2009年11月7日土曜日

危険

今日はカルチャーセンターで4つの講座。今までのタイ記録である。
最後に、一番大事な宮台真司氏の対談「『危険』思想としての社会学」。いつもの様に相手はお弟子さんの堀内進之介さん。
まず堀内さんが、社会学成立期の歴史的背景を説明する。
1948年のウェストファリア条約により現在のヨーロッパの骨格ができた。それが、アメリカ独立戦争、フランス革命でこわれ、その後ロベス・ピエールの恐怖政治など混乱が続き「自由」「平等」「博愛」への信頼が失われていった。そこで、社会学や社会科学が生まれた。
サンシモン、コント、スペンサー等が当時の思想的リーダー。彼らは歴史を発展的に見る。スペンサーはダーウィン以前に「適者生存」という言葉を使った。
コントは初めて「社会学」という名前を使った。最初はガリガリの実証主義者だったが、後に(恋人の死をきっかけにというのをきたことがある)「人類教」という宗教を作った。

宮台氏は社会学の「危険」な部分を是非理解して欲しいといった。
社会学は機能主義的に考える。
機能とは「全体」にとってどの様に役立つかを問う。
「全体」という概念を使う。「全体主義」と親和性が強い。
1930年代アメリカ、ニューディールは「全体主義的」な面を持っている。
「全体」にとっていいことはいいじゃないかと思うかもしれないが、例えば「次の世代の全体の利益」のために、今の人間が死滅することが「いい事」にもなりうる。
それを描いたのがアーサー・C・クラークのSF「幼年期の終わり」。我々はネクストジェネレーションの為の捨て石だったのかもしれない。
18~20Cは不安な時代。超越と世俗をいったりきたりしてる。
それは「権威主義」と「参加主義」の対立とも言える。
「権威主義」は誰か偉い人に任せる。「参加主義」は自分たちで決める。

宮台氏は「憲法を『機能』として理解している人とは話せるが、中身を本気で信じている人とは話せない」。

N.ルーマン35歳の「制度としての基本権」は、信仰ではなく機能として人権が語られている。全てが政治的に決められる社会へ戻らない為に、分化した社会に楔を打つのが「人権」。
しかし、「死滅」さえも「機能的」でありうる。

全てが人が置いたものに過ぎない(当然ニヒリズムを生む)。それを受け入れる手続き、それが「全体性」。「全体」に役に立つ。

堀内 機能が理解されることはいいこと。しかし、「危険」な部分も肯定しうる。

宮台 

保守主義、アメリカとヨーロッパでは違う。
アメリカ・・・独立革命を肯定。アンシャンレジームを否定。市民は信じられない→市場
ヨーロッパ・・・フランス革命否定。市民信じられない→階級

共通点・・・功利主義的個人主義を否定。

「ドレフュス事件」免罪事件。保守によるキャンペーンだと、当時の進歩派は反発。デュルケーム、エミール・ゾラ。

デュルケーム「功利主義的個人主義で社会が壊れるのは当然。しかし、社会の複雑性がませば
個人主義になるのも必然。『道徳的個人』『社会の有機的連帯』『個人の個人に対する信仰』」

のちのパーソンズは「decency(品位)」が必要と。


19世紀は潜在性の思考。フロイト、マルクス。

ウェーバーは官僚制の負の面を見つつ、期待するしかない。しかし、官僚に従うしかない社会はダメだ。
何かに依存しなければ生きていけないのはクソと同じ。(ニーチェ的)

堀内 社会学は「性悪説」 昔の未開社会がパラダイスならいいが。

宮台 レヴィ・ストロース 哲学者、人類学者「親族の基本構造」でいままで単なる慣習だと思われていた婚姻が実は大きなシステムとして動いていたことを発見。
先日100歳で亡くなったが、中沢新一などが追悼文書いているが、わかっていない。
レヴィ・ストロースの思想は「畏怖することを取り戻せ」
それから神話構造分析もしたがうまくいかなかった。

今、超越も全体性もないヤバい時代。
レヴィ・ストロースの本はある種の癒しにはなるが将来への指針にはならない。
レヴィ・ストロースが最後に残したものは「絶望」かもしれない。

以上対談。
以下、私(鈴木)の質問。「僕は美術系の大学に行っていて、中沢新一さんの教え子でもあるので中沢さんを一つ弁護すると中沢先生は授業で『もう、過去には戻れない』とはっきりおっしゃってました。あと、中沢さんと宮台さんを比べると宮台さんは社会と宮台さんの言う全体性との関係を論じていて、中沢さんは芸術を通じて非合理なものに触れるようなことを考えてると思います。そして、その不合理なものは人間に不可避でどうしても取り除くことは出来ないし、必要なものですらあると思うんですよ。それを例えば芸術を通じて触れることが出来たら人も迷惑もあまりかからず、一つの方法ではないかと思うんですがどうでしょうか」といったら、頷いて「そう思いますよ」といわれた。
以上講義。

宮台氏の言っていることから感じるのは、一つは機能としていっていることを真に受けてしまう人が多いことへの苛立ち。これは「ネタがベタになる」とわかり易く本人が説明している。そしてもう一つは、「決定論」と「自由」の問題。これは、古くからの哲学の大きな問題であって、私はかつて宮台氏の授業で(私の記憶が正しければ修士論文に書かれた)カントの「責任帰属」と「因果帰属」という分け方を聞いた。それが、考えていけば辿り着く答えなんじゃないかと思ったが、とうの宮台氏が「所詮何をやっても変わらない」とか「◯◯制はダメだけどしょうがない」とか、「近代はクソだけど、それしかない」とか、かなり苛立っている様子がはっきりしている。
私(鈴木)が思うのは、この種の問題は考えない人には理解できないし、理解しようともしないので、わかる人にだけ言ったほうがいいのではないかと思うが、もう言わずにはいられないわだかまりを感じる。カルチャーセンターに来る人をどの程度のレベルと見ているのかわからないが、自分で金払って何の資格にもならないのにきているので、普通の人よりは熱心かもしれないが、私の見るところ宮台氏が苛立っていることを正確に理解してる人はほとんどいないと思う。まあストレス発散の為にグチることもたまには必要かもしれないが、品位を落とすことにもなりかねない。また、現実に宮台氏にも色々な圧力がかかって、たんに不愉快でイラついてる部分もあるのかもしれない。心が痛い。が、それならかつて宮台氏がいった言葉を贈りたい。「社会の問題と実存の問題を分けろ」。
しかし、宮台氏のイラつきもわからないでもない、これほど絶望的なのにそれをいくら説明しても誰も理解してくれない。宮台さんを読んで育った世代の、北田尭大さんや堀内さんはある程度まではついてくるが、この身動きのできなさを共感してはくれない。東さんは大きくは理解してるけど、彼には彼の哲学があるので宮台氏になびかない。そして私のようなヘタレが宮台氏にすがってくる。そして、リベラルの代表をさせられて矢面に立たされる。きたない言葉も吐きたくなるだろう。私ごときが軽々しく気持ちはわかりますとはいえないけど、ファンの一人としては元気になって欲しい。今はネットぐらいだが、もしもっと出世したら色々なメディアでサポートもしてあげたい。
しかし、一方でこうも思った。宮台氏は近代の絶望性を強く主張しているが、一般の人や私のまわりの学生とかを見ていると、そんなに不幸な人ばかりでもない様にも見える。こんな時代といっても、それなりに満足している人もたくさんいるのではないか。時代の病にかかり易い人とかかりにくい人がいるのではないかと。
だから、自分にとって地獄のような近代社会でも意外と横を見ると隣の人は普通に生きていることもあるのではないか。また、昔だって外国だってもっとつらい時代や地域もあるのだから、今だけがことさら特別に悪い時代というのはちょっと見方が狭いのではないかという気もする。それを百も承知でいっているのなら別だが。全部がダメということはないと思う。

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