2010年12月11日土曜日

現代政治哲学


今日はカルチャーセンター「現代政治哲学講義」3回目、宮台真司先生、堀内進之介先生です。

93年、アメリカリベラリズムの恭斗ロールズが立場を転向します。
それまで国内のリベラリズムを主張してきましたが、今度はより広い共同体どうしの共生へと問題をシフトします。

ローティによりますと、包括的リベラリズムから、政治的なリベラリズムへのシフト。
プラトン的な純血主義からプラグマティックへの変化、前進です。

権利について語るよりも現実に感情教育をしろと。これがエマーソンからの伝統だといいます。
それ以降リベラリズムとコミュニタリアニズムが近くなりました。
この二つに対抗する主張というのが、リバタリアニズムです。

リバタリアニズムすなわち自由至上主義はアナーキズム的な感覚から生まれたものです。
つまり自分のことは自分でやるので、放っといてくれ。自由を制限することだけは反対するが他のことは個人の勝手。

このアナーキーな感覚自体は宮台先生も出発点としてはあったといいます。
ここは正直だなと思うのは、宮台先生はやはり子供を持って家族を持って変わったといわれたところです。
僕にしてみれば、今までの宮台さんの主張は何だったんだとつっこみたくなりますが、ここまで正直に言われてしまうとしょうがないです。

現在宮台先生はコミュニタリアニズムに近いといいます。われわれが何かを選択する時に、すでにある価値観を持って選択しています。それが共同体的価値だといいます。
それに、自覚的に重きをおこうということです。

それにたいして堀内さんは、フーコーやブルデューを引いて、選択できなかったという記憶さえ収奪される可能性がある。だから用心が必要ではないかといいます。

宮台先生は二つの回答があるといいます。
一つはハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』を書いた時に、ショーレムから同じユダヤ人なのにどうしてこんな不謹慎な書き方をするのかと批判を受けていったことです。
自分はユダヤ人だからこそどんなことをいおうとも全てユダヤの精神が反映されている、これこそがユダヤ的だという方がおこがましい。というものです。

もう一つは、自分は子供にこれをしろ、あれをしろと言っていい。ただし最後はお前が決めろよとつけ加えればいいというものです。

堀内先生は、社会学では原理が先か現象が先かという論争があるといいます。

宮台先生は、原理が先だといいます。どっちを選べという事自体原理だから。しかし、どこまでその原理が適用可能かの線引きの問題はつねに恣意的だといいます。

20世紀の神学界で二人の天才神学者がいました。11月15日のブログにも書きましたが、カール・バルトとゴーガルテン。

ゴーガルテンはイエスがピラトとの取引をすれば救われる時に「神は取引をしない」といって磔になったところを重視して、決断こそが大事だと思いました。
対するバルトは、神は絶対者であって相対者である人間ごときには神の意志はわからない、だから決断をするなんておこがましいと考えました。

後にゴーガルテンはナチを称揚する神学者になるのですが、バルトはそれ以前にゴーガルテンの危険性に気づいていました。

キリスト教の遺伝子はイエスに会ったこともないパウロから始まります。教会が存続できるかがパウロの関心事でした。教会がないと人を救えないからです。
普遍性があるかどうか、普遍論争というのがありましたが、世の中に普遍的なものはある、しかしこれが普遍だといったらおしまい。凡人はじゃあなにが普遍ですかということになる。

堀内先生。アドルノは理性を徹底的に批判して、美学、感性を重視しました。コミュニタリアニズムとも近いのですが、感性といわれたらそれを批判できるのか。

宮台先生。自分も子供を森に連れていったりして教育しているが、その再帰性を意識すべき。
共同体は利己的で理不尽に他の共同体を絶滅させたりする。しかし、「ダークナイト」という映画で爆弾を止めるシーンがある。一面では人間は、案外悪くないという面もある、ということでした。

今日はいつもと比べてやけに明るい宮台先生でした。

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