2009年9月30日水曜日

暗示

私のような単なる学生が意見を述べる場は、カルチャーセンターかblogぐらいのもの。
しかし、カルチャーセンターには日本を代表する思想家が講義にこられる。私はカルチャーセンターで発言し、ある高名な学者にblogのアドレスを教えたことがある。
なので、思想家の間で読まれている可能性もあると思っている。自惚れかもしれないが。
いろいろな情報に接して、これは私のことを知っているのではないか、と思うことがある。
私は、
http://web.me.com/shunichisuzuki/suzukishunichi/Blog/エントリー/2009/9/5_いやがらせ.html
参照
いやがらせを受けているようである。しかも、それが他の人や、団体にまで及んでいるのではないかと疑わせる場面に何度も出くわした。
私は入院中、担当して下さった精神科医の先生の助言で外に出ることを決めた。
それ以前、退院したら何を買おうと思っていたかというと、「ルームランナー」である。理由は外に出ないで暮らそうと思ったから。学校へは親に車で送ってもらって通おうと本気で思っていた。
それは、私が受けている「いやがらせ」は環境を変えられるというものだと思ったからである。だから、私が見なければ環境を変える意味がなくなるので、外を見ないで暮らそうと思った。車に乗ってる時はアイマスクをしていた。
しかし、上記のblogをお読みいただきたいが、それではテロに屈することになると言われ、外に出ることにした。出てみると案の定、住んでいる町は大幅に変えられていた。明らかに奇妙な服を来て、コントロールされているなと思わせる人に会うこともしばしばだった。
また、色々な商品のデザインが変わっていた。これは、私がデザインを勉強しているので、デザインでいやがらせをしてやれ、という犯人の圧力があった可能性があると思っている。
私の病気は「統合失調症」であるが、この病気の主な症状は「被害妄想」である。だから、読者の中には、「勝手に自分だけでそう思っているんじゃないの?」と思う方もいるだろう。しかし、それは当事者にきかないとわからないので、そういわれても反論できる根拠はないので、そう思う人がいてもしかたない。

上記のblogにも書いたが、私のために他の人が、「圧力」を加えられるのに、それでも外に出て行くなんて迷惑な話じゃないか、と思われる方もいるかもしれない。しかし、その責任は100%犯人にある。「いやがらせ」があるから、行動を変えたら「いやがらせ」という暴力が有効だということをしめしてしまうことになる。そこで、もちろん自分であろうと(現在でも毎日、飛行機が普通では考えられない頻度でうちの上空を飛んだり、上述の「変な格好の人」にかなり多く出会う(しかも、その中には面識のある人さえ含まれている)などの「いやがらせ」を受け続けながら、ほぼ無遅刻無欠席で学校に通っている)、そしてまた、これが心苦しいのだが、他人が「いやがらせ」を受けても、それに屈して行動を変えることはしないと決めた。
だから、私のために何らかの組織から「圧力」を受けた人から見れば、私は恨まれているのだろうと思っていた。

ところが、時々「これは私のことを知っているのではないか」という情報の中に、私を励ますようなニュアンスのものを見いだすことがある。これは、意外だった。他人がどんなに「いやがらせ」や「圧力」を受けようとも、行動を変えないと決めた以上、感情的には周りの人に憎まれることは覚悟していたからである。
それなのに不当な「圧力」を受ける原因である私を励ますのは何故なのか、不思議に思った。
「圧力」をかける側に対する憎しみもあるだろうし、自分たちは組織の論理で、反対はできないが、学生という自由な身分の私に頑張ってもらって敵をやっつけてくれという願いがあるのかもしれない。
それから、一人で戦っている私に同情して下さったのかもしれない。
これも、「お前の勝手な思い込みじゃないの?」と言われるかもしれないが、できるだけ客観的に見ても、そう思う。しかし、証明はできないので、「思い込み」だと思う人はそう思ってもらうしかない。

今、政権交代が起こった。私は民主党支持者なので、世論の流れが私のような考えを肯定するように変わるかもしれないが、そのとき何とか流れに反して自分の存在を示そうと、一時期「いやがらせ」がエスカレートするだろうと予測したが、そのような兆候は予想通り、見られた。
私の味方と見なされると、その人は「いやがらせ」や「圧力」を受けたりする、ということが多いことが経験上わかってきた。だから、個人的には、支持したり賛同したりするけど、政治的には完全に関係を絶とうと思っている。そして、警察や司法など本来その役割を担う人たちと連携して「いやがらせ」に対応しようと思っている。

それにもかかわらず、私がカルチャーセンターや大学などに行くと、「圧力」がかかっているだろうと思っているところ、先生方が、いろいろな知見からみて明らかに「いやがらせ」や「圧力」を強く受けているなって思わせることがしばしばある。
おそらく、ここで私と私が味方と思っている人との関係を分断するために敵も、「圧力」をかなり強めたのだろうと思っている。そういう時は、心苦しい。

「圧力」をただちに止めさせる手段を持っていないので、何ともすることが出来ないので、せめて、私はそのことで深く心を痛めているということだけは伝えておく。

一方で、私を応援しているかのような情報に接することもある。
これらは全て、明示的になされたメッセージではなく、暗示的になされたメッセージなので、事実がどうかは当人に聴いてみなければわからない。逆に、当人に聴けばはっきりわかる。
しかし、メッセージを明示すると、今度はその人が「いやがらせ」や「圧力」の対象になる危険性があるので、明示することは求めない。だから、読者の中には「それはすべてお前の妄想だろ」と思われる方がいても、しかたないと思っている。

いつか犯人が、公正な司法の場で裁かれる時がくれば、今まで言ったことが「妄想」か「本当」かが明らかになるだろう。そのために、できるだけの努力をするしかない。

ただ、私にのために不当な「いやがらせ」や「圧力」を受けた人がいるとすれば、ここで私の考えを、知らせることは意味があると思うので述べさせてもらう。

基本的には、自ら積極的に「いやがらせ」や「圧力」に加担した人を除いて、無理矢理そのような役割を担わされた人は、法的にも道義的にも責任を追及しない、というのが私の大原則である。
理由は、一つは当然、実際に不可抗力であれば責任はないからであり、もう一つはそれらのことまで責任を追及していたら肝心の「主犯」の責任追及が滞る可能性があるからである。
また私は、私に対しても、他人に対しても不当な「いやがらせ」や「圧力」をいくら与えても、そのことによって自分の信念を変えることはないということである。自分が殺されるのは言うまでもないことだが、自分の親が殺されても(もちろんそのことに対しての法的責任追及は徹底的にするが)そのことによって自分の信念を変えることはない。自分勝手だと思う人はどうぞ、私を罵倒し、嘲笑し、侮辱していただきたい。それらが、いかに大規模に行われようとも、そのことによって私の信念を変えることはない。
私が自分の信念を変える場合は、私の理論を論破する理論があった時だけで、そのときは理論を変えることはやぶさかではない。私は単に自分に固執することを目的とはしていない。
ただ、外的要因によって変えることはいっさいないということである。
私に暗にメッセージを送って下さった方が、もし本当にいるのなら以上のことを是非伝えたかったので記した。

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