2009年7月20日月曜日

ブラック・ジャック


今日、朝日カルチャーセンターで「哲学の読書会『転校生とブラック・ジャック』を読む」というのに出た。
「転校生とブラックジャック」というのは哲学者、永井均が2001年に書いた哲学書で、タイトルからいって一般向けに書かれているが、内容は深い。
先生と生徒何人かの対話形式で出来ている。
その本を入不二基義という哲学者が読んでいくというもの。
私はかつて朝日カルチャーセンターで永井均さんの「ウィトゲンシュタインと哲学的諸問題」だったかな?タイトルは正確ではないが、講座に出た。
おそらくまだ50代ぐらいの学者としては若い方だと思うが、それが分析される立場になるのも偉いものだなと思った。
しかも徹底的に精読して(ちなみに朝日カルチャーセンターは年4期ある)前2期で25ページしか読んでない、大変丁寧に読む講座だ。
しかしそれもそのはずで、永井均はきわめてユニークな視点で哲学を展開する。ユニークというとなんか甘い感じがするが、きわめて厳しい視点である。哲学をしようとしてしたのではなく、自分の問題を深く掘り下げていったら自然に哲学者になった、かのような事を聞いた気がする。
私の浅はかな知識でも、永井氏と同じ問題意識を持っている哲学者は(部分的に同じ視点で論じてる人はいるが)現在、過去、日本、外国を問わず、いない。
永井氏の哲学の根本のテーマは「私」だ。
「私」をテーマにした哲学者は確かにいる。例えば大阪大学総長の鷲田清一さんは講談社現代新書で「じぶんこの不思議な存在」という本を出している。いかにも深い感じがするタイトルだが永井氏の発想とは全く違う。
鷲田氏の「聴くことの力」「臨床と言葉」など感動させられた本も多くあるから悪ぐちを言うつもりはないが、「日本は『哲学学』をする人は多いが「哲学」をする人が少ない」というが、彼の哲学は、永井氏の「私」とはレベルが違う。
あるいは、哲学者の中島義道氏は直接「カントの『純粋理性批判』を読む」で教わったが、彼も「日本には本物の哲学者はいない」というけど。中島さんの話は永井氏ほどは徹底してない。(口は悪いがいい人なんだけど)
「私」について語るときに多いパターンが、「私」は人間関係によって決まる、という「社会学的」な説明。
あるいは「アイデンティティー」の問題とする「心理学的」説明。
永井氏の「私」は、それらとは一切関係ない。
彼の書いたものが難しいという人がいるが、私は非常にすんなり頭に入ってくるものが多い。(難しいいところもあるが、他の偉い哲学者の難解な文章よりはわかりやすい)
彼のいう「私」というものを正確に理解するには、知識はあまりいらない、しかし知能とある種のセンスとある種の体験を持った人には通じる。
しかし、私から見ると彼をかなり理解してる人でも、その重要性を正確に理解してる人はほとんどいない。
永井氏はウィトゲンシュタインも研究しているが、ウィトゲンシュタインの関心は「言語」であって、「独我論」に触れた部分はそれほど多くはないのでは?(詳しくは知らないけど)
私も子供の頃いろいろ考えるのが好きで、クラスで「私は口喧嘩では負けたことがない」といってた女の子に「ごめんなさい」といわせたりして、非常に理屈っぽいところがあった。
よく一人でさまよい、思索に耽っていることがあった。その時間は非常に楽しい時間だったが「まあこんなこと子供で考えているのは自分ぐらいなものだろうな。他人にいってもまず理解されないだろう」と思ってた。
普段は、そんなことは他人にはいわずに少年時代は友達とずっと遊んでいたけど。
永井氏もにたようなタイプの子だったかもしれない。もちろん私には彼のようなインテリジェンスはなかったが。
彼の思想は昔から「独我論」と呼ばれ、それ自体はめずらしいものではない。
昔、教育テレビで(記憶が曖昧で間違ってたらごめんなさい)確か認知科学者のダニエル・C・デネットが「あるとき一つのクラスの子供達にアンケートをとったら、独我論的
思考をもったことがある子が4〜6割ぐらいいた」とかいってた。
それなら、独我論なんてめずらしくないじゃないかと思われるかもしれないが、そうではない。子供時代に感じているのに大人になったら忘れる人が多いということだ。
それは「社会性」「他社性」を身に付けたことだから、心理学的にいえばよいことである。しかし彼らは、独我論の恐ろしさを忘れてしまっている。
永井氏の独我論が子供時代からあったことは著書で何度も触れている。しかし、永井氏の独我論は、普通の人の独我論とはレベルが違う。
それを理解させるのは至難の業で、永井氏の本を読んだり講演を聴いた人で、彼の言ったことの恐ろしさを本当に理解している人はほとんどいないと思う。
理屈上わかる人は1割ぐらいはいるかもしれないが。体験としての独我論を体験として知るものはごく僅かだろう。
独我論や懐疑論に陥った人がまずとるのが、他者の視点である。フッサール現象学のように「ある」か「ない」かは、一度、括弧に入れて、多くの人があると感じているのなら「ある」と仮定してみてもいいんじゃないか、というパターン。
もしくは、理論上、実証出来ないのなら考えるのを止めて、実践に身を投じようというもの。
しかし永井氏の議論はそれらとも全く違う。(ちなみに永井氏はいわゆる「社会思想」を「思想」と呼んで、純粋に論理的に真理を目指す「哲学」と明確に分けている。永井氏の哲学に倫理性がないという批判を浴びせるのはトンチンカンというものだ。)
永井氏の問題設定はこうだ。
もし私=AとBさんが入れ替わったらどうなるか?
Bさんは、私=Aと、身体、脳、記憶など、全てが同じに作られている。
さてどうなるか?
答えは、何も起こらない。BさんはBさんで客観的にも、主観的にも完全に連続している。Aも連続して存在していく。
「私」が入れ替わったという大事件が起こり、それなのに何一つ変わらない。だって、身体も脳も記憶も全部A=AでB=Bなのだから変わりようがない。
本のタイトルのように、心(内面)だけ変わる物語というのは大林監督の名作にもあるし、それ以外にも多くの物語がある。身体を丸ごと変えてしまうというのは手塚が「ブラック・ジャック」で何度か描いている。
しかし、何も起こらないというのは、おそらく誰も描いていないのではないか?
何も起こらないからすごいのではない。それによって、彼の思索の哲学的深さがわかるからいったのだ。
つまり、「私」とは、身体にも、心にも、記憶にも規定されない。しかし、例えば、鈴木俊一は「鈴木俊一」を「私」だと思っている。そして、私が入れ替わるということを抽象的には想像できる。したがって「私」が「ない」とはいえない。確かにある。しかし入れ替わっても何も変わらないのは何故か?二流の哲学者なら、先ほどのように、「他者」があるかどうかを問題にする。しかし、そんなことは永井哲学ではどうでもいい。
つまり、身体、心、記憶、他者、これら全てを差し引いても残る「私」、をれを問題にしている。混乱を避けるためにそれを仮に「わたし性」とでも呼ぼう。「私性」は、何にも還元できない。AからBへ移ったのは、その「私性」なのだ。それは、計測できない。したがって、世界を見ても何も変わらない。BになったAは、Bの記憶も引き継いでいるのでA自身も入れ替わったことがわからない。ただ、今までAの目から見ていた世界がBの目から見た世界に、主体は変わる。しかし、それが起こったことは誰にもわからない。
永井氏は「独我論」を他者に証明することが理論上できないと知ったときに戦慄したという。
世界には私しかいない。他のものは全てニセモノである。
そのことを他者に証明することは出来ない。
もっといえば、世界とは「私」が作っているものである。他人に証明する必要さえない。説明すればうなづくかもしれない、さびしさを癒してくれるかもしれない。しかし、そんなことはまるで意味がない。だって彼、彼女だって私が作ったものにすぎないから。
世界の端緒は「私」である。「世界」や「社会」というけれどそれらも全て「私」を通して知っているにすぎない。
「独我論」とは読んで字のごとく「我だけ」の世界。
そこには、他者はいない。完璧なる孤独の世界。
待っているのは、その「私性」の消滅、すなわち「死」だけである。
親も、家族も、友達も、恋人も、伴侶も、子供も、この「私」の絶対的孤独を突き抜けることは出来ない。せいぜい死ぬまでのお慰み。そして、たった一人で死んでいく。
「私」がなくなれば(その後の世界を想像することは出来ても)理論上「世界」は終わる。
「独我論」の恐ろしさの一端でも感じていただけただろうか。
繰り返すが、多くの思想家はそこに「他者」を持ち出す。それは、永井氏に言わせれば「思想」であって、(そう考えたければ考えていいんだけれど)それで、永井氏の「独我論」を否定することは出来ない。
永井均のユニークなところは、このように普通の人は恐くて見ないできた「絶対的孤独」から思索をはじめることだ。それが理解できないのは、そのような孤独に戦慄したことのない「しあわせ」な人たちだろう。

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