2009年11月11日水曜日

排他的宗教


今日の新聞に、民主党の小沢幹事長が仏教会の会長との会談の後「キリスト教は排他的で、独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は、行き詰まってる」と発言したと出ていた。私は洗礼は受けていないが、母がクリスチャンで毎週教会に行って、キリスト教の勉強もしているので、聞き捨てならない言葉であった。
二つの点で疑問を呈したい。

一つは、特定の宗教を批判するような言葉を、政治的地位の高い人が発言することが適切かどうか。
もう一つは内容が正しいがどうか。

第一の点は、仮にある集団に欠点があったとしても、そのことを政治的に高い地位にいる人が語ることによって、傷つく人がいる。そのことを政治家は意識することは必要だと思う。

欧米では、公の席では「人種」「宗教」「政治」の話をすることはタブーであることは常識である。このようなセンシティブな問題には政治家は常に注意をしている必要がある。
例えば、石原都知事の「三国人」発言。これらは、悪意はなくともマスコミが騒ぎ立てたのでマスコミの責任でもあるが、マスコミがそのように反応することは政治家の方も知っておく必要がある。
中国のことを「支那」という人がいるが確かに「支那」という言葉の語源は英語の「チャイナ」と同じく、「秦」である。しかし語源に差別的要素がないから問題がないと言えるだろうか。例えば、日本人の蔑称「ジャップ」も「ジャパニーズ(日本人)」を短縮しただけである。黒人の蔑称「ニガー」も「ニグロ(黒人)」が語源である。「めくら」も語源は「目が見えない人」という意味である。
したがって、語源的に差別的な意味がないから使っていいとは単純にいえない。どのような、歴史的な経緯で使われてきたかが問題なのである。
またかつて、サッチャー首相が「ドイツ人は劣等感が強い民族だ」と言って問題になったり、中曽根首相が「アメリカには黒人やヒスパニックがたくさんいて知的レベルが低い」といったり、ビートルズが「ビートルズはキリストよりも有名だ」といってアメリカの右翼にねらわれコンサートができなくなったり。どこかの大臣が「安全保障もいつまでも親鸞聖人の他力本願ではだめだ」と言って本願寺からクレームが出たりした。
これらは、中身自体は必ずしも間違いではないかもしれないが、ある信仰をしてる人たちにとっては、ひどく心を傷つけられる問題である。
だから、「言ってはいけない」とまではいえない。もし、それが信念で世間を敵にまわしてでもうったえる覚悟があるならそれも自由だと思う。しかし、もしそうではなくつい口が滑って言ってしまったというのであれば、その発言で尊厳が傷けられる人々がいるということは知らなければならない。
例えば、仮にある中国共産党の幹部が、「天皇制やその支えになっている神道は、外国の侵略を許し、日本の独善的なナショナリズムを生んだひどいものだ、だから神道はダメな宗教だ」と言ったのを聞いたら日本人はどのように感じるだろうか。リテラリーには正しいかもしれないが、感情的な確執を生み、両国の関係を悪化させ、国益を損ねるかもしれない。
文字通りには正しくて、言う権利があっても、相手の感情をかんがみれば控えた方がいい、「不適切な言葉」というものもある。

それでも、軋轢があっても言うべきことは言うという信念と覚悟があるなら、サミットの日本以外の首脳の全員がキリスト教徒だと思うので、彼らにはっきりと理路整然というべきである。世界最大の宗教を敵にまわして、先進国の首脳をすべて敵にまわしても彼らに仏教に改宗するように政治生命をかけて主張しなければならない。
実際マルクス主義者たちはそうしてきたんだから、できないことではない。
しかし、それほど深い意味で言ったのでなければ、マスコミはちょっとしたことでも針小棒大に伝えて騒ぐので、センシティブな問題への言及には細心の注意を払って欲しい。

二つ目の問題。本当にキリスト教は排他的か?
一般には民族宗教であるユダヤ教の独善的な選民思想に反対したのがイエスで、したがってキリスト教は世界宗教になったという考えが常識だが、例えば聖書のどの部分を持って排他的と言っているのかがよくわからない。イエスは当時、差別されていた徴税人や女性などとも交流をもち、神の元では、全ての人間が平等だと説いた。これは高校の教科書にも載っている常識だが、それが排他的で独善的というのはどこから出てきたのかが私には理解できない。

当時、自分たちこそ正しいと主張したパリサイ派や律法学者を独善的だと徹底的に批判したのがイエスであることは聖書を読めば誰でもわかることであるが、それをキリスト教が排他的で独善的だとどういう理屈でなるのかわからない。聖書のどの部分を指していっているのか教えていただきたい。

その後の教会のやったことは確かに独善的で場合よっては冷酷非道でもある。
異端審問。火刑。魔女狩り。新大陸では、キリスト教徒たちは「原住民は人間ではない」という理屈で大量殺戮し、民族を殲滅させたこともある。さらには十字軍。

これらは、確かに独善的で、非道なものだと私も思うし、批判されても当然だと思う。
その点を批判するのならわかる。

しかし、キリスト教徒も「第2ヴァチカン公会議」やヨハネパウロ2世などが過去の過ちを認め、他の宗教との和解にも勤めていることは、小沢さんはご存知の上で発言されたのだろうか。

もちろん思想信条の自由があるので、仏教を讃え、キリスト教を批判するのも自由だし、キリスト教を批判する人は西洋人にもいっぱいいる。しかし、こういう問題は、感情的に人の尊厳を傷つけ不必要な苦しみを与え大きな確執を生むことがあるということは是非知っていてもらいたい。それが、国益を損ねることもありうるというのは客観的事実だ。

どれだけ、知識と信念を持っておっしゃったかはわからないが、もしそれほど深い考えではなく言われたのであれば、いらぬ不毛な感情的対立を避ける配慮をすることは政治家にとって大事なことだと思う。日本ではキリスト教徒が人口の1%だから、あまり重く考えられなかったのかもしれないが、西欧先進国でこのような発言をしたならば大きな問題になるので、国際社会で重要な政治家がはこのような発言をすることはまずほとんどありえない。

話はキリスト教の話になったが、キリスト教以外でも特定の宗教を完全に否定するような発言は、言う権利はあるが、問題にもなりうるので、十分気をつけて発言してもらいたい。

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