2009年10月18日日曜日

刷新

先ず第一原則をいうが、今民主党の予算に批判が集まっているが、仮に私の望まない予算になっても私は民主党を支持する事に変わりない。鳩山政権が4年の任期を全うする事を望む。それは、民主党の理念が私の価値観と合致するからだ。理念を変えない限り支持する。
だから、民主党批判が強まったときに、批判的な事を書くのは、民主党を攻撃するためではなく、何とかサポートしたいからであって、できるだけ表現に気をつけて書く。
サービスをあげて、税金は上げない、不景気、この状態では予算が赤字になる事は自明だ。
そこで、民主党の立場は、予算をゼロベースで見直し無駄を省く事で予算を捻出する。
家計を潤す事で、消費を増やすというものであった。
ところが予算の無駄を省く事がなかなか思うように進んでいないようだ。
閣僚に悪い奴と手を組んで無駄な予算をつけさせようというような人はいないと思う。むしろ、いい人が多いのではないか。つまり予算をカットするという事は、サービスをカットする事なので、いい人であればあるほど国民のサービスを減らせないという構造なのではないか。予算をカットする事は、巨視的な視点に立てば、必要な事である。カットしなければならない。しかし、現実に目の前に苦しんで何とか国に援助して下さいと泣いての頼まれたら断る方が冷たい人に見られてしまう。いい人だからこそ断れない。国民の暮らしが第一と言っているのだからなおさらことわれない。では、どうするべきか。人はあるときには、巨視的立場から利益になる事のために、短期的には冷たく厳しくならなければならない時があるのだと思う。だから、民主党の今の問題は「悪い奴をやっつけろ」ではなく「将来のために我慢してくれ」と自分の「やさしさ」との戦いになる。そのために、自分の矜持を失うかもしれないし、相手から激しく非難され、憎まれるかもしれない。それでも、ここで国債を発行すれば、もっと大きなつけを払わなければならない。
私も現在経済的に苦しくて、何とか頑張ろうとは思っているが中々うまく行かない事もある。でも、母はいくら苦しくてもサラ金にだけは手を出すなと言った。サラ金は信用がない代わりに高い利子でお金を貸す。元々信頼のない人間なので高い利子を返す可能性は低いわけで、悪循環が続く危険性が高い。
だから、使うのを減らすのと貰うのを増やす事を地道にやっていくしかない。
今の民主党に残された道は二つあると思う。
そのキーワードが「刷新」と「戦略」である。
「刷新」は出て行くのを大幅にカットする事だが、これは前述したとおり、悪い奴をやっつけるのではなく、困っていて藁にもすがる人を振り払う勇気だ。実は人間にはこの方が辛い。でもやらなければならない。
かつて親鸞聖人が地方に行ったときに、かんばつで飢え苦しんでいる村があった。そこに比叡山で修行をされた偉いお坊さんが来るというので、村人は歓喜した。そして親鸞に是非雨乞いのお経を読んで下さいと頼んだ。しかし、親鸞聖人はそれを拒み続け結局読まなかった。
浄土真宗は現在日本最大の仏教宗派である。その開祖である親鸞聖人ほどの方が何故こんな簡単な事を断ったのか。これだけ村人が苦しんで死んでいっているのに。聖人のお気持ちはどんなものだったのだろうか。
仏典、特に初期の仏典を読むとお釈迦様の言葉がのっているが、お釈迦様は繰り返し、繰り返し強調しているのは「執着を捨てろ」ということだ。執着を持つものは地獄で永遠に苦しむが
、執着を捨てたものはニルバーナ(涅槃)の境地に至って、永遠の安らぎを得る。これが、元来の仏教の根本思想と言っていいだろう。
しかし、親鸞聖人は比叡山で何年修行しても決して執着を捨てることが出来なかった。それに苦しみ抜いた。自分は絶対に救われない。自分は死ねば必ず地獄に行って永遠に苦しむ。それが聖人の自己認識だった。結局比叡山を下りて「非僧非俗」の道を歩むことになる。
他の普通のお坊さんは、そこまで真剣には悩まなかった。多くのお坊さんが、秘かに山を下りて女を買っていたらしい。しかし、親鸞聖人はお釈迦様の言葉を真剣に聞いたからこそ、どう考えても自分は救われないと苦しまれた。そして、法然上人の元に辿り着き「念仏を唱えればどんな悪人でも、阿弥陀仏が必ず浄土に運んで下さる」という道一本にすがっていく事を決意する。親鸞聖人はいわれた「法然上人がいわれることが正しいかどうかは私には分からない。ただ、どうしても執着を捨てられない自分には阿弥陀仏にすがる他に道はないのだ」と。
だから、親鸞聖人は自分は決して悟りに達していないものだと厳しくご自分を見ておられた。当時の比叡山は今の東大どころではない、学問、知識はもちろん精神的、霊的世界の超エリート養成機関だった。だから、村人は単純にそんな偉いお坊さんが来たらきっと読経してくれるだろうと期待したが、親鸞聖人は「自分は悟りに達していない、そんな自分がお経を何遍読んでも何のご利益もない。それなのにお経を読んだら村人をだますことになってしまう」と思われたのだと思う。普通のお坊さんなら、お経を読むぐらいなら簡単にやってやったと思う。しかし、親鸞聖人はそこまでご自分を厳しく見ておられたので、どんなに恨まれても、石をぶつけられても、泣いてすがりつかれても決してお経を読まなかった。
親鸞聖人は阿弥陀仏の限りない御慈悲を、多くの人々に伝えるために島流しになっても布教を続け、生存中はほとんど名も知られず死んでいった方である。人に冷たいどころか、弱い人を何とか救おうと一生を捧げた方である。それだけ、真剣に考えた人だからこそ一見すれば「なんて冷たい人なんだろう」という誹りをどんなに受けてもお経を読まなかった。

私が言いたいのは、一見冷たく見えても、恨まれても、それが巨視的な視点に立って正しいことなら涙をのんで断らなければならないこともある、ということだ。

「戦略」について、思うことは、ターゲットを絞ることだ。たとえば1000億円の景気対策をするのなら、20億円づついろいろに使うのではなく、よくよく費用対効果を分析して、ここときめてそこに500億円ぐらいを一気につぎ込む事だ。みんなの意見をきいて、みんなに満遍なくでは効果はない。それは、表向きは国民へのメッセージだが、本当は投資家へのメッセージなのだ。ここにお金をかける。政策的にも優遇すると政府が約束すれば投資家はそこに投資できる。しかし、満遍なく使ったらどこに投資していいか分からない。だから、ここに重点を置いてこの分野は将来伸びると投資家に暗にメッセージを送る事が大事だ。投資家というのは将来の企業を育てるためにお金を出して、将来その企業が成長すればそのリターンを貰う事で成り立つ。したがって、投資家が日経を読むのも、政治欄だろうが芸能欄だろうが、どこが伸びるかを目を光らせて見ている。そこで必要なのは「方向」と「確実性」だ。どこにという事が分からなければならないのは当然。それと、どこまで本気か、単なるリップサービスか。これは、政治家の揚げ足を取るためではなく、確実性によって何れだけ投資する価値があるかどうかを判断するためである。その、「どこへ」「どれくらい」お金や政策を向けるのがもっとも景気浮揚効果があるかを考え抜き、実行する事が「戦略」である。

最後に一言言いたいのは、「マスコミ」である。権力のチェック機関として批判する事は正しいとしても、一方でサービスをカットしたら「国民の苦しみを知らないのか」と批判し、お金を出すと「財政を考えないのか」と批判し、国債をだせば「無責任」と批判し。税金を上げれば「国民に痛みを押し付ける」と批判し、税収が落ち込めば「ひどい財政」と批判する。など、どっちをしても批判するマスコミがあるが、あなたたちこそ無責任だといいたい。お金が天から降ってくるわでではないのでどこかでは誰かが負担しなければならないのはあたりまえだ。それが、正当になされているか、合理的かを批判するのが本来のマスコミのする事だと思う。右に行っても批判しじゃあ左に行ったらまた批判し、じゃあどうすればいいのかと聞けば、決断力がないと批判し、決断すれば独断的と批判する。こういう、批判のための批判をするマスコミが実際おおい。あなたたちこそ自己批判してもらいたい。あなたたちの態度によって国益を大きく損ねることがあるのだ。批判をするなとは言わないが、するならどういう価値基準によって判断してしているかを示してもらいたい。それは、あなた方が政治家にいつも言ってきた事ではないのか。中には優秀なマスコミもあるが、あまりにも無責任なマスコミは、私は彼らこそ批判したい。
石橋湛山元首相が東洋経済社長だったときに言ったことば「自分が総理大臣になったときに本当に実行できることだけを書け」という言葉をお送りしたい。

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