2009年7月12日日曜日

暴力


昨日、母が私の嫌がることをやっているので、私は口をきかなくした。
それじゃあ、何の進展もないと思って、「私はそういうことされて不愉快だ」と手紙を書いた。
すると母は「ごめんなさい、手紙を書いてくれてありがとう。もうしないように気をつけます」と手紙を書いてよこした。
私は、毎週日曜日カトリックの教会に行っている。
うちは、母がカトリックの信者で、母方の親戚、母の姉妹、私の女のいとこは全員カトリックの信者。カトリック系の学校に行っていたから。私も幼稚園はカトリック系の幼稚園に通っていた。二番目の姉が病気で亡くなったとき、彼女は17歳ぐらい。苦しんでガンを患っていて死ぬ間際に洗礼を受けた。彼女はよろこんで「これで神様のところにいけるのね」といっていた。彼女の遺骨は日本のカトリックの総本山、東京カテドラルの納骨堂に治められていて、毎月6日の彼女の命日に両親は花を手向けにいく。
わたし自身は洗礼を受けていないが、教会にはよく連れていかれた。
大人になって、いろいろカルチャーセンター等で思想の勉強をしてると、西洋の思想には「ギリシア(ヘレニズム)」の伝統と「キリスト教(ヘブライズム)」の伝統があること知る。(他にもゲルマンやケルトの伝統もあるが)
学部時代、旧約聖書の権威の秦剛平先生の「宗教学」をとって旧約の大まかな流れは知った。
さらにカルチャーセンターでキリスト教関係の講座をいくつかとった。
でも、考えてみれば教会に母が毎週行ってて、行くのは信者だろうがなかろうが自由だしミサの後「キリスト教入門」などの講座もあるので、無料だし、直にキリスト教文化に触れることにもなるし教会に行ってみようと思った。
今朝日カルチャーセンターで「ギリシアの歴史」を学んで、日曜は教会に行っている。
今日ミサに母とは別に行ったところ、先ほどの話にもどるが、教会で会い、母は私が不愉快だからやめてくれといって、やらないと約束したことをやっていた。
私は怒り心頭に発して、母親の胸ぐらをつかんで引きずり回してどなった。
すると、うちの教会の偉い神父様が来て、私を止めた。
私は、あまりにもひどいことをしたので怒り、初めは言葉で主張して約束したのに、それを破られたらどうすればいいんですか?言葉が通じないなら実力で訴えるしかないじゃないですか。といったら「でも、きみのやってることも暴力じゃないか」といわれた。
その後、それで時間が過ぎてしまったが「キリスト教入門」に出席した。シスター田中というご年配のシスターで非常に優しく接して下さり、わかりやすく教えて下さる方なので講座が終わった後、私はいきさつを説明してどうしたらいいんでしょうか?私のやったことは悪いことなんでしょうかと尋ねた。
すると、シスターは「私は昔『交流分析』をやっていて、『何かを言いたいときは、相手に受け取られるような表現をすることが大事』だ」といわれた。人間には9種類の人間がいて、自分のことわかってくれるのは10回に1回ぐらいなのだから、わからないのが当然なんです。といわれた。「『あなたが〜』ではなく『わたしはこう思った』という方がいい」といわれた。皆自分が正しいと思ってしまう、だから争う。私たちの正しさは相対的な物。絶対的な正しさを持っているのは神様だけ、といわれた。
私が「シスターが前おっしゃられた『この世はメチャクチャで荒れ野です』といわれて少し楽になりました」といったら、「荒れ野にもちゃんと天使が使えておられるのよ」いわれた。
自殺する人というのは自分を持ってない人、いつも「世の中がわるい」と思ってる。
自分だけが正しいと思うのは間違えで、「選民思想」は間違えだと言う。
神様は全ての人を平等に抱きしめて下さる。全ての人に「アヴァ(幼児語で「パパ」)」と言う権利をお与えになった。全ての人を「我が子よ」と受け止めて下さる。
そのためにはこちらから内側から心を開かないとドアは開かない。
それから暴力については、「暴力」というのは自分の弱さをごまかすもだと言われて「ごまかさない人生の方がいいじゃない」といわれた。
確かに他の人でなく母親に暴力を振るうというのは気の弱い証拠かもしれない。他の人には恐くて暴力なんか振るえないかもしれない。
腹が立ったら、「自分は今腹が立ってるな、と知っていることが大事、他人がどうこうではなく」といわれた。
うなづいて聞いていると「あなたは、とっても理解力があるわね」といわれた。
家に帰り母に「さっきは暴力を振るってすみませんでした」と謝った。

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