2009年10月10日土曜日

GUI

一週間くらい前、iPhoneを買った。
昔はいつもカメラとケータイとiPod nanoを持っていて、ポケットがいっぱいだった。今の技術ならこれらが一つになれるだろうに。なって欲しいと思ってた。iPhoneがアメリカで発売されたとニュースをちらっと見たとき、やっぱりでたか、しかも思った以上に魅力的だと思った。
実を言えば、今まで使っていた携帯にもカメラ機能も音楽再生機能もついていた。しかし、その写真をコンピュータに入れるのがどうやっていいかわからなかったし、音楽を聴くには専用のコネクタをつけなければならなかった。
他の音響機器メーカーの人は、こう思うのではないか?
「うちの製品は、iPodより小型だし、スピーカーもマイクもついている。シャッフル機能もついている。値段も安い。デザインもずいぶん気を使った。それなのに、なぜみんなiPodを買うのか?」
そこが、デザインを勉強したものとしては、大変重要な点だと思う所である。
結論から言うと、「デザイン」とは単なる「形」ではない、というこだ。
私も、昔はデザインとは小奇麗なものを作ればいいと思っていた。
絵画教室で絵の先生に「『絵』を描くにはテーマを決めて自分を表現しなきゃいけないけど、デザインはテーマはクライアントから与えられているから、誰でも出来るんですよ」と言ったことがある。
「デザイン」を「二流のデザイン」に変えればこれは正しい。世の中、みなさんの周りにも本も雑誌も機械も服もあるでしょう、それらはみんな誰かがデザインしたものだ。しかし、デザインの専門学校では私はどうしてもうまい、かっこいいデザインが出来なかった。「いいデザイン」って何なんだ?何を基準にしたらいいのか?悩んだ。それを学べる所はあるのか考えた。
美術が学べる学校紹介の本を買ってきて読んでいくうちに、いろいろ専門学校はあるけど、私のような本質的な悩みに答えてくれる最高の場所はやはり大学だな、と思った。しかし、美大に入るのは大変で二浪、三浪あたりまえの世界ともきいたことあったので、入れるか不安だった。たまたま、多摩美に社会人にもう一度クリエイティブなことを学ばせる場として、社会人特別枠のある夜間の学科があったのでここならもしかしてと思った。
それでも、とにかく予備校に行ってちゃんと学ばなきゃ、と思った。専門学校がお茶の水にあったので、朝から夕方の5時まで専門学校に行って、それからすぐにお茶の水にある通称「御茶美(おちゃび)」という予備校の夜間コース通う。御茶美はかつては名門予備校で有名なデザイナーとかも排出してきたらしい。
しかし、夜間ということは現役生対象、しかも美大を受けるのは女の子が多いので、当時30歳のおじさんが、現役女子高生とならんで勉強して、すごく浮いていた。
友達はうらやましいと言っていたが。
まあデザインの話になるとつきないので、iPhoneの話にもどるが、とにかくそこで、私はあまり魅力的な作品が出来なくて劣等感におちいる。
子供のころは勉強もそんなにできないし、スポーツは大の苦手の「のび太」くんだった私の唯一の自慢がマンガや似顔絵で、小学校から高校まで、文集の表紙をいつも描いていたが、さすがに美大を受ける人は当然絵がうまいわけで私の数少ないプライドも傷つけられた。
とにかく、そこで学んだことはデザインとはただ単に小奇麗なものを作るもでは「ない」ということだ。

大学での卒業制作(美大では卒業論文の代わりに作品を作る)は、コンピュータのインターフェースのデザインだった。なぜこのテーマにしたかというと、いつも父や母からパソコンのやり方がわからないからちょっと見てくれと言われ、うんざりしていた。そこで、考えた。マウスを使ってアイコンを動かすインターフェースをGUI (graphical user interface)というが、GUIが出てきた時は、画期的といわれたが、実はまだ不十分なデザインではないのか?Windowsを使うには分厚いマニュアルを読むか、何万円もかけてパソコン教室に通わなければならない。これが、本当に万人に開かれたインターフェースと言えるのか?逆に言えばまだ工夫の余地はたくさんある。さらに言えば、本当にマニュアルなしで誰でも使えるインターフェースを作ったら画期的なものになるのではないか?さらにさらにいえば、それが、本当に実現したらすごく儲かるのではないか?等と考えて、デザインを考えていった。
ところが中間審査ではある先生に「全部ダメだね。そんなものは企業が何百人も使って開発してるんだから」と100%否定されてしまう。次の授業のとき、指導教員の一人(うちの大学は指導教員を複数とれる)太田幸夫先生に、何の前提も言わずとりあえず「この前の中間審査はどうでしたか?」ときくと「全部よかった。言葉もちゃんとしてたし、理屈もはっきりしていて全部よかった。でも、他の人のアンケートとかがなけりゃ、それは初めて見た人には分かりませんよ」と言われ、気分が明るくなった。
ちなみに、太田先生はサインデザインの世界的権威で、皆さんになじみ深いのは、非常口の人の絵、デザインの世界ではピクトグラムと言いうが、あのデザインをまとめた人。もともとは公募で素人の人のアイディアなのだが、さすがに素人の案をそのままでは使えないので、ピクトグラムの第一人者である太田先生がまとめた。もともと、字だけの表示だと火事のときに字の読めない子供や外国人が非常口が分からなくなるので、誰でも分かるようなデザインにしなければならない。人の命に関わるものだから、視認性の実験などを繰り返し、現在の形になった。そして、そのピクトグラムはISO(国際標準化機構)で正式に国際規格になった。フランスやイタリアはまだ変わってなかったが、イギリスではオックスフォード大学でも、ロンドン芸術大学でもこのピクトグラムが使われていた。使われてない所もあったが、先生曰く「そのうち変わっていくでしょう」と。
また先生は単にピクトグラムを描くだけでなく視覚(視覚に必ずしも限らないのだが)とコミュニケーションの関係を考えてこられ。実際に単純な絵の組み合わせで作る「視覚言語システム」「LoCoS(ロコス)(Lovers Communication System)」を作られた。海外でも発表し高い評価を受け、新聞にも大きくあつかわれ、世界中を講演してまわって反響がすごくて、大変だったといわれた。

卒業制作の最終審査は、出来のいいものではなかった。
一年かけて作るはずのものが、前日にFlashのマニュアルを見ながら作った、やっつけしごとだった。
しかし、デザインについて学んできてようやく、いいデザインと悪いデザインの区別がつくまでにはなってきた。

太田先生が個人的に開いている参加自由形のゼミに参加したりして、そこにはハーバードの大学院でた人とか、絵画療法をしているひととかもきていて、デザインの奥深さをしった。中身にいくと話がそれてしまうので、いずれできればよいでしょう。

私は次に、ネット上で文字言語を使わず視覚のみでコミュニケーションがとれるシステムが作れないかと興味が広がり大学院へ行くことになる。学部の美大特有のたのしそうな雰囲気が好きだったので、少人数の大学院はすこしさびしいが、大学院は夜間も昼間もひとつの組織なので、八王子のキャンパスにも行ける。夜間部の上野毛のまったりした雰囲気も好きだったが、八王子の巨大でモダンなキャンパスも行けてよかった。
いろいろ考えていくうちに、ネットのツールを新しくつくるよりも卒業制作のパソコンのインターフェースをしっかり作り直す方がいいと思い、そういうことにした。
そこで、パソコンのインターフェースだが。始めは初心者向けに作り、その後一般のパソコンのインターフェースに変わるというアイディアはできていた。
想定のOSはWindowsではなくMacOS。
なぜ、WindowsでなくMacなのか?答えは、私がMacやAppleが好きだから。
もう一つ、誰もが逆らえないような力を持った者を見るとそれを負かしてやりたいという思ってしまう私の性格のせいだろう。
世界中の人の90%以上の人がWinを使っているなら、それに合わせるのではなく、それにとってかわるもっといいものを作ってやろうという、幼稚な野心があるので。

私がはじめて、パソコンを知ったのは小学校中学年頃だと思う。まだ、共通の基本ソフトはなく、画面もブラウン管に緑のドットで文字が示されるもので、記録媒体はカセットテープだったと思う。当時はマイコンともいった。
今はやりらしいからと、父と秋葉原に行って見てきたが、まだ操作が難しく、キーボードで命令文を書かなきゃいけない。しかもできることも限られていて、値段も高いし、結局は買わずに帰ってきた。

時代はかなり進んで二浪して入った大学に不適応をおこしてしまい、行けなくなってしばらくニートだった。その時期精神が不安定で何とか外に出るのが、パチンコ。誰ともしゃべらなくていいしうまく行けばお金が儲かる。最盛期は、1ヶ月30日、1日開店の10時から閉店の11時までってこともあった。雑誌を買ってきて研究して大当たり確率が分かれば1000円分の玉で何回回転するかを数えれば、勝ち負けのボーダーラインが出るので、プラスならやり続け、マイナスならやらない。この原則さえまもっていれば理論上は負けないはず。友達はこの台はいままで何回回ったからそろそろでるとかいう。パチンコは玉がスタートチャッカーに入った時点で抽選するので、過去に何回回ったかは次に何の影響も与えない。そういうと彼は私に「カントみたいだね」といった。彼のように何回回ったからとか言う人を「パチンコ必勝ガイド」のような雑誌は「オカルト野郎」という。
私は、全部メモして最高で1ヶ月で10万以上勝ったこともあった。1日の最高も10万500円だったかな?
でも、めんどくさくなると惰性でやったり回らないのに新しい台を試したりして、だんだん勝てなくなってきて、最終的にはプラスマイナスゼロって感じだっかな?
とにかく、そこでパチンコの収支を計算するのに最近なにかと耳にするパソコンとかを使ってみようかと思い「特選街」とか買って調べた。そのころは Windows3.1 が出たばかりで話題になっていた。そのころのパソコン界は、3つの選択肢があって、1NECのPC98シリーズが大きなシェアを占めていた。ただし国内でだけの話で世界的には 2DOS/V(ドスブイ)機、これは世界的シェアを占めていた。3Macintosh(マッキントッシュ=Mac(マック))
というもので、こちらは独自の規格で性能は優れているが、高かった。1と2は基本ソフトは同じMS-DOSだが、互換性はない。ちなみにMS-DOSのMSとはMicrosoftのことでWindows以前からマイクロソフトは世界標準だった。
当時も、次世代から共通のWindowsになるので、どの企画かを選ばなくてすむとあった。私は悩んだが、NECは日本人向けによくできて入るが、次世代では同じWindows使えるようになるなら意味ないし、Macを店先で見ると魅力的だけど、高いしWindowsが世界標準になるなら、なくなるかもしれないし。しかしあるとき店頭でMac見たときメニューバーの中に目玉の絵が描いてそれが動いている。よく見るとマウスの動きに反応している。つまりポインタの矢印が、今どこにいるかを示している。私はコンピュータという高度な機械にこんな遊び心があるのかと驚いて、ぜひ、Macが欲しいと思ったが、ノート型にするかデスクトップにするのか悩んでるうちに、うやむやになって、その時は買わなかった。ちなみにノート型パソコンは始めはトラックボールというのがついていて、マウスの代わりにするのもMacが初めてだし、その進化したトラックパッドを初めて使ったのもMacだと思う。
そして私の通ったデザイン学校はずばり「MACデザインアカデミー」。
課題の中でチラシ作るとき、私は好きな物としてMacを選び、当時はブラウン管を使っていた頃のiMacの広告を作ったりした。私の入った大学は、日本で初めてデザイン教育にMacを導入した大学として多摩美術大学造形表現学部デザイン学科はappleのサイトにも紹介されている。コンピュータールームには200台くらいのMacがあり、2年毎ぐらいで全て最新モデルに変えている。
大学の課題でも、私はMacのチラシを作った。
うちの大学でWindowsパソコン持っていると珍しがられる。
いろいろ、パソコンの歴史を調べてみるとMacの登場の意味と、ほかのいろいろな人々の努力が分かって面白い。
NHKスペシャル「新・電子立国」は当事者のインタビューも含めて細かく発展の歴史が描かれていて素晴らしかったので、書籍にはなったが絶版のようで、ぜひDVD化して欲しい。見たい人はたくさんいると思うが。
そして、大学の卒業作品も、初心者向けパソコンのインターフェース、タイトルは「Mac Begin」!
そして、大学院の試験の内容は「一番影響を受けたデザインと自分の研究との関係」というもので、私は一番影響を受けたのは?というところで上述のMacの話をして自分の意見を書いた。大学院は少人数だし人材育成が目的なので学部よりは入りやすい。もちろん学部の内容を会得したとの前提の上でだが。
このようにMacが好きになってきたわけだが、Macの魅力とは何か?
例えば、ビル・ゲイツは覇権主義者でパソコンは基本ソフトを手に入れればみなそのソフトを使わざるを得ないので覇権を握れると考え、事実Windowsは世界標準の基本ソフトになり、彼は世界一の億万長者になった。
しかし、デザインを勉強してきた私の目から見ると、これだけ、多くの人とお金をかけたにもかかわらず、Windowsはどうしても。どこかダサイ。何と言うかMacにあるスピリットとかウィットとかを感じない。もっといえば、愛を感じられない。どうやれば売れるかしかかんじられない。それが、これだけWinが普及しても、クリエイティブな人は皆Macを使う。感性の鋭い人たちがMacを好む。
スティーブ・ジョブスがどういう人か、伝記「iCon」を読み途中だが、wikiでざっと見てもらえれば分かるだろう。
いいデザインとは、簡単に言えばそこにphilosophy(フィロソフィー=人生哲学、思想、信条)があるかどうかということなのだ。フィロソフィーのないデザインはいくらきれいに見えても、どんな有名なデザイナーを使っても、いいデザインにはならない。iPodにあって、他者の亜流品にないのはフィロソフィーといっていいだろう。
Macintoshが生まれた1984年、appleはスーパーボウルというアメリカンフットボールのアメリカ選手権、アメリカで最も視聴率の高いイベント。従ってアメリカで最も広告費の高いCMで、伝説のCMをうつ。ご存知の方も多いと思うが。「1984年」とはイギリスのSF作家ジョージ・オーウェルが書いた有名なSF小説のタイトル。
内容は、強大な独裁者ビッグ・ブラザーによって支配されている世界。人々はテレスクリーンと呼ばれるTV兼カメラによって完全に常に洗脳され監視されている。ある主人公の男が逆らおうとするが、拷問にあい彼もまた洗脳されてしまうという、SFファンなら誰でも知っている話だが。CMの中で独裁国家が映し出され、そこに女の人かなんかが出てきてその未来像の映っているスクリーンをブチ破る。たしかこんなものだと思うが、詳しい方におききになればちゃんとした内容を教えてくれると思うので、簡単にだけ触れたが。とにかく我々「Apple」が目指しているのはオーウェルのような社会ではない、という宣言なのだ。
まあ、以上のようにAppleの歴史を見れば見るほど魅了されていってMacファンになったのだが。
といっておきながら実は、iPhoneは、最初は値段きいたら高かったので、買うのを諦めた。
それが、なんで気が変わったのか?
ある本のお陰と、あるニュースを聞いてである。
上述のように、私はコンピュータはWindowsとMacの対立図式で考えていて、自分はMac派と思っていたが、そう単純でもないことに、ある本によって気づかされた。
その本は梅田望夫「web進化論」(ちくま新書)。
以前から本屋で「web2.0」というタイトルの本が多くあって、どういうものか一つ入門書を読んでみようと思ってた。「web進化論」はよく売れていてしかもサイクルのはやい新書の中でずっと売れ続けているので、よい本なんじゃないかなと思い買って読んだ。
その本の中で、全く革新的だと強調されているのは、AppleでもなくマイクロソフトでもYahoo!でもなく、googleであった。
私は、昔から不思議でならないことがあって、それは、検索サイトのことだった。使う分には便利でありがいけど、まず一つ目の疑問は、「キーワードを入れただけで世界中のあらゆるサイトから何百万件のページを一瞬にして探し出すのはどうやっているのだろう?世界中のあらゆるサイトを入れた超巨大なコンピュータがあるのだろうか?自分のパソコンの中の書類を探すだけで何分もかかるのに、世界中全てのサイトから一瞬で何百万件。どうやっているのだろう?しかも私一人ではなく世界中の何千万、何億の人が検索サイトを訪れるのに、全て答えるなんてどうしてできるのだろう?」というものである。もう一つは「相当大きなコンピュータを使っているはずでコストもかかるのに無料で検索できる。どうやって収入を得ているんだろう?」というものだ。
一つ目の疑問には、ロボットにずっと世界中のサイトを調べさせているときいて半分は納得できた。また、Yahoo!などはやはり大量のコンピュータを使っているらしいときき少しは納得できたが、それにしてもすごいと思う。
二つ目の疑問は、Yahoo!のトップページは当然多くの人が見るのだから広告費がすごく高いときいた。つまりテレビの民放と同じで広告収入で儲けているときいて納得できたが、googleのトップページには広告が全くない。それがとても不思議だった。そのgoogleが考えていることがすごいことだとこの本では何度も強調されている。
どこがすごいのか?
実は私は実践してないし、この本にもどう実践すればいいのかは書いてないので、あまりはっきり理解できてない部分もあるのだが、なんとなくこうかなということを言うと、今までのコンピュータというのはネットのこちら側で計算したり、開発したりするけど。巨額を投じてソフトを開発するよりも、オープンにして不特定多数の人にソフト開発をやらせる方が効率的で、しかもよいものができるのではないかという考え(オープンソース)。専門的なことは分からないので卑近な例で言うと、自由に誰もが書き込めるネット上の百科事典 wikipedia があるが、アカデミックなことから深夜放送のネタのコーナーまで、ありとあらゆることが記載されていて、しかも文章を書く時はだいたいパソコンなので辞書を調べるより簡単に使ってしまうのだが、一般人が書いたというので今ひとつ信頼ができなかった。しかし、これだけのあらゆる項目を専門家にチェックさせ続けるのは、大変なコストがかかる。だから、あくまでも仮に調べるときに使うようにしていたが、実際使ってみるとそうとう正確に客観的にかかれている。そこで、ネットの向こう側の不特定多数を信じるかどうか、googleと今までの企業との違いだと言う。もう一つはコンピュータは一度プログラムを作れば自動的に作業をするので、細かい利益、例えばあるページの中の広告をクリックしたら10円とかいう、わずかな利益を大量に自動的に集めたら一見しょぼいように見えても塵も積もれば山となるで、人がほとんど努力せずに大量のお金が入ってくるという考えがもとにあるようだ。つまり、ネットの向こうでみなが気づかぬうちに機械が自動的にお金を回収していく。
これでも、わたしはgoogleがどうやってそれをやっているのか完全には理解できていないのだが。googleは衛星写真を使って地球上のあらゆる場所を見ることが出来るサービスをはじめた。母と一緒に自分のうちの衛星写真を見たときには驚いた。さらにさらに衛星写真なら一応理屈はとおるが、地上写真まで出てきたときには恐怖さえ感じた。うちは複雑な道を通ってこなければ車で来られない場所なのに、しかもポインタを動かすと、写真がパノラマになっていて回転して周りが見渡せる。
何か自動車の上にカメラをつけて撮っていると誰かいってたが本当かどうかわからない。しかし、見ていたのが夜なのに写真は昼間なので隠しカメラではないようだ。しかしいつかは「1984年」じゃないが、24時間どこでも監視される時代がくるかもしれない。
YouTubeという動画サイトも買収した。お陰で聴きたい音楽はだいたいきける。しかも無料で。そこが、また不気味な所で、世界中の本のデジタル化をしているのもたしかgoogleだったと思う。
私の頭の悪いせいで、googleが何をしようとしているのか正確にはわからないのだけど、なにかとてつもないことを考えている印象を与える本であった。
そしてあるときgoogleがOSを開発すると発表した。マイクロソフトもすこしあせった感じだった。何億人もの人が使っているWindowsに勝てるものはないと我が世の春を謳歌していたマイクロソフトもgoogleは今までの敵とは違うと感じたはずだ。買収すりゃいいってものでもない。考えてみればパソコンで使うのはwebブラウザとワープロがほとんど。それぐらいなら簡単に作れるし互換性を高くすれば必ずしもMSのソフトを使わなくてもいい。MSが互換性を低くすれば、独占禁止法に引っかかる可能性もある。不動に思えた、MS帝国も意外にもろいのかもしれない。そこには歴史的な大きな変化があるようだ。

そもそもコンピュータとは何か?
答えは「計算機」
コンピュータを最も単純に表せば、
入力→計算→出力
となる。
もう少し付け足すと、
情報の入力→命令→計算→結果の保存→出力
となる、
計算機自体はかなり昔からあった。
例えば2の位置に5を合わせると7が示されるような手動式の計算機は存在した。
現在の我々が使っているコンピュータの大きな特徴は、数だけでなく、あらゆるもの画像、音、文字、動画、など基本的にデジタルデータ化すれば何でもあつかうことが出来るという所にある。
この考え方の元を作ったのはwikiによれば17世紀ドイツの思想家、モナド論や微分積分法の発見で有名なライプニッツである。彼は形式言語に関心を示し2進法を発明した。それによってあらゆるものが計算可能になった。
その2進法を計算するのが現在のコンピュータである。
理論上はこれで全てのものがコンピュータで計算できる。しかし、当時は複雑な計算ができる機械を作ることが技術的にできなかった。
20世紀になって技術が進歩し、現実にコンピュータが作られるようになった。しかし当初は、コンピュータは巨大で高価で複雑で、特別に必要な計算に使う科学技術の専門家のもであった。
現在皆さんはコンピュータというとパーソナルコンピュータをイメージするだろうが、パーソナルコンピュータという概念を最初に示したのはアメリカのアラン・ケイ(1940〜科学者、教育者、ジャズ演奏者、京都大学客員教授)である。その条件は、計算機のICチップの小型化、安価化、そして普通の人が使えるインターフェースである。当時としては個人がコンピュータを所有するという考えは革新的だった。「ダイナブック構想」といわれる、彼のアイディアはスティーブジョブスにも大きな影響を与え、Macintoshの誕生にも大きく貢献した。
そして、現在の個人がコンピュータを持つ時代が実際に到来した。
そこで、私はパーソナルコンピューターのインターフェースをさらに使いやすいものにしようと思ていたが、googleがOSを作るときいてもう一度考え直してみようと思った。
実は現在、パソコンの誕生にも匹敵する大きな変化が起こっているのではないか?
先ほどもいったように、私はgoogleがしようとしてることは正確には理解していない。
しかし、私の浅薄な知識で考えをまとめるとこういうことなのかもしれないと、思うことがある。
むかし、大型コンピュータを使っていた時代からパーソナルコンピュータへの移行にはICチップの小型化、安価化、GUIの発明があった。複雑な計算も小さいコンピューターで安くできる。個人が計算する機械をそれぞれ持っている。これをダウンサイジングという。
そしてその時代、パソコンの時代の主役はマイクロソフト、Apple、Adobe、など。
そして今起きている変化はネットワークの充実、また携帯電話の普及などによってコンピュータのあり方が変わってきているのではないか。つまりネットワークさえ完全に整備されていれば、コンピュータの仕事のうち「入力」と「出力」さえできればネットにつながった高性能なコンピュータが計算と情報の保存をしてくれる。ネット環境さえ整えば、高度な計算機能、情報保存能力はなくてもどこでもコンピュータに計算させて必要な情報を手に入れることが出来る。いわば今までがパーソナルコンピュータの時代だとすれば、これからはモバイルコンピュータの時代になっていくのではないか。そこで一つだけ気になっていたことがあった。それは、モバイルコンピューターというのは過去にも何度も作られてきたがほとんど成功しなかった。PDA(Personal Digital Assistant)とか日本では「電子手帳」と呼ばれたりした。比較的成功したのはシャープの「ザウルス」だろう。私は姉妹機種の「Wiz」を持っていたが、何が不便かというと、文字入力である。ペンで手書きで書いた文字がデジタル化されるのだが、かなり難しい漢字も認識するのだが、認識するまでに1秒ぐらいかかってしまうのである。そうすると、数文字ならともかく長文を書くのは苦痛で結局紙に書いた方がはやいと思った。
多くの研究者がよりよい入力法を考えたのだろうが、あまりうまくいった試しはなかったように思う。
しかしその問題は意外な所から解決の糸口が現れた。
携帯電話である。
元々電話であるから電話番号を入力するためにテンキーがついている。そこに、インターネット接続機能、電子メール機能が付加価値として加えられた。そこでは文字を入力する必要が出てくる。そこで日本語はちょうど「あかさたなはまやらわ」の10行あるのでそれぞれのキーにそれぞれの行を当てはめたまた変換予測機能などサポートする機能をつけてみると、以外に苦労なく文字入力ができる。するとネットワークへの接続も整いつつあり入力もさほど苦労なくできるようになった。そして、カメラ、オーディオプレーヤー、ワンセグTV、など他のデジタルデバイスとの融合が計られるようになってきた。その一つの象徴が、iPhoneではないのかと思った。(ちなみにiPhoneにはワンセグ機能はない)Appleらしい大胆なボタンは1個あとは全てタッチパネルというものがどの程度インターフェースとしてすぐれているか?使いやすいか?Appleのことだからいろいろ遊び心があり、使った時の気持ちよさまで考慮に入れているのではないかと期待しつつ、高いけど大学院の研究テーマがコンピュータのインターフェースなので、インターフェースを体験するために買った。
今の所はかなり気持ちよく操作できてる。キーボードも当然小さいけど押すとその文字が拡大された吹き出しが現れる。公平に見てもさすがAppleだなと、思わせる。
ちなみに、今100円ぐらいで売られているモバイルコンピュータもクラウドコンピューティングという概念もネットの充実とインターフェイスの発達による。パーソナルコンピュータからモバイルコンピュータへの移行の中に位置づけられるのではないだろうか



コンピュータのインンターフェースデザイン

大学院1年 鈴木俊一

今まで考えていたのは、現在Mac,Windowsで使われているGUIをより分かりやすくしようというものだった。
しかし、現在コンピュータのあり方が大きく変わってきた。そこでもう一度、原点から考え、その上で現在求められているコンピュータのインターフェースとは何かを考えてき、形にしていこうと思う。
先ずきっかけは、googleがOSを作るというニュースを聞いたことである。OSといえばMacとWindowsが争い、Macはクリエイター向けに特化し、他分野では完全にWindowsがグローバルスタンダードになった。だから、マイクロソフトの牙城は簡単には壊せないと思っていた。それをAppleではなく、ネット検索会社のgoogleがOSを作るというのは、今までのパーソナルコンピュータの概念を変えるぐらいのパラダイムシフトがおきているのかもしれないと思った。ある本でgoogleという企業は他のシリコンバレーの企業とは違う、と書かれてあっただけに、私はよく考え直すときにきているのかもしれないと思った。
そもそも、初期のコンピュータは部屋一杯の大型で複雑な専門家向けの特殊な計算機だった。それに対し、ICチップの小型化、安価化が進み、GUIによって普通の人でも扱えることが出来るようになれば個人がコンピュータを持つ時代が来るという「ダイナブック構想」を発表したのは、アメリカのアラン・ケイだった。当時は画期的なアイディアだったが、現在は彼の予想通りになり、おそらく、現在の大学生で家にパソコンのない人はほとんどいないのではないだろうか。つまり、現在我々は「パーソナルコンピュータの時代」に暮らしている。
しかし、もう一つ重要な要素がコンピュータにはある。それがネットで繋がるということである。アラン・ケイはそこはあまり考えていなかったのではないか。
インターネットは、元々は軍事目的に開発された。一カ所に情報を集めておくと敵の攻撃にあってそこが壊滅すると情報が全て失われてしまう。そこで、情報を分散化してネットワークでつなぎ、いつでも他のコンピュータにアクセスできるようにしようというのが、当初の目的だった。
幸いにして、アメリカが攻撃される戦争は(9.11を除き)起こらなかったので、インターネットは学者が他人の論文をいつでも閲覧できるという研究者向けのものになっていった。
1995年マイクロソフトがWindows95を発売し、事実上の世界標準のOSが生まれた。そのOSにインターネット閲覧ソフトInternet Exploreが付属していたことにより、一部のマニアのものだったネットが普通の人が使えるものとなって爆発的に発展していった。そして、通信速度の高いネットの整備が進み、アメリカではゴア副大統領(当時)が情報スーパーハイウェイ構想を打ち上げ、これからは情報の高速化、大容量化が重要になることを示した。そして、インターネット(そのネットワークがクモの巣のように四方八方に繋がることからweb(クモの巣)とも呼ばれる)は、商業的にも大きく活用され、検索会社やネット通販会社が大きく成長した。例えば、Yahoo!, google, Amazon,日本では楽天、等。
ちなみにインターネットの情報のかたまりを「(web)サイト」といい、その表紙のページを「ホームページ」というが、初心者の中には「ホームページ」とは「サイト」のことだと思っている人も多い。
そして、ネットワークの充実により(それは携帯電話の普及とインターネットとの接続によるところも多い)、またコンピューター自体の計算処理速度、記憶ならびに記録容量の日進月歩の発展により、ネットを使って不自由なく扱える情報が、テキストから静止画、動画と進み、現在ではハイビジョン動画がかなりきれいに見られる程度の段階になった。
googleの話に戻ると、同社は、衛星写真、地図、を全て集め、誰でもすぐに見られるサービスをすでに行っているが、現在、現存する書籍のデジタル化を進行中で、反対もあり不確かではあるが将来ネット上で図書館のように過去の殆どの書籍を閲覧できるように目論んでいる。
ネットのもう一つの重要な点は、無線ネットワークにすることによって、携帯電話やPHSなどのデバイスによってどこからでもアクセスできるという点にある。
もともと、文字でも、画像でも一度デジタル化してしまえば理論上全てコンピュータ上で処理できる。携帯電話、デジタルカメラ、デジタルオーディオプレイヤー、これらは一つのコンピュータで処理することが出来る。そして、それらの機能を一つにしたデバイスがAppleが2007年に発売したiPhoneである。こらは、前述の機能に加え、新たにiPhone用のソフトウェアを買うことによって、理論上限りなく機能を増やせる(記憶容量内という制限はあるが)、またgoogleもAndroidというプラットフォームを公開し、携帯電話上で使えるアプリケーションソフトを誰でも作れるようにした。このような動きによって、我々はネットワークを使ったコンピュータを考えるときに、これらの無線による携帯型デバイスも考慮に入れる必要がでてきた。
一方、有線ネットワークでも「クラウド」もしくは「クラウド・コンピューティング」という考えが昨今、話題になっている。これは、ネットが充実していれば一人一人が高性能のパソコンを持たなくても、コンピュータの「計算」と「情報の保存」はネットに繋がったより高性能のコンピュータが行い、使い手は「情報の入力」と「出力」が出来ればいい、このような考え方だろう。
これらの変化を鑑みると、コンピュータの概念を、元来のパソコン、そしてその一つの機能としてのインターネット閲覧、という考え方を根底から変える必要があるのではないかと考えるようになった。
googleが開発したOSとは従来と考え方が全く違い、アプリケーション機能(ワープロや表計算)をwebブラウザ上で行うらしい。すると、使い手のコンピュータの負担は極めて軽くなる。そもそも、動画編集や3D画像など特別に多くの計算が必要なクリエーター以外の人の多くは、パソコンでは、ワープロで文章を書くとかネットを見るとか、それほど高い処理能力を必要としない使い方をしているのではないだろうか。20世紀の終わり以降の、CPU、メモリ、HDD、通信速度等の飛躍的発展により、それらの処理は現在のコンピュータでは、極簡単に行う事ができる。ネット上のプログラムでも十分出来るだろう。
そうなると、これからのコンピュータを考えると、以下のようになるのではないか。
先ず、巨大なネットワーク網に無数のコンピュータが、地球規模で繋がっている。それらは、相互にアクセスが瞬時に可能である。見たいときに見たい情報に、テキストであれ、静止画であれ、動画であれ、アプリケーションソフトであれ自由にアクセスできる。一部にはお金を払ってアクセスする。そのことで成り立つビジネスもあるが、むしろ無料でサービスを提供して、そこから得られる情報、例えば個人の趣味や購買傾向、それらを広告などに利用して収益をえるというビジネスが新しいビジネスとして注目すべきではないか。
そして、巨大なネットワーク網の中のあるサーバコンピュータ等に自分のサイト等の情報を載せて、携帯デバイスでネット上の情報にアクセスし外出時でもネットワークの情報をいつでも手に入れられ、家に帰れば現在パーソナルコンピュータと呼ばれるコンピュータ上で、それらの情報を管理する。
このように、変わっていくのではないかというのが私の考えである。
すると、私のテーマであるコンピュータのインターフェーデザインというのは、「従来のパソコンのインターフェースを分かりやすくする」といった単純な考えでは出来ないのではないか。
そこで、現時点で考えていることをまとめる。
まず、コンピュータは今後ネットなしには考えられない。自分の「個人用コンピュータ(パソコン)」が、あると考えるのではなく、まず、巨大なネットワーク網があり無数のコンピュータがそれに繋がっていて、原則自由にどこにでもアクセスできる。私たちが「パソコン」と呼んでいるものは、将来その巨大コンピュータネットワークへの窓口の一つになると考える。そうすると、そのインターフェースデザインは先ずどのようにしてそのネットワークに接続し、どのような情報にアクセスするかということを主眼においてデザインすることが望ましい。さらには、自分の携帯デバイスとのシンクロも考慮に入れるべきだろう。
MacはOSXからDockという機能によってアプリケーションとデータのアイコンを分けたがWindowsではアプリケーションソフトとデータを同列にアイコンとして扱っている。もともと、アプリケーションとデータは次元の違う情報だ。まず、そこを分けることをしようと思う。さらにMacではFinderによってフォルダの階層構造を全て見ることが出来る。Winでもそのようなことは可能である。すると、まずMacHDを開く必要もないはずである。私もOSX以降MacHDのアイコンはほとんど使っていない。データの管理はツリー上のインターフェースを使いやすくすれば、どこからでもあらゆるデータにアクセスできるはずである。アプリケーションソフトは、ある機能を使い情報処理をするためのプログラムである。私たちが自分で書いたり集めたりした「データ(情報)」とは、異質なものである。現在では、この両者を、アイコンという形で同列に扱っている。これは、使用者の理解を妨げる要素の一つではないだろうか。アプリケーションを「作ったデータ」と全く別次元の概念として扱う。これは現在考えていることの一つである。
以前の考えでは、従来の「パソコン」のGUIを元にしていたので、「マウス」や「デスクトップ」などを、コンピュータの必要要素と考えていたが、今後のコンピュータでは必ずしもそれらは必要要素にはならないかもしれない。入力も携帯デバイスの場合は、テンキーや十字キーで足りることもあるし、iPhoneではほとんどの操作をタッチパネルで行う。また「パソコン」も機械の小型化でノート型の機能がデスクトップと遜色がなくなり、ノート型を使う人が多くなってきているように思う。すると、ポインティングデバイスとして、マウスではなくトラックパッドを使う人も増えてきたはずである。したがって、マウスにこだわる必要もないし、逆にマウスを使わない人にとっては混乱を招くだけになってしまう。そこで、ポインタつまりポインティングとはそもそも何かを考え、その概念を言葉ではなく図画によって分からせる工夫も考えていきたい。
それから、データをフォルダに入れることによって階層上に、全てのデータを扱うことが出来るということは便利なので変わらないかもしれないが、データをどのように扱うのが一番分かりやすいか、その場合自分のコンピュータの中のデータだけでなくネットワーク上のデータも含めて、考えていきたい。
その場合作業スペースの大きさはそんなに変わる必要がないので、従来のウィンドウで表示するのがいいのかも考察しようと思う。
そもそも、一つの計算しか出来なかったコンピュータが複数の計算を同時に出来るようになった(マルチタスク)ときには、複数の処理を使い分けるためにウィンドウというのは大いに役立ったが、マルチタスクはあたりまえでしかも、その仕事の数が飛躍的に増えた場合、ウィンドウがいくつも重なっている今のインターフェースは逆に煩雑で分かりにくい場合もある。また、ウィンドウの大きさを変える必要のあるタスクがどれだけあるかと考えると、GUIの基本である「複数の、大きさを自由に変えられるウィンドウ」自体このままでいいのか考察の必要があると思う。
したがって、現在私が考えているのは、「従来のパーソナルコンピュータ」から「ネットワーク全体への窓口としてのコンピュータ」という考えにシフトすること。
ゆえに従来のGUIの基本だった、「ウィンドウ」「ポインタ」「アイコン」「マウス」などのあり方についても、その本来の機能と今後のコンピュータのあり方とを合わせて、一から考え直すことである。

2009年9月12日土曜日

「修士作品」における現時点での考察内容     2009/6/12 鈴木俊一

作品テーマ
「事前の学習なしに使えるコンピュータのインターフェイスデザイン」

はじめに、

20世紀の後半から、現在21世紀の始めまで人類の情報環境は著しく変化した。とくに、この10~20年の間に起こった変化は、多くの側面で色々な意味を含んでいる。
産業革命以降、電話、ラジオ、テレビジョン、レコード、写真、映画、など多くの情報メディアが発明され、人類の生活習慣を大きく変えた。その約1世紀後の、我々の直面している、メディアの変化は、人類のコミュニケーションの歴史上、新しいフェーズに入ったことを示しているものと思われる。
前のフェーズと新しいフェーズの違いを要約すれば「アナログ情報からデジタル情報への変化」といっていいだろう。
アナログ情報には物理的な制限が伴う。たとえば、映画を見るには映画館に行かなければならず、レコードを聴くにはレコードとレコードプレーヤーを買わなければならない。しかし、デジタル情報は、その技術の、著しい進歩の早さに伴って、物理的制約を大きく減らしてきている。現在では、好きな音楽を聴きたいときには、ネットワーク上の音楽データを取得すれば家にいながら聞くことができる。映像や文字情報もしかりである。
デジタル情報のもう一つの特徴は、複数の別の情報を同時に一つのメディア装置で扱えることで、複合的な情報を享受できることである。
デジタル情報は、文字、画像、音声、映像、など様々な情報を2進法のコードに置き換える。そのため、そのデジタル化されたデータを解読できる装置は、いろいろな種類の情報を同時に扱うことができる。携帯電話は、電話としても使えるし、カメラにもなり、ネットワークに接続して、ネットワーク上の情報を見たり、eメールなどで自ら情報を発信することもできる。
このように、複数のデジタル情報を扱うものの代表がコンピュータであろう。とくに、科学技術の専門家以外の人々にとって、最も身近かなコンピュータはパーソナルコンピュータであろう。
パーソナル・コンピュータの基礎概念自体は、1960年代から、主にアメリカでアラン・ケイらによって提唱されていたが、普通の人が使うようになったのは、1995年のWindows95の発売によってだろう。それ以前にもMacintoshやWindows3.1はあったのだが、当時の世界標準の基本ソフトはMS-DOSだった。MS-DOSは命令をキーボードから文字として打ち込む必要があったが、MacintoshやWindowsはGUI(Graphical User Interface)と呼ばれる、コンピュータの操作を絵で表示し視覚的、感覚的に操作できる、当時としては画期的なインターフェースを採用して、世界中の人々がパーソナルコンピュータを使うことを容易にした。
そして今では、会社員も学生もほとんどパーソナルコンピュータなしでは仕事が出来ないというほど、パーソナルコンピュータは普及した。その後も数年ごとに基本ソフトおよびそのインターフェースは、改良されてはいるが、基本的操作自体はあまり変わっていない。
現在。デジタル情報の話になると主にインターネットについて、特にビジネスの観点から語られることが多い。
しかし、私はそれ以前にパーソナルコンピュータのインターフェースに、まだ解決されていない問題があるのではないかと考える。GUIになったからといって、問題が全て解決されたということに非常に疑問に感じている。その理由は、パーソナルコンピュータを買ってすぐに使えることがまずないということである。いくらGUIが進歩してもパーソナルコンピュータを初めて使う人は、教室にお金を払って習いにいくか、分厚い解説書を読むか(それ自体理解できない人も多い)、何度もメーカーのサポートサービスに電話をかけたりしなければならず。まだ、初心者には非常に理解しにくいといっていいだろう。
また、耳慣れない専門用語を聞いたり、いろいろな記号が並んでいるキーボードや、何種類ものコネクタが装備されているコンピュータを見ただけで、「難しそう」と敬遠する人も多くいる。この状態は、まだインターフェースに問題点があるということを示している。逆に言えば、まだインターフェースデザインには開発する余地が多く残されているともいえる。
そこで私は、この「学習が必要な不便さ」、「難しいからやらないという諦め」を克服するインターフェースを作ることは、重要なことだと思い、「事前の学習なしで使えるようなインターフェース」を作ろうと考えた。
もし、これが実現すれば、私個人の実績になるということにとどまらず、社会的にも大きな意味があるだろう。



Ⅰ.このインターフェースの基本的概念
  
 1「進化するインターフェース」

  01)基本構造   初心者が望むインターフェースと上級者が望むインターフェース         は違う。従って「初心者向け」「中級者向け」「上級者向け」と違ったインターフェースをデザインする。使用者は自分の習熟度に応じて、それぞれにあったインターフェースを使う。基本は「初心者向け」「中級者向け」「上級者向け」と進んでいって。その中で使用しながら学習してもらい、最後には既存のOSのインターフェースを使えるようになってもらう。
このように複数のインターフェースを使い分けることは、技術的には全く難しいことではない。
また必要に応じて「初心者向け」「中級者向け」だけを使い続けてもらってもよい。
  02)各段階のインターフェースの相違点
   ①「機能とその説明」 初心者は、基本を覚えるのが先なので、複雑な機能は必要ない。また、複雑な機能を全て説明すると難しくてかえって理解できない。その結果、コンピュータは難しいという先入観を強化してしまう。従って初心者向けのものは機能を絞ってシンプルなものにする。
中級者は、「初心者向け」で覚えた機能に少し機能を足し、基本的機能と付加機能との使い分けを把握し。それによってコンピュータの基本的な概念構造を体験的に理解してもらう。
上級者は基本操作や機能は知っているので、「上級者向け」には、より高度な機能を求められる。上級者には多くの細かい設定などの機能が求められるので複雑で抽象的なインターフェースになる。

   ②「表示するイメージ」 「初心者向け」には、できるだけ、具象的な表現を使う。そしてそのイメージと機能の関連を使ってるうちに自然に頭の中でつながるようにする。また基本的な物や画の呼称とその機能の関連をイメージを媒介にして覚えやすくする。e.g.マウスをネズミのようなイメージで示すことによって、このポインティングデバイスと「マウス」という呼称をイメージによって関連づけさせる。
機能と関係ないイメージは出来るだけ使わない。e.g.アプリケーションソフトの名称の頭文字をデザイン化したものなど。また、まだ機能を理解できていないので、専門用語を示すと、複雑で分かりにくくなってしまうので、テキストは出来る限り使わない。
「中級者向け」の場合はイメージと機能がつながるということがわかっているので、むしろ、あまり具象的なイメージはではうるさい。また、次のステップでさらに抽象的なインターフェースに入っていくので、「初心者向け」よりはイメージを抽象化、単純化していく。また、機能を理解しているし、いずれは専門用語も使えるようになるのが理想なので、基本的な用語をテキストとして、機能を使用したさいに表示する。また、必要に応じて機能の説明も解りやすい文章で読むことも可能にする。それによって、用語の記憶と機能の理解を促進する。
「上級者向け」は、基本概念や用語は理解しているという前提なので、複雑な機能も抽象的、単純なイメージを自分で利用しやすいようにカスタマイズできるようにする。また、簡単な説明はほとんど必要がなく邪魔なので示さない。そのかわり複雑な機能については多少難しくても、細かい説明が読めるような機能を持たせる。
  3)全画面に共通すること
   ①全ての画面に共通して動かない、エレメントを置くことによって、これらの画面が共通したコンピュータのインターフェースであることを示すことで、全体を見渡す視線を使用者に持たせる。(e.g.Macintoshのアップルマーク)、そのことによって自分のそのコンピュータにおける立ち位置を把握しながら進むことが出来る。さらに、そのことによってコンピュータ一般の理解も深まる。
   ②間違って入力しても、すぐに簡単にもとの戻せる機能を常に置いておく。コンピュータの初心者は特に間違ったキーを押したり、クリックすることで大きな失敗をするのではないかと怖れるあまり、キーを押したりクリックすることを躊躇することがある。必ず元に戻れることが確実に解れば、躊躇せずにいろいろなキーを押して試行錯誤して使い方を習得するのが早くなる。
   ③デコレーション(飾り)は、極力使わない。飾りと機能を示す記号を混同することを避けるため、機能と無関係のデコレーションは避ける。特に、「初心者向け」「中級者向け」には重要である。機能を示す記号をいかに相手にすんなり理解させるかという点でデザイン性の高さを目指す。無論デザインの「美」も重要なファクターだと考えるが、それは機能を追求して生まれる「機能美」や解りやすく覚えてもらうためのアイディアにあるユーモア(e.g.いらなくなった書類を破棄する場所にゴミ箱の絵を示すなど)、機能と全く矛盾しない、むしろ正比例する形で現れるものだと考える。

追記
コンピュータのインターフェースのデザインについて考えてきたが、実際に修士作品として扱うのは、その一部のスクリーン上のインターフェースのみになる。これは時間的な理由であるが、画面以外のインターフェースについても改善の余地があると考えるので、そのことに触れておく。
1.「ハードウェアのインターフェースの問題点」 一つはキーボード。あまりにも素人には理解できないキーが並びすぎている。また、日本に限れば、多くの人がローマ字入力をしているのに仮名入力用の仮名を必ずつける必要があるのか。仮名入力の人がオプションで仮名入りキーボードを選べるようにすばいいのではないか。文字の配列も昔のタイプライターから続いているが、コンピュータの入力にこの配列が最も向いているのか研究はどれだけなされたのか疑問である。
USBの登場によって、コネクタの複雑度は大幅に下がったが、それでもまだ数種類のコネクタがあり、またUSBのたこ足状態が複雑度を逆にあげている面もあり、まだ理想的とまではいえない。
メディアについても、まずCDが登場してしばらくは音楽メディアを独占していたが、書き込み可能なCD-R、読み込み書き込みが可能なCD-RW、さらには、データ容量が大きいDVDが登場して、また情報記録メディアとしてDVD-R、DVD-RW、DVD-RAM,、そして今ブルーレイがでてきて、12cmのディスクメディアだけでもこれだけある。また今度は音楽を聴くためには、音楽を圧縮して持ち歩くようになると、圧縮方式だけでも数えきれないほどある。メディアだけでも全てを理解し利用するために大変な時間と労力が求められる。この問題もメーカーは考えてもらいたい。
やはりパーソナルコンピュータは難しいと敬遠されても仕方ないのではないか、とさえ思えてしまう。
それによって、ネットワークに接続できる人と出来ない人との格差が広がれば、それは、単に商売の問題ではなく、社会の問題にもなってくる。コンピュータの制作者は、今は、それぐらいの心構えをもって仕事をしてほしい。

2.「ネットワーク上の情報の検索について」現在多くの人がネットワーク上の情報を調べるときキーワード検索をしているのではないか。09年現在、主な検索サービスをしているのはYahoo!とgoogleだが、Yahoo!は、分類型の検索もできるが、googleはほぼキーワード検索のみである。始めてキーワード検索をしたときには世界中のあらゆる情報が一瞬のうちに何百万件と出てくる技術のすごさに驚いて感動した覚えがある。しかし、冷静に考えてみると、キーワード検索ってそんなに便利だろうか?私事だが、私は犬を飼っていて将来、老人ホームや病院に行って、お年寄りや病気の方々に癒しを与えるセラピー犬にしようと思って獣医さんに相談したところ、「アニマルセラピー」でキーワード検索したら、数百万件ものページがヒットして、結局この中から調べるのは今は無理だと諦めたことがあった。
たとえば自分のうちの近くの歯医者さんがどこにあるのか調べるのにキーワード検索だと、地元の地名、歯医者、歯科、など思いつく物を入れてキーワード検索してもみつからず、すぐ近くの鈴木デンタルクリニックには全くヒットしないということも起こりうる。さらに、その歯医者さんがホームページを出してないかもしれない。
このようにキーワード検索は、一見すごい便利なシステムだと思っても、実際はうまくヒットするかどうかは賭けのようなものになってしまう不安定なシステムなのだ。
従って、物事を分類していく検索方式、それをここでは仮に系統樹型検索と呼ぼう、その系統樹型検索の方がキーワード検索より、ずっと確実で、目的に到達しやすいと考える。キーワード検索は求めているもの、例えばデザインに関する本を探していて、いくらキーワードに「デザイン」と入れても書名にデザインという言葉がなければヒットしない。また、キーワードにだけ反応するので冗談で使った言葉も、学問的に研究するために使った言葉も同列に扱われてしまい、キーワード検索に引っかかったものの中からさらに自力で、自分に必要な情報を選別しなければいけない、という点で相当不便な検索方法といえるだろう、それに比べて系統樹型検索は、次々に選別していけば、その情報が存在している限りいつかたどり着く。より簡単でより確実な物だと考えられる。
もちろん系統樹型検索には人間の主観による分類が必要であり、コストもかかるし分類者の価値観が反映されて公平でないこともあるかもしれないが、百万ページの中から自分の欲しい情報を選ぶ手間にくらべれば、十分克服できる問題だと思う。「リンネの植物学」以来、人類には分類学の膨大な業績があるのだから、系統樹を作ることはそんなに難しい話ではないだろう。書店や図書館では既にやっていることである。またコンピュータの能力によって複数の系統樹を作り必要に応じて乗り換えることが出来るシステムも構築可能だ。
さらに、本筋からずれるが、私が考えているのは役所はもちろん「医者」「弁護士」「電話配線」「鉄道会社」「NPO法人」など、公共性の高いサービスを行う者は、フォーマットを決めてWebサイトを作るのを条例などで義務づけたらどうかと思う。サイトを作ることはそれほど大きな出費でもないだろうし、もしそのような自治体があったら、住民はコンピュータを使ってみたくなるし、使えば実際便利だと思う。フォーマットを決めるというのが重要で、もし10人の医者がばらばらにWebサイトを作ったら、10通りの使い方を覚えなければならないが、フォーマットがあれば1通りの使い方さえ覚えれば、後は同じフォーマットのページは、何十ページでも読める。インターネットは難しいという、不安を取り除くのには大きな役割を果たすと思われる。


以上が、現在私が考えていることです。次に何をすればよいのでしょうか、コンピュータやインターフェースのことをもっと調べるべきか?アイディアを具体化させる仕事をするべきか、もう一度アイディアから考え直すべきか?アドバイスをいただけたら幸いです。




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