2009年9月16日水曜日

文体

以前にも書いたかもしれないが、私は小説が読めない。それなのに文学の授業に出ている。先生は私(鈴木)には、「文体」がないという。
確かに、私の小説は簡潔な言葉で書かれている。それは、いわゆる「文学」のもってまわった、かっこうつけた文章が嫌いだからである。自分で書くなら、簡潔に余計な修飾のない文章を書こうと思っていた。それが、私の「文体」だ、とは認めてくれないのか。
しかし、たくさん小説を読んだ上で、それをいうなら説得力もあるが、恥ずかしながら小説は、ほとんど読んでいない。読めない。生涯で読んだ小説は50冊にも満たないと思う。
そこで、とりあえず読むことから始めよう、と思った。
先生が以前、多くの作家が文体を褒めてたのが誰だと思う、ときき、それは石川淳だといった。そこで、石川淳の短編をアマゾンの古本屋で買って読んだが。はっきりいって、私は嫌いだ。なんか、気の弱い人なんだろうなという感じがする。それをごまかすために、一見きれいな文章をならべるが、白黒つけるのをためらっているのをごまかすために美辞麗句を並べている気がする。いいたいことがあるなら、もっとはっきり言えばいいし、謙虚にしたいなら、心から謙虚な表現にすればいいのに、強気なこといいそうになると、いいわけをうまくきれいな表現でごまかして、責任を回避しているように思えた。(ファンの方ごめんなさい)別に石川個人を攻撃するつもりはないが、自分のはっきりしない部分をもってまわった言い回しでなんとかまとめ、自分の立場も守るというのは好感が持てない。
私の頭の悪さのせいもあるが、一冊読んだが、ストーリーが理解できない。いろいろな人の名が出てくるが、だれがだれだかわからなくなってしまう。別に石川の小説のことだけをいっているのではない。小説一般がそうなのだ。
私が読む本は、哲学や心理学の入門書レベルで、カントの「純粋理性批判」、ヘーゲルの「精神現象学」、ハイデガーの「存在と時間」、をカルチャーセンターで教科書として買えといわれて買ったが、一行も理解できなかった。
評論も、宮台真司、東浩紀、大塚英志などマンガやアニメのことを論じる人のは読めるが、柄谷行人、一般向けでない吉本隆明などは理解できない。
単なるバカじゃないかといわれるかもしれないが、そうかもしれない。とにかく善かれ悪しかれそうなのである。
先生-芥川賞作家の青野聰、に「小説が読めないんですけど」というと「小説が読めないというのは問題ですね。それは、文章を介して、人と繋がるということを拒絶しているんじゃないですか」といわれる。たしかに、そういう面はある。例え人と違った文体で書くにしても、他の人を読んでないと、反骨にもならない。そして、読もうと思ったのに読めない。あたまの中でこんがらがってしまう。しかし、諦めてるわけではない。そもそも、私が多摩美に入ったのもデザインがうまいからではなく、どうしてもうまいデザインができない。うまいデザインとは何か知りたいと思って入った。4年間学んでよいデザインと悪いデザインの違いを区別することができるようにまでにはなった。その間、社会人入試で入ったので、周りは皆、若くて才能豊かな美大生の中で30過ぎたおっさんがへたくそなデザインしかできずに辛い思いもたくさんしてきたが、しかし進歩はあった。だから、小説も読まないくせに文学の授業をなぜとったかというと、ここで文学を学べる、ここで(たとえ苦労しても)文学の世界を知ることができれば、世界が広がるかもしれない、と思ったからである。だから、裸のまま突っ込んだのだが、最初は自分には隠れた才能があったりして、と思ったが、実際には褒められたこともあるが、「文体がない」といつもいわれる。本が読めないと、いつまでたってもあの程度の小説しか書けないよ、ともいわれた。
かつて黒澤明と手塚治虫が若い人の質問に答えて全く同じことを言っていた。
「うまくなりたければ、いい本をたくさん読んで、いい映画をたくさん見て、いい舞台をたくさん見なさい」と。
しかし、本当に他人の小説を読むのは苦痛なのだ。なぜだか自分でもよくわからない。
「安部公房のような無機質な文もだめ?」ときかれたが、ダメなのだ。
先生の話を聞いていると、いい文とは、余計なものをそぎ落としていって、必要最小限の言葉で相手にわからせるものだということが分かってきた。そうすると、私の考えてきたことともそんなに違わない。
「批評なら、読むんですけど」というと「君の感覚にはその方が向いているのかもしれない」といわれ「でも、批評家は小説たくさん読むよ」ともいわれた。
なぜ読めないんだろう。私と同じ悩みを持っている人もいるのかな。なにかアドバイスがあればぜひコメントに入れておいて欲しいぐらいだ。
しかし、先生も「僕も読めない、小説ってのはあるよ」といわれ「文体のしっかりしてない小説は読めないね」といわれた。私は「ある文芸評論家が、むかし吉川英治をワクワクして読んだが、大人になったら読めなくなった。といってました」というと「僕もそう、子供のころはよろこんで読んでたけど、今は読めない」といわれた。私は「小説を読んでいると、じゃあいったいテーマは何なんだ、と思ってしまうんですよ」といったら「それは小説の読み方じゃないよ」といわれた。
どうしても、その作品の深いところにテーマを探してしまって、枝葉末節のところはじゃまに感じてしまう。「その言葉の機微がいいんじゃないか、それを味わうのが小説だ」という人もいるかもしれない。あるいは「だったら無理して小説書こうとしなくてもいいんじゃない」というひともいるかもしれない。
でも、小説というのも一つの表現手段であって、表現したいという欲求を、私は強く持っているので小説も書けるようになりたい。贅沢な話かもしれないが。
子供のころの夢はマンガ家、で中学高校では映画監督になりたいと思っていた。大学時代にはテレビドラマを作る、脚本家兼ディレクターに成りたいと思っていた。
だから、ずっと物語を表現したいという欲求は持ち続けているのだが、今までの夢と小説とは何が違うかといえば、以前のものは全て、目で見える絵や映像を使ったものだが、小説は絵は使えず、言葉で表現しなければいけない。そこが、今まで見てきたメディアとの違いで、とまどっているのかもしれない。だから慣れてない、だから読めないのかもしれない。慣れてくれば読めるようになるのかもしれない。だいたい、文学の好きな人は子供のころから本を読みまくっているのだから、ほとんど本を読まない私がそういう人たちと一緒に小説を書くこと自体おこがましいいのかもしれない。
もう一つ考えたのは、それだけ小説を読み慣れていないのだから、あまり難しいのから入らずに、もっと読みやすい童話とかから入るのも一つの手かな、とも思った。あるいは、難しくても自分の興味があるものから入っていくとか。
とにかく、せっかく文学の道にも一歩足を踏み入れたのだから、このまま「君には向かないね」といわれて終わりにしたくはない。

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