2013年2月23日土曜日

「見田宗介・真木悠介の思考をめぐって」

朝日カルチャーセンターの「見田宗介・真木悠介の思考をめぐって」という講座にいってきました。

社会学者、見田宗介(筆名、真木悠介)さんの思考を、御本人と教え子に当たる社会学者の先生方が語るという講座です。

僕は、社会学者宮台真司さんの回にでました。

以下、宮台先生による解説。

見田先生はもともも日本人の価値意識を統計的に分析をする仕事をなさっていました。

60年代末に、学園闘争華やかなりしころ、2年間メキシコに留学されました。
その後イメージチェンジして、見田ゼミは人気のゼミになりました。
しかし宮台先生は、見田ゼミの宗教的な雰囲気に違和感を覚えられたそうです。
しかし見田先生が、自分の教え子たちのことを客観的に見ていることを知り、納得したそうです。

見田先生の初期からの通底した主題は、近代がおかしな時代であり、その中で人は幸福で生きることが困難だというものでした。

70年代、真木悠介の筆名で書かれたものは、近代をふまえた上で近代の困難さを乗り越えようという試みのようです。
我々は、社会による「自明性の檻」の中に閉じ込められている。そこから、いかに逃れられるかが鍵だといいます。

そして、95年の「現代社会の理論」が極めて重要な書だと宮台先生はいいます。

近代資本主義社会は、「市場の限界」「環境の限界」「資源の限界」が必然的にもたらされる社会です。

しかし、資本主義を棄てることはできない。資本主義を前提条件としてそれらを乗り越える方法を模索します。

それが、「情報化」「消費化」です。
情報を享受するのには資源はいらない。だから情報を享受する社会になれば以上の限界を超えられるといいます。

これは旧来の左翼が、資本主義を否定していたのに対して、資本主義を肯定した上でその限界を乗り越えようとしたという点で画期的な著作だといいます。

しかし、それから次の問題があると宮台先生はいいます。
ただ社会が情報化、消費化したからといって、近代の「再帰性の泥沼」から脱出はできないというのです。

ハイデガーによれば、私たちは必ず「ここではないどこか」を求めてしまう。しかし、それは永久に満たされない。

ポストモダンの社会においては、全ての選択が「あの人だからそれを選んだのね」と「内部化」されてしまい、外部性が消失すします。

それは、「現代社会の理論」では、解決できない問題です。

そこには、見田先生が「宮沢賢治論」で論じた、「存在の祭りの中へ」という問題が含まれています。

けれども見田先生は、賢治が右翼団体国柱会に入ろうとしたり、「銀河鉄道の夜」の中で描かれた「世直しには犠牲が伴う」というテーマに触れようとしていないと、宮台先生は指摘します。

「世直しには犠牲が伴う」というテーマは未だに解決できてないテーマだともいいます。
見田先生が語らなかったことも重要だといいます。

見田先生の仕事の歴史がまとまって知ることができてよかったです。
さらに、宮台先生の現代社会に対する問題意識も確認することができました。

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