2012年1月21日土曜日

全体性

今日は、自由が丘の先生のお家から新宿の朝日カルチャーセンターまでいきました。
寒かったです。
「社会思想ゼミ 市民社会の批判的・歴史的検討」宮台真司先生と堀内進之介先生です。

その中で宮台先生のいっていた、「全体性」の話が面白かったです。

まず民主主義に必要な「民度」の尺度は何かの問いに、宮台先生は「部族社会で神の表現は『目』であることが多い。それは、我々人間は空間的にも時間的にも限界があるので、見えないものが神なら見えるという考えだからだ」といいます。
カトリックでもローマ法王のベネディクト16世のヨーゼフ・ラッツィンガーがキリスト教の異端の考えは善なる神と悪の神に分ける。すると時間的な運動感覚がわからなくなるからよくないという。
戦間期の思想は1920年代と30年代とでは違う。20年代はロマン主義の国のドイツが負けたので脱ロマン主義的、近代経済、分析哲学的であった。しかし、30年代は、29年に世界大恐慌があり合衆国自身が全体的な政策を考える。ニューディールしかり。T.パーソンズの思想も全体性を射程に入れているロマン主義的であった。ところが60年代にはそれは全体主義として批判されていく。
そこで宮台先生の面白いところはどちらがいいとはいわないのです。そのような振幅自体が構造的に不可避なのだといいます。
これが全体性だというとどうしても、その線引きは恣意的だと批判されてしまう。
全体性か全体性の拒絶かの二項対立をのりこえる。ヘーゲル的、正反合。であるから、全体性は何かということは積極的にはいえない。ハーバーマスとの議論でラッツィンガーは全体性の危険性を指摘するが、ではどういうことが正しい全体性なのかはいわない。(つまりは、いわゆる否定神学的だと思いました)
ラッツィンガーが祈りの意味、映画「ルルドの泉で」や『ヨブ記』の問題。敬虔な人が救われない。神は自由だとカトリックでは説明される。「私たちを悪からお救いください」というのは、がんばっているのだからではない。全体性なるものに進もうとする私を見ていてくださいという意味だといいます。

なにか最後は宮台先生が評価する、「魔法少女まどか★マギカ」のラストシーンを思い浮かべました。

久々にラジオでもネットでも本でも聴けない話を聴けた気がして満足して帰ってきました。

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