2012年11月21日水曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」

庵野秀明総監督「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を観てきました。

以下、ストーリーに関わることが書いてあるので、未見の人ご注意ください。
要約は省略して、読者は内容を知っているものとして書きます。

TV版から「旧劇場版」へのエヴァの大きなテーマは、「如何にして大人になるか」ということだと思います。「大人」とは何か。それは他者とコミュニケーションをして生きていく存在。

子どもには、子どもの共同性があって、子どもはその中で生きている。

そして、近代が成熟してきて問題となっているのが、いつまでも大人になれない人。その最たるものが「おたく」ではないでしょうか。

TV版から「旧劇場版」への庵野監督は、「おたく」である自分がどうやって「大人」になるかでもがき、苦しんでいたと思います。それが多くの人の共感を得たのだと思います。

当時は、まだ「おたく」とそれ以外の人との区別が画然とあって、その差別の中から、その「おたく」の一番の中心から「おたく」をのりこえようという企てがおこったのです。
その背景は、グローバリゼーションの中で、人々の流動性がたかまって、かつてのように「おたく」の繭の中では生きていけなくなったというもがあるのだと思います。
それに、最も早く敏感に反応したのが庵野秀明という才能をもったクリエーターだったのではないでしょうか。

このような観点から、TV版、「旧劇場版」を観ると、この「エヴァ」という作品を作って人々に覚醒を促す作業自体が、庵野監督のイニシエーションだったと僕は思っていました。
「旧劇場版」を見終わったあと、庵野監督の将来を考えてみて、自殺をしないかしらと心配したものです。

しかし、その後TV等にも積極的にでて、さらに漫画家の安野モヨコさんと結婚なさって、ある意味で「大人」になれたのだなと思いました。
これだけ濃い「おたく」とオシャレな女性漫画家が結婚したというのを知って、驚きました。昔の「おたく」差別の頃だと考えられないと思いました。

「旧劇場版」でアスカの首を絞めて、象徴的な「母殺し」ができたのだなと思いました。

「新劇場版」は、そのような病気な状態で作ったものを、一旦健康になってからきれいに作り直してみようという試みだと思っています。

だから「旧劇場版」のような、狂気はないけれど洗練されたかっこいい作品になっていったと思います。
「旧劇場版」に比べ強度がないと思う人もいると思いますが、もともと目指しているものが違うのでしょうがないと思います。

「新世紀エヴァンゲリオン」は、TV版のラストででてきた「学園コメディー」的なものと、深刻なSFものとの対照的な世界を同時に描くことで、魅力をつくってきたと思います。
しかし、「新劇場版」では、時間の都合もあって「学園コメディー」的なものがなくなっているので、アスカもTV版のお茶目な面がなく、ただキツい子になってしまって魅力が弱くなっている気もします。

「新劇場版」の「序」はTV版の総集編的であまり新しい感じがしませんでした。
「破」は、新しい視点が色々入って面白かったです。レイがシンジを誘ったり、シンジがレイに手を差し伸べたり、旧版よりも彼らが積極的になっているのが目につきました。ああ、庵野さんが以前のように怯えて引きこもっているところから一歩前へ出たのだなという感じがしました。

そして「Q」ですが、やはり洗練された作品に落とし込むことではよしとしない、これだけでハッピーエンドにはしないぞという意欲がうかがわれます。

映像に関しては「新劇場版」をとおして皆美しく、かっこよくできていてさすがと思わせますが、「Q」に限っていえば、画面の動きが複雑すぎてなにがどうなっているのかがよくわからない。すごい戦いになっているのはわかるのですが、エヴァの顔もよくわからない。ちょっと不親切な感じもしました。

前回の最後に綾波レイに手を差し伸べて、感動したのですがそれがサードインパクトを起こしてしまい、本当に今回はサードインパクト後の世界ではじまる。そんなに甘いものじゃないぞという庵野さんの考えがうかがわれるようです。

そして、シンジ以外の人は歳をとっているのにシンジだけは14歳のままだというのは、先ほどいった、「大人」になることのテーマに成功した人と、失敗して未だに14歳にとどまっている人がいるということを示しているのでしょうか。

ネルフが廃墟と化して、そこで生活するシンジ。「時間は経ってしまったのだ」という強いメッセージを感じます。

カヲルの存在をどう解釈していいのか。一種の同性愛的な関係として描かれてもいるようですが、大人になるための「移行対象(ウィニコット)」なのでしょうか。

最後の戦いは複雑ですごいスピードで描かれているので、何がどうなったのかよくわかりませんでした。

アスカのセリフが「バカシンジ」から「ガキね」と変わったことが象徴的です。庵野氏はやはり、この間に悩める「子ども」の視点から、それをのりこえた「大人」の視点に変わっていったということを象徴しているように思われます。
「新劇場版」で「チルドレン」というこどばが使われなくなったこともそうです。

しかし、「大人」になったアスカはとても不機嫌そう。それにつれられたシンジはまだ「子ども」のようにぐずっている。
庵野氏は、単に「大人」が素晴らしくて「子ども」が未熟なダメな存在という単純な見方をしているだけではなさそうです。

「旧劇場版」が「大人」になるための試練の、無意識の恐ろしい深淵を覗くような映画だとすれば、「Q」は、大人になってしまったためのこころの「砂漠」を描いたような作品のように思われました。

それがよかれ悪しかれ、「時間は経ってしまった」のだと訴えているように思いました。

時間が経ち、周りは砂漠のような世界。今までから一歩先にいった問題意識。「大人」ゆえのこころの砂漠。

この新しいテーマにどういう答えをだされるのか。

ともあれ、「エヴァ」と同時代を過ごせたことはよかったと思います。

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