのは、哲学の問題なので、押し付けることはできないが、確かに人が倒れればつい手を出す。でも、私はそれは「愛」といっていいと思う。それは「孟子」の「惻隠の情」にあたる。何故私はあえて、「愛」というかというと、シニカルな現在は「愛」を言う方が偽善者で「悪」を言う方が本物だと言う通念があるので、それに対抗するためである。しかし、それは監督の哲学なので監督次第だ。
ここまでいくと私の押し付けになってしまうが、私の理想は始めは鶴瓶のポーカーフェースとギャグの驚き顔だけで、あるとき実はあの先生でも全然違う真面目な顔があるんだという対比を強調したい。
「ブラック・ジャック」と同じく無免許医こそ名医だというテーマならそれで通してそれを強調した方がわかりやすい。八千草との関係をメインにするなら、八千草にだけは全く違う顔を見せたい。そのためには、逆に普段は普段の顔ということを、反復によって印象づけておく方が効果的だと思う。
最後に、介護士になる落ちを強調するなら、そんなに恐れずに、もう少し長いシーンにしたらどうか。観客にさとられないように八千草が介護士に世間話をして、「いい医者がいてね」といったところで、実は・・・。鶴瓶は、負い目を感じながら、真顔から少し照れた笑顔へ・・・。
ありがちすぎるかな?
「街の灯」のラストに迫るものが出来るかもしれないが、ちょっと陳腐か?
これも、もちろん監督の判断だが、お涙頂戴ものの好きな私はそうする。でも、それがベストかどうかはわからない。

2009年11月14日土曜日

日米首脳会談


昨日の日米首脳会談に対して色々な評価があるが、私の考えでは、ある程度評価したい。
ただし、私が民主党のサポーターなのでひいき目で見ているかもしれないことは断っておく。

私は、日米に限らず他国との外交関係は「強い信頼を元にして、言うべきことをお互いに言い合い、最後には双方の利益が最大になる結論を出す」ことが理想だと思っている。

だから、今回の会談は先ず、双方の信頼関係を確立し、対等な立場だということを確認するだけでも十分意味があると思う。
具体策が先送りだと批判する人もいるが、信頼関係、対等な関係以前に具体策で衝突するよりも、信頼関係を確認した上で、具体論に入った方が順番としてはいいのではないか。その方がより国益にかなう結論が出る確率が高いのではないかと思う。

普天間基地移転問題が遅れることを危惧する人もいるが、しかし米側の主張をただちに実行すればマニフェストに反することになる。普天間問題の早期解決を主張する人は、基地の県外移設がマニフェストに書いてあったので民主党に投票した沖縄県民に何とえばいいのか、お考えをお聞きしたい。

民主制は国民が政治家を選ぶ、そのことによって国民主権が担保される。そのためには政治家は選挙前にいった約束を守らなければならない。つまり、マニフェストを実行するかどうかはその政策が妥当かどうか以前に民主制の根本なのだ。
普天間基地問題という複雑な問題をアメリカ様のご機嫌を損ねないように早期に履行すべきだと主張する人は、そのことによってマニフェストが破られることについてどう考えるのかをお聞きしたい。「そんなことは大した問題ではない」とでもいうのだろうか。

対立が少しでもあったらいけないということはない。もしそうなら、対等な関係とはいえない。首相には解決が難しい問題であることはしっかり認識してもらいたいが、例えアメリカのご機嫌を損ねることがあってもマニフェストを尊重しようと心に留めていた態度であったのであれば沖縄県民に対しては、真摯な態度だとうつるだろう。

もちろん、私も県外移設は無理だと思う。でも、あくまでもマニフェストにこだわることは民主制の中では必要なことなのだ。

例えば、現在の予算の無駄の見直し作業でも「一番の無駄は民主党のマニフェストだ」と皮肉をいいたくなる人もいるかもしれない。
私はそれでも、マニフェストは常に念頭に置いて政治を実行してもらいたいと思っている。
程度にもよるが、仮にそれが国益を多少損ねても。なぜなら、民主制を日本に定着させるということが、より大きな視点で見た場合この国の利益になるからである。
民主制は、国民が政治を決める。国民全員が政治学者ではない、多くの人は難しい金融政策なんてわからないで当然である。そのような素人が政治を決定するのだから間違いもある。もし間違いがあれば政権交代ができるようにしておく、これが民主制の考え方だと思う。そのための多少の失敗はわれわれが、民主制を学ぶ授業料だと私は思う。ダメだと思えば次に別の政党に投票すればいいのだから民主党は民主党のポリシーを守っていってもらいたい。すくなくとも、その努力はしてもらいたい。

その上で、今度は民主党にいいたいことなのだが、まず私が民主党のマニフェストを見て思ったのは、本当に脱官僚ができるのか?本当に無駄な予算を削ればマニフェスト書かれてある政策を実現できるのか?アフガンの給油を止めることが出来るのか?子供手当や高速道路無料化で家計を潤し、景気回復ができるのか?これらは、メチャクチャ難しい問題で大いに疑問だった。blogでも、その心配は書いた。
結果、史上最大の概算要求、史上最大の国債発行。だったらはじめから無理な約束はするな!といいたい。もし可能だと考えていたなら無能だし。無理だと考えていたなら詐欺だ。
しかし、不格好に見えても少しでもマニフェストに近づけようとする努力は悪い事だとは思わない。しかし、実現不可能なことをマニフェストに書いておいて「非常に難しい」などと人ごとのように言うのは無責任きわまりない。

私が、今までの民主党政権を見て思うのは、「マニフェストを実現しようと努力していることは認める。しかし、あまりにも実現困難な理想を掲げて実現できなければ、それは他でもない民主党自身の責任だ」

それらのことを、全てふまえて是非してほしいことは、
次期参議院選挙では
1、先ず、自らのマニフェストが実現できなかった部分を認め反省していることを示してもらいたい。以前の政権ではだいたい、実現できなかったことは無視して、実績ばかりを誇る人が多かったが、逆に自分たちの非を認めることでマニフェストを重視していたことを証明できる。そして、実現可能なものに改正してもらいたい。
2、実現不可能な政策はマニフェストに書かない。これは、実際に政権を持った経験上わかるはずだ。もしまた選挙のときにだけ甘いことを並べたら自民党政権とどこが違うのかわからなくなってしまう。
3、国民に「負担」の部分もちゃんとマニフェストに書いてもらいたい。年収の十倍の借金をして、世界的不景気。これで消費税も上げないで、お金はバラまく。これはいくら何でも無理な話で、どこかで誰かに負担をしてもらわなければならない。国債を発行するということは次世代に負担を利子を付けて押し付けることだ。国債と言うと普通の国民はそんなに実感が湧かないかもしれないが、今負担をかけるのを避けるためにもっと大きな負担を子供たちに負わせていることなのだ。
折角参議院選挙があるので、このチャンスにマニフェストを修正しその上で過半数の議席を得られれば、野党からマニフェストに反すると攻撃されても、修正したことは国民の承認を得たといえる。
私は、もし民主党がマニフェストの誤りを正直に認めれば「だから民主党はダメだ」という人と「民主党は誠実だ」と思う人と両方いると思う。必ずしも支持を失うとは限らないと思う。

正直に非も認めて、その上で実現可能な政策を掲げ、実現していくのが最も望ましいやり方だと思う。
これが私の願い。

2009年11月12日木曜日

象徴天皇制


今日は今上天皇即位20年だそうだ。新聞を見て知った。
私には未だに解決できない問題が二つある。
一つが「死刑」の問題/
もう一つが「天皇」の問題。
今日は、後者についての私の考えを書かせてもらう。あまり、歴史に詳しいわけではないので正確さを欠くこともあるかもしれないと予防線を張っておこう。

1970年生まれの私にとっては天皇は「昭和天皇」のイメージで、偉い方が皇居にいらっしゃって日本の象徴になっている。素朴で純粋で平和を愛する良きお爺さんのイメージ。戦争中は軍部に利用されて戦争をしたが、最後に国民のためを思ってポツダム宣言を受諾する「御聖断」を下した。

後に、いろいろ勉強しているとGHQが意図的に作った天皇のイメージだということもわかってくる。

私が天皇制に積極的にYESともNOともいえないのは、天皇制は全ての人が平等だと言う近代の原則に反する。しかし、一方で私も日本人なので、特に昭和天皇に対する尊敬の念もある。私のうちは父方はかなり封建的で、正月や祖父の誕生日には親戚が集まって皆でおじいちゃまのお誕生日をお祝いして、孫たちは皆、祖父の前では敬語で話していた。祖父は立ち上がって皆に感謝の挨拶をする。そういう尊敬の関係があった。私のアルバムを見ればわかるが、村山元総理に似ている顔立ち。

http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/My_Albums/My_Albums.html

だから、私にとっては昭和天皇は国民のよきおじいちゃま、という感じだった。
そういう意味では、昭和天皇も村山元総理も人々に受け入れられたのは、日本人が共通に持っている「良きお爺さん」のイメージに合致したからかもしれないと思っている。

もちろん一方では左翼から見れば、天皇制は明らかに差別的制度だから撤廃すべきであるし、戦争をしたのは名目上は天皇だから責任は免れないというのも、筋が通っているし間違いとも言えない。
だから、理屈ではわかるけど、感情的にどうしても親しみを感じてしまったり、廃止すれば日本という国のアイデンティティーが無くなってしまうかもしれないという不安もある。理屈と感情の葛藤があるのである。

昭和天皇個人の人格は多くの人が好意を持っていると思う。それは、イデオロギーを別にして昭和天皇ご自身の父が側室の子であったことなどから、弱いものの気持ちを大事にされる性格であったからだと思う。「世の中に雑草という名前の草はないのだよ」という御言葉も心に滲みる。

そもそも天皇とは何か。歴史的な事実としてではなく社会的機能として天皇とは何か。昭和ファシズムの中、天皇は軍の最高司令官、また現人神として絶対的存在だった。明治憲法はプロシア憲法を参考に作られたものだが、私が引っかかるのは、かつてNHKで見たので正しいかどうか歴史の専門家にお聞きしたいのだが、西周が将軍を国王とする議会制を考えていたということだ。ヨーロッパと当時の日本を比較すれば、国王はむしろ将軍に近く、天皇はむしろ国王に権威を与える教皇に近いのではないかというふうに私は思うのである。
もし、西周の考えが実現していれば、華族制廃止後は普通の人である徳川家を今でも崇拝していて、天皇家は京都にいる神主さんの一番偉い人だったかもしれない。

老荘思想では、最も望ましい君主は「何もしない君主」だと考えられていた。普段いるかいないかわからないような人が望ましいと考えられている。そういう意味では、私の天皇のイメージは老荘的な意味で理想の君主であまり政治に介入しないからこそ人々に迷惑もかけずに、権威を時の権力者に与えることが出来たのではないか。
心理学者の河合隼雄は日本神話の分析から、日本の権力構造を「中空構造(中心が空)」とよんだ。

だから、私は明治から敗戦までの西洋の王や皇帝のような君主よりも、戦後の象徴制の方が歴史的には本来の姿に近いのではないかと思う。

むしろ、戦争中の天皇は歴史の中でも異例の存在で、むしろ将軍がなったほうが理にかなっているのではないかと思っている。

だから天皇制を根拠に、狭い民族主義や軍国主義を唱える者とは私の立場は真っ向から対立する。そもそも、「何もしない」からこそわれわれは天皇に権威を感じていたので、軍国主義とは全く反対の意味で象徴天皇制をある意味肯定的に見る。

そして、今上天皇はどうか。戦後のアメリカによる教育を受けた天皇。
かつてテレビで新党日本の田中康夫さんが「天皇制には反対だけど、今の天皇は好き」と言っていた。気持ちはよくわかる。今上天皇の教育をした経済学者の小泉信三は「マルクス主義批判の常識」という本を書いて、共産主義とは一線を引いていたが、同時に古い民族主義とも距離を置いた自由主義者であった。
当時の日本は、大きくわけて「民族主義」とアメリカ式の「自由民主主義」と「マルクス主義」が争っていたと思う。その中で、古いナショナリズムを排し、だからといって社会主義には決して行かない、微妙な線を守って行ったのが今上陛下ではないか。平和や人権を重視するが共産主義には組しない。これが、現在まで比較的多くの日本人に受け入れられてきたのだと思う。
私自身は実は、不敬ながら田中さんと逆で、今の天皇はあまり好きではない。何故かと言うとあまりにもアメリカの描いた、アメリカに都合のいい天皇像を生きているからである。
終戦直後は、先ず日本の軍国主義化を抑えなければならず、一方で共産圏に取り入れられないように、逆にアメリカの左派リベラルが憲法を策定した。後にアメリカ外交は右傾化して日本に再軍備を求めるが吉田首相がそれを拒否する。その結果、「青い山脈」的、理想的民主主義のモデルとして今上天皇は機能してきた。
私がもし、天皇に昔の天皇のようになって欲しいと書けば、昔の軍国主義を連想されるかもしれないが、そうではないのは今まで書いてきた通り。
私の理想は「老荘的」な意味での昔の天皇なのだ。
しかし、近代社会を否定する立場ではないので、近代社会と両立する限りでという条件がつく。
ところで、天皇陛下の「お言葉」がもっと自由にした方がいいかどうかという問題は、非常に難しい、今のところ今上天皇がお話しになっても理想的で現状にあった発言をされるだろう。しかし、理論上はもし天皇が自由に発言された場合、われわれの期待しない発言をされることもありうる。もし、もっと民族主義的な発言をされる天皇が出てきた場合どうするのか。リベラルな発言は自由にしていいが民族主義的発言をした時はそれを隠すのか。それでは、自由な発言とはいえない。そう考えると自由な発言を望むのは危険もともなうことにもなる。
従って、内閣の輔弼を前提とせざるを得ない。
私は今上天皇があまりにもアメリカの筋書きの通りの民主的な天皇像を演じていることに違和感を感じるが、天皇ご自身に対して不快な気持ちはない。私は逆に理想を演じさせられすぎてかわいそうだという気持ちが強い。皇后陛下も雅子妃殿下も心を病まれたが、以前から私は、これだけ自由な時代に皇室に嫁ぐのは大変だろうなと思っていた。
問題を二つにわけると、
1、皇室の方々があまりにも理想的に振る舞うことを期待されてお気の毒だという事。
2、皇室の古い伝統が守りきれなくなって天皇制の存続が難しくなること。
この二つの面から、今の皇室を心配している。
じゃあ、天皇制を思いきって撤廃すればいいのか。それが、最初に書いた、理屈と感情との葛藤のあるところである。

今は、正直どちらが正しいか私には決められない。しかし、重要な問題なのでいつかはしっかり考えないといけないと思っている。

2009年11月11日水曜日

排他的宗教


今日の新聞に、民主党の小沢幹事長が仏教会の会長との会談の後「キリスト教は排他的で、独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は、行き詰まってる」と発言したと出ていた。私は洗礼は受けていないが、母がクリスチャンで毎週教会に行って、キリスト教の勉強もしているので、聞き捨てならない言葉であった。
二つの点で疑問を呈したい。

一つは、特定の宗教を批判するような言葉を、政治的地位の高い人が発言することが適切かどうか。
もう一つは内容が正しいがどうか。

第一の点は、仮にある集団に欠点があったとしても、そのことを政治的に高い地位にいる人が語ることによって、傷つく人がいる。そのことを政治家は意識することは必要だと思う。

欧米では、公の席では「人種」「宗教」「政治」の話をすることはタブーであることは常識である。このようなセンシティブな問題には政治家は常に注意をしている必要がある。
例えば、石原都知事の「三国人」発言。これらは、悪意はなくともマスコミが騒ぎ立てたのでマスコミの責任でもあるが、マスコミがそのように反応することは政治家の方も知っておく必要がある。
中国のことを「支那」という人がいるが確かに「支那」という言葉の語源は英語の「チャイナ」と同じく、「秦」である。しかし語源に差別的要素がないから問題がないと言えるだろうか。例えば、日本人の蔑称「ジャップ」も「ジャパニーズ(日本人)」を短縮しただけである。黒人の蔑称「ニガー」も「ニグロ(黒人)」が語源である。「めくら」も語源は「目が見えない人」という意味である。
したがって、語源的に差別的な意味がないから使っていいとは単純にいえない。どのような、歴史的な経緯で使われてきたかが問題なのである。
またかつて、サッチャー首相が「ドイツ人は劣等感が強い民族だ」と言って問題になったり、中曽根首相が「アメリカには黒人やヒスパニックがたくさんいて知的レベルが低い」といったり、ビートルズが「ビートルズはキリストよりも有名だ」といってアメリカの右翼にねらわれコンサートができなくなったり。どこかの大臣が「安全保障もいつまでも親鸞聖人の他力本願ではだめだ」と言って本願寺からクレームが出たりした。
これらは、中身自体は必ずしも間違いではないかもしれないが、ある信仰をしてる人たちにとっては、ひどく心を傷つけられる問題である。
だから、「言ってはいけない」とまではいえない。もし、それが信念で世間を敵にまわしてでもうったえる覚悟があるならそれも自由だと思う。しかし、もしそうではなくつい口が滑って言ってしまったというのであれば、その発言で尊厳が傷けられる人々がいるということは知らなければならない。
例えば、仮にある中国共産党の幹部が、「天皇制やその支えになっている神道は、外国の侵略を許し、日本の独善的なナショナリズムを生んだひどいものだ、だから神道はダメな宗教だ」と言ったのを聞いたら日本人はどのように感じるだろうか。リテラリーには正しいかもしれないが、感情的な確執を生み、両国の関係を悪化させ、国益を損ねるかもしれない。
文字通りには正しくて、言う権利があっても、相手の感情をかんがみれば控えた方がいい、「不適切な言葉」というものもある。

それでも、軋轢があっても言うべきことは言うという信念と覚悟があるなら、サミットの日本以外の首脳の全員がキリスト教徒だと思うので、彼らにはっきりと理路整然というべきである。世界最大の宗教を敵にまわして、先進国の首脳をすべて敵にまわしても彼らに仏教に改宗するように政治生命をかけて主張しなければならない。
実際マルクス主義者たちはそうしてきたんだから、できないことではない。
しかし、それほど深い意味で言ったのでなければ、マスコミはちょっとしたことでも針小棒大に伝えて騒ぐので、センシティブな問題への言及には細心の注意を払って欲しい。

二つ目の問題。本当にキリスト教は排他的か?
一般には民族宗教であるユダヤ教の独善的な選民思想に反対したのがイエスで、したがってキリスト教は世界宗教になったという考えが常識だが、例えば聖書のどの部分を持って排他的と言っているのかがよくわからない。イエスは当時、差別されていた徴税人や女性などとも交流をもち、神の元では、全ての人間が平等だと説いた。これは高校の教科書にも載っている常識だが、それが排他的で独善的というのはどこから出てきたのかが私には理解できない。

当時、自分たちこそ正しいと主張したパリサイ派や律法学者を独善的だと徹底的に批判したのがイエスであることは聖書を読めば誰でもわかることであるが、それをキリスト教が排他的で独善的だとどういう理屈でなるのかわからない。聖書のどの部分を指していっているのか教えていただきたい。

その後の教会のやったことは確かに独善的で場合よっては冷酷非道でもある。
異端審問。火刑。魔女狩り。新大陸では、キリスト教徒たちは「原住民は人間ではない」という理屈で大量殺戮し、民族を殲滅させたこともある。さらには十字軍。

これらは、確かに独善的で、非道なものだと私も思うし、批判されても当然だと思う。
その点を批判するのならわかる。

しかし、キリスト教徒も「第2ヴァチカン公会議」やヨハネパウロ2世などが過去の過ちを認め、他の宗教との和解にも勤めていることは、小沢さんはご存知の上で発言されたのだろうか。

もちろん思想信条の自由があるので、仏教を讃え、キリスト教を批判するのも自由だし、キリスト教を批判する人は西洋人にもいっぱいいる。しかし、こういう問題は、感情的に人の尊厳を傷つけ不必要な苦しみを与え大きな確執を生むことがあるということは是非知っていてもらいたい。それが、国益を損ねることもありうるというのは客観的事実だ。

どれだけ、知識と信念を持っておっしゃったかはわからないが、もしそれほど深い考えではなく言われたのであれば、いらぬ不毛な感情的対立を避ける配慮をすることは政治家にとって大事なことだと思う。日本ではキリスト教徒が人口の1%だから、あまり重く考えられなかったのかもしれないが、西欧先進国でこのような発言をしたならば大きな問題になるので、国際社会で重要な政治家がはこのような発言をすることはまずほとんどありえない。

話はキリスト教の話になったが、キリスト教以外でも特定の宗教を完全に否定するような発言は、言う権利はあるが、問題にもなりうるので、十分気をつけて発言してもらいたい。

2009年11月10日火曜日

文体





文体と「自己」
私は大学院ではデザインを勉強しているのだが、選択授業の中で「文学特殊研究」というのがあった。
私は、もともと小説をあまり読まないのだが、小説を書く授業ということでおもしろそうだと思ってとった。
私は、これまでに小説といえるほどのものは、二つ書いたことがある。
最初の大学に入ったころ、悩みがあってそれをなんとか他人に伝えたいと思ったが、従来の文章では伝えるのには複雑すぎるので、小説の形式で書かざるを得なかった。当時、カウンセリングに通っていたので先生にそのことを話すと見せて欲しいというので見せた。
先生は有名な劇団の関係者で、普通ならいかないけど、どんどん上に上がっていって日本を代表する演出家が読んでくれた。そして、その感想は「大学生にしてはよくできている」というものだった。私はそれを聞いて、どんなにテーマが正しく、どんなに表現に気を使っても、伝わらないものは伝わらないのだなと思った。
その後、さらに精神の危機状態にあった時もう一度、小説を書いたが、理解できる人が思い浮かばなかったので、誰にも見せなかった。死後、発見されて何百年かに一人でも理解できる人がいればいいかな、とぐらいに思っていた。
しばらく経って、カルチャーセンターで私の尊敬する高名な学者の講座があった。そのリーフレットの中で、メモ書きでも何でもいので何か思っていることを書いて下さい、と書いてあった。そこで私は、精神的危機のときに書いた膨大な文章があるが、それをいきなり送ったら、恐らく向こうの先生のほうがびっくりして恐がると思い、小説の形ならまだ安全に読めるだろうと、以前に書いた小説を2つ送った。
2つ目は理解されるかどうかわからないが、その学者は、私が死んだ時に私の書いたものを見せるように遺書を書いたときに第2位の人なので(ちなみに1位は故河合隼雄氏)、その人に見せるチャンスなんてめったにないと思い理解されないのは覚悟の上で「他の人に見せないで下さい」と書いて送った。
しかし、当日の講座では結局理解できなかったことがわかった。さらに、ある別の学者を急に口汚い言葉で罵った。その人と対談までしてるのに。

私は世の中殺伐としていて、よく人の悪口を言う人がいていやだなと思っていたところ、この人のことは、そういう人ではない、人格者だと勝手に思っていたので、その言葉を聞いてたいへん驚いた。自分の人間を見る目のなさを思い知らされた。

以上のように小説を書いたことはあるが、文学そのものはそんなに詳しくはない。しかし、院なので人数も少なく3~4人で先生の研究室でやるもので、小説書いてきたい人は書いてきてみんなで読む、という自由な感じのもだった。私は授業が面白くて、芥川賞をとった偉い作家にこれだけ直接指導してもらえるチャンスもあまりないと思い。毎回、無遅刻無欠席でほぼ毎回、短編小説を書いていった。blogに載せてあるのがそれである。
先生は、褒めても下さるが私の欠点は「文体がない」といわれた。
私は意味が分からなかった。文体とは私は文章のスタイルのことだと思っていたので、「文体が悪い」というのならわかるが、「ない」というのがわからなかった。
私は実験として毎回わざと違うスタイルの小説を書いていった。ある小説は、女の子3人の日記だけでできているもの。できるだけ、女の子が書いているように、そして3人のキャラクターをわけて書くことに気をつけて書いた。当然、地の文はないし、それぞれ別の人が書いたような文になる。だから、私固有の文章のスタイルがあらわれることは構造上ないので(私固有の)文体がないのは当然じゃないのかと思った。いろいろ実験して、毎回違う人が書いたような文章にしようとしていたので、挑戦していていいと褒められるかなと思っていたら「文体がない」といわれる。
私の反論は
1、今までの小説のように、その人らしさをわざと出さないように書いたので、それは、一つの新しい書き方の実験として認めてくれてもいいのではないか。
2、どんなに、別の人が書いたように書こうとしても、結局そこには自然に自分らしさが出てきてしまうものだと思う、それが「個性」であって、わざと個性的に書こうとすると、わざとらしくなってしまう。
3、「いかにも小説家らしい文章」というものがあると思うが、創作の世界では、それを乗り越えることが価値があると思っていたが、先生の話を聞いていると「小説とはかくあるべき」と言う固定観念があって、それに合うように指導されてしまうのではないか、型にはめられてしまうのではないかという不安があった。
4、色々な文章のスタイルで書こうとしていても、私の文章の書き方にも共通する部分もある。私はできる限り、不必要な修飾を排し、情に流されない文章を書こうと思っている。それが、下手というのならわかるが、下手でも何でもそれが私のスタイルなら「文体」が「ある」のではないか。

このような点から「文体がない」という意味がわからなかった。
先生は「とにかく人の書いたものをたくさん読むことです」といわれた。
私は、一方では「文学」の型にはめられてしまうのではないかと疑心暗鬼になりながらも、古いものを否定するためにも古いものを読むことは大切だと思い、たくさん読むことに同意した。
しかし、もともと読書が苦手で小説は特に苦手で夏休み中に、短編集一冊しか読めなかった。中盤からは先生も結構厳しくなってきて、私の書いたものを「こんなんじゃどうしようもないな」といい。私も苦しい立場に立たされた。そこで、読書が苦痛だと言うことを先生に訴えると「本が読めないというこを文章にして書いてごらん」と言われたので、私の思いを書いた。

http://shunichisuzuki.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html

すると「ここで開き直られても困るんだよね。僕は下手とはいってない。むしろ下手な文章を書けといっている」
私はかなり自分のことも細かく書いたつもりだったが、先生は
「まだ隠しているものがある」といわれた。
もう一人の女の子が、小説を書いてきたので読んだが、不思議な小説で「父が死んだんだけど半分ない。物理的にはあるんだけど、もう半分はパリにある」というもの。
最近色々読んで、女の人の書いた不思議な小説というがあることは知っていたので、その点は驚かなかったけど、その中で「私は洗濯物をまたいで部屋に入った」という描写があった。私は「こういうところがうまいと思うんですよ」といったら、先生も「それは正しい」と賛同された。女の子が「洗濯物をまたいで部屋に入った」と書けるのはすごいと思った。私も女の子の視点で小説を書くことがあるが、これは書けない。ちなみにうちの姉の家も洗濯物などで散らかっている。でも、そこはあまり人に見せたくない部分でつい格好つけて「フランス製のソファーに横になった」とか書きたくなる人が多いと思うが、この「洗濯物をまたいで」一言でその人の、生活や性格、人柄がわかる。わかると言うより伝わってくる。
これは、作者が世の中を自分の目で見て、自分で感じ、感じ方がセンスがあるということだと思う。
それを自分の文章比べてみると、その子の書いた文章は「中身が詰まっている」感じがするが、私の文章は「カラカラに中身が詰まってない」文章に見えてきた。
そう思うと先生も悪意で私を批判しているのではなく、私に上達してもらいたいから厳しくしているのかもしれない、有り難いことだ。
先生のいう「文体がない」といのは単に自分独自の文章の「スタイル」がない、ということでもなさそうだと思えてきた。
その女の子は、文章に「重み」がある。私はできるだけ記号的に書こうとしているので、文章そのものはカラカラに「軽い」。
確かに「小説はかくあるべし」という型にはまるのはいやだが、文章にいくらたくさん形容詞をいれても、「軽い」文章は見る人が見ればすぐに「軽い」とわかってしまう。例え記号的でも、何か深い意味がありそうなカフカや哲学でいえばヴィトゲンシュタインのような文章もある。
先生のいっていた「文体がない」というのは、その「軽さ」のことを言っているのかもしれないと思った。
さらにいえば、文章が(本当の)自分と一体化していない、という感じだろうか。
私が「小説をよく読む人はイメージする力の強い人だと思う」と書いたら、先生は「それはどういう意味?」と理解できなかった。私はデザイン学科なので「絵」のイメージで文章を考えていたが、先生はある小説の冒頭を読んで、「これを映像化できるか?」といった。つまり、文章とはただ絵のように対象を表現するだけのものではなさそうである。先の女の子なんてストーリーやイメージで書いていないで、文章そのものがあふれ出てきている感じだ。
そこで、先生のいった「文体がない」というのは先ほどいったように「自己」が文章と一体化してない。だから、文章の顔が見えてこない。そういう意味かなと今は思う。
それは、確かにそうで、私の特に最近の文章は「弱い」。
でも、反論もある。わざと顔のない文章を書くことも、一つの実験としてあってもいいのではないか。
しかしそれでも、文章の「弱さ」は伝わってしまうものだ。
型にははまりたくない。でも、どんなスタイルでも「強度」のない文章は読んでいて魅力がない事はわかった。
でも、本当の自分を出すなんて簡単なことではない。心理学者のC.G.ユングは「意識と無意識の中心」を「自己(Self)」と呼んだ。
しかし、「本当の自分」を出すことは怖いことであり、恥ずかしいことでもある。大体何が本当の自分なのか意識にはわからない。
フロイトは神経症を治すために「精神分析」という治療法を発明した。それは毎日行われ、自由連想法といって、思う浮かんだこと全てをどんなに恥ずかしいことでも話すという契約を患者と結ぶところから始まり、夏休みの休暇にまで患者を連れていったと言われる。それで、神経症ひとつ治すのに10年以上かかることもあった。
したがって、来週までに「本当の自分」を書いてこい、なんて軽々しくいえるものではない。
しかし、何らかのかたちで「自己」と繋がってないものは、面白くないことも事実だ。
学部時代、「よいデザインとは何か」を考え続けていて、どうしてみんなはあんなにうまくて面白い作品を作れるのに自分は作れないかと悩んだときと同じ構造のことが起こっている。
苦手ならわざわざ文学を書かなくてもいいじゃないかという人もいるかも知れない。しかし、先生があるとき「文字を使ったもので『文学』以上のものはない」といわれた。それを聞いて、自分も何とかその文学を書ける人になりたいと強く思った。

正しいか、間違っているかはわからないが先生のいう「文体がない」ということは、「自己」と一体になった文章ではないというふうに今は解釈している。

2009年11月8日日曜日


キリスト教入門講座 10/25 吉祥寺教会 シスター田中
「罪」
◯何が罪なのか?
◯誰も完全ではない。適当に悪いことしている。
◯罪というのが実感としてわからない。
◯「悪」はわかる。世の中にいっぱい悪いことはある。
◯「悪」と「罪」とが一致しない。
◯どんな「悪」があるか。
 1「戦争」もっともらしい理由があっても戦争は「悪」
 2「飢餓」世界にはある分量の食料ある。分配の問題。持てる国と、持てない国。
◯個人のエゴ、集団のエゴ。加害者であり被害者である。
◯こういう人間の「罪」をどう考えるか。
◯チューインガムを盗んでしまった小学校3年生の詩
「どうしてあんなことしてしもうたんだろう・・・」
自分の中に「泥棒」しようとする気があったことに気づいた。
これが「悪」と「罪」の一致。
◯加害者と被害者は裏表。

どうするか
◯たんにお金を出すのではなく、自分の痛みを感じることが重要。
大斎→断食 痛みをともなう真剣な祈りになる
◯「連帯」=本当の友達になる。痛みの中になる 平和を祈る=戦争で苦しんでいる弱い人々の友達になれる。
◯加害者の苦しみが少しも楽にならない=「痛みを分け合う」これが大事。
◯加害者であるということを重く思っていること。
とことん自分の中のエゴと向き合うことが大事。
誰も見たくない。つらい。
それが出来る条件
ドラマ「北の国から」
息子と娘がいる男が離婚して北海道で農業をやることになる。1人事情のある少年をあずかる。
純(息子)のミスで丸太小屋を燃やしてしまう。少年のせいにする。
いかだ下りで、転覆する子を見捨てて帰ってしまう。その子は肺炎になる。また、少年のせいにする。
父は少年を親元へ帰そうとする。
駅で見送る。ラーメン屋で温かいラーメンを食べているとき、純は、ふと少年のことを思う。
自分のしたことにハッと気づく。
お父さんの前でいう。
「いいたいけど、いえなかった。卑怯だった」
お父さんは始め言葉をのんだあと、
「お父さんもふぬけになってしまっていた」
純もお父さんもどうしていえたのか?
弱いものどうし肩をよせあった雰囲気。
そういう中でこそ、自分の本当にやったことが見えてくる。
もし私たちが何か隠しているとき、一番苦しむのは自分自身。
いいたいけど、いえる場、雰囲気がないといえない。
◯だれでも被害者であり加害者であるのが人間。
◯間違い易いということを知っていることが大事
◯いってしまって、許されたい、楽になりたいというの気持ちがあることを「知る」事が大事。
◯それが教会が存在している理由。
◯教会は決して間違うことのない存在ではない。間違う人間が構成しているから間違う。その間違えから解放してあげようとする力も存在する。
◯その大きな力を「赦しの力」といっている。
◯教会は建物ではなく集まりのこと。集まっているのは弱い存在だが、その中に「神の力」=「聖霊」がある。それが「赦しの力」となって働いている。
◯赦しの方法
信者「赦しの秘跡」
一般の人、「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。主よ憐れみたまえ。キリスト憐れみたまえ」
心から神様に赦しを願う。
主の祈り。
信者以外の人も赦しを得られる。
◯洗礼というのは、十字架の血に染まって新しい命をいただくこと。洗礼する前の罪は救われる。「洗礼」は絶対的な「赦し」。
◯しかし、人間はどうしようもなく悪への傾きがある。=エゴ
◯エゴがまた出てきたら「赦しの秘跡」
イエズス様の流された血潮。大きな犠牲。大きな償い。イエズス様が背負って下さった。だから「本当の赦し」。
◯エゴ、その度に回復。教会は赦しの力、聖霊がいる。
◯赦しのためには「告白」が必要。「どうしてこんなことしてしまったんだろう。つらいです。申し訳ないです。ドキンとした」

11/8 「赦し」
◯赦されるためには「自分の罪をいわなければならない」
◯自分のいいたくないことを言わなければならない。つらい。自分の心の内側を言うのは楽じゃない。もちろん。人間ならできっこない。神様、イエズス様が先にいて待ってて下さるから言える。
◯ついたてがあって小窓があって、声だけ聞こえる様になってる。しかし声だけでもバレるのがいやで、他の教会に行って告白する人も多い。
◯人に言うのではない、神様、イエズス様が聴いて下さる。神父様は神様の代理人。
◯神様はもうご存知。
◯何でも言うのではなく、「根っこ」のところをいう。「腹が立ったから人に悪口を言ってしまった」それが罪。その人が本当に悪いかどうかは神様しか知らない。
◯本当の「善」、本当の「悪」を知っているのは神様だけ。
◯作家で精神科医の加賀乙彦さん。
昔、「軍国主義者」、日本だけが正しくて東洋の平和を守るために立ち上がって戦わなければならない。陸軍幼年学校、エリート中のエリート。祖国のために立派に死んで皆を守ろうと思った。
敗戦。大人たちは、これからは民主主義だ。
今まで善だったものが悪になってしまった。
大人に従うと間違ってしまうと強く思った。
大学教授時代。全共闘、学生から吊るし上げられ。小突かれた。
彼らの多くは髪を切りスーツを着て企業戦士になっていった。
「人間は集団になると悪魔のような暴力をふるう」
◯いまの悪魔的存在は「インターネット」
たくさんの情報の内、自分に都合のいいものだけを見る。視野狭窄。
違いを受け入れられない。おとなは違いに慣れている。
小学生がイジメで自殺する。もっと大きく将来を見られないか。
政府のやってる対策に宗教とか本当に目を向けたものあるのか?
◯「人間の力を超えた大きな闇の力」=「悪魔」=「サタン(Satan)」=「迷わす者。誘う者」
サタンとは力。
この力に負けない6つの方法
①視野を360度にする。
②宗教の本質を知る。
宗教とは◯◯教とか◯◯宗ではない。
宗教(religion)とは繋がり。
縦と横のつながり。
神は一人でなく人のそばに相棒をお造りになった。
③「死ぬ」ことの惨さ、醜さと向き合う。
④いつも「私だったらどうするかな」という目でニュースを見て下さい。
戦争をカッコいいと言った子がいた。
⑤自分を育てることをしましょう。
子供の世話でも犬の世話でもたいへん。仔犬はどこでもおしっこしてしまう。
失敗したらすぐ拭いてあげる。
人は一度失敗したらもうダメだと思う。
失敗してもそこから立ち直るようにしてあげる。自分が自分のお母さんになったつもりで。
⑥本当の意味での個人主義になる。(利己主義ではない)
シスターも戦争中、軍需工場で働いてた。守衛さんが右向け右というと皆パッと向いた。
加賀さんも軍隊にいたからわかるのでしょう。
「右向け右」と言われてても「私はそうは思わない」と言えるように。「私は私だ」でもわがまま、あまのじゃくではない。
沖縄戦で人々が逃げるとき分かれ道があって皆右に進んだ。一人左に進んだ人だけが助かり、右に行った人たちは全滅した。
「私が考え、私が行動する」のはたいへん。
◯自分を守る。そしてはじめて他人を守ることができる。
長崎の原爆。永井隆博士の話。
実験室で建物倒れ動けなくなった教授。弟子たちは助けようとするが、「君たちはまだ若いから私を見捨てて逃げて下さい。これが私の願いです」若者たちは後ろ髪引かれるような気持ちで逃げた。教授は死んだ。
◯自分を守るということは、内面のこと、自分をイジメないこと。=他人を守ることができる。
◯現代の悪魔のささやき。集団になると暴力的になる。
◯シスターのいる修道会も集団。「従順」=自分の意志を捨てる、誓いを立てる。
しかし、毎年、管区会議で文章で違憲を誰もが言えて必ず扱われる。


バザー


親からもらったお金が尽きてきた。
お金がない。けど、色々やりたい。
洋服も買いたい。
そこで、叔母の勤めているインターナショナルスクールのバザーに行った。
欧米人だけでなくアジア人とかもいて面白い雰囲気。
今着ているシャツともう一つのシャツの二つを買った。
合計150円
ちなみに交通費は往復720円。

2009年11月7日土曜日

危険

今日はカルチャーセンターで4つの講座。今までのタイ記録である。
最後に、一番大事な宮台真司氏の対談「『危険』思想としての社会学」。いつもの様に相手はお弟子さんの堀内進之介さん。
まず堀内さんが、社会学成立期の歴史的背景を説明する。
1948年のウェストファリア条約により現在のヨーロッパの骨格ができた。それが、アメリカ独立戦争、フランス革命でこわれ、その後ロベス・ピエールの恐怖政治など混乱が続き「自由」「平等」「博愛」への信頼が失われていった。そこで、社会学や社会科学が生まれた。
サンシモン、コント、スペンサー等が当時の思想的リーダー。彼らは歴史を発展的に見る。スペンサーはダーウィン以前に「適者生存」という言葉を使った。
コントは初めて「社会学」という名前を使った。最初はガリガリの実証主義者だったが、後に(恋人の死をきっかけにというのをきたことがある)「人類教」という宗教を作った。

宮台氏は社会学の「危険」な部分を是非理解して欲しいといった。
社会学は機能主義的に考える。
機能とは「全体」にとってどの様に役立つかを問う。
「全体」という概念を使う。「全体主義」と親和性が強い。
1930年代アメリカ、ニューディールは「全体主義的」な面を持っている。
「全体」にとっていいことはいいじゃないかと思うかもしれないが、例えば「次の世代の全体の利益」のために、今の人間が死滅することが「いい事」にもなりうる。
それを描いたのがアーサー・C・クラークのSF「幼年期の終わり」。我々はネクストジェネレーションの為の捨て石だったのかもしれない。
18~20Cは不安な時代。超越と世俗をいったりきたりしてる。
それは「権威主義」と「参加主義」の対立とも言える。
「権威主義」は誰か偉い人に任せる。「参加主義」は自分たちで決める。

宮台氏は「憲法を『機能』として理解している人とは話せるが、中身を本気で信じている人とは話せない」。

N.ルーマン35歳の「制度としての基本権」は、信仰ではなく機能として人権が語られている。全てが政治的に決められる社会へ戻らない為に、分化した社会に楔を打つのが「人権」。
しかし、「死滅」さえも「機能的」でありうる。

全てが人が置いたものに過ぎない(当然ニヒリズムを生む)。それを受け入れる手続き、それが「全体性」。「全体」に役に立つ。

堀内 機能が理解されることはいいこと。しかし、「危険」な部分も肯定しうる。

宮台 

保守主義、アメリカとヨーロッパでは違う。
アメリカ・・・独立革命を肯定。アンシャンレジームを否定。市民は信じられない→市場
ヨーロッパ・・・フランス革命否定。市民信じられない→階級

共通点・・・功利主義的個人主義を否定。

「ドレフュス事件」免罪事件。保守によるキャンペーンだと、当時の進歩派は反発。デュルケーム、エミール・ゾラ。

デュルケーム「功利主義的個人主義で社会が壊れるのは当然。しかし、社会の複雑性がませば
個人主義になるのも必然。『道徳的個人』『社会の有機的連帯』『個人の個人に対する信仰』」

のちのパーソンズは「decency(品位)」が必要と。


19世紀は潜在性の思考。フロイト、マルクス。

ウェーバーは官僚制の負の面を見つつ、期待するしかない。しかし、官僚に従うしかない社会はダメだ。
何かに依存しなければ生きていけないのはクソと同じ。(ニーチェ的)

堀内 社会学は「性悪説」 昔の未開社会がパラダイスならいいが。

宮台 レヴィ・ストロース 哲学者、人類学者「親族の基本構造」でいままで単なる慣習だと思われていた婚姻が実は大きなシステムとして動いていたことを発見。
先日100歳で亡くなったが、中沢新一などが追悼文書いているが、わかっていない。
レヴィ・ストロースの思想は「畏怖することを取り戻せ」
それから神話構造分析もしたがうまくいかなかった。

今、超越も全体性もないヤバい時代。
レヴィ・ストロースの本はある種の癒しにはなるが将来への指針にはならない。
レヴィ・ストロースが最後に残したものは「絶望」かもしれない。

以上対談。
以下、私(鈴木)の質問。「僕は美術系の大学に行っていて、中沢新一さんの教え子でもあるので中沢さんを一つ弁護すると中沢先生は授業で『もう、過去には戻れない』とはっきりおっしゃってました。あと、中沢さんと宮台さんを比べると宮台さんは社会と宮台さんの言う全体性との関係を論じていて、中沢さんは芸術を通じて非合理なものに触れるようなことを考えてると思います。そして、その不合理なものは人間に不可避でどうしても取り除くことは出来ないし、必要なものですらあると思うんですよ。それを例えば芸術を通じて触れることが出来たら人も迷惑もあまりかからず、一つの方法ではないかと思うんですがどうでしょうか」といったら、頷いて「そう思いますよ」といわれた。
以上講義。

宮台氏の言っていることから感じるのは、一つは機能としていっていることを真に受けてしまう人が多いことへの苛立ち。これは「ネタがベタになる」とわかり易く本人が説明している。そしてもう一つは、「決定論」と「自由」の問題。これは、古くからの哲学の大きな問題であって、私はかつて宮台氏の授業で(私の記憶が正しければ修士論文に書かれた)カントの「責任帰属」と「因果帰属」という分け方を聞いた。それが、考えていけば辿り着く答えなんじゃないかと思ったが、とうの宮台氏が「所詮何をやっても変わらない」とか「◯◯制はダメだけどしょうがない」とか、「近代はクソだけど、それしかない」とか、かなり苛立っている様子がはっきりしている。
私(鈴木)が思うのは、この種の問題は考えない人には理解できないし、理解しようともしないので、わかる人にだけ言ったほうがいいのではないかと思うが、もう言わずにはいられないわだかまりを感じる。カルチャーセンターに来る人をどの程度のレベルと見ているのかわからないが、自分で金払って何の資格にもならないのにきているので、普通の人よりは熱心かもしれないが、私の見るところ宮台氏が苛立っていることを正確に理解してる人はほとんどいないと思う。まあストレス発散の為にグチることもたまには必要かもしれないが、品位を落とすことにもなりかねない。また、現実に宮台氏にも色々な圧力がかかって、たんに不愉快でイラついてる部分もあるのかもしれない。心が痛い。が、それならかつて宮台氏がいった言葉を贈りたい。「社会の問題と実存の問題を分けろ」。
しかし、宮台氏のイラつきもわからないでもない、これほど絶望的なのにそれをいくら説明しても誰も理解してくれない。宮台さんを読んで育った世代の、北田尭大さんや堀内さんはある程度まではついてくるが、この身動きのできなさを共感してはくれない。東さんは大きくは理解してるけど、彼には彼の哲学があるので宮台氏になびかない。そして私のようなヘタレが宮台氏にすがってくる。そして、リベラルの代表をさせられて矢面に立たされる。きたない言葉も吐きたくなるだろう。私ごときが軽々しく気持ちはわかりますとはいえないけど、ファンの一人としては元気になって欲しい。今はネットぐらいだが、もしもっと出世したら色々なメディアでサポートもしてあげたい。
しかし、一方でこうも思った。宮台氏は近代の絶望性を強く主張しているが、一般の人や私のまわりの学生とかを見ていると、そんなに不幸な人ばかりでもない様にも見える。こんな時代といっても、それなりに満足している人もたくさんいるのではないか。時代の病にかかり易い人とかかりにくい人がいるのではないかと。
だから、自分にとって地獄のような近代社会でも意外と横を見ると隣の人は普通に生きていることもあるのではないか。また、昔だって外国だってもっとつらい時代や地域もあるのだから、今だけがことさら特別に悪い時代というのはちょっと見方が狭いのではないかという気もする。それを百も承知でいっているのなら別だが。全部がダメということはないと思う。

2009年11月5日木曜日

友人


オバマ大統領が間もなく来日するが、私の思ったことを述べさせてもらう。
かつて社会党委員長の村山富市氏が複雑な権力闘争の上総理大臣になった。冷戦も終わり、中国も市場原理を導入したときに、いまさら社会党?とアメリカ人には理解できなかったろう。「日米安保反対」「自衛隊違憲」の社会党の委員長が総理になって、官僚もアメリカにどう説明すべきか頭を抱えたと思う。
そして、クリントン村山会談で村山総理は今までの経緯を細かく説明した。そうしたら、クリントン大統領は村山総理に好意を持つようになり日米関係を壊すことはなかった。

私が鳩山総理にお願いしたいことは二つ。

一つは「なぜ、我々が沖縄にこだわるのか」単なる騒音の問題ではない、歴史的な経緯があることをしっかりとオバマ大統領に説明してもらいたいということ。大統領は耳を貸して下さる方だと私は思う。そうすれば、なぜこの問題にこれだけこだわるのかがアメリカ人にも理解してもらえるかもしれない。

もう一つは、鳩山首相は「行き過ぎた新自由主義を正す」とか「東アジア共同体」とかいう発言をしているから「反米」なのではないか、と一部の人に思われているようだ。
首相自身アメリカにも留学したし、決して反米ではないと思う。であるなら、そのことをアメリカにも世界にもはっきりとメッセージとして送ることをしてほしい。アメリカで学んだことも多いと思う。そのことなどを発言することはいい事だと思う。
ただし、今までのようにアメリカに盲従するか、石原都知事のようにアメリカ批判ではなく、お互いに相手の立場を尊重しつつ言うべきことは言う。そして、双方がwin-winの結論を目指していることを明確にしてほしい。
それこそが、真の友人だと私は思うしオバマ大統領なら理解してくれると期待している。

おそらく、今のままでいけばあと3年は鳩山、オバマ関係になるだろう。ゆえに、真の友愛、友情を築くことは双方の大きな国益にもなる。

2009年11月4日水曜日

日米



私は国際関係の専門家でもないので、間違ってるかもしれないが、その点は専門家にご批判いただきたい。その上で単なる無知な素人の意見を言わせてもらう。
オバマ大統領が間もなく来日するが、普天間基地移設問題で鳩山首相の態度がはっきりしない点で外務官僚らはやきもきしているかもしれない。しかし、私の印象ではこう思った。
鳩山首相もオバマ大統領も「理想主義者」で、はじめに大きな理想を掲げ、それを後から実行していこうとする。しかし、実現には険しい道もあり両首脳とも批判にもさらされている。
これらを考えると、両首脳はかなり似たところがある。共に民主党だし、かたや初の黒人大統領。かたや初の選挙による政権交代。
そうすると、アメリカの中には確かに鳩山首相の態度の煮え切らなさに業を煮やしている人もいると思うし、日本の官僚の中にはアメリカに配慮する為に早く結論を出してもらいたいという人もいるだろう。
しかし、中長期的に考えれば、はじめに両首脳の親密な信頼関係を築くことは、双方にとってより有益なのではないかと思うようになった。だから、従来のようにアメリカのご機嫌をとる為に早く決着をつけてくれという発想ではなく、まずトップ同士の親密な関係構築を優先することはいい事ではないかと、思った。
それが実現できれば、基地問題も県外移設は無理にしてもより日本の要望を満たす案を受け入れてくれる可能性も高まるのではないか。
鳩山首相が基地問題を急がないという理由は以上のような考えもお持ちなのではないかとさえ思えてくる。
だから、個別の問題も大切だが、両首脳の関係の親密化をはかる機会と考えてはどうか。そうすれば、あまり難しい問題にとりあえず答えを出すよりも日本に有益な結果をもたらす可能性もあるのではないかと考えるようになった。

2009年11月2日月曜日

レオ


うちの犬は、もう10歳。ヨボヨボで階段を上ることもできず、お尻を押してやらなきゃならない。大型犬なので動くのも大変そう。でも体は痩せ細り骨がごつごつでてきて見るからに軽くなった。
参照

しかし、買う前から夢だったアニマルセラピーについに参加できた。前に2度、父と母とで見学に行き、前回は犬も一緒にいったけど、初めてだったこともあって遠くから見ているだけだった。それだけでも十分存在感があるといわれた。しかし施設のお年寄りとふれあう機会がなかった。こっちも年寄り犬でいつまでもつかわからない。10月18日に秋風も涼しい小雨の日に、ついにお年寄りと面会できた。父をはじめは無理やり連れていったが今はよかったといってる。大きなホールに全員車イスで輪になっていて、そこを犬を連れてまわってお話を聞く。うちのレオくんは一番大きくて、しかも優しい性格で、犬が嫌いといっていた人まで撫でて下さった。ほんの30分ぐらいの活動だが施設の方にも喜んでいただいて、こちらも嬉しい。
こういう活動は段々増えてはきているが、やるほうはボランティアだからただだし、準備とかは大変かもしれないが、もっと多くの施設でやってほしい。
飼い主の側も、犬を飼っている価値を感じられるし、事前の段取りや組織運営などは日本より進んだ国などに学びつつ、ちゃんとした組織が運営するアニマルセラピーは発展していってほしい。
最後に、施設利用者のおばあさんの膝にガムテープをつけて犬の毛をとっているとき、そのおばあさんが、なにか感極まったように「私も昔犬を買ってて・・・」とかいっているようだが私には解読できなかった。しかし、無視するのも悪いので一生懸命聞こう聞こうとするが、こっちが一生懸命聞こうとすればするほど、感情が高まって何いっているかわからない。でも、自分の話を真剣に聞いてくれる人がいることが嬉しいのかなと思った。うまく聞きとれずちゃんと反応できなかったけど、聞く態度を示すことも大事なことだと思った。

2009年11月1日日曜日

削除



間違えて昨日のblogを消してしまった。blogに広告載せるのに試行錯誤していて。
昨日の内容は、私も金がなくなって節約して生活してるので、民主党さんの痛みもわかる。お互いに痛みに耐えてがんばって無駄を省きましょうということ。