2014年1月25日土曜日

「社会学ゼミナール 映画から考える 「かぐや姫の物語」」

朝日カルチャーセンターで、「社会学ゼミナール 映画から考える 「かぐや姫の物語」」宮台真司先生、堀内進之介先生、を受講してきました。

先ず、宮台先生からキャッチコピーにある「姫の犯した罪と罰」とは何かという問いが発せられました。

予告編で、着物を脱ぎ捨てて走っていくシーンに「姫の犯した罪と罰」とありました。そのシーンは求婚者の申し出を断って、求婚者が死んでしまったことを知るシーンなので、「姫の罪」とは、自我を出して求婚者にNoといったことで、「罰」は求婚者が死んでその責任を負わなければならないということだと思っていました。

しかし、宮台先生は次のようにいいます。
「天女からわらべ歌をききだして、地球に憧れるのが罪で、地球に送られるのが罰である」と。
「罪と罰」とは、もっと物語全体にかかわる話だったようです。
では、なぜそれが罰になるかと問います。

パンフレットに高畑監督の言葉として「月は清浄な世界で、地球はきれいなところ汚いところ色々あるけど、生き生きとした世界である」というようなことが書かれてありました。ですから、きたないところもある地球に、清浄な世界から降ろされること自体が罰なのかなと思いました。

しかし、話はそう簡単ではありませんでした。

地上にも二種類あるといいます。

大雑把にいって「自然」と「都」。

では、素敵だった「自然」を離れ、人の欲望にまみれた汚れた「都」にいかされたのが「罰」なのかな、と思いましたが、それも違う。

月に帰る前に、幼なじみだった捨丸と空を飛ぶファンタジーがありました。

これが、地上での「清浄」と「汚れ」の対立を捨てる、気付きのファンタジーだといいます。

都の世界が人倫の世界だとすると、「人倫なくして自然を愛でることはない」といいます。

そして、地上の世界で「清濁あわせのむ」ことに気付く。そうしたらそこで、時間切れで月からの使者がやってくる。

これが「罰」だといいます。

月からの使者の持ってきた羽衣を着ると、記憶がなくなります。そこで、かぐや姫はちょっと待ってと一瞬ためらいます。
この短い時間が「罰」なのではないかと、宮台先生はいいます。

かぐや姫は愚かだったので、清らかな自然と、不浄な人倫の世界が表裏一体だということに気付かなかった。

気付いて、もう一度やり直したいと思ったのだが、そこで終わらなければならない。これが「罰」だといいます。

「月」は姫が地球に落胆することは分っていた。月に戻りたいと思うことも分っていた。
でも、そこで帰せば「罰」にならない。
気付きを与えて、帰りたくないところを、帰すから「罰」なのだといいます。

この映画を、ここまで丁寧に分析できるということに驚きました。

これは、決して奇をてらった解釈ではなく、宗教学的、哲学的歴史をふまえたまっとうな解釈だといいます。

堀内先生が補足します。

これらは、全般的にニーチェ的解釈だといいます。

地球に送られた罪は、「善悪二元論が成立すると思ったこと」だといいます。

宮台先生。
姫は、感情や喜怒哀楽に憧れていた。感情は二元論的。

仏教的、ニーチェ的には、それは浅はか。善悪の彼岸にたつことが大事。解脱するという移動が重要だといいます。

これは、よくできたペナルティのプログラムであり、サルベージのプログラムだといいます。

高畑勲は東映労組であり、それは新左翼でした。だからいい社会になれば幸せになるという立場はとりません。

右翼的、ニーチェ的、新左翼的なものは、いろんなものがいてこそ楽しいと考えます。
それを、ヘタレていたり、汚れた社会は嫌よと引きこもっていたりしてはいけないといいます。

汚れた社会は嫌だと、引きこもっているとは、僕のことをいわれているようでした。

以上が、主に宮台先生による「かぐや姫の物語」の解説でした。

すごいなと思いました。

僕が考えていたこととはレベルが違うと思いました。

僕が考えていたのは、むしろ反仏教的だなということでした。

仏教は、快楽があるから苦しみがある。だから快楽を諦めると苦しみもなくなる。という考えだと思っていました。

それに対して、この映画は、快も不快もない平穏な月の世界よりも、快も不快もあるけれど生命力に満ちた生き生きとした自然をよいものとしているように思いました。また、見た目はきれいだけど、心の中は汚れている都よりも、素朴だけれど生き生きとした田舎の方を重んじているのだと思っていました。

宮台先生の解説は見事なのだけれど、ひとつ疑問に思うことがあります。
それは、捨丸との飛行のファンタジーが、本当に「人倫と自然との表裏一体を気付かせること」を表したものなのかというものです。
「汚い人倫の世界も受け入れよう」というのなら、「都の人にもいいところがあった」というような表現の方が分りやすいとも思うのです。
田舎の、幼なじみのお兄ちゃんと空を飛ぶ夢を見るのは、「やっぱり都より田舎の方がよかった」という表現ともとれてしまうのではないでしょうか。

結局は、どのように考えてこのシーンを作ったかは、高畑監督に聞かなきゃ分らないのかもしれません。

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