2009年11月10日火曜日

文体





文体と「自己」
私は大学院ではデザインを勉強しているのだが、選択授業の中で「文学特殊研究」というのがあった。
私は、もともと小説をあまり読まないのだが、小説を書く授業ということでおもしろそうだと思ってとった。
私は、これまでに小説といえるほどのものは、二つ書いたことがある。
最初の大学に入ったころ、悩みがあってそれをなんとか他人に伝えたいと思ったが、従来の文章では伝えるのには複雑すぎるので、小説の形式で書かざるを得なかった。当時、カウンセリングに通っていたので先生にそのことを話すと見せて欲しいというので見せた。
先生は有名な劇団の関係者で、普通ならいかないけど、どんどん上に上がっていって日本を代表する演出家が読んでくれた。そして、その感想は「大学生にしてはよくできている」というものだった。私はそれを聞いて、どんなにテーマが正しく、どんなに表現に気を使っても、伝わらないものは伝わらないのだなと思った。
その後、さらに精神の危機状態にあった時もう一度、小説を書いたが、理解できる人が思い浮かばなかったので、誰にも見せなかった。死後、発見されて何百年かに一人でも理解できる人がいればいいかな、とぐらいに思っていた。
しばらく経って、カルチャーセンターで私の尊敬する高名な学者の講座があった。そのリーフレットの中で、メモ書きでも何でもいので何か思っていることを書いて下さい、と書いてあった。そこで私は、精神的危機のときに書いた膨大な文章があるが、それをいきなり送ったら、恐らく向こうの先生のほうがびっくりして恐がると思い、小説の形ならまだ安全に読めるだろうと、以前に書いた小説を2つ送った。
2つ目は理解されるかどうかわからないが、その学者は、私が死んだ時に私の書いたものを見せるように遺書を書いたときに第2位の人なので(ちなみに1位は故河合隼雄氏)、その人に見せるチャンスなんてめったにないと思い理解されないのは覚悟の上で「他の人に見せないで下さい」と書いて送った。
しかし、当日の講座では結局理解できなかったことがわかった。さらに、ある別の学者を急に口汚い言葉で罵った。その人と対談までしてるのに。

私は世の中殺伐としていて、よく人の悪口を言う人がいていやだなと思っていたところ、この人のことは、そういう人ではない、人格者だと勝手に思っていたので、その言葉を聞いてたいへん驚いた。自分の人間を見る目のなさを思い知らされた。

以上のように小説を書いたことはあるが、文学そのものはそんなに詳しくはない。しかし、院なので人数も少なく3~4人で先生の研究室でやるもので、小説書いてきたい人は書いてきてみんなで読む、という自由な感じのもだった。私は授業が面白くて、芥川賞をとった偉い作家にこれだけ直接指導してもらえるチャンスもあまりないと思い。毎回、無遅刻無欠席でほぼ毎回、短編小説を書いていった。blogに載せてあるのがそれである。
先生は、褒めても下さるが私の欠点は「文体がない」といわれた。
私は意味が分からなかった。文体とは私は文章のスタイルのことだと思っていたので、「文体が悪い」というのならわかるが、「ない」というのがわからなかった。
私は実験として毎回わざと違うスタイルの小説を書いていった。ある小説は、女の子3人の日記だけでできているもの。できるだけ、女の子が書いているように、そして3人のキャラクターをわけて書くことに気をつけて書いた。当然、地の文はないし、それぞれ別の人が書いたような文になる。だから、私固有の文章のスタイルがあらわれることは構造上ないので(私固有の)文体がないのは当然じゃないのかと思った。いろいろ実験して、毎回違う人が書いたような文章にしようとしていたので、挑戦していていいと褒められるかなと思っていたら「文体がない」といわれる。
私の反論は
1、今までの小説のように、その人らしさをわざと出さないように書いたので、それは、一つの新しい書き方の実験として認めてくれてもいいのではないか。
2、どんなに、別の人が書いたように書こうとしても、結局そこには自然に自分らしさが出てきてしまうものだと思う、それが「個性」であって、わざと個性的に書こうとすると、わざとらしくなってしまう。
3、「いかにも小説家らしい文章」というものがあると思うが、創作の世界では、それを乗り越えることが価値があると思っていたが、先生の話を聞いていると「小説とはかくあるべき」と言う固定観念があって、それに合うように指導されてしまうのではないか、型にはめられてしまうのではないかという不安があった。
4、色々な文章のスタイルで書こうとしていても、私の文章の書き方にも共通する部分もある。私はできる限り、不必要な修飾を排し、情に流されない文章を書こうと思っている。それが、下手というのならわかるが、下手でも何でもそれが私のスタイルなら「文体」が「ある」のではないか。

このような点から「文体がない」という意味がわからなかった。
先生は「とにかく人の書いたものをたくさん読むことです」といわれた。
私は、一方では「文学」の型にはめられてしまうのではないかと疑心暗鬼になりながらも、古いものを否定するためにも古いものを読むことは大切だと思い、たくさん読むことに同意した。
しかし、もともと読書が苦手で小説は特に苦手で夏休み中に、短編集一冊しか読めなかった。中盤からは先生も結構厳しくなってきて、私の書いたものを「こんなんじゃどうしようもないな」といい。私も苦しい立場に立たされた。そこで、読書が苦痛だと言うことを先生に訴えると「本が読めないというこを文章にして書いてごらん」と言われたので、私の思いを書いた。

http://shunichisuzuki.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html

すると「ここで開き直られても困るんだよね。僕は下手とはいってない。むしろ下手な文章を書けといっている」
私はかなり自分のことも細かく書いたつもりだったが、先生は
「まだ隠しているものがある」といわれた。
もう一人の女の子が、小説を書いてきたので読んだが、不思議な小説で「父が死んだんだけど半分ない。物理的にはあるんだけど、もう半分はパリにある」というもの。
最近色々読んで、女の人の書いた不思議な小説というがあることは知っていたので、その点は驚かなかったけど、その中で「私は洗濯物をまたいで部屋に入った」という描写があった。私は「こういうところがうまいと思うんですよ」といったら、先生も「それは正しい」と賛同された。女の子が「洗濯物をまたいで部屋に入った」と書けるのはすごいと思った。私も女の子の視点で小説を書くことがあるが、これは書けない。ちなみにうちの姉の家も洗濯物などで散らかっている。でも、そこはあまり人に見せたくない部分でつい格好つけて「フランス製のソファーに横になった」とか書きたくなる人が多いと思うが、この「洗濯物をまたいで」一言でその人の、生活や性格、人柄がわかる。わかると言うより伝わってくる。
これは、作者が世の中を自分の目で見て、自分で感じ、感じ方がセンスがあるということだと思う。
それを自分の文章比べてみると、その子の書いた文章は「中身が詰まっている」感じがするが、私の文章は「カラカラに中身が詰まってない」文章に見えてきた。
そう思うと先生も悪意で私を批判しているのではなく、私に上達してもらいたいから厳しくしているのかもしれない、有り難いことだ。
先生のいう「文体がない」といのは単に自分独自の文章の「スタイル」がない、ということでもなさそうだと思えてきた。
その女の子は、文章に「重み」がある。私はできるだけ記号的に書こうとしているので、文章そのものはカラカラに「軽い」。
確かに「小説はかくあるべし」という型にはまるのはいやだが、文章にいくらたくさん形容詞をいれても、「軽い」文章は見る人が見ればすぐに「軽い」とわかってしまう。例え記号的でも、何か深い意味がありそうなカフカや哲学でいえばヴィトゲンシュタインのような文章もある。
先生のいっていた「文体がない」というのは、その「軽さ」のことを言っているのかもしれないと思った。
さらにいえば、文章が(本当の)自分と一体化していない、という感じだろうか。
私が「小説をよく読む人はイメージする力の強い人だと思う」と書いたら、先生は「それはどういう意味?」と理解できなかった。私はデザイン学科なので「絵」のイメージで文章を考えていたが、先生はある小説の冒頭を読んで、「これを映像化できるか?」といった。つまり、文章とはただ絵のように対象を表現するだけのものではなさそうである。先の女の子なんてストーリーやイメージで書いていないで、文章そのものがあふれ出てきている感じだ。
そこで、先生のいった「文体がない」というのは先ほどいったように「自己」が文章と一体化してない。だから、文章の顔が見えてこない。そういう意味かなと今は思う。
それは、確かにそうで、私の特に最近の文章は「弱い」。
でも、反論もある。わざと顔のない文章を書くことも、一つの実験としてあってもいいのではないか。
しかしそれでも、文章の「弱さ」は伝わってしまうものだ。
型にははまりたくない。でも、どんなスタイルでも「強度」のない文章は読んでいて魅力がない事はわかった。
でも、本当の自分を出すなんて簡単なことではない。心理学者のC.G.ユングは「意識と無意識の中心」を「自己(Self)」と呼んだ。
しかし、「本当の自分」を出すことは怖いことであり、恥ずかしいことでもある。大体何が本当の自分なのか意識にはわからない。
フロイトは神経症を治すために「精神分析」という治療法を発明した。それは毎日行われ、自由連想法といって、思う浮かんだこと全てをどんなに恥ずかしいことでも話すという契約を患者と結ぶところから始まり、夏休みの休暇にまで患者を連れていったと言われる。それで、神経症ひとつ治すのに10年以上かかることもあった。
したがって、来週までに「本当の自分」を書いてこい、なんて軽々しくいえるものではない。
しかし、何らかのかたちで「自己」と繋がってないものは、面白くないことも事実だ。
学部時代、「よいデザインとは何か」を考え続けていて、どうしてみんなはあんなにうまくて面白い作品を作れるのに自分は作れないかと悩んだときと同じ構造のことが起こっている。
苦手ならわざわざ文学を書かなくてもいいじゃないかという人もいるかも知れない。しかし、先生があるとき「文字を使ったもので『文学』以上のものはない」といわれた。それを聞いて、自分も何とかその文学を書ける人になりたいと強く思った。

正しいか、間違っているかはわからないが先生のいう「文体がない」ということは、「自己」と一体になった文章ではないというふうに今は解釈している。

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