2012年12月15日土曜日

「私」の倫理学

朝日カルチャーセンター「「私」の倫理学」
國分功一郎先生(哲学)、宮台真司先生(社会学)、堀内進之介先生(政治社会学)
の講座にいってきました。

國分先生の『暇と退屈の倫理学』から、ハイデガーの退屈の3類型から話は始まりました。

ハイデガーは、退屈を次の3つに分類しました。
1.駅で電車を待っていてやることがない退屈
2.パーティーで楽しい時間を過ごしたけれども退屈だという退屈
3.なんとなく退屈という声が聞こえてくる退屈

そして、國分先生は2.の退屈を我々が生きるべき退屈だと定義しました。

それに対して、宮台先生は共感できるといい、堀内先生は理解できないといいました。

宮台先生は、毎年年の瀬になるとうつになるそうです。それは、普段いろいろやって退屈をしのいでいるけれども、それがバレる感じだそうです。

いろいろなことをして暇をつぶす。でも、心の中には虚しさが醸成されていく。この感覚は現代人には、共感できる部分が多いのではないでしょうか。
僕も、これは重要な問題だと思います。

ところが、堀内先生はそれが理解できないといいます。自分がやっていることが本当にしたいこととは違うという感覚はない、なぜなら自分はやりたいことだけやっていてやりたくないことはやっていないからだといいます。

退屈を論じることも重要だと思いますが、それを感じない人もいるということも非常に面白いと思いました。

國分先生は、第2類型の退屈と付き合っていくには訓練が必要だといいます。ハンバーガーひとつとっても、それを十分吟味して味わえば面白くなってくるといっています。

堀内先生が違うのは、育ちの差かなと宮台先生はいっていました。
堀内先生の詳しいプロフィールは知らないのですが、お父さんが資産家で、ご本人はイギリスに住んでいりして、確か奥さんがアメリカ人。そして、堀内先生のTwitterを見るとワインの味について語っていたりします。
つまり、堀内先生はすでに暇の楽しみ方、味わい方を知っている階級に属しておられるのではないでしょうか。

推測ですが、小さい頃からいいものを味わうことに通じた生き方をしているので、國分先生が処方箋としてだした、徹底的に味わうということが訓練なしにできてしまっている、だから、その程度のことで退屈に苛まれないのではないでしょうか。

翻って我々庶民は、旧に豊かになって、お金持ちのように暇をうまく潰す方法を身につけていない。だから、どこかよそよそしくなってしまう。それを避けるなら徹底的な訓練が必要ということになるのではないでしょうか。

僕自身は、退屈という問題をかつて深く考えて、それを小説にしたこともあります。
退屈とは、みんなが有閑階級になった現代社会において重要な問題だと思います。
そこで、堀内先生のように退屈に苛まれない人がいるというのは一つの希望かもしれません。貴重な、手本になるのかもしれません。

しかし、僕は退屈という問題から、深く実存の問題へと掘り下げることにも意味があるのではないかと思います。

そういう意味では、ハイデガーを一方的に退けない立場です。

退屈について國分先生と宮台先生の対話を聴けたのと、それとは全く違った角度からの堀内先生のお話を聴けました。

どういう話になるかと思っていたけれども、意外な話が聴けたという感じです。

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