2009年12月4日金曜日

ルソー

前回、ルソーの失神の場面について書いたが、わざわざ本を買って読む人も少ないと思うので、とても意味深いところなので抜粋する。

六時ごろ、私はメニルモンタンの下り坂を、ガラン・ジャルディニエのほとんど真向いにかかっていたが、そのときまえを歩いていた人たちが、突然あわてて道をひらくと、わたしの目のまえに一頭のデンマーク犬が飛びかかってきた。その犬は一台の四輪馬車の先にたって懸命に突進してきて、わたしの姿を認めたときにはも立ちどまるにも、わきへそれるにも余裕がなかった。打ち倒されないですむ方法はただひとつ、うまい具合に宙にとびあがって、そのあいだに犬が下を通り過ぎるようにすることだ、とわたしは考えた。稲妻のようにひらめいたこの考えは、それ以上考えてみる余裕も、実行するひまもなかったのだが、それえが災難にであう直前の意識だった。ぶつかったのも、倒されたのも、つづいて起こったなにもかも、意識を回復するまでわからなかった。
気がついたときにはほとんど夜になっていた。わたしは三、四人の若い人たちに介抱されていて、その人たちがわたしの身に起こったことを教えてくれた。疾駆するデンマーク犬は立ちどまることができず、まっしぐらにわたしの足もとに突進してきて、その体驅と速力でぶつかり、わたしは頭を前にして打ち倒されてしまったのだ。身体の全重量をささえたうわ顎はは凸凹だらけの舗道に打ちつけられ、下り道で頭のほうが足のほうより低かったために打撲はなおさらひどかったわけだ。
犬を連れていた馬車はすぐあとにつづき、もしも御者がすぐに馬をとめなかったなら、わたしの身体のうえを通り過ぎたところだ。わたしを引き起こして、気がつくまでささえてくれた人たちの話でわかったことは、そんなことだった。わたしが気がついたときの状態はあまりにも奇妙に思われるので、ここにのべておく必要がある。
夜は暗くなっていった。わたしは空を、いくつもの星を、それからほかの明るい草原を認めた。この最初の感覚は甘美な瞬間だった。まだそんなことで自分を感じるだけだった。わたしはこの瞬間、生に生まれつつあった。そして、軽やかなわたしの存在をもってそこに認められるいっさいのものを満たしているような気がした。すべては現在にあって、なんにも思いだせない。わたしというもののはっきりした観念は全然なく、わが身に起こった先刻のことも全然意識にない。自分が誰であるかも、どこにいるかもわからない。痛みも、恐れも、不安も感じない。水の流れを見るように自分の血が流れるのをながめ、その血が自分の血であるということさえ考えようとしない。わたしは自分の全存在のうちにうっとりとする静けさを感じていたが、それを思いだすたびにいつも、どんなに強烈な快楽の経験のうちにもそれにくらべられるものがないような気がする。

ルソー「孤独な散歩者の夢想」岩波文庫

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