M.スコセッシ監督、遠藤周作原作、映画「沈黙 -サイレンス-」を吉祥寺のオデヲン3Fで12:45〜見ました。
著名な原作で内容も何となくは知っていましたが、詳しくは知りませんでした。
僕自身、母や姉や叔母などがカトリックの信者で小さい頃から教会に連れていかれて育ったので、日本人であることとクリスチャンであることの葛藤というのは興味深いテーマでした。
母や姉の友達の母親は遠藤周作さんと親交があったようです。
西洋人が描いた日本なのでちょっと日本人監督とは違った雰囲気ではありましたが、結構リアルで、さすが巨匠スコセッシ監督のすごい演出力でした。
終盤まで、宣教師やキリシタンたちへのひどい弾圧を描いていて、涙、涙でみていました。それでも屈しないキリシタンたちの信仰の強さに深い感動を覚えました。
しかし、最後に主人公の宣教師が「転ぶ」ところで、葛藤は頂点に達します。他人を見殺しにしてでも信仰を守るべきなのか?
「ああ、やっぱり転んじゃうんだ」という気持ちと、最後に神が沈黙を破って「踏みなさい。私はあなたと一緒に苦しんだ」という、信仰を捨てるというある意味死ぬよりも苦しい屈辱の時であっても、神は側にいてくださるという救いの気持ちとの両方が、混ざってドラマは収束します。
この作品自体が、遠藤さんの巨大な思考実験だったのではないかと思いました。
キリスト教徒いえども、日本の土着性にはかなわなかったともとれるかもしれないし、信仰を捨てるという最大の罪にさえ神はよりそってくださるという、神の寛大さと捉えることもできるかもしれません。
これらの物語が実話であったということに、僕ら自身ももしこうなったらどうだろうと試されているようにも思えます。
ただ、歴史の事実に即していえば、キリスト教の方だって宗教戦争、十字軍、魔女狩りなど弾圧の加害者であったこともあります。
日本国内でも、一向宗の弾圧や戦前の思想統制など他にも弾圧はありましたし、世界中でありました。
弾圧の問題は、ただキリスト教徒に限った問題ではないということも思いました。
「転んだ」あとの主人公生活もどう捉えていいのか難しいです。
「転んだ」以上もうクリスチャンじゃないという態度を貫くことがせめてもの矜持だったのでしょうか。
見た後、深い感動とともに重い気持ちになりました。
2017年2月7日火曜日
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