2009年11月15日日曜日

ディア・ドクター


昨日と今日の二日間で3本映画を見た。
私はアメリカ人と英語のできる日本人に音楽を習ってるが、アメリカ人の先生がマイケル・ジャクソンの「This is it.」はすごい勉強になると言っていたので見に行った。先生は「attitude」が凄いと言う。
私はマイケルはあまり好きではなかった。無理して白人になろうと整形手術をして結局死んじゃった、愚か者のように思っていたが、映画を見ると確かに引き込まれる「attitude」とは単に「態度」という意味でなく、彼がいることでその場の空気が変わるようなパワーであると言われた。
ちなみに、私は2年間入院していて、その間テレビはホールに一つしかなかった。その中で患者に最も人気の番組は何だと思うだろうか。答えは「ミュージック・ステーション」。私はあまり見なかったが、少しトークもあるがシンプルに音楽を流しそれを聴くことが、結構人間の根源的な欲求なのかもしれないと思った。私はマイケルは好きではないが、コンサートのリハーサルのドキュメントだが、マイケルが好きでない私でさえも、映画に引き込まれる。演出もあるけどほとんどはやはりマイケルのパワーだと思う。これが「attitude」なのかな?ちなみに18~19世紀のインド哲学を学んだ哲学者ショーペンハウアーは音楽こそが芸術の最高形態だと考えた。ちなみにライバルの西洋哲学を完成したような人であるヘーゲルは「詩」こそが最高形態と考えた。
今日は、「ディア・ドクター」を見に行った。原作も読んだし、鶴瓶さんのほのぼのとした笑いもキャラクターも好きなので楽しみにして行った。
すると、「ガマの油」と同時上映なので両方見た。「蝦蟇の油」は黒澤明監督の自伝のタイトルなのでてっきり黒澤監督の伝記映画かと思ったらちがった。
いろいろ、思ったが結論から言えば駄作である。
まず役所広司を使えばいい映画になるという考えが間違っている、監督は誰だろうと思ったらなんと役所広司が監督と出ていて苦笑したが。
こういうのを何と言うのか知らないが、私の言い方で言えばコラージュ的にマルチストーリーでストーリーと関係ないような映像も出ていて芸術ぶっている。
たしかに、コラージュ型の名作もある。フェリーニの「81/2」や鈴木清順監督作品。
しかし、そのためにはまず、映像美が突出してよくなければならない。しかし、この作品は、どこにでもある風景に奇妙な車や家の組み合わせで、何の脈絡もない。しかも、全く美しくない。若者が死んだのを、カラカラ笑うシニカルさは現代風かなとも思ったが、ストーリー展開も計算されていない。最後に、死んだ若者の父と恋人が携帯で話して、実際に合うように話は収斂されていくので、そこは少し感動的だった。が、10年後には誰も覚えていない作品だろう。
その次に「ディア・ドクター」を見たので、その素晴らしさがよけい際立った。あらゆるカット、セリフ、演技、演出が全て完全に機能している。そして、「うまい」。私の大学は映像演劇学科があるが、最近成績表でABCDの他に、極めて優れた成績の者にSをつけるようになったが、この作品を出せばおそらく「S」だろう。
英語で感動したことを「be moved」というが、文字通り心の中のいろいろなものが動かされた。刺激を受けたゆえに、いいたいことがたくさん出てきた。
まず、「じゃあお前はこれだけの作品を作れるか?」ときかれたら「いくつかのシーンは作れるが私には決して作れないシーンがたくさんある」だから、自分を棚に上げて偉そうに言うが決して否定しているからではないし、私がそのレベルに達していることを示すものでもない。
見る人が見れば、最初の10分でこの映画は「今年のベストテンに入るな」とわかるだろう。
私はもう高い評価を受けたのを知ってるから当然だけど、私でさえも1/3ぐらい見れば初めて見ても「ベストテン入り」はわかるだろう。
2009年を代表する作品であることは間違いないが、贅沢を言って歴代の日本映画のベスト100に入るぐらいになってほしいと思った。その視点で偉そうに言わせてもらう。
まず、「人情味のあるいい人をシニカルな現代に描くことで、逆説的に現代を批判する」ことはずっと「男はつらいよ」シリーズが担ってきた。しかし、主演の渥美清さんが亡くなられて、担い手が定まらなかった。「釣りバカ日記」の西田敏行は一見いい人がいい人を演ずるので、「テキ屋こそが実はいい人」という逆説的なインパクトがない。鶴瓶は「完全に計算し尽くされた自然さ」を持っている。最近私はテレビを見ないので知らないが、昔は何回かドラマに出たと思うが、思ったほどいい味がでない印象があった。逆に鶴瓶のよさを出せるだけの力がテレビドラマにはなかったのかもしれない。しかし、皮肉にもだからこそこれだけ高度に計算し尽くされた映画を作らないと、鶴瓶の貴重な良さを活かすためには、いけないという結果になり、良かったとも言える。その上で、あえて意見を言わせてもらおう。
まず、オープニング。明け方か夕方の田んぼに自転車の明かりは美しい始まりだと思うが、鶴瓶が失踪したところから始まる。さらに鶴瓶にスポットライトが当たってタイトルが出る。安い週刊誌の記事なら「最初にインパクトのあるものを持ってこい」と言われるかもしれないが、彼女の実力なら、後からでも必ず人を引きつけることが出来るので、私はもっと普通を装ったオープニングの方がいいと思う。ちょうどNHKの特報首都圏で過疎の村で働いているいいお医者さんでも見るかのように、ほのぼのした感じだなぐらいに思わせておいて、見るものを油断させておいて、徐々に気づかれないように観客を捕まえることが出来ればさらに高度といえるのではないか。鶴瓶ほどのキャラであれば集合写真でもそのままでもオーラが出てるのでわざわざスポットライトあててこの人が主人公ですよというのは、余計な説明だと思う。さらにいえば鶴瓶の役名「伊野治」。あまりにも普通過ぎる。もう一人の若者の名でもおかしくない。彼のキャラならもう少し、強い名前が欲しい。◯◯之介、◯◯太郎、◯◯次郎、など。あれだけキャラが立ちながら「伊野治」という名と結びつかない。今もこの文章を書くときにパンフレットを見直さなかったら役名が分からなかった。「車寅次郎」なら、一本見たら忘れない。私も、小説を書くとき主人公の名前をつけるのが苦手だが、この場合は珍しい漢字の苗字と少し古くさくコミカルな面も持った名前がふさわしいと思う。彼が主役なので名前は、相乗効果を上げるものを選んだ方がより、心に深く残ると思う。
狙いがどこなのかにもよる。そうなると、必ずしも私の狙いが良いとは限らないので、絶対ではないが、私の理想のイメージは、のどかな山村にいい人でちょっと面白いお医者さんがいるという、音楽で言えばスローテンポで滑り出し、少しずつ「実は、明る顔の裏には・・・」という展開を狙う。安っぽいかな?でも、私はそれぐらいオーソドックスでもいいと思う。なぜならば、それでもなお人を魅了する力が監督にあるから。始めに腕を見せてしまうのはもったいないと思うから。
そうすると、人によっては安っぽくレベルを下げてしまうと言うかもしれないが、私は音楽をもっと使ってほしい。はじめは、「のどか」「コミカル」な音楽で、こちらの出したい雰囲気の意図をハッキリ示す。
ストーリーも、少し広がりすぎで鶴瓶に焦点を当てる場合、本人に語らせるのは野暮だからダメで、若い医者に語らせるのがベターだと思う。それなら、その形式は守るのがいいと思う。
鶴瓶の笑いは、始めまじめに起こったこと話して行くうちに、いつの間にか自分に不運が訪れる「なんでやねん」で笑いとなるもの。作品にも活かして、始めにはシリアスさを出さずに隠しておいて、面白い医者がいるね、と観客に意識すらさせずに、その雰囲気にひたってもらう。この監督の欠点は、上手すぎるところなのだ。部分だけとれば山田洋次でも撮れない、シーンをいくつも撮っている。しかし、私は山田洋次の方が安心して見られる。なぜか?リアルに描くところとフィクションで描くところをはっきり意識してバランスをとっているからである。彼女は、リアルに撮れれば全部リアルにしてしまう。だから、「絵」に例えると、部分部分は超リアルだが、リアルなところとそうでないところを意識的に使い分けていない。だから、全体のバランスが運任せ、コントロールできてない。小津安二郎がある役者がうまく演じたら怒ったそうだ。作品は一つの絵なのだから、一人だけうまい演技をすると絵のバランスが崩れる、と。だから、これだけ上手くリアルなセリフ、演出が出来るのだから、最も効果的にそれを使うように意識して、使う時は使う、使うべきでない時はストイックになるようにしてもらいたい。鶴瓶の普段のポーカーフェースとギャグで驚いた顔とマジで驚いたところを使い分けてもらいたい。私が例を出すとレベルが落ちるかもしれないが、例えば始めは普通のいい医者、面白い医者、まじめにやっててもついドジをしてしまう。そのときは本気で喜劇を描く。まじめにドジをする。そして、村人は鶴瓶のことが大好きなんだと無意識に感じさせる。子供との交流も描いてほしい。子供にやさしいのではなく、子供にバカにされて怒るが、子供はさらに面白がって鶴瓶をからかう。もちろん、底の底では鶴瓶もわかっているのだが、表面上は怒りまくる。でもなぜか、鶴瓶が本気で怒れば怒るほどみんな笑わずにはいられない。コミカルな音楽。そうやって観客を和ませておいて、「実は!」とするほうがショックが大きい。作品にリズムが出る。彼女の作品を見てると、たいへん上手いが、「若いな」と思わせる。手の内を全部見せちゃう。老かいな監督は、いい手はここぞというところにとっておく。鶴瓶と八千草の関係がメインならあまり複雑になりすぎない方がいいかもしれない。ある程度は複雑でないと、深みが出ないが。横道とメインストリートを観客が区別できるようにして欲しい。私もストーリーを完全には理解できなかった。
それから、技は使いすぎると食傷気味になる。私が習ってるビデオの先生、元NHKのカメラマンは基本はフィックスで、カメラを振り回さない、と口が酸っぱくなるほど言う。
カメラの問題だけでなく、広い意味で視点をどこに置くか?この作品なら、最初は鶴瓶の診察室に置くべきだろう。私は何人もの医者に行ったが。医者の顔と診察室の置物やカレンダーや机などは頭に染み付いて、その医者と繋がって強く記憶される。この物語だと、観客は鶴瓶の診察室の配置から置物まで頭に染み付くくらいでないと、「村人にとけ込んだ医者」には感じられない。そのためには、反復が必要で、同じアングルでいろんな患者を鶴瓶が診る診察室の場面を繰り返すことが望ましいと思う。「男はつらいよ」シリーズの舞台の団子屋は、観客の頭の中には位置関係が入っているが、この映画では診療所の構造は観客は理解できない。
診察は人ごとにいろいろだが診察室の置物のカエルはいつも同じとか。変化をつけるために外来を入れるのもいい。鶴瓶が自転車か原付でフラフラ行く感じが思い浮かぶが、それは監督次第だが。若い医者が、ステレオタイプの「今時の若者」であること、と「監督の自画像」を思わせる八千草の娘がきれいすぎることもすこしイヤミも言いたくなる。鶴瓶が人助けをするのは愛ですか?の質問に「だれでも人が倒れればたすけるでしょ」といって「あなたは私を愛してなんかいないでしょ」というのは、哲学の問題なので、押し付けることはできないが、確かに人が倒れればつい手を出す。でも、私はそれは「愛」といっていいと思う。それは「孟子」の「惻隠の情」にあたる。何故私はあえて、「愛」というかというと、シニカルな現在は「愛」を言う方が偽善者で「悪」を言う方が本物だと言う通念があるので、それに対抗するためである。しかし、それは監督の哲学なので監督次第だ。
ここまでいくと私の押し付けになってしまうが、私の理想は始めは鶴瓶のポーカーフェースとギャグの驚き顔だけで、あるとき実はあの先生でも全然違う真面目な顔があるんだという対比を強調したい。
「ブラック・ジャック」と同じく無免許医こそ名医だというテーマならそれで通してそれを強調した方がわかりやすい。八千草との関係をメインにするなら、八千草にだけは全く違う顔を見せたい。そのためには、逆に普段は普段の顔ということを、反復によって印象づけておく方が効果的だと思う。
最後に、介護士になる落ちを強調するなら、そんなに恐れずに、もう少し長いシーンにしたらどうか。観客にさとられないように八千草が介護士に世間話をして、「いい医者がいてね」といったところで、実は・・・。鶴瓶は、負い目を感じながら、真顔から少し照れた笑顔へ・・・。
ありがちすぎるかな?
「街の灯」のラストに迫るものが出来るかもしれないが、ちょっと陳腐か?
これも、もちろん監督の判断だが、お涙頂戴ものの好きな私はそうする。でも、それがベストかどうかはわからない。

0 件のコメント:

コメントを投稿