2009年9月27日日曜日

キリスト教

私は、母方の親戚の多くがカトリック系の学校に通ってたので、カトリックの信者が多い。母も信者で、私自身も幼稚園はカトリックだったので、小さい頃から教会やミサにはよく連れていかれてた。大人になって思想を学ぶ上で、キリスト教は大きな存在だと思い、カルチャーセンターのキリスト教関係の講座に通ったが、考えてみれば教会は無料だし、母も毎週行ってるし、本物の宗教に触れられるので、日曜日にミサと「キリスト教入門講座」に行くことにしている。
本来なら親がカトリックなら幼児洗礼を受けるはずなのだが、父方はキリスト教と関係ないので、私は長男の長男なので父方にならって洗礼を受けさせなかった。だから、母方の親戚と教会に行くと、私ひとり信者じゃないので御聖体を受けることが出来ず、ひとり席で待っていて、ある種の疎外感を強く感じたものだった。
大人になって、改めてキリスト教を学ぶと「そういうことだったのか」と再発見するおもしろさがある。
ここで、入門講座の内容を書こうと思うが、他にもいろんな講座を受けて、毎週この講座も書くのもめんどうくさい。
でも、中には心に悩みを抱えているが、実際、教会に行くのはためらいのある人もいると思うので、簡潔に箇条書きで書いていこうかと思っている。また気が変わるかもしれないが。

先週は、
◯挫折とは神様の教育
◯親自身のための小言だと子供は反発する。その子のために言うのなら、後で子供はわかる。
◯1日1日できることをすればよい。
◯どうせ自分なんか、と自嘲するのは「なまけ」。
◯キリスト教は「死」の向こう側に希望があるという。

今週、
◯ヤコブは、スペインに行って信者を集めようとしたが7年間集まらなかったが、失望していたところにマリア様が現れ、柱の上で励まされた。10月12日はスペインの大きなお祝いの日。
◯(マルコ9.38-43 47-48)
「つまづかせる」岡田司教(日本のカトリックのトップ)自殺者は「私はここにいていいの?」とつまづく。
わかりあえる人がいればいい。
しかし、安易に「わかる、わかる」という人は信頼できない。
簡単には「わからない」というのが本当。
(ホセア11.8)「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。」
エフラエム、失望し神様を裏切った。
神様は、はじめ「怒り」つぎに「悲しみ」「憐れんだ」。
神様は、簡単に「わかる、わかる」とは言わない。しかし「怒った」あと「胸を焼かれる」ほど憐れんで下さる。
教会に行けば「おーよしよし」とわかってくれるものではない。
「わからないけど、私はあなたを信じる」これが、私たちを「つまづき」から立ち直らせる。
神様は、ずっと待ってて下さる。見捨てない。「お前を見捨てることができようか」
私たちはつまづいても、つまずいても「希望」を失わないで。
◯教会は、お金や地位を与えるのではなく「神様」という希望を与える。
◯神様は御自分で人間をお造りになって「よい」といわれた。人間の根源は悪いものではない。
◯私に意見をきかれたので「昔のフォークソングに『人はだれもつまづいてふりかえる』というのを聴いて、「つまづく」という言葉が、心に響きました。と言ったら、シスターは「それは神様があなたにふっと与えたのよ」といわれた。


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