2009年7月4日土曜日

マルクス


今日は朝日カルチャーセンターで「早わかりマルクス『資本論』1日講座」というのに行ってきた。
講師は神奈川大学の的場昭弘先生。
私が初めてマルクスの名を知ったのは、たぶん小学校の社会の時間だと思う。
1970年代後半から80年代前半だろう。
子供のころの私は背も低く、性格も恥ずかしがりやで気が弱くケンカしても誰にも勝てない。姉とも14歳は離れているので大学生に小学生では勝てない。
そんな子で、みんなにかわいがられはした。でも。強い者が弱い者を助ける社会であってほしいと強く思っていた。
そうでないと自分のような弱い奴は生きていけない。
逆に強い者は多少弱い者を助けても生きていける。
だから、政治とは弱い者を守る者であってほしいと思っていた。
それが私の政治信条の基本になっていると思う。
「社会主義」という言葉を初めて聞いたときは、ソ連の全体主義の実態も明らかになったころだった。世の風潮も社会主義を批判的にとらえる感じが強かった。
テレビで真っ向からマルクス主義者ですとは言いづらいかんじもあった。
しかし、私は世間がどう思おうがそんなことはどうでもよく私にとっては「弱者を大切にする」という心情から社会主義には初めから親近感を持っていた。しかし、ちょっと理想的すぎてそんなに世の中うまく行く者かな?ちょっと希望的観測すぎるかなとすこしごまかしも感じた。
しかし小か中学のときの歴史の時間にマルクスのことを教わってマルクスのしようとしていることがわかるような気がした。そして他の人が反対しようが笑おうが私は基本的にはマルクスを肯定的にとらえる。こう考えた。
私が2浪して成蹊大学に入ったのが1990年。ベルリンの壁が壊れたころだった。TVのニュース速報で「いま、ソビエト連邦が崩壊しました」というのを聞いた。あれだけの大国がこんなにあっさりと崩壊しちゃうのかと苦笑した記憶がある。
社会主義国は「人間の平等」を謳っていながらほぼ全ての社会主義国で革命の指導者が英雄として崇拝される。皮肉なことだが、宗教でも教祖がいくら偶像崇拝を禁じていてもどうしても偶像を造ってしまう。人間の多くは何らかの偶像なしには生きていけないらしい。苦笑するしかないか。
ただ、ソ連はゴルバチョフによって民主化し最後に崩壊した。ゴルバチョフ自身は社会主義を否定しないと言っているので社会主義の改革運動として期待して見てた。
だから、ソ連という独裁国家が改革されるのはいいと思っていた。しかし、さらに人民は勢いに乗って社会主義自体を否定して自由主義国になっていくのは、私の立場からは複雑な心境だった。
だから、中国のように社会主義を守りつつ改革していくのが一番賢明だと思った。
ともかく、大学に入ってこれからいろいろ社会を知っていこうと思っていた。そこで「ベルリンの壁の崩壊」は私にとっては強烈な経験だった。
単純に社会主義を訴えることが難しくなっていた。
確かに、これだけ社会主義国が独裁国家になって経済的にも貧しく国民の収入も自由主義国と比べたらずっと低い。
私はもしマルクスが生きていたらこれら社会主義国を徹底的に批判したと思っているけど、社会主義、マルクス主義が、ほとんどの国で失敗した事実は認めざるをえない。
もちろんマルクスが言ってることと現実の社会主義国は違うと思っているが、マルクスに何の責任がないとは言えない。それは将来勉強していきたいとは思っていた。しかし、多くのマルクス主義者と同じようにマルクス自身を批判したくないという心情は公正ではないかもしれないが、私の中にもある。
現実的に考えてソ連型の社会主義ではない、「弱者を大切にする思想」はないものかと思っていた。
アメリカには、共産党は連邦議会に議席を持っていないので事実上社会主義政党はない。かわりに民主党が弱者救済を「リベラル」という立場から主張する。そして政権も何度もとっている。
日本にアメリカの民主党みたいな政党はないのかなと思っていた。とにかく「自民党」と「社会党」には一生投票しないと決めてた。「自民党」とは考え方が違うし「社会党」は体質が大嫌いだった。その時の情緒で動く。前言を翻す。個人的に好きな政治家は自民にも社会にもいるが、党の体質は我慢できない。社会党に入れるぐらいなら共産党に入れる。「自民党と組むことはない。自民党との亜流政権もない」といった翌日、村山政権が出来た。村山首相は人間的には好きだけど、しかしそれだけで政治はやっていけない。
私が初めて選挙権を得て誰に投票しようかと新聞の告知を見ていると「社民連」というのがアメリカの民主党に一番近いのではないかと思い、社民連はミニ政党でちょうど私の選挙区に若くて清潔な感じの社民連の候補がいたので、その人に生まれて初めて投票した。名前が珍しく「くだ」見たいな字で「かん」と読むらしい。
現在、私は民主党のサポーターだが、ある意味民主党が出来る以前からの民主党支持者と言ってもいいかもしれない。
マルクス主義→社会民主主義→リベラルと時代とともに、左の人が掲げる看板は変わってきている。しかし、私はマルクスを応援してたのにブームが去ったら知らんぷりするような真似はしたくない。
マルクスの社会主義が独裁国家を作ったのは認めつつも、マルクスから学べる者が多くあると思う。その立場は明確にしておきたい。
一方、マルクス主義者の中には、ちょっとでも右寄りのことを言うと圧殺するようにヒステリックに叫ぶ奴がいるけど、そういう奴に限って世の中がマルクスを否定しだしたら簡単に態度を変えるから。そういう奴と組むことはない。
小泉首相時代、小泉首相が独裁的に、新自由主義の立場からどんどん政策を決めていって、国民的人気を博したことがあった。郵政解散といって新自由主義に反対の人を公認せず対抗馬を出しまたそれをテレビや雑誌がおもしろおかしく伝える。そしてまた首相の注目度が上がる。ネットでも若者が右寄りの発言をかなり強烈にしたり、民主党を嘲笑するような発言がブームになったことがあった。そして小選挙区ということもあり自民党が絶対安定多数を獲得した。
私は個人的好みは別として小泉首相は一貫していると思うし、対抗馬を出すのも普通に考えれば自民に不利なのに筋を通したのは評価すべきだとも思う。ただし、政治信条が違うので支持することは決してないが。
世の中が右傾化してきて、少し前に左から政権交代を期待されてた民主党も憲法改正を主張する前原氏が代表になり、世の中に皆右寄りになってきて普通の人もそれが当たり前だという風潮が強くなった。ネットで左よりの発言をすると袋だたきにあう感じだった。多くの人が今は左翼の時代じゃないでしょうと右傾化にあわせていった。
その状態が我慢できず、多摩美に入ってから行っていなかった朝日カルチャーセンターで「大塚英志(マンガも政治も扱う評論家兼編集者兼マンガ原作者)さんの講座」「丸山政男(リベラル)のひととなり」そして「マルクス入門」を受けた。
そのことを誰か害って噂になったのかどうか知らないが吉本隆明さん1960年代に書いた「カール・マルクス」を文庫本で出版したりして、マルクスを偏見を持たずに見直そうという空気も少しあった。
そして、今回の金融危機。入院してたので母にきくまで知らなかったが、また今マルクスを見直そうというブームが出てきている。
前回は新自由主義の勝利に反発してだが、今回は新自由主義の失敗をどう捉えるかということに関して、資本主義を徹底的に研究したマルクスにもどろうという感じがする。
他にも、近代経済学の立場からも、一から経済が学べる本がいっぱい出版されている。
と、ここまで偉そうにマルクスを語ってきたが、じゃあマルクスが何を言ったか知ってるの?と訊かれたら・・・マルクス関係の簡単な本は読んだことあるけどマルクス自身の著作は一つも読んでない。「共産党宣言」すら読んでない。
哲学者の中島義道さんは「哲学を学ぼうとしたら(天才は除いて)大学に行かなきゃだめだ。カルチャーセンターレベルではダメだ」といわれていた。
だから、哲学やマルクス経済学を大学で学んでいない私がマルクスを詳しく知らなくてもしょうがないでしょう。
そのかわり、マルクスについて議論する権利もないけど。
前回のときも的場先生で、今回も的場先生だった。
この金融危機の時期に、新書3冊で「資本論」を意訳して、かなり強い意志を感じる。
私は今、東京でマルクス経済学を学べる大学がないのかなと思っていた。マルクスがこれだけ多くの人に影響を与えたのに肝心の著作を読んでいない人が多いのはおかしな話だが、実際読むのは、素人では無理。
私は多摩美の大学院生だから他大学を受けることは出来ないが、聴講だけでも出来ればいいなと思っていた。
そしたら朝日カルチャーセンターで的場先生の「資本論」を読むという講座があったのだが、時間的に受けられなくて残念だった。
そこで今回「資本論」1日講座ということで有り難い企画を立ててくれて非常にうれしい。
しかし、大学4年、院で2〜5年かけて学ぶことが90分でまとまるのかなと少し心配もあったが、行けてうれしい。
的場先生の「共産党宣言」や「経済学哲学草稿」の講座には出てたのだが、肝心の「資本論」は、(私の勉強不足のせいだが)何が書いてあるのか知らない。これじゃマルクスを偉そうに語れるわけがない。少しでも知りたいと思った。
90分しかないのに、始めは自分の本の話とかしていて大丈夫かなと心配になった。
的場先生は、頭の固い教条主義的マルクス主義者ではなく、穏やかで紳士的に丁寧に教えてくれる。
マルクスに対しても好きなことは好きなんだけど客観的に見るところは見ていて、こういう人にマルクスを教えてもらいたかった。
本題に入ると、まず「第1巻」は理論的な部分で必要だがつまらない。「第2巻」「第3巻」が面白いといわれた。
マルクスは未来についてはほとんど語っておらず現状を徹底的に分析しているが「第3巻」に未来について触れていると。
中身について。マルクスは「資本主義社会」とは何か?を徹底的に考える。私が思うに、おそらくマルクスの時代に人類の社会構造が劇的に変わって素朴にそれをどう理解すべきかと悩んだのではないか。
そこでマルクスが出した答えは「資本主義社会」とは、全てが「商品」になる社会だと考える。
うちの大学の中沢先生の「芸術人類学」も似てると思ったが逆にマルクスの影響を中沢さんは受けているのだろう。
前述の吉本隆明さんの「カール・マルクス」の推薦文を中沢さんが書いている。
マルクスは「商品」には二重性があるという。
「使用価値」と「交換価値」
ちなみにここで言う「商品」には「労働力」「貨幣」なども特殊なものとして入っている。
また「水」「空気」のようにただの物も特殊な例とする。
(かつて吉本隆明さんが「水」を買う時代になったからマルクスがきかない時代になったといって、批判されてたと読んだことがある)
資本主義とはお金を貸してお金を増やす社会だという。
資本家がお金を出して生産手段を買って労働者に賃金を払う。ここが昔の奴隷制と違うところで、労働者は作って一方で買う人になってもらわなければならない。
資本家は、出来るだけ安く労働力を買って、商品を高く売る。そうやって資本家は働かせて自分は儲ける。それをマルクスは「搾取」という。
では、商品の「価値」はどこから生まれてくるのかというとマルクスは「人間の社会関係」によって決まるという。
確かに、途上国と北欧福祉国家では、税金も物価も全然違う。
労働力も「商品」として買われた以上それは、買った人の物。しかし「労働力」によって生産されたもは、より大きな「価値」を持つ。だから資本家は正当な取引によっているのだから違法ではないが、労働者が働いて出来た新たな「価値」を「剰余価値」という。
「剰余価値」には二つの面がある。
一つは「絶対的剰余価値」もう一つは「相対的剰余価値」
「絶対的剰余価値」は、資本主義社会以前からあった。封建社会でも農民に働かせて領主が儲ける。
そうやって、たくさん働かされて作る価値が「絶対的剰余価値」
一方、労働時間を短くして効率的に働き、より多くの価値を生み出す。その生み出された価値を「相対的剰余価値」という。
一見「相対的剰余価値」の方が短時間労働で効率的に「価値」生み出すのはよく見える。しかし、それはトリックであって、実際はより低賃金で資本家はより儲かる。
やはり「労働者」は搾取される。
ところで、このような「資本主義社会」はどうやって生まれたのか?
Aが金持ちなのは父が事業で成功したから。
Bが貧乏なのは父が働かないので。
もとをたどれば自分の祖先は悪い事したか?してたかもしれない。
遡れば16世紀、大航海時代。スペイン中南米で国家による暴力で略奪などを行っている。
囲い込み運動でひどいことしてきた人もいる。
悪いことして儲けても、それを隠す。
「資本家」ひとびとを「労働力」として働かせるそこに一つの「労働者」の否定がある。
しじでマルクスはさらに「否定の否定」があるという。
今回の「金融危機」などで「資本家」が落ちぶれたら・・・
「かつて奪われたもが奪い返す」とマルクスは言う。
そこで「自由な協力体」が生まれるだろうと。
私の感想は、労働者と資本家を別けて対立的に捉えている。
資本家もバカじゃないから「革命」で殺されるより、弱者保護に向かうだろうから「革命」もう、あまり起こらないのではないか。労働者のことを考える政策に変えていくだろう。
近代経済学はマルクス経済学からいろいろ学んだのでつづいたが、マルクス経済学はそれはない。そこが欠点だという言葉もどこかで聞いたことがある。
とにかく、労働者のためにこれだけ緻密な研究をして、世に残した。超有名人になったのだが。
しかし、社会主義の名の下で多くの人が苦しめられたのも事実で、それをどう考えるかは今後の課題だろう。

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