2013年12月14日土曜日

「社会学ゼミナール 映画から考えるニーチェとハンナ・アーレント」

今日は、朝日カルチャーセンター「社会学ゼミナール 映画から考えるニーチェとハンナ・アーレント」宮台真司先生、堀内進之介先生、にいってきました。

映画「ニーチェの馬」と「ハンナ・アーレント」を見てくるようにいわれ、主に「ハンナ・アーレント」について講義がありました。

まず堀内先生から、カントの「善」に関するお話がありました。

カントによると、我々は「悪」をなす「傾向性」がある。その「傾向性」に反して「善」をなすことが真に「道徳的」だといいます。

そして、宮台先生から、初期ギリシアの思想が語られ、内から沸き上がる力、ヴィルトゥスが重要だという話がありました。

そして、ハンナ・アーレントの話になって、我々はナチスの高官アイヒマンを断罪できるかという話になります。

もし、自分がアイヒマンの立場だったら同じことをしないといいきれる人がどれだけいるか。

何かを「絶対悪」とか「絶対善」だとかいいたがる人は、何かに依存的だといいます。

ところで、カント哲学では、物理的世界は決定論的世界だが、人倫の世界は自由意志があることを前提にしないと成り立たないといいます。

ルーマンは、その自由意志自体が一つの「効果」にすぎないという。

では、全てが「ごっこ」に過ぎないのか?
否。人倫の世界では、責任の概念抜きには前へは進めない。

では、何が良きことかの基準は?

戦間期に神学者のゴーガルテンは「ヒトラーはイエスの再来だ」という主張をしました。
政治学者のカール・シュミットは、初めは敬虔なカトリックだったが、途中で意見をかえます。絶対善も絶対悪もない。ただ崇高な共同体はないのだけれども、あるとしないと救われない世界があるといいます。

これは、高橋和巳の『邪宗門』という小説と同じモチーフです。自分では分っているのに
あえてカルトの教祖になり、全体主義教団を作り自滅していく。

後期シュミットを単純には批判できません。

ヘーゲル的な意味で、「歴史」の中での意味は後にならないと分らない。

浦沢直樹の『monster』では、善意で救った子が悪魔になる。手塚治虫の『鉄腕アトム』では、同じ天馬博士が救った子供は正義の味方になる。

では、内発性に従って進むことが良きことを帰結するとは限らないのに我々はどうすれば良いか。

それでも進め。何が起きようとも、地獄に堕ちようとも。というのが、イエスの答えであり、宮沢賢治も同じだといいます。

堀内先生は最後に、アーレントとアドルノを比べアーレントを批判します。
どちらもユダヤ人でアメリカに亡命したのだけれども、アーレントはアメリカをパラダイスだといいます。それは、楽観的すぎるのではないかと批判します。
アドルノは、暗い人で希望はどこにもないといいます。アメリカもドイツも同じだと。

それに対して宮台先生は、アドルノは暗すぎる。ニーチェは重力の悪からの唯一の自由の方法は「笑い」だといったといいます。

ところで、「ニーチェの馬」という映画は笑いの要素がない。どこがニーチェ的なのか分らないといいました。

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