2012年4月28日土曜日

どこか

今日はカルチャーセンターで宮台真司先生、堀内進之介先生、大澤真幸先生の鼎談にいってきました。國分さんの話題からハイデガーの「退屈」の話になり、退屈には三種類ある。やることがない普通の退屈。何かやっているのだけれども退屈という二番目の退屈。そして人間存在そのものの退屈。その三番目の退屈が大事で、そこに人間の自由があるという。
僕もかつて、「退屈」を一つのテーマに小説を書いたことがあるので、共鳴するところもありました。
三つ目の退屈の問題を宮台先生は「ここではないどこか」を求めることだといいます。
そして若松孝二監督の映画にはそのことのある種の答えが描かれているといいます。
人類補完計画的な「子宮回帰願望」が枢軸国の文化にはあるといいます。聖なる娼婦が出てくる、がそこで救われなく滅びる。でもそれでいいのだ滅びろと若松監督はいうということです。
廣松渉の物象化論も「ここではないどこかへいけそうで、いけない」ということを示している。
宮台先生はこのような物象化論や構造主義を経ているのでこれくらいでやるきがなくならない。これでやる気をなくすのは免疫がなさすぎるといいます。

最後に大澤先生は、人間は放っておけば考えない。何か不法侵入されたときに考える。だから、自分は不法侵入者になりたいといいます。そのモデルがソクラテスだといいます。彼は自分は真理を知らない、しかし彼に論争をかけられるとみんな、自分の論理が破綻してしまう。今の若者は不法侵入から逃げている。と、そこに希望を見いだしていました。
とても面白い話でした。

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