2009年11月21日土曜日

ユニクロ化


菅副総理は、日本がデフレにあることを発表した。

出来るだけ毎回断るが、私は経済の専門家ではないので、それが正しいか否かは必ず専門家の判断を仰いでから判断していただきたい。これが、単なる謙遜でないことはこのblogを読んでる方なら分かるだろう。

物価が下がることはいいことか?

消費者にとってはいいことのハズである。

しかし、国全体にとっては大きな問題である。

経済学の専門家やメディアは、このように全体の利益が普通の人の感覚と反対になるときにそれを分かりやすく説明してほしい。

物価が下がれば、ものがよく売れるようになるならばいい。しかし、社会保障に不安がある場合、景気が悪ければ安いものでも買わずに、「節約」してしまう。
私自身、現在お金がないので飲みたい飲み物を我慢したり、電車の切符も回数券を買うなど、節約に勤めてしまう。

一方で、政府は史上最大の予算を削るべく日夜必死の努力をしている。それを見ると、人によっては政府も我慢して節約しているんだから、私も出来るだけ節約しようと善意で思ってしまう人がいるかもしれない。

しかし、みんなが節約すれば、ものが売れなくなり(消費の低下)、ものを売っている会社は儲からなくなる。そうすると、従業員の給料もカットしなければならなくなる。
会社員のお父さんの給料が減ると、また節約しなければ、と思ってしまうするとまた、会社の売り上げが落ち、会社が儲からなくなる。すると、またお父さんの給料が下がる。

「デフレ」とか「消費」とか「需要」といっても、日本人全員が経済学部を出ているのではないのだから、分からない人が多くても当然だ。だから、専門家向けに書く文章ならいいけれども、一般人に向けていう場合は、専門用語を使わずに具体的に伝えるように、エコノミストの方々にはお願いしたい。
もしろん、そうしてる人は沢山いることは確かなんだけど。

今、話したのはマクロ(巨視的)経済学の問題で、今民主党が無駄を削ろうとしているのは、財政(学)の問題なので、目的が違うのだが、紛らわしいので間違える人もいると思った。なので、そこを、わかりやすく伝えてほしいし、私も無知ながら伝えようと思っている。

もともと、バブル崩壊以降の日本は「景気」と「財政」のジレンマに苦しんで誰もそれを解決することが出来なかった。

「景気」を良くするためには、国がお金を出して働き口(需要)を創出すれば、人々は働き、お金を得、それを使う(消費の拡大)すると。それを売った会社は儲かり、給料を上げることができる。給料が上がればまた買い物が出来る。こういう状態を「景気の好循環」と呼ぶ。
このように、政府がお金をまず出して景気を良くしようという考え方は、20世紀のイギリスの経済学者のケインズという人が考えた。従ってこの考え方を一般にケインズ主義といったりする。

日本の高度成長はこの考え方による政策が主のものだった。

ちなみに、バブル経済はどうなのか?
バブルが何故起きたかというと1985年、貿易赤字に手を焼いていたアメリカがドル安を容認することをニューヨークのプラザホテルで発表した。
ドルが高いということは、アメリカの国力を表す。アメリカのものを買おうと思えば高いお金を払わなければならない。逆に、アメリカ人は普通の人の給料で外国製品をたくさん買える。
ところが、アメリカ製品と日本の製品に品質の差がなかったらどなるか?当然、アメリカ人が日本製品を買うことになる。すると、アメリカ製品が売れなくなる。このように日本や他の国の製品ばかり売れて、アメリカ製品が売れなくなって(貿易赤字)困ったアメリカはドルの価値を下げてアメリカ製品を安く売る、外国製品を高く買う政策をとることに決めた。

ここからが皮肉なことなのだが。現在我々が「経済学」と呼んでいるものは正式には「近代経済学」だが、それをはじめて学問としてまとめたのが18世紀のイギリス人アダム・スミスという人であるのは常識だが、彼の考え方は私は今までの思想家の中かでも極めてユニークだと思う。
彼は、人々が利己的に振る舞うことによって全体としてよい社会が出来ると考えた。
私は普通の思想では、人々が「利己的」振る舞えば社会は悪くなると考えられていると思っていた。社会を良くするためには「利己心」を捨てて「利他的」にならなければならないと、いうものだと思っていたので驚いた。
「利己的」で「いい」のみならず、「利己的」である「べき」なのだ。しかもその結果、社会は良くなる。こんなお得な考えはないではないか。これが本当なら、何の苦労もなくなる魔法の様な思想だと思った。

実際彼の考えは、半分当たって、半分はずれた。現在の先進国や、新興国の中国やインドを見れば基本的には、彼の主張した「自由主義経済」が、人々を「経済的に」豊かにすることに誰も異論はなかろう。

しかし影の面もある。経済至上主義の結果失われた、「伝統」「自然」「共同体」などを上げることもできる。

大きな問題は、持てるものと持てないものに大きな格差を生む。例えばアメリカには国民皆保険制度がないので、お金持ちは高い薬を買ったり、高額な治療を受けられるが、保険にも入れない人はお金がないので医者にも行けない。

このように経済の市場の原理が社会の原理になるという考え方を「資本主義」というが、19世紀ドイツの哲学者、経済学者、ジャーナリスト、社会運動家のK.マルクスは資本主義を徹底的に研究した。彼によれば、まず工場を持っている人と何も持っていない人がいれば、何も持っていない人は工場で働いて給料をもらう。働いた分だけ給料をもらうので別に不公平ではない。しかし、工場(生産手段)を持つものは給料を払ってもさらに「儲け(剰余価値)」がある。すると工場を持ってる人は怠けていても莫大な財産が入るのに対して、働いている人はいくら働いても最小限の財産しか得られない。この不公平を是正するために工場をみんなで共有する社会にしよういう考えを「社会主義」という。

20世紀後半は、資本主義の国と社会主義の国が対立していたが、結局社会主義は効率が悪いということが明らかになり、社会主義国は崩壊するか資本主義に転向することになった。

社会主義まで極端ではないけれども、お金のある人からは多く税金を取って貧しい人に分配しようという「福祉国家」という考え方もあり、北ヨーロッパの国々はこの考え方に近い社会を作っている。

資本主義もお金を儲けることは上手いが、その他の価値を失わせるという批判もあり、社会主義や福祉国家的な政策も取り入れて来た。

景気を良くするために、国がお金を出そうと言うケインズの考えも資本主義(自由主義)の中では社会主義的だ。

ケインズの考え方はアダムスミスのように野放しの資本主義を否定したわけで、一時期は経済学の主流であり多くの成功例も出してきたが、欠点もある。国がお金を出すことで、景気が良くなるならどんどん出してくれと国民は要求する。すると、国のお金がなくなってきて赤字になる。しかし、国に頼りすぎた国民は自力で景気を良くすることが出来ないので国に要求せざるを得なくなる。そこで、国は赤字がどんどん増える。国のお金は国民のお金なのでいつかは税金その他で返済しなければならない。

この様なケインズ主義の批判として、もう一度アダム・スミスの考え方に戻ろうというのが「新古典派」といわれる人たちの考え方である。

アダム・スミスのいったように、人々が自由に振る舞えば景気はよくなる。

ところで「市場」というと自由競争の社会だから格差を生む強者の論理だと勘違いしている人がいるがそうではない。「市場」とは、人々が自分が一番得になるように考えてものを売買する場であるが、その結果適正な価格が決定されるというのが「市場」の考え方である。従って市場主義は「独占禁止法」と必ずセットになっていないと機能しない。一人の人がある商品を独占してしまえば、そこで自由な競争は行われずその人に都合のいい値段がついてしまう。高いと思ってもそれはその人しか持っていないのだからその人の言い値で買うしかない。
マイクロソフトが独占禁止法の疑いで訴えられたのもこの原理のためであって、別にビル・ゲイツに嫉妬したからではない。

それぞれの人が、利益を最大化しようと振る舞えば買い手は少しでも安いものを買おうと思う、売り手は少しでも高く売ろうと思う。しかし、独占は出来ないのでとなりよりも高ければ客はとなりの商品を買うことになる。だから、売り手は高く売りたくてもとなりより高くは売れないしかし、値引きしすぎたら儲けが出ないので商売をする理由が無くなる。そこで売り手は、従業員を雇って商売が出来るギリギリ安い値段で売らざるを得ない。このようにして、全ての人が利己的に振る舞うことが適正な価格を決定するというのが「市場」の考え方だ。

80年代に、レーガン(米)、サッチャー(英)、中曽根(日)たちは、「新古典派」的な経済政策に転換することを宣言した。ケインズ主義では効率が悪く財政赤字が膨らむばかりだからだ。
アメリカは、財政赤字と貿易赤字という双子の赤字に苦しめられていた。貿易赤字とは輸入が輸出を上回ることで、日本製品はアメリカでよく売れるけどアメリカ製品は外国ではあまり売れない。
その対策の一つがドル安容認で、その象徴がプラザ合意である。
しかし、それだけではない。アメリカの求めたことは日本人にアメリカ製品を買わせるこだ。
そこでアメリカは、日本でアメリカ製品が売れないのは日本の市場が閉鎖的だからだという論を立てる。私は「実際に日本の市場は閉鎖的な面もあるが、それはどこの国でも大なり小なりあることでそれをも見越して努力した企業は、マクドナルドもコカコーラも成功しているじゃないか」と思った。
ともあれ、アメリカは日本人がもっとアメリカ製品を買うことを求めた。親米保守の中曽根首相はそれを受け入れる立場を示す。

一つの皮肉は、レーガンもサッチャーも中曽根も、元来伝統的価値を否定する性質の「新古典派(新保守主義)」の経済政策をとりながらも、自分は伝統主義者であるがごとく振る舞ったということである。これは、右翼へのエクスキューズ(アリバイ)であり、小泉が靖国参拝にこだわったことと同じことなので、それほど不思議ではないが、皮肉ではある。
アメリカは貿易赤字是正のために日本に様々な要求をしてくる。「規制緩和」10年間で500兆円ちかくの「公共投資基本計画」、それらを実現するために「日米構造協議」さらには口約束ばかりして効果が上がらないと「数値目標」まで出してきた。

私が一番皮肉に思うのは、本来「新古典派」的な政策を訴えたアメリカがしてきたことが、ケインズ的であったり場合によっては社会主義的、計画経済であったということである。アメリカは国益のためには、理念は如何様にも解釈してくるのだと思った。

80年代に消費文化が日本を席巻して、日本人のライフスタイルや思考を大きく変えたのは、このように、日本人に「消費」が悪で「倹約」が美徳だという考え方を変えさせようというアメリカの意思が背景にあることは明白であろう。80年代を代表する大衆文化は、自民党との関係も深い「フジテレビ」の「楽しくなければテレビじゃない」という「軽ちゃー」路線やセゾングループの「おいしい生活」などの文化によってリードされていった。

私はsonyがCMで「若い頃の苦労は買ってでもしろっていうでしょ。あれ、嘘だよー」というのを見て、今までファンであったsonyが一時期嫌いになった。

経済界で起こったことは、空前の好景気。日経平均が3万円を超えた。

「バブル経済」とは実際の値段(名目経済)が実際の価値(実質経済)を上回ることで、それ自体は資本主義であれば必然的に起こる現象であるがその乖離が著しい場合に「風船のように外身は大きいけれども中身が空っぽだ」という揶揄を込めた言葉である。

投資とは何か?
ある人があるアイディアを持って商売をしようと思う。しかし、金がない。そのとき、将来儲かったらより多く返しますといって人から金を借りようと思う。お金を持っている人(投資家)は、その商売が将来成長するかどうかを見極め、成長しそうならお金を貸す。
これが「投資」である。

投資家は、従って将来どの会社、どの分野が伸びるかを冷徹に計算する。その時に一番楽なのは、大きな組織がお墨付きを付けることだ。バブル時代は、政府が消費を奨励し実際公共事業を多く行った。

駅前に1億円の土地があったとしよう。政府が駅前の開発を発表すれば、その土地は将来の利便性が上がることが確実である。投資家は争って土地を買いあさった。1億円の土地が将来3億円の価値になるかもしれない。

山の中の土地も、将来リゾート地やゴルフ場になって高くなるかもしれない。
政府が金を出すと言っているのだから安心感は強い。
それどころか、その裏にはアメリカの圧力があるのだから確実性は極めて強固なものになる。

そこで、みんな土地を買いあさり売らないところには地上げ屋が脅しにくるようになる。

中曽根首相の信念に反して、地域の共同体はズタズタに引き裂かれた。
高度成長期にあった「勤勉」の美徳は否定され、新たな「自己責任」の倫理も生まれなかった。英米の新保守の「小さな政府」を「民間活力を政府も利用する」と意図的に曲解して、「公共心」もなく金儲けはしつつ、「自己責任能力」もなく破綻したら政府に尻拭いさせる「第3セクター」なるものを作った。
公のものであるなら、私的に利益を追求すべきではないし、私企業なら金儲けをしてもいいけど失敗すれば自分で責任をとるのが当然なのだが「第3セクター」にはどちらもなかった。

1億円の土地が将来3億円になるかもしれないので2億円で買う。ここまでは健全な経済行為だが、地価の上昇が「土地神話」にまでなると、将来3億円の土地が競り上がって4億5億、10億と払われることになってくる。そのころから、バブルと言う言葉ささやかれはじめる。「もしかしたら、ちょっと払いすぎかも」という不安と「いやまだ日本の経済力からいえばまだまだ伸びる」と自分に言い聞かせる様な言説が交じりあい、ついに「やはりこれはいきすぎだ」と気づいた。そこで、このバブルをどう軟着陸させるかが問題となる。3億円の価値の土地に10億円払った人は、「競り」が一気に引けば7億円の借金を持つことになる。日本中が借金だらけになれば、新しく投資しようとする人がいなくなる。しかし、バブルをそのまま放置しておけば痛手はさらに大きくなる。

1990年、政府は「土地取引の総量規制」を発表。
多くの投資家は、バブルの終焉と捉え少しでも損を少なくするため競って投資から手を引く。
バブルは軟着陸できずに90年代はほぼゼロ成長の不況の10年であった。

経済を立て直すためには、先ず投資をしてもらわなければならないが、その主体である金融機関が売れ残った土地(不良債権)をたくさん持っているので、借金があるうちは思いきった投資はできない。そこで、景気対策として企業の不良債権処理に国の金を使おうとすると、私企業に公の金を使うのは不公平だと批判される。それはもっともなことなのだがその結果景気回復が遅れ一番苦しむのは弱者だということも知らなければならない。

結局、不良債権処理は遅れ、公共事業をやっても景気は上がらない。でも、止めたらもっと下がるのでやめられない。一方で、財政もバブル崩壊で赤字に転じ借金もふくれあがる。

90年代は、「公共事業」をやれば「財政赤字」が増え、やらなければ「不況」はつづく。
「財政」と「景気」のジレンマの時代だった。だれも、正しい答えは出せない。仮に私が当時総理大臣だったとしても、解決するためにどうすればいいかわからない。森内閣では、橋本、宮沢、二人の総理経験者にして党きっての政策通を入閣させ、日本を代表するエコノミストの堺屋太一氏に経済企画庁長官を担わせたが。堺屋がやったのは「インターネット万博(インパク)」だった。「大阪万博」とは「質」が違うことがわからなかったのだろうか?わかっていてもそれぐらいしか思い浮かばなかったのか、結局国債を出してだらだら景気対策をつづけるしかなかった。

そこで2000年代に小泉首相が登場して「小さな政府」(アダム・スミス的)な立場を一貫して主張し実行する。痛みがあり反対者も多い政策が実現できたのは彼の一徹なキャラクターによるところが大きいと思う。実際彼が壊した古い自民党のネットワークは破綻して。小泉以降の自民党は選挙ではことごとく民主党に負け。2009年、史上初の選挙による政権交代がおこり現在に至る。

そして、一時期は小泉路線で日本は復活するかと思われたが、今度はアメリカ発の「リーマンショック」で世界同時不況に襲われる。構造は日本のバブルとかなりかさなるが、アメリカ人の方がドライに金儲けに徹して、複雑な金融商品を様々開発して結局殆どの人が何が得かがわからなくなり、破綻したと思われる。これは、外国発なのでどうしようもない。

では、これからどうするか?
まず、「財政」と「景気」のジレンマは現在でも続いている。
これは、誰が悪いからともいえず、また誰もが解決することが極めて困難な状態であると私は考える。民主党サポーターだから民主党びいきに考えてではなく、自民党政権時代から私にはこれという解決策はなかった。つまり「特効薬はない」「地道に無駄を省き、費用対効果を考えた景気対策をする。そしてそのことを国民にわかる言葉で説明する」しかないのではないかと思う。
今日の日経の社説「潜在的需要の大きい医療、教育、保育などの分野の規制を一段と緩和することが大切だ。企業経営を後押しするためには、法人負担の軽減も重要。貿易自由化交渉に弾みをつけることで、海外の需要を取り込むことも欠かせない。世界でデフレのワナから抜け出せないのは日本だけ。経済の閉塞感を打破する政府のメッセージが何より大切だ」
投資家が読む新聞なので、かなりアダム・スミス的なのは当然として、規制を緩和しさえすればいいとは限らないのは「リーマンショック」が証明しているし、仮に景気が上がっても他の社会的価値が失われることにも政治家は目を配らなければならない、という反論も成り立つが、私がいいたいのはそのことでなく、日経の社説でさえもこれという決定打を出すことが出来ない地道にいろいろ規制緩和をしていくしかないとしかいえない。それは、別に新聞社を否定したり肯定したりする意味ではなく、それぐらい専門家でさえも難しいということがいいたいのだ。

その中で健闘しているのが、象徴的にいえば「ユニクロ」だ。
個性を出来るだけ出さないことで購買層を広げ、安価にある程度の質のものを提供する。
安価にいいものを持つ方がかっこいいという価値転換の戦略が功を奏して成功している。
そこで私が思うのは「ユニクロ」が成功している。従って日本の企業は「ユニクロ」を見習うべきか?という点である。
「ユニクロ」に限らず現在私たちの使っているものの殆どが、アジアなどの新興国で作られている。「ユニクロ」的経営を肯定するなら、当然最も労働単価が安いところで生産する必要がある。人々を引きつけるには人々が驚く様な「安価」な目玉が必要になってくる。
もし、他の日本企業が「ユニクロ」にならったなら、労働力は外国に行き、売れるためには値段を下げる。それでも、利益を出し続けるためには、薄利多売なので多くの人に注目され続けなければならない。ときおり有名デザイナーを採用したりして話題を作り、値段はさらに安くしていかなければならない。

グローバル化した労働市場では、嘗てK.マルクスがイギリスで見た労働力を商品として売るしかない人々(プロレタリアート)と、持てるものがさらに持とうとする、持たなければ破綻してしまう、マルクスが「資本」と名付けた形も意図もない巨大な運動に巻き込まれていく社会、そんな風景が再現されるのではないかという不安も頭をよぎるのである。

グローバル化した社会に残る国境は逆にグローバル化の壮絶さを見えないように働くのかもしれない。ネグリ、ハートのように悪者探しをするつもりはないが、現在日本で進むデフレという現象は、「ユニクロ」的資本主義を生み出し回転させ、グローバル化に対応するという目的でグローバリズムに棹さす役目を果たす可能性はないのか?その時、労働市場の海外への流出は必然であり、相当強い保護主義をとらない限り止められないが、それだけ強い保護主義を実行することは状況がゆるさず、自由貿易圏がブロック主義をまねくことはアメリカが許さない。

すると、私の関心は旧来の「財政」と「景気」のジレンマ。これを解くのも極めて難しいが、問題自体は古いものだ。
もう一つの関心である「ユニクロ」的、デフレの世界史的な意味である。

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