2009年9月13日日曜日

今日は、朝日カルチャーの写真の授業があったのをすっかり忘れて行きそびれてしまった。最近何回か朝日カルチャーを休んでいるので、どうしたんだろう思われるかもしれないので一応ここに書いておく。
今日は、いつものように教会のミサに行き、次にキリスト教入門講座にでた。そのときの話に感動したためか、安心したためかうたた寝してしまう。起きて、なにげなくiPhoneを見たら、今日写真の教室だった。せっかくiPhoneにしたのでスケジュールもiPhoneに入れてあったが、iPhoneは一ヶ月のカレンダーだと、一日のスケジュールを二つまでしか表示できない。だから、見落としたのだが、紙の手帳とどちらが便利か?一長一短というのが現状だろう。

今日のミサ、朗読

イザヤの予言(イザヤ50)

主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬(ほお)をまかせた。
顔を隠さずに、嘲り(あざけり)と唾(つば)を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くにいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか、われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか、わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めよう。

今日のキリスト教入門
今日のテーマは「罪」
(マルコ8)
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始めた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』
 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
 
 群衆とは、私たちのこと。十字架を背負いたくないのはあたりまえの自然な感情です。

(ルカ18)
「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯すものでなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 ファリサイ派の人は、正しいことをしているんだけど一つ悪いとことがあります。それは、「区別する」ことです。自分は正しい、律法を守っているから。でも、守れない人の気持ちを分かろうとしない。
当時のパレスチナはローマ帝国の植民地で、ローマに治める税を取りに来る徴税人は嫌われていました。でもイエスはその人たちこそ救われるとおっしゃった。
ファリサイ派は、正しい者とそうでない者を分け、自分は正しいと思っている。それが間違えです。
人間はいつも、自分が正しい、他人は間違っていると思ってしまう。それは、人間の「クセ」なんです。相手がどうしてそうしたかを考えない。それは「エゴイズム」からきている。でも、それでいいんです。「クセ」は簡単には捨てられないんです。
「自分の十字架」を背負って、ということは悪い「クセ」も背負って生きて行くことなんです。

オノ・ヨーコさんが言ってた。「自分の好きな人に、『わたしはあなたを愛してます。わたしはあなたが大好きです』と言って自分を大事にして、自分の生活をして行ってください」
大きなものを目指したって、できないのだから。

十字架(悪いクセ)を背負って生きて行く。そうすれば、他人を責めない。

十字架には関係を回復する力があります。
十字架にかかったイエズス様は、皆に捨てられた。神の子と賞賛されながら群衆は手のひらを返したように、磔にしろと叫んだ。
死ぬ間際に「父よ父よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と全てに捨てられ、人間の関係も絶たれ、神との関係も断たれた。
その中でイエスは「この人たちをお赦しください。何をしているのか分からないのです」と自らを迫害する人の赦しを請うた。
そして死ぬ前に「父よわたしの霊をあなたの御手に委ねます」といって死んでいった。神様とのつながりをしっかりと持ち続けていることを証明した。
そして、神様とつながっていることを示してくださった。
ミサとは、身体をパンとして残してくださったイエスのこの出来事の再現なんです。

一方で人は、いい心も持っている。
あるとき古い洗濯機を捨てようとしたお父さんが、息子に「これで、ずいぶんお前のおむつを洗ったんだぞ」といった、そのとき息子ははじめて、その古い洗濯機を愛おしくなり、最後に「ありがとう」と言ったそうです。
神様は私たちが両方の面を持っているのをご存知です。その上で私たちを「わが子よ」と言ってくださすんです。
神様の本当の心を曲げてしまうこと、それが「罪」です。
神様はわたしたち、一人一人を「わが子よ」と言って下さる。でも、目に見えない。
そこで目に見える一人子イエスを、私たちにお示しになった。

人と人、人と神様のつながりを示してくださった。
でも私たちは、神様の「わが子よ」という声よりも、「まやかしの声」に惑わされてしまう。
しかしそれをも気づかせて下さるのが神様です。わたしたちは神様の赦しを得てはじめて、本当の赦しを知るんです。
「悪いクセ」という十字架があってもいいんです。

イエスは十字架において本当の愛を、人と人、人と神様とのつながりを、そして赦しを示して下さった。その神との和解を「福音」というんです。

最後にシスターは、敬老の日がちかいけどわたしは来年で80歳になります。見た目は、まだ若々しい。わたし(鈴木)に「あなたは皆勤賞ね」と褒めて下さった。


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