2009年7月15日水曜日

小説


私の大学は美大だけど文学の授業もある。
先生も芥川賞作家だし、選択科目なので受けてみようと思った。
実は、私は小説はほとんど読まない。というより読めない。
難しい言葉で場面を説明してても、例えば昭和初期の生活なんて見た事ないないから、頭に浮かばないで、こんがらがってくる。
それから、いかにも「文学です」って気取った文体も好きになれない。
私も個人的に小説を書いた事が何度かある。それは自分の考えを論理的な言葉で表せなかったので、仕方なく物語りの形で書いたが、修飾的表現は極力排した。
せっかく偉い作家に直接指導してもらえるというので、毎週、短編を書いていった。しかも時間がないのでだいたい一晩で一編のペースで書いていった。10編ぐらいにはなっただろうか。
先生によく言われたのは、鈴木君のには「文体」がないという事だった。
初めはよく意味が分からず、わざとぶっきらぼうな文章を書いているのにそれじゃだめなのかな?と思った。
先生は皆に何編かの短編のコピーを配り、読んでくるように言われた。
私は「自分は自分のスタイルがあるのに作家らしい作家のマネになってしまう」かと思って嫌々読んだが、自分が書くとき時々思い出したりする。そして、その影響を受けてしまっている。その方が楽でスムースにいく。いいことかどうかはわからないが。
のちに、先生は人の文章を読む事はマネする事ではないといわれた。そして、簡潔な文もしぼりにしぼって書くからいいのであって、ただ簡単に書けばいいのではないと言われ、それは納得した。君が書いているのはコントのようだともいわれた。私は出来るだけ抽象化して、誰にでもあり得るということを言いたかったのだが、先生は典型的なカウンターカルチャー世代の文学者なので、もっと苦しんで文学らしい文学を書いてほしいようだ。でも一瞬「今は、これでいいのかな?」ともつぶやいてもいた。
私がある週2編持っていったら、「僕たちは実はすごい人と会っているのかも」と言われた事もある。
昨日の授業は最後なので2日で(といっても夕方まで寝てたりしたが)少し長めの作品を書いた。
火曜日は朝9時に出て夜10時に帰る忙しい日なので、倒れないように前日の12時までに書き終えた。(いつもは4時ぐらいまでかかってたが)
母に見てもらい誤字脱字を直し気持ちよく万全のたいせいで授業に臨んだ。
毎週出しているのは、私だけ。といっても毎週2人ぐらいしかこない授業だが。
とにかく、結構工夫した話なので褒められることを期待して待ってた。
今回の話は、タイトルは「幸福」で、普通の青年が幸福とは何かと問われ、まず平凡な生活を見る。すると、平凡な人は平凡さに耐えかねて自殺してしまう。次にやりたい事をやっている人が幸福だと思い、あるミュージシャンの人生を見る。彼は始めは無名だったが出世して金と名声を得るがスキャンダルをおこし、人が離れていき最後には孤独死する。そこで青年は「世界で一番幸せだと思っている人」の人生を見せてくれという。すると出てきたのは全身大火傷で死の間際で苦しみもがいてる老人だった。「なんでこれが世界一の幸せ者なのか?」その老人は、悪い金持ちで、裏の権力者で、みな彼を畏れるが本当に心を開ける人はいない孤独な人であった。でも最後に偶然出会った少年に親切にし。死ぬ間際少年にはげまされて死んでいく。というもの。
確かに文章は下手だと言うのはわかってきたがストーリーは好きだった。
他に男の子と女の子が出席してたが、先生が彼らに「どう思った?」と訊くと、男の子は「『宮崎アニメは全部見て』とかはいらないんじゃないか」といった。私は内心「それは主人公が平均的青年だという表現なんだけど」と思ったが、何もいわなかった。「藤子・F・不二雄の短編マンガに似ている」と。私は内心「藤子・F・不二雄は私の哲学に非常に近い。彼の短編も持ってる。中学までドラえもん映画を見に行った。だからその通りなんだけど、だからだめではない」と思う。次に女の子は「私は人生の教訓めいたものは読まない。人生の問題に解答をあたるようなものは嫌いだ。答えのない状態に耐える強さが欲しいと思ってる」といわれた。
先生は私に「君はモラリストだね」といわれた。
私はモラリストとは「モラル」を「道徳」と訳す場合が多いので「道徳家」と誤解されやすいが、そうではなく、 17世紀ごろフランスで人間性について語った知識人達で、非常に皮肉に富んだ文章を書いて、道徳とは逆の事もしばしば辛辣に書いた人たち。ということは知っていたが、彼女は「道徳家」ととったのか、「私はモラリストは大嫌いだ」とはっきり言われた。
ちなみに彼女の作品は、
以前は知らない女の人が出てきて部屋にまねいて大事なものをあげる。というのを淡々と書いていて、
次に、女友達の葬式に上海にいって同時に彼氏にも会う。東京に帰るが上海に大事なものをわすれてきて上海に帰るというもの。
そして今回は、みそ汁から石が出てきた。それを大事にとっておいて会社に行く。会社で男の人も石が出てきたんだと言って二人で石を大事にする。というもの。
以前先生に生徒の作品を見てどう思うかと訊かれ「いかにも女の子っぽいと思いました」といった。すると「じゃあ同じ青空を見て男と女は違うように見えるのか?」ときかれ「ぼくは違うと思います。例えば10分間空を見せて、何でもいいから文章を書いて下さいと言ったら違うものが出てくると思います」といった。「ぼくはユング派のカウンセリングを受けていてフロイトやユングは男女差にすごくこだわるんですよ」といった。
あるとき彼女の、上海にいく小説を読んで先生が私に「ユング的に言えばどうなるんだい」というので私は「例えば、成田とか上海にはいろんな意味があると思いますが、この小説は、そういう分析をしてもしょうがないものなんじゃないでしょうか」といった。すると先生は柄谷行人がむかし「意味という病」という本を書いて云々・・・。
私は「ぼくは女の人を差別しているんじゃなくて羨ましいいんですよ。ぼくもそういう文章書きたいんですが男が書くとどうしても硬い文章になってしまうんですよ」といった。
私が感じたのは、彼女は一人っ子らしいが、なんか、男嫌いなんじゃないかと思った。でも作品を見ていくうちに同性愛的世界から、女友達が死んで、今回、男と大事なものを共有しているというのはだんだん男に心を開いてきた感じがした。
あるとき私にどうしてここに来たんですかときいた。私が答えると「ありがとうございました。ただなんとなく気になったので」といわれたので、個人的に私の事が大嫌いというわけではないと思う。
しかし、私の作品を見て「モラリスト」は大嫌い。と目前ではっきりと言われ正直すごく傷ついた。
どこが傷ついたかというと「答えのないことに耐えられる強さが欲しい」というのが正しいから。
私も、常識的な幸福は必ずしも正しくないんだよ。と、常識を批判する方のつもりでいたが、彼女から見れば「それじゃあこっちが本当の幸せじゃない」というのも一つの押しつけじゃないかということだろう。
彼女の作品と比べると文章も下手だし、たしかに彼女の文章には答えはどこにもない。
私の作品は答えはあるが、それは言葉では表現できないというもの。
彼女の方が徹底している。
以前、先生に「ここは、美大ですけど他の大学と違いますか?」ときいたところ。「思ったほど違わない」といわれたが、わたしは彼女のようなタイプは美大、しかも多摩美的だなあと思った。
一つの特徴は、文章書いてくるんだけど題名がない。
ぼくは気取った題名が好きでなく、簡潔なぶっきらぼうな題名をつけるが、彼女は題名さえつけない。これも私よりすすんでいる。文章フェチ、文章萌えとも違う。
自分の感性に正直であろうとしている。
私もそっちタイプの人間だと思ってたところ彼女にハンマーでがつんと叩かれ、考えてしまった。
美大に入ればセンスいい人いっぱいいてかっこいいんじゃないかと思って入ったのも、結局かっこつけたいだけなんじゃないか。実際作る作品も面白くないし下手だし。
偏差値に憧れて有名大学入る人を「俺は違う」と批判できるか?もうすぐ40歳という中年オヤジがギター習ったりダンス習ったり、するのも。急にファッション雑誌読み始めたり、そういうのも美大生の感受性に刺激を受けましてといってるけど、もともと感受性あると思ってたけど、ないのをごまかすためにやってるんじゃないの?
むかし宮台さんが「本当にタフな子はボディービルなんてしない。だから東大はボディービル大会で優勝するんだ」といっていた。また宮台氏は「福田和也がぼくに言っている事は、永井均がニーチェに言っている事と同じだ。『まったり生きろ』『お前が言うな!』」
自己弁護すれば、私の作品に何か力があるから、何か彼女の感情を刺激したのかも。
どちらにしても、クリエイティブな能力を育むのは、クリエイティブな環境にいることが大事だと思う。
傷ついたけれど、言ってくれてよかったといつか思えると思う。
こういう感受性の鋭い人の中にいる事が私は嬉しいんだけどそれも不健全なかっこつけか?
 感性の鋭い人に、たとえ否定的でも評価してもらう事は苦しくても一つの発見である。
学部時代、デザインが下手で悩んだが、いつも山登りだと思っている。登っても登っても頂上にはとどかない、なんでだろうと嘆いても上は見えない。でもしばらくしてふと下を見ると、ずいぶん登ったな始めのころよりずっとよくなってる。そういうことがよくある。
将来、外国へ行きたいという夢があるので英語の勉強をしているのだが、TOEICという試験を受けるために学校に通ったが、始めに模擬テストを受けたら、約1000点満点で590点だった。初めてにしてはいいじゃないといわれ、3ヶ月勉強して、本物の試験受けたら590点。全く同じ点数だった。それからマンツーマンの英会話学校いって、イギリスにも3週間いって毎日英語の勉強して、さてどれくらい伸びたかなと試験受けたら580点と下がっていた。泣き笑いするしかなかったが今でもすこしづつ勉強してる。すると、、昔聞き取れなかった文章が聞き取れたり、すこしづつでも進歩はしてるんだと思う。
他にも勉強も苦手、絵を描くのは得意だと思っていたら、予備校いったら、美大受ける人だから周りのひとは皆うまい。予備校時代に絵の自信もなくなった。写真ならデッサンできなくてもシャッター押せばいいから楽かなと思ったら、やはりいい写真とる人にはかなわない。小説は20歳のときにひとりで書いた事あるので得意かな?と思ったら、当然ことながら、そう簡単にかけるものじゃない。シナリオを習った事もあるが、40人ぐらいのクラスで投票が行われて、ひとり2回自分のでもいいから、いいと思った作品に手を挙げて、といわれ投票が行われたが、私の作品に手を挙げる人は、誰ひとりいなかった。0票。まあそれでもつづけていけばいつか下を見たとき、けっこう上まで来たものだと思う事を信じて、あきらめずに行こうと思ってる。
文体については、人と違うものを作るにも、人のものを知っている必要があるといわれ確かにそうだと思い、とにかく人の作品をたくさん読むということになった。
1日1冊ぐらいの勢いでいきなさいといわれた。
心の傷も残ってるが、鋭い刃物で切った傷は治りが早いのでいづれ治るでしょう。
先生は「君の作品はどこか別のところにいけば、ものすごく評価されるかもしれない、でも我々が思っている文学とあまりにも違うのでぼくにはわからない」といってくれた。
心の傷を抱えて5限の「芸術人類学」にでる。
すると、何か今の自分とだぶるような内容もあった。
<真理>とは、今の科学では、全て言語で表せるものと思われている。しかし、昔は違う。古代ギリシアでは「真理とは女性である」「真理とは常に薄いベールで覆われた裸の女である」と考えられてた。
男性とは「陽」であり、外へ出て行く力。
女性とは「陰」であり、内へ向かう力。
男性的なものによって奪われてはならない。
「真理」とは表に現れた瞬間失われてしまう。
「閉じ」つつ「開く」
「開き」つつ「閉じる」
ハイデガーは「今までの人は「存在者」を扱ってきたが「存在」そのもそは扱ってこなかった」
「存在者」は分離できるが「存在」は分離できない。
モノを作るには2つの方法がある。
一つは「ポイエーシス」これは花が開くのを待つように自然に現れるのを待つもの。「贈与」の世界。
もう一つは「テクネー」で、これは露に暴く。挑発する。
物象化する。男性的。
という内容だった。

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