2009年10月26日月曜日

読書

私が小説を読めない理由

私は、小説を読むのが苦手である。
一方で小説を書きたいという、欲求もある。矛盾しているようだが、事実なのでしょうがない。
そこで、大学院でたまたま小説を書く授業があったので、好奇心もありその授業をとった。そして、下手でもいいから毎週書いていき、いままで縁遠かった文学の世界を知るチャンスにしようと思った。
しかし、今までほとんど小説を読んでなかったものなので、たくさん小説を読むように先生に勧められた。しかし、私には小説を読むのが苦痛なのでなかなか進まない。夏休みに短編集一冊読むのがやっとだった。母に言うと、何故読めないかを先生に相談してみたらといわれ相談したところ、何故かけないかを文章にして書いてみたらいいと言われたので、これから書いていこうと思う。

まず第一に、私は子供頃から書物全般、読むのが苦手だった。
世の中には、読書の好きな子と嫌いな子がいる。
好きな子は、頭の中で言葉をイメージに置きかえる力が強いのだと思う。そういう子は、やはり成績もいい。しかし、空想の世界でばかりくらし、現実の経験をあまり持たないという欠点もある。
私は小学生時代、まわりと遊んでばかりいた。その方が楽しかったので、本を読むとその楽しい現実から離れていってしまうような不安を感じて、あまり読みたいとも思わなかった。それから読もうと思っても難しくて読めなかった。当然成績もあまり良くなかった。

マンガは、好きなマンガは何十回と繰り返し読んだ。嫌いなマンガはほとんど読まなかった。私の世代だと「少年ジャンプ」を読んでいて、アニメ「起動戦士ガンダム」を見てプラモデルを作るのが一般的だった。
それに対して私は、世代的には少し上になるのだが姉が持っていたので「少年チャンピオン」の数々の名作「がきデカ」「マカロニほうれん荘」「ブラック・ジャック」などは今でも台詞を言えるぐらい何度も読んだ。アニメは「ドラえもん」が大好きだったが、「ドラえもん」のどこがいいのかを大人に分からせることができず、くやしかった。大人は単なる子供向けのマンガだと思うだろうが、その中に書かれている哲学を何とか伝えたかったができなかった。言っても、こどもが喜んでなんか言ってるとしか思われないだろうし、しょうがないので「ドラえもん」のビデオなどをとっておいて、他のマンガは忘れ去られるが「ドラえもん」は残る、ということを分かっていたことを証明しようとし思ったりした。
「少年ジャンプ」も「起動戦士ガンダム」もほとんど見なかった。

私の少年時代からの夢は、小学生のころは「マンガ家」
中高生の頃は「映画監督」
大学生の頃は「TVドラマのディレクター兼脚本家」
である。
よく考えて見ると、これらは全て物語をもっているが、それを「視覚的」に表現したものだ。
従って、私は視覚的に表現されたものは受け入れるが、文字だけだと受け入れにくい性格なのかもしれない。
また、好きなものは読むが、嫌いなものは読まないという性格もあるようだ。

では、今までで好きな小説家作家はあったのか?
あった。それは星新一のショートショートである。中学生の頃、友人に勧められて読んだのだが、はじめは別にどうとも思わなかった。しかし、読み終わってから「これなんだ僕の言いたかったことは。でも、ほとんどの人には伝わらないだろうな」と思った。ちょうど「ドラえもん」を読んだ時の感情に似ている。

それ以外で、自ら読んだものは数えるぐらいで、一時期推理小説に興味があったことがあって、アガサ・クリスティー、コナン・ドイル、エドガー・アラン・ポーなどを読んだことはある。
宿題や課題で読んだもの、教科書で読んだものも当然ある。「芥川龍之介」「夏目漱石」「太宰治」「森鴎外」「中島敦」「志賀直哉」
この中で最も感動したのが「中島敦」の「山月記」である。内容は、自分の才能を半ば信じしかし実は才能のない事が明らかになること恐れる、詩人が虎になってしまうものである。漢文の教養の豊かな中島は、漢文調で書くがそれがたいへん美しい。今でも字は書けなくても、冒頭は諳んじられるほど私に強い衝撃を残した。文庫版をわざわざ買った。自分の人生の方向を変えさせられた作品といってもいいだろう。
このことから考えると、難しい漢文調の文章でも中身が良ければ読む気になるので、たんに難しいから読めないとは言いがたいかもしれない。

ちなみに、小説以外の本は、子供のころは読めなかったが大人になってからはある程度読めるようになってきた。
これは,主に情報を手に入れるためである。だから読書で知識が増えて嬉しい。そうなるとますます小説なんて読んで何の役に立つの?と思ってしまう。
教養のために読もうと思うこともあるけど、中身に興味はあまりわかない。

教養として読もうとして、有名な小説を買ってきたが読み終わらなかったものもいくつかある。
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」 モンゴメリ「赤毛のアン」 漱石「坊ちゃん」

読み終わったものも少しはある。
ドストエフスキー「罪と罰」 漱石「三四郎」

私が小説以外の本でよく読むのは、「哲学」「社会学」「心理学」などだが、何故かというと自分の悩みや苦しみを理解して解決してくれるんじゃないかと期待してしまうからだ。しかし、世の中はそう甘くはなく、それらを読んでもすぐに苦しみから解放されるわけではなかった。
もちろん専門家向けのものは難しくて読めないので一般人向けの入門書の類いだが。
小説以外でも難しい専門書はやはり読めない。
カント「純粋理性批判」、ヘーゲル「精神現象学」、キェルケゴール「死に至る病」、ハイデガー「存在と時間」などカルチャーセンターのテキストとして買ったが、読んでも一行も理解できなかった。

そうすると、前言を翻すようだが、あまりに難しと読めないというものもある。
しかし,これらの哲学書はおそらく誰が読んでも難しいだろう。それに対して、私は普通の人が普通に読む小説も読めないのだから、理由は難しいからだけではなさそうである。

小説の何が嫌いかというと、大きく二つある。
一つは、昔の小説などを読むと、明治時代や昭和初期の風俗が描かれているが、それを見たことがないのでどう想像していいかわからなくなるのだ。例えば、私は今は洋風の家に住んでいるが、和風建築の梁だとか鴨居などと書かれてもよくわからない。外国の作品ならなおさらである。勝手に想像していて全然別のものだったとしたら恥ずかしいし、そこで悩んでしまう。
また人物関係も名前だけ出ていて、複雑な関係だと誰が誰だか分からなくなってしまうことがある。映画なら顔が見えるので覚えやすいが、顔が見えないので覚えるのが困難なのである。
このように、書いてあることを正確にイメージするのに困難を感じてしまうのが、小説を読むことが苦痛である理由の一つである。

もう一つは、作者のエゴが見えるときに嫌悪を感じるということだ。例えば、作者に都合のいいストーリー展開など。「三四郎」の冒頭に同じ汽車に乗り合わせた女性に宿屋までついてくるように頼まれて同じ部屋に寝たが、三四郎は手を出さなかったシーンがあるが、私はこんなに男にとって都合よく、女の人が男を誘うことがあるのか疑問に感じた。しかし、このシーンを書いた漱石に共感する部分もある。それは、男というものはきれいな女の人を見ると、あり得ないとわかっていても誘われないかな、と甘い妄想を抱きがちだということである。だから、私ならこう書く。
三四郎は汽車できれいな女性と同席する。頭の中ではどんどん妄想がひろがっていく。でも、それをさとられまいと苦悩する。妄想の中で女が自分を受け入れたと同時に我にかえったらもうその女性はいなかった。と。
しかし、三四郎は最後にはふられる。そこは、漱石の自分に対する厳しさを示していてさすがだと思った。
それから、都合のいいストーリーのもう一つは、街でばったり大切な人と会ったりすること。東京ぐらいの大都会でそんなしょっちゅう知り合いに会うか、と疑問に思ってしまう。ストーリーの展開上しかたないとは思うが、あまりに安易にあり得ないことを書くと興ざめしてしまう。
また、作者がわざと格好つけて、難しい表現を多用したりするのも好きになれない。わざと旧仮名づかいを使ったり。いろいろなレトリックを必要もないのに使ったりするのは読みにくいし、作者の格好つけを感じていやな感じがする。

では、どういう小説なら読めるのか。


まず、芸術そのものの作り方に対しての私の考え方を書く。

1 作者はある事象を知覚する。
2 作者はその知覚に感動する。
3 作者は知覚した事象をどのように表現するか、選択し決める。
4 作者は事象を表現する。

これをわかりやすく例えると
1目で見て
2心で感じて
3頭で考えて
4手で書く

ということになる。

よく「いい文章の書き方」というような本があるが、出来上がった文章の裏にはこれだけの過程がある。それを、「いい文章の書き方」本は4だけでいいものができるかの様に書かれているものがある。しかし、文章以前に1、2、3が重要なのだ。
それを「志賀直哉は、簡潔な文でいい」とか、「語るように書け」とかいうが1~3を無視してどんな文豪を真似しても真にいい文章は書けるはずがない。
1~3こそが一流とそれ以下を分ける重要な点なのにそのことがあまり語られないで、文章のことばかりああだこうだいうのはおかしい。
洞察力、感受性、分析能力、これらが文章以前に、小説には必要なのだ。
だから、私は自分で文章を書くときはどんなに下手でも、参考にはしても人の文章の真似は決してしない。真似すればきれいに書けるかもしれないが、それは自分の言葉ではなくなってしまうからである。そうしたら、私が文章が下手だということさえわからなくなってしまう。

マンガが一番わかりやすい例だと思うが、日本のマンガに出てくる絵は皆似ている。外国のマンガでは見られないような独自の進化をとげた絵だ。なぜそうなるかというと、そういう絵を描いている人は、マンガを読んでマンガを描いているのである。
そうではなく、「現実」を見てマンガを描いている人が少ないというのが私の残念に思うところである。マンガを見てマンガを描けば一応「マンガらしい」マンガは描けるが、自分の作った絵ではなく、いわゆるマンガ絵になってしまう。人によっては「いかにもマンガらしいマンガ」を描くことを目指してる人さえいる。これでは、いつまでたっても、日本のマンガはマンガ絵から抜け出せない。小説も映画も音楽もあらゆる芸術が1~3を自分でせずに「~らしさ」に流されてしまう人が多い。
現実を見て小説を書くのではなく、小説を読んで小説を書く。映画を見て映画を作る。絵を見て絵を描く、など。
自分で見て、自分で感じて、自分で考えて、自分で書く。
私はこのようしようと努力してきた。先生からは相手にされずに、「君はもう書かなくていいよ」とまでいわれるほど下手だが、それでも人の真似だけはしない、いままでなかったようなものを書こうということは貫いてきたつもりである。先生に否定されたのは私の才能がなかったからだが、それがわかっただけでもいいじゃないかと思う。人まねをしていたら、自分の才能がない事すらわからなかったからだ。

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