2009年10月17日土曜日

burden

以前にもblogに書いた、ケネディ大統領の就任演説に次のような事が言われていた。
「私たちは「自由」が成就するためであれば、どんな犠牲も厭わず、どんな重荷にも耐え、どんな苦しみにも立ち向かい、どんな友人をもたすけ、どんな敵をも迎え撃ちます」というのがあったが、訳していくとケネディの中に出てくる重荷という言葉(burden)が何回か出てきた気がした。この「burden」という言葉は私は結構グッとくるものがある。
自分がまさに「burden」を背負っているように感じることがあるからだ。
徳川家康だったと思うが「人生とは思い荷物を背負って長い道を行くようなものだと」という言葉もある。
現在予算編成をしている方々は、重荷を背負っている感じじゃないだろうか。
予算を減らす事は、サービスを減らす事になる。そうすれば、国民を苦しめることになる。国民が主役ですとか皆さんの政治ですと言ったからには国民に負担をかければ、「騙したのか!」とか「私たちの本当の苦しさを知らないの!」と怒られるかもしれない。しかし、減らさないと結局、借金をするしかない。そうすれば将来の負担をさらに増やすことになる。どっちを選んでも、国民に負担をかけざるを得ない。批判されなければならない。野党時代は絵空事でもよかったし、難しい問題から目を背ける事もできた。しかし、与党になったらそれはできない。
現在政治主導でやっていこうという姿勢は私は高く評価する。しかし、官僚ならお金の使い方が悪くて、政治家ならいいとも単純に言えない。もちろん、利益誘導型の古い政治家は論外でも、本当に困っている人をたすけたいと思ってお金を出そうと思っても、お金がない。お金を出す方が悪い政治判断になる。こうなると、あっちをたてれば、こっちがたたず、こっちをたてればあっちがたたない。引き裂かれるような思いでしょう。まさに「burden」。
実は、私も似たような状況にある。
以前、親から将来のために貯めていたお金があるがお前はやりたいことがありそうなので今渡すのでそれで自分で考えて使うように言われまとまったお金をもらった。そこで私は考えてこのお金を自分に投資しようと思いいろいろ習い事したり、欲しい本やCDなど自分のためになると思ったものにあまり予算のことも考えず、どんどん使っていった。最後にビデオをならっていて、本格的に撮るなら2台はカメラ必要だ。それから三脚も必要だと言われ、将来のいい経験になると思ってカメラ2台と三脚買ったら合計で30万以上。
そうしたら、この前買い物してカードを使おうと思って出したら「使えません」といわれた。
自分では、いくらでも使えるような気がしていたのだが、現実には使えばいつかはなくなる。でも、心のどこかでは親が出してくれるだろうと思って甘えていたのだが、親の方も蓄えもなくなってきて、気持ちとしてはお前に出してあげたいが実際にはないのだから、わかってくれと言われた。それでも、母はクラス会に行くのもやめてなんとか出すと言ってくれて、そこまでいわれると、こっちも贅沢は言えない。でも、今行ってる学校で本当に受け入れられ居場所ができて音楽関係の知り合いもできて、ビデオ撮ってくれと頼まれたり人間関係もひろがった、それで心の充実にもなってるし、精神衛生上は非常にいいので、やめたくない。さらに、私は自分でデザインするときに、自分で写真が撮れたらいいなと思ってずっと本格的に写真を勉強したいと思っていて、親になんとかお金を出してもらおうとお願いしようと思っていたが、それもできない、でもどうしても習いたい。
そこで、いままで引きこもりでニートだったので働くのが怖くて働いた経験が、ほんのちょっとしかなかったが、人間追い込まれると結構いろんなことが出来てしまえるもので、情報誌買って、ちゃんと無地のブルーのネクタイ締めて、今日面接に行ったら、週2日からと書いてあったのでといったら、「一年以上働く気がありますか?」というので、こちらはデザインの方で仕事が見つかればできればそちらにいきたかったので、言葉をつまらせると「この時間帯じゃちょっと無理ですね」といわれた。若い女の子で優しく接してくれたのだが、ことわられた。いざ、アルバイト誌をさがすと、昼間働けないとなかなか雇ってくれるところがない。いままで、親に知らず知らずに甘えていて、お金なんかいくらでもあるように思っていたが、いざなくなってみるとそのきびしさが身にしみる。
飲み物買うのも150円のお茶ではなく、110円の水を買うようにした。
しかし、本屋に入ったらつい本を買ってしまった。まだ読み途中の本いっぱいあるのに。
人間はそんなものなのか。

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